愛してるを傷にしたい

志都花

愛してるを傷にしたい

 スヴェンストロプ伯爵は初めて訪れる「牡鹿の館」を見上げた。エーゼルハイト辺境伯が住まうその館は、およそさびれた地方の街道から外れ人も資材も運びにくい場所に建っているとは到底思えないほど立派な構えだった。一体どれほどの金と時間を注ぎ込んだのか、悪態の一つでもつきたくなる。

「本日は、急なお呼び立てにもかかわらず足を運んでいただきまことにありがとうございます」

 玄関に入れば、当主の弟イーリが柔和な笑みをたたえ出迎えた。十代半ばとまだ若い次期当主が態々出てくる場面ではない。使用人ではなくイーリがそのまま館の案内を始めたので、スヴェンストロプの来る前から芽生えていた疑心は一層深まった。

 アンゲル・エーゼルハイト。創世以来一番の魔術師と謳われ、その才を以て国難を幾つも撥ね退けてきた英雄。

 二十を幾つか超えたばかりの若きアンゲルを国王は重用し、やがてその寵愛は年不相応の位として授けられた。

 「辺境伯」という身分が表すのは、国からの絶大な信頼だ。王の目も耳も声も作用しない辺境――――エーゼルハイト辺境伯領で言えば国境地帯を任せても他国から侵犯されぬ実力があると認められ、また本人の謀叛も有り得ぬと看做されたからこその叙爵である。事実、アンゲルがこの地に赴いてから一度も敵や魔物の侵略を許していない。

 スヴェンストロプは、この強大な魔術師暗殺を画策する一人だった。過ぎた力は、妬みも恐れもされる。成り上がりならば尚更。そうして何人かの仲間を集めた矢先、スヴェンストロプ家に招待状が届いた。

 危険を察知したアンゲルが先手を打とうとしている。

 謀略があちこちに張り巡らされている貴族社会を今日まで生き延びてきたスヴェンストロプには、流麗な筆跡で綴られた誘いの言葉の裏側が透けて見えるようだった。

「どうぞお入り下さい」

「なんだ、誰もいないではないか」

 イーリが扉を開き通されたのはアンゲルの私室らしかった。しかし肝心の辺境伯本人がいない。

「こちらです」

 先導を続けるイーリが天井まで高さのある壁際の書架の前に立ち、一冊の本に手を伸ばす。スヴェンストロプが訝しむと同時に本の背がめくれ小さな穴が現れた。その穴に鍵を差し回せば、見掛け倒しの書が並んだ棚板の一角が人の背丈ほどの高さ分奥に開き、乏しいながら明かりの灯る小さな部屋へと通じた。

 隠し部屋の有無だけでなく、鍵穴の位置まで明かすなど愈々怪しい。知られたとしても帰さなければ済むこと、そう言っているようなものだ。アンゲルの呼び出し理由は「隣国に開戦兆候が認められたため」と陸軍省勤めのスヴェンストロプに対し尤もな内容だったが、自分を殺す機会を設けたのだとスヴェンストロプの疑念が確信に変わった瞬間だった。

「兄上、スヴェンストロプ伯爵をお連れしました」

「御苦労」

 既に座して待っていたアンゲルが弟を労う。

「こんばんは、スヴェンストロプ伯爵。お越し頂きありがとうございます。本来伯爵ほどの方をお招きしたなら食堂なり客間なりで然るべきもてなしをするべきですが……何分内密な話、こちらの方が都合が良く。手狭で申し訳ありませんがご了承頂きたい」

 イーリが椅子を引き着席を促す。窓もない息苦しい部屋で、スヴェンストロプは丸い卓を挟みアンゲルと真正面から相対した。

 月のように白い面には、おおいぬ座の一等星を嵌め殺したように青く輝く双眸。神代の時代なら女神にも男神にも拐かされそうな美貌だが、高貴なるものの証である長髪を既に備えていることが腹立たしい。アンゲルの出自ははっきりと知らないが、教会に捨てられ育てられた孤児みなしごとの噂もある。

「隣国が戦争の準備を始めた可能性があると書簡にあった。詳しくお聞かせ願おう」

「ええ、勿論。イーリ、酒を」

「はい」

 イーリはここまで召使よろしく働いている。軍事上重大な機密を扱うわけだし、第三者を作らないという意味では理に適っているかもしれない。独身のアンゲルが将来結婚し跡継ぎを立てる可能性は十分有るが、仮にも次期当主がこうもあちこち動き回るなど見苦しいことこの上ない。スヴェンストロプは心中唾棄した。

「どうぞ」

 水晶の杯で差し出されたのは林檎酒だった。水晶は触れたものの冷たさを維持できると考えられ、冷えたまま味わいたい果実や飲料用の食器に用いられる。真珠で装飾された高価で便利な容れ物は、歓待の証拠に十分だ。

 しかしスヴェンストロプは警戒を緩めない。毒物に反応し色の変わる銀製ではないからだ。「申し訳無いが私は安心出来ない杯は乾さない主義でね」ときっぱり断る。

「それは困りましたね。この杯こそ相互の信頼の象徴。受け取れないと言うなら疑り深い貴方に私も肚を割ってお話し出来ない」

 痛いほどの沈黙と探り合いが続く。

「では、僕が毒味を致しましょう」

 そこで思いもよらぬ声が介入した。イーリだ。

「何を言っている」

「だって、そうでもしないと何も始まらないでしょう。国防のときが近いなら一刻だって惜しい。ここで足踏みするより、僕はスヴェンストロプ伯爵に安心して頂きたい」

「……いや、それでも私は頂けない。辺境伯、貴殿は稀代の魔術師だ。二人同時に毒を呷ったとして、弟君だけ助けるなど訳ないでしょう」

 アンゲルの後ろにはもう一脚椅子が用意してある。細々とした雑用を片付けたイーリが同席するためのものだろう。

「お望みでしたら僕は退出します。いかな魔術師と雖も対象者が目の前にいなければ、治癒も何も出来ませんから」

 魔術に明るくないスヴェンストロプにも、イーリの発言に思い当たる節があった。

 例えばとある女王に施された分娩痛を別の者に移す「痛みの代替」という術式は、魔女乃至魔術師が産室で分娩者と直接触れ合わなければ実行不可と伝え聞いた。度々瘰癧るいれきを治してきた王の「触手療法」も、先ず第一に触れることが前提だ。

「なんなら、杯の交換でもしましょうか?」

 アンゲルが自身の水晶杯を傾けて問う。その細めた目に「試されてる」と胸がざわついてやまない。

 スヴェンストロプはこの兄弟の提案が、疑心暗鬼にかられた客人に対する善意なのか、ここまでを見越して確実に毒を飲ませるための方便なのか判断がつかなかった。

 散々悩んだ挙句、漸く重い口を開く。

「……凡ての案を受け入れよう」

「承知致しました」

 イーリは恭しくアンゲルから杯を受け取り、スヴェンストロプの隣に移動した。

「では、失礼します」

 スヴェンストロプがじっと見つめる中、イーリは微笑みながら林檎酒を一口含む。この兄弟は色味や鼻筋から一目で血の繋がりが分かるが、あまり似ていないなと場違いにスヴェンストロプは思った。凍り付いたのかと心配になるほど表情を変えず誰彼無しに拒むような瑰麗な兄に対し、弟の方がまだ愛嬌があって人好きがしそうだ。

 少年の細い喉が確かに上下するのを見届けてから、彼は酒杯を受け取る。

 取り替えた杯をアンゲルの元まで運ぶ際密かに二人の肌身が接触しないか目を光らせていたが、そのような素振りは見受けられなかった。

「では、改めて」

 仕切り直しとばかりにアンゲルが目を細め莞爾にっこりと笑う。先程の弟の笑みと幾許か似ていた。

 ――――乾杯。

 スヴェンストロプはイーリの唇が触れた箇所から酒を流し込んだ。ここまでを想定した上で万が一縁に毒が塗られていたとしても、イーリが口を付けたその部分だけは安全なはずだからだ。

 二人の重なった声音を合図に、スヴェンストロプの背後の扉からイーリは静かに退出した。



 まるで肚の読み合いが続いていたのが噓のようにアンゲルとスヴェンストロプは熱心に情報を交換し合う。

 魔術や使い魔によって齎された情報は詳細で話も進めやすく、スヴェンストロプは後々殺す相手の前だというのも忘れ真面目に策を練ったり他国の動向を思い出したりした。あの緊張感に比べれば和やか、とさえ言えた。杯は二口にこうとも既に空だ。

 ここまでのあれこれは手の内を明かし良好な関係を築こうとしたエーゼルハイト辺境伯の配慮で、殺されるというのは過ぎた怯えだったのかもしれないとスヴェンストロプは思い始めていた。

「同盟の根回しをするのであればまずは……あ?」

 異変は突如訪れた。スヴェンストロプが鼻血を垂らしたのだ。

「失敬」

 慌てることなく手巾で拭おうと懐に手をやるより先に更なる異変がスヴェンストロプを襲う。

「ぐ、ゔぁ……っ!?」

 急に胸が痛み出し脂汗が止まらず、冷たいおぞけが背中を走る。まともに座るのも難しくスヴェンストロプは上体を卓に伏せた。

「貴様……!」

 息を荒らげながらなんとか正面のアンゲルに目だけを向ければ、片肘をつき椅子に凭れ立とうともしない彼の酷く冷ややかな視線とぶつかった。醜い、とその目は言っていた。

 招いた客人が苦しんでも慌てないその姿に仕組まれたことをスヴェンストロプは察するが、どこで毒を摂取したのか皆目見当がつかない。

「ど、やって」

「簡単なこと。毒酒をどちらにも注いで、自分だけ解毒をした」

 その可能性はスヴェンストロプの頭にもあった。弟が毒味を申し出るまでは。

 しかし実際三人が毒を口にし、自分にのみ効果が出ているということはイーリにも何か助かるための抜け道があったということだ。一体いつ、どうやって。苦しみながら記憶を辿るスヴェンストロプの元にアンゲルが近付く。

「可哀相に。あの子は既に扉の向こうで冷たくなっているよ」

 その一言でスヴェンストロプは理解した。

 イーリは、死ぬのを承知で暗殺を成功させるべく兄のために毒杯を手に取ったのだ。

「お前如きの凡夫、俺はいつだって始末出来る。でもイーリは今後の騒擾を前に確実にここでお前排除すべきと踏んだ。あの子は賢いから」

 スヴェンストロプは悔しさや憎しみに歯噛みするも、自分を見下ろし弟だけを憐れむアンゲルの声は段々と遠退いていく。

「凡てお前の所為だ。お前が俺の、最愛にして唯一の弟を殺した」

 アンゲルの白く細い白樺のような指が杯を弾き倒す。しかしもう、その動きも音もスヴェンストロプは感知しない。五官の機能はどんどん失われていくばかりで、あんなに荒かった呼吸も今では虫の息だ。

「ああ、哀れでならない。お前のために自死を選んだイーリはもう神の御許には逝けなくなった。せめて同じ地獄で百万遍伏して詫びてくるがいい」

 その死際を見届けることもなく、アンゲルは弟の亡骸を探しに部屋を出ていった。

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