第28話 粘土板 転がる判子 円い筒 明かす絵柄に 耀く神ら
☆ シュメール文明❗
http://www.sankei.com/world/news/150114/wor1501140065-n1.html ドイツの、大衆紙の、
ビルト 、 は :
1月14日に、 : アメリカ側へ、
2百点以上もの文書らを渡していたとして、
昨年の7月に逮捕された、
ドイツ連邦情報局の男が、
同局のスパイの3千5百人の、
本名と偽名らが記載された、
名簿を盗んでいた事が判った、と報じた。
男が、名簿を、
外国の情報機関に提供したかどうかは、
不明、 という。 :
男が盗んだのは、 海外に派遣された、
連邦軍部隊に対する、
テロ情報らへの収集行為などを担当する、
職員らの名簿。
連邦情報局には、
6千5百人の職員らがいる、とされ、
ほぼ半数が、この名簿に載っていた由。
:
男は、名簿を、
自宅のハード・ディスクに保存していたが、
昨年の夏の家宅捜索の際に押収された。
男は、2年間に渡り、
218点の文書らを米国側へ提供し、
見返りに、2万5千ユーロ
≒ 約 340万円 、
を受け取った、とされる。 :
@ シュメール人らは、
今のシリアやイラク、 などの国々がある、
メソポタミアの地へ、
紀元前の、 3千8百年代ごろに、
優れた文化を携えて、いきなり登場した。
高度な医学に、法体系や、慣習、
などがあり、
彼らは、 スズと銅とを、
微妙な配分比率で混ぜ合わせて、
青銅をつくる、という、
合金技術をすらも知っていた。 :
医学では、 白内障に対して、
水晶体の混濁部分を除去すれば、直る、
という事や、
その手術方法をも知っていた。
彼らの法体系は、 画期的な物で、
労働者や、失業者らを保護する、
法律なども、あり、
シュメール人らによる、 裁判では、
すでに、 陪審員制度が、
成し行われてもいた。
社会の一般の人々の、
政治的な権利性を高さを反映している、
のかも知れない。
2院制の議会らを持ってもいた。
これらの事らは、
現代の法体系らにも生かされている。
:
何よりも、 不可解な物は、
シュメール人らが、 使っていた暦だ。
それは、 月の満ち欠けにより、
年月を量る、太陰暦、と呼べるもので、
恐ろしく正確に、 日食や、
月食の成る頃合を始め、
色々な惑星らの細かな動きらまでをも、
詳しく予想出来ていた。
信じられない事には、
2万5920年をかけて、
地球の地軸が、円を描く、 という、
歳差運動 、の周期をすら知っていた❗ :
メソポタミアの地に登場して、 高々、
2千年ほどで、 どうして、
その様な資料ら、等を得たのか?
@ シュメール人らは、 自らを、
混ざり合わされた者 、 と呼び、
自分らが、 『 アヌンナキ 』 、という、
神々の集団によって作られた、
と、信じていたそうだ。
『 アヌンナキは、 金を採掘する為に、
他の星から地球へとやってきた 』、
と、 信じる人々もいた、
とも、いわれている。 :
シュメール文明は、 その後の、
世界の文明らのあり方に、
大きな影を投げかけ、
今日に、 我々が、 何気なく使っている、
1日を、24時間、とし、
1時間を、 60分とし、
1分を、60秒、とする、
決まり事、 なども、
60進法を基本となす、
シュメールの高度な数学に、
あやかっている。
1ダースが、12個で、
1フィートが、 12インチ、 と言った、
単位のまとめ方にも、
彼らの数学の影響があるし、
星座占いに出て来る、
黄道の12宮や、
ギリシア神話に登場する、
12柱の神々の話も、そのルーツ
≒ 根っこ 、を探ると、
シュメール文明へ行き着き得る。
現代の各国の生活は、
メイド・イン・シュメール、
な、考え方からも、成り立っている訳だ。 :
ウルの王墓を発掘してみると、
殉葬が行われていた事が、判った。
その在り様は、 実に、衝撃的な光景で、
王の墓では、 武装した兵士や家臣団が、
隊列を組み、戦車らを従えたままの格好で、
きちんと並んで、死んでいたのだ。
王妃の墓では、 多くの侍女らが正装をして、 楽器を持つ楽士らと共に、
何の取り乱した風もなく、横たわっていた。
:
彼らは、隊列を組み、 儀式用の衣装らと、
頭飾りに、見事な金銀の装身具をつけて、
今や、まさに、 パレードでもするかの様な、
華やかさで、 そのまま、
土の中に埋もれていた。
そこには、苦しんだり、死を恐れた様は、
微塵も見られない。
古代中国の殷 ( いん ) 王朝でも、
殉葬が行われていた事が、
知られているが、
それは、ゾッとするほどに、
残酷な儀式だった。
数百人の奴隷らが、 首を斬り落とされて、
一か所に投げ込まれていた。
恐らく、 数珠つなぎにされ、
逃げる事が出来ずに、引き立てられ、
有無を言わさず、
斬首されたとしか思えぬ様であった。
:
しかし、 ウルの王墓では、 自ら進んで、
毒杯をあおって死んだとしか思えない。
恐らく、数百人のお供らの、侍女に、
家臣団や、多くの兵士はが、
きちんと列を成して、一斉に、
毒をあおったに違いない。
戦慄すべき死の儀式が、想像される。
シュメールは、
4千年前に、セム族により乗っ取られる。
4千380年前に、
シュメールの都市国家らへ、
セム族員らが侵入し、 アッカド王国を建て、
4千2百年前には、
シュメールが、 再び、奪い返すが、 :
4千年前には、 セム族員らが、
バビロニア王国を建てた。
メソポタミアの、シュメール人らは、
絶滅し、
それ以降は、 メソポタミア地方は、
セム族員らに支配された。
生き残った、 シュメール人らは、
彼らの植民地である、 今の、
インドの北西部の辺りの、
『 インダス 』、 へと流れていった。
:
インダス文明があった、
今の、 『 パキスタン 』 、 が、
その人口の、 90%、が、
イスラム教徒になっている、
事から考えても、
インダス ~ メソポタミア 、 は、
古代から、行き来が、
頻繁な地域であった、 可能性があり、
シュメール人らと、
インドの原住民な、
モンゴロイドらとの混血が、
ドラヴィダ人らだ、とも、考えられ、
ドラヴィダ人らは、
インダス文明を放棄して拡散していった。
インダス文明が消滅した、
理由な事らについては、
乾燥化説や、洪水説などがあるが、 :
アーリア人らに攻められたからではない、
との説が、主流だ :
@ 今の、イラクや、クウェートの、
南部の、 バビロニア、の、
南半分の地域である、 メソポタミアは、
ユーフラテス川と、
チグリス川との間にあり、
川らの間 、という意味であり、
世界で最古の都市文明が、
シュメール人らにより、
7千年以上も前に、 営まれた。
シュメール人らは、 自らを、
『 混ざり合わされた者 』、 を意味する、
『 ウンサンギガ 』 、と呼び、
その土地を、
『 君主たちの地 』 、 を意味する、
『 キエンギ 』 、と呼んでいた。
『 シュメール 』 、という言葉は、
アッカド人らにより、
用いられた、 異称。
アッカドや、その北東の、 スバル人らの、
農耕や牧畜を成す、生活圏らから、
糧らを得て、 社会治安への維持、
などの事を成していた、 君主らが暮らす、
都市国家らや、そこの人々などが、
アッカド語の、 『 シュメール 』、
の指す対象であったのかも知れない。
:
@ シュメール人らによる、
都市国家らが興る前に、
雨の降り具合による、
川らの流れようらを料理するだけの、
『 天水 農耕 』 、 に頼っていた、
メソポタミアの人々は、
ウバイド2期
= ウバイド文化中期 ;
紀元前4千8百年 ~ 前4千5百年 、
には、 川らから、
水路を掘り伸ばしたり、
堰 ( セキ ) 、 らを作り、
水を貯めて置いてから、
水路らへ流す、
水の量を加減したりする、 :
『 灌漑 農法 』 、 を考え成して、
それまでの、天水農法とは、
比べ物にならない程の、
農業での能率と農業での収益とを実現し、
その年間での、 降水量の、
2百 mm 、 の限界線を超えて、
周辺の地帯らにまで、
潅漑型の農耕文化は、 拡大し、
穀物の収穫は、大幅に増した。
それにより、 ウバイド文化は、
他の文化らを圧倒し、
西アジアの全域に影響を与え、
シュメールの歴史は、
シュメール人らが、 文明を築いてから、
アッカド人らや、バビロニア人ら、の、
支配を受け、
バビロニア王国が、
ペルシャ帝国に併合され、
シュメール人らが、
歴史から姿を消すまで続いた。
:
ウバイド期に続く、次の時期を、
ウルク期
= 紀元前の、 3千5百年 ~
前の、 3千百年 、
と、呼び、
この時期が、 シュメール人らによる、
都市文明の開始期とされている。
ウルク文化期の後期には、
支配階級と、専門職人や商人らが現れ、
ウバイド文化期には、認められなかった、
円筒印章や、
プラノ・コンヴェクス煉瓦が登場し、
紀元前の、3千2百年頃に、
ウルクで、 ウルク古拙文字 、と呼ばれる、
絵文字が生まれた。
ほぼ、同じ時期に、 東のエラムでは、
原エラム文字や、
エラム線文字が使われ、
エジプトは、 初期王朝の時代に当たり、
ヒエログリフ、と、
ヒエラティック 、 とを使っていた。
ウルク期に続く、 ジェムデト・ナスル期
= 紀元前の、 3千百年 ~
前の、 2千9百年 、
になると、
紀元前の3千年頃に、
銅へ、すずを混ぜて、青銅らを成す、
青銅への合金の製造法が発見され、
青銅製の武器らが作られた。 :
:
銅らの供給地は、 バット遺跡。 :
スズらの供給地は、 トロス山脈にある、
ケステル 。
武器らの発達により、
都市国家らの間の戦乱の時代となり、
ウルクの市域は、最大に達し、
ジェムデト・ナスル文化は、
アラビア半島の根元の北東際の、
ペルシャ湾の岸辺にまで達した。
しかし、
ジェムデト・ナスル期の末期に、
シュルッパクの王の、
ウバル・トゥトゥ氏の治世の下で、
メソポタミアの全域が、
大洪水に見舞われて、
ウルクの繁栄が終わり、
シュメールの中心は、 キシュに移った。
初期王朝時代
= 紀元前の2千9百年 ~
前の、 2350年 、
には、
ウル、や、ラガシュの様な、
新興の、 シュメール都市国家らが、
多く成立し、王朝らが成立した。
考古学的に、実在が確認されている、
最古の王は、
紀元前の、2千8百年頃の、
キシュ第1王朝の王の、
エンメバラゲシ氏で、
古エラム時代
= 紀元前の、 2千7百年頃 、
に、
3代に渡り、 シュメールを治めた、
と、 伝えられる。
紀元前の2千7百年頃に、
シュメールの下流の、
都市国家らが繁栄し、
キシュは、さびれた。
紀元前の2千6百年頃と考えられている、
ウルク第1王朝の王の、
ギルガメシュ氏は、
『 ギルガメシュ 叙事詩 』 、 で、
その名を知られているが、
エンメバラゲシ氏の実在が確認された、
事から、 実在が、確実視されている。
シュメールとの交易相手には、
Majan 、ディルムン 、Meluhha 、
が、 知られており、
この時代には、
広大な交易網が形成されており、
インダス文明圏とも交流し得ていた、
とも、考えられている。
楔形文字が、
完全な文字体系に整理されたのは、
紀元前の、2千5百年頃で、
伝説では、 ウルク第1王朝の王の、
エンメルカル氏が、 文字を使い、
アラッタへ、降伏を勧告した。
古エラム時代
= 紀元前の2千5百年 ~
前の、 2千4百年 、
には、
エラムが、再び、 シュメールを支配した、
という。 :
初期王朝時代の後期の、 150年間に、
シュメール地方の覇権をめぐり、
都市国家ら間の、
合従連衡の動きらが活発になり、
戦勝記念碑の、 『 ハゲワシの碑 』 、
によれば、
ウル・ナンシェ氏の孫の、
エアンナトゥム王の治世
= 紀元前の、 2450年 、
に、
ラガシュとウンマの間で、
チグリス川の岸ぞいの土地である
≒ GU.EDEN.NA
グ・エディン・ナ 、
で、
水利権を巡り、 記録に残っている、
世界で最古の戦争である、
『 ラガシュ・ウンマ戦争 』 、を、
百年に渡って行なった。
当初は、 ウルク第2王朝が優位を占め、
その王のエンシャクシュアンナ氏が、
国土の王 、を初めて名乗り、
ラガシュに加勢した。
紀元前2330年頃に、
ウンマ王の、 ルガルザゲシ氏が、
ラガシュのウルイニムギナ王を破り、
初めて、シュメール地方の統一を果たし、
ウルク第3王朝が成立し、
20年程を、続いた。
初期王朝時代の次は、
アッカド帝国時代
= 紀元前2350年 ~
前2113年 、
で、
アッカド 、とは、
サルゴン王が作った、
バビロニアの北にある中心都市 の、
アガデ Agade 、への、 別称に当たる。
そこの住民らは、
シュメール語と異なる、
セム語派のアッカド語を話していた為に、
シュメール人らから、
アッカド人 、と呼ばれていた。
:
アッカド王のサルゴン氏は、 当時では、
特殊であった、常備軍を持つ事により、
シュメール、への、
軍事的な優位性を確保すると、
統一されたばかりの、
シュメール 、へ攻め入り、
ルガルザゲシ王軍を破り、
シュメール地方と、
アッカド地方からなる、
メソポタミアを統一した。
次の王のリムシュ氏は、すぐに暗殺され、
マニシュトゥシュ氏が、
第3代の王になった。
第4代の、ナラム・シン王は、
新たな王号として、
『 四方世界の王 』 、 を採用し、
『 四方世界の王 』、 の、
ナラム・シン王は、 その北の、
シリア、 や、 その更に北西の、
『 アナトリア 半島 』
≒ 今の、 トルコ共和国があり、
地中海へも面してある半島 、
へ、
積極的に、 軍事遠征を行い、
その、紀元前の、2千3百年頃に、
アッカド帝国の版図は、 最大になった。
アッカドの文化は、
オリエントの全域に影響を与え、
アッカド語は、 この地域での、
共通語として、使われるようになった。
:
Akkad 、 は、 メソポタミア
≒ 現在の、イラク 、
の、 南部を占める、
バビロニアの北半分の地域や、
そこに興った、 最古の帝国の事を指す。
中心都市は、アガデ 。
南に、シュメールが隣接し、
北西側に、アッシリアが隣接していた。
シュメール文明圏を征服して、
チグリス川と、ユーフラテス川、
との間を、 中心の地域として、栄えた。
:
アッカド 、 には、
アッカド語を話す人々が定住していた。
サルゴン王が登場するまで、
アッカドの事を、
アッカド語で述べた記録は、なかった。
伝統的には、 サルゴン王が、
アッカドとシュメール、とへの、
統一帝国の最初の支配者、
と、 位置付けられている一方で、
最近の学説は、
その前の、征服された、
ルガルザゲシ王の下で、
シュメール人の膨張が始まった、
事を示唆している。
しかし、 サルゴン王は、
この膨張を更に推し進めて、
多くの地域らを征服し、
彼によって創造された、帝国は、
地中海やアナトリア半島にまで到達した。
サルゴン王が創始した、アッカド帝国は、
その孫の、ナラム・シン王の時代までに、
さらに、版図を拡大させたが、
各地で勃発する反乱に、
悩まされ続けた。
ナラム・シン王の時代に、 自らの名と、
神を表す、サイン、という語が、
並記され始め、
王権の神格化が始まった、
と、 考えられるが、
ナラム・シン王の死後は、
アッカド帝国の指導力は、衰え、
各地の勢力らが、自立していった。
バビロニアは、
シュメール、と、 アッカド、 とを、
あわせた領域から、
政治的・地理的に、形成された、
バビロニア 、と言う、
概念の中に、 まとめられて行き、
アッカド語が、
バビロニアの言語となり、
後代の、 バビロニア、と、
アッシリアの文学では、
「 アッカド 」、 と、 「 シュメール 」 、
の名が、 バビロニアの王号の一部として、
現れる。 :
sar mat Sumeri u Akkadi
= シュメールとアッカドの王 :
この王号が、単純に、
「 バビロニア王 」、を意味する。
アッカドの名は、
ペルシア帝国に征服されるまで続いた。
シュメール文明圏や、アッカド帝国の、
北の、 アッシリア Assyria 、 は、
メソポタミア
≒ 現在の、 イラク 、
の、 北部を占める地域や、
そこに興った、王国の事を指す。
首都は、 初期は、 アッシュール 、で、
後に、 ニネヴェ 、に遷都した。
南で、 バビロニア 、 と、
隣 ( となり ) 、 する。
:
チグリス川とユーフラテス川の、
上流域を中心に栄え、 後に、
メソポタミア、 と、
古代の、 エジプトを含む、
世界帝国を築いた。
アッシリアの偉業は、
ペルシア帝国に受け継がれて、
その属州となった。
:
アッシリアの歴史は、 主に、
その言語である、アッカド語の、
北方訛りである、アッシリア語の、
時代に連れた変化に基づいて、
4つに、時期を区分されている。
:
初期アッシリア時代は、 基本的に、
文字史料の無い時代で、
世界で最古の土器文明の興った、
日本の古代へ対する様に、 主に、
土器らの様式の変化により、
更に、細かく、 区分されるが、
政治史の復元は、 ほぼ、不可能、
と、 言って良い。
末期になると、 僅かに、
シュメール語やアッカド語による、
文字史料らが現れる。
古アッシリア時代は、 アッシリア語が、
古アッシリア語、と呼ばれる形であった、
時代で、 主に、 紀元前の、
千950年頃から、
前15世紀頃までを指す。
アッシリア商人らや、
シャムシ・アダド1世の台頭により、
多くの文書史料らが残り、
アッシリアの政治史が、初めて、
具体的に、 復元され得る時代だ。
@ アッシュール・ナディン・アヘ2世、
までが、
古アッシリア時代とされるが、
イシュメ・ダガン1世、 以降の、
アッシリア史は、 史料の欠落により、
ほとんど、分かっておらず、
政治史的には、 別時代だ。
中アッシリア時代は、 アッシリア語が、
中アッシリア語、と呼ばれる形に変化した、
時代で、 :
紀元前の、 千3百年代である、
前14世紀の初頭辺りから、
紀元前の十世紀の末頃までの時代を指す。
アッシリアの君主達が、 旧来の、
「 アッシュールの副王 」、 ではなく、
「 偉大な王、アッシリアの王 」、
を、 称するなどし、 大国としての、
アッシリアが台頭した時代だ。
:
新アッシリア時代は、
アッシリア語が、新アッシリア語、
と呼ばれる形を成していた、
紀元前の、十世紀の末頃から、
アッシリア帝国の滅亡までの時代を指す。
アッシリア人らは、 この時代に至って、
全オリエントを覆う、
世界帝国を打ち立てた。
有名なアッシュールバニパル王の、
図書館が作られたのも、 この時代だ。
「 アッシリア 」 、 は、
アッシュルの地 、を意味する、
ギリシア語の表記に由来する、
ヨーロッパにおける、 呼び名で、
本来の、アッカド語の北方訛りである、
アッシリア語による、 名は、
アッシュル Asshur 。
アッシュルの名は、
チグリス川の上流にあった、国土と、
その中核となった、首邑の名であり、
それらを神格化した、神の名でもあった :
アッシュルの地は、
バビロニアの北西に位置する、
チグリス川沿いの高原地帯で、
クルディスタン
≒ クルド人の土地・国 、
や、
アルメニアの山岳地帯を、北の背に、
メソポタミアの低地を、
はるか南方に望む場所に位置している。
この土地は、
バビロニアの様な、
メソポタミアの中の、 低地域と異なり、
年間の降水量が、
2百 mm 、 以上もあり、
灌漑
≒ 水路らを巡らして、
堰や溜池などに、 貯めて置いた、
雨水、 などを、 それらへ注ぎ配る、
加減などをする事により、
農作物らを作り増やす 、農業のやり方 、
を、農業に必要としない、
いわゆる
ドライ・ファーミング
≒ 『 天水 農業 』 、
地帯だ。
潅漑を農業の拡充に必要とした、
その南の、シュメール人らや、
アッカド人らの方が、
潅漑を成してゆくと共に、
都市国家文明圏を成す上では、
有利に成った、 とも、考えられ、
少なくとも、 実際の歴史事項においては、
シュメール人らの、
文明の産物な物事らの影響を浴びた、
その北の、 アッカド人らが、
シュメール文明圏を征服し、
アッカド人らの本拠地の、 更に、
北に隣した、 アッシリア人らが、
それに遅れて、
都市国家らの勢力を増してから、
シュメール人ら、と、
アッカド人らを征服するに至っており、
天水農業から、潅漑農業へ、
作物らへの生産行為の在り方を、
変え得ないで済んだ内は、
アッシリアの周辺らとの交易などによる、
生活の資らの豊 ( とよ ) まり、 が、
あったにせよ、
人口的にも、 アッシリア人らは、
アッカド人ら、や、
シュメール人ら、 に比べて、
より少なく、
社会分業の発達の度合も、
より、 乏しかったろう。
:
@ それが為に、
バビロニアが、 常に悩まされてきた、
農地らへの塩類の集積による、
農作物らの生産への阻害とは、
無縁であり、
年毎の降水量に左右され、
収量が、不安定な側面は、
否めないにせよ、
塩分に弱い、小麦を豊富に産した。
いわゆる、 肥沃な、
三日月地帯、 の、 中央部に居た、お蔭で、
アッシリア人らは、
河らに挟まれた地を意味する
≒ メソポタミア 、
と、
今のトルコがある、
アナトリア半島や、 シリアに、
イラン高原といった、
オリエントの各地を結ぶ、
交易の中継地でもある地に、
暮らし得ていた、ので、
天水農業のままでも、
その交易業の発展により、
人口を増し、
社会分業の度合を増してゆく、
事、 などが、 可能であり、
周辺の勢力らからの技術体系知らや、
その各々の内情な事らを、
体系的な情報事項らとして、集積し、
内通者らを、
周辺の各地に得て、
周辺の勢力らの弱みや、
弱まり、 などを折良く利用して、
やがて、世界帝国を成すに至る、
周辺の勢力らへの征服を成すのに、
結果的には、 都合の良い、
四通八達の地を占めていた。
@ アッシリア人らは、
セム語族に属する、 アッカド語、の、
北方訛りを話し、
アッシリア語を用いた集団だが、
非セム語を用いた集団も、
アッシリア人らの形成にかかわっていた、
と、 考えられ、
その民族の形成への背景となった、
上記の地理条件もあって、
アッシリア商人らは、 特に、
古アッシリア時代の2百年間は、
オリエントの各地で活躍し、
アナトリア半島の、 カネシュ、 などの、
交易先の、 各現地の都市らに隣接する、
港、という意味の、
カールム 、 と呼ばれる、
商業拠点の集落らを多く形成していった。
:
@ そうした、交易相手の、
アッシリア人らと結託する、内通者らが、
その財貨や情報事項らを融通し合う事から、
自らの社会の内部での、 権勢を増したり、
万が一の場合の、
一族郎党らの亡命先らを確保して置く、
事、 などを目論んで、
アッシリア人らの側へ、
自らの社会の、 解決されたら望ましい、
問題な事ら、 などを知らせる、
事にも成ったのであろう。
そうして得られた、 情報な事らは、
各地域の勢力の人々へ、
より、喜ばれる物事らを、
より、安い費用で提供して、
より、割の良い、見返り利益に当たる、
物事らを、
アッシリア人らが得てゆく上で、
役に立った、だけでななく、
各勢力らを、
彼らが征服してゆく上でも、
何代にも渡る、
内通者らを各地に得られた事も含めて、
役に立った事だろう。
今の、 日本が、
シナ朝鮮人らと欧米人らの、
日本の内外の者らと連携して、
何代にも渡る、内通呼応者らによって、
やられて来ているのとは、
丁度、正反対の事例を成している訳だ。
@ アッシリア、 即ち、
アッシュル国家は、 本来は、
アッシュル市を中心とする、
狭い範囲を版図としていた。
歴史の初期には、
ウル第3王朝の覇権の下にあり、
その長い歴史の中で、 何度も、周囲へ、
覇権を拡大しては、 その覇権を失って、
新たに台頭した大国の、
バビロン第一王朝や、
ミタンニ、 などの、 覇権の下に屈した。
しかし、
諸民族と国々の興亡の激しい、
オリエント世界で、
例外的な一貫性をもって、
よく、その中央集権的な国家体制を維持し、
紀元前の千年紀の前半に、
いわゆる、
新アッシリア王国時代 、
と、呼ばれた時代に、
オリエントの全域を征圧し、支配する、
大帝国を打ち立て、
この大帝国が衰退し、解体すると共に、
滅び、
その千4百年間に及ぶ、
長い歴史に終止符を打った。
:
アッシリアの名称は、
アッシュルの意味する、意味空間の中で、
アッシュルの地、と、
そこに成立した古代国家や、 更には、
その国家が、 オリエント一帯を征服して、
成立した、大帝国を指す。 :
:
@ メソポタミアの、『 北部の地域 』、
や、 そこに興った、 世界帝国である、
アッシリアの末裔を自称する、のは、
現代アラム語を話す、
ネストリウス派の、キリスト教徒達だ。
@ この大帝国を統治した、
制度的な技術体系知らは、 その後に、
オリエントの広域に覇権を打ち立てた、
新バビロニア王国や、
アケメネス朝ペルシアに受け継がれた。
:
@ アッシリアの制度上の君主は、
神格化された国土、あるいは、
主邑である、 アッシュル神で、
人間である君主は、
アッシュルの副王 、を名乗った。
:
伝統的な、 アッシリア、の、
国家体制の中核機関は、 アールム 、
と呼ばれた、 市民会で、
国家への運営での重要な事らを、
そこで、 審議し、決定をし、
その決定事項らは、
母国から遠く離れた、
アナトリア半島などの、
商業拠点の植民市らへも伝えられた。
アールムの議長を務めた、
と、 考えられる、 公職に、
リンム 、があり、
毎年に、 都市の、アッシュル 、の、
有力者らの中から、リンム 、 が選ばれ、
年代の記録は、 その年の、
リンム職の人の名をもって行った。
この紀年法は、 その年の、
コンスル職の人らの名をもってした、
古代のローマの制度に似ている。
アッシリアの歴史の初期には、
アッシリア王
= アッシュルの副王 、
の権力は、
アールム、と、リンム、 により、
制限されていた。
@ アールムの議員らと、
リンム、 が、 職務についた、施設が、
『 市の館 』 、 で、
行政上の署名と捺印に用いられる、
市の館の円筒印章は、
ゴロゴロと回転させて、
その円筒の凸凹の柄を印し残す物だが、
アッシュル神の印章をも、兼ねており、
アールムと、リンムとが、
伝統的に所持した、権威が、
ここにも、うかがえる。
やがて、 王権の拡大と共に、
王が、 リンムを兼ねる、
事も、行われる様になり、
アッシリア王は、
強大な権力を振るう様にもなり、
アールムとリンムの権限らも、
形骸化したが、 この制度自体は、
ローマ帝国の時代にも、
コンスル
≒ 2人の執政官らの各々 、
と、
元老院の制度ら、 等を維持し続けた、
古代のローマと同じ様に、
大帝国に発展した、
新アッシリア王国期を経て、
アッシリアが滅び去る、
その時まで、維持された。
:
@ 紀元前の2千年紀に入る前の、
初期の、 アッシリアの歴史は、
文献史料が、 殆ど、 残されておらず、
専 ( もっぱ ) 、 ら、
考古学的成果によって、
その流れを把握するに留まる。
@ シュメール人らの文明圏が興ってから、
何千年も経っていた、この頃にも、
天水農業と交易から、
生活の糧らを得る人々は、
潅漑農業を成して、
社会分業を一定以上に発展させ得るに足る、
一定の生活圏における、
一定以上の人口の増大を成し得ず、
多分、 乳幼児らが、死ぬ率も、
シュメール人らに比べて、
高かった事、 などが、推測される :
@ メソポタミアの南部における、
灌漑農業の拡大と、それによる、
人口の増加と、 経済系
≒ 人々への資源らなどの配分を伴う、
売り買い取引きらの全体 、
の発展に伴い、
各種の資源らへの需要
≒ 買う気勢ら、 などの総量や、
買う総額、 など 、
が、 高まり、
金属な資源らや、 木材と家畜類、
などを求める、 人々の増加により、
交易の規模が増大した結果として、
先に述べた様な、
アッシリアの地理条件らのために、
交易の中継地として、
人々の移動が激しくなった影響で、
メソポタミアの南部の文化が、
メソポタミアの北部の全域にまで、
拡大したもの、 と、考えられる。
ブログ 中東の窓
http://www.alquds.co.uk/?p=281273
2015.01.18 :
最近のエジプトでの、テロ事件らにつき、
アラビア語メディアからのとりまとめ ;
:
この所は、 鉄道を狙った、
テロが増している印象です。
・スエズ運河沿いの、
スエズ ~ イスマイリア間の鉄道で、
17日の朝に、軌条の上で、 爆発があり、
列車が、 1両が、 脱線し、
その運行が停止された。
人的被害は、ない由。 :
・カイロの南方の、ベニスエフでは、
16日に、 駅のトイレに、
爆発物が置かれており、
爆弾処理班が、これを処理したが、
鉄道の運行は、停止した。
18日の朝には、 アレキサンドリアで、
2発の爆弾らが爆発し、2名が死亡、
との報道もある。
さらに、 爆弾処理班が、
6発の爆弾らを解体した。
不発弾らの見つかった所は、
アレキサンドリアの東の、
モンタザ地区の、警察署の前だが、
爆発した一つは、その近くの、
病院の前で、 もう一つは、
サンドリアの西部の由。
・16日にも、アレキで、
爆弾が爆発したが、
人的被害は、なかった由 :
レコード・チャイナ
( 翻訳 編集 / 本郷記者 );
2015年1月16日、 中国のポータルサイト
百度 ( パイドゥ ) 、 の掲示板に :
『 日本の国語の教科書を見て、吃驚
( ビックリ ) 、 した 』、 と題した、
スレッド
≒ 糸 、 一連以上の物ら 、
が立った、 スレ主
≒ スレッド主 、
ネット上の論評掲示板の出し主 、
は、
日本の高校で用いられている、
古典な、 漢文の教科書を、
写真で紹介;
唐詩や、論語の儒家思想、といった内容に、 『 日本の作家らは、皆、
漢文を知っている。
漢文を知らない作家は、 いない 』 、
と、 断言した。
このスレに対する、論評らを、
いくつかを紹介する :
『 日本人って、 こんなことまで、
勉強するの? 』 、
『 オレは、大学4年だが、
論文を書く為に、漢文を読んでいるだけ。
日本人は、凄いな 』 、
『 可哀想な日本人、 こんな、
難しい物を勉強するんだ 』 、
『 日本人は、中国語が読めるの? 』 、
『 私には、 これが、読めない。
意味も分からない 』 、
『 中国人として、
何か、とても嬉しい 』。
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