明るい家族計画

塚本正巳

 人生を左右するかもしれない、大事な金曜の夜だ。携帯電話がバッグの中でしきりに唸っているが、今はそんなものに構っている暇はない。それにしても、一体いつまで唸り続けるつもりだろう。自分が携帯電話ということも忘れて、険悪な私たちの仲裁にでも入ってくれるというのか。

 そんなことができる携帯電話があるなら、すぐにでも手に取って仲裁をお願いしているところだ。せっかく直樹なおきと二人きりでいいムードだったというのに、自分の短気な性格がつくづく恨めしい。この母譲りの短気だけは、昔からいくら直そうとしてもどうにもならなかった。なぜ母は私に、こんな厄介な性分を押しつけたのだ。なぜわざわざ、こんな私を生んで育てたのだ。今は彼の隣でへそを曲げて黙りこくっている場合ではない。そんなことはわかりきっている。しかし理性に反して私の短気な心は、ぶつけどころのない悪態でいっぱいだ。

 見晴らしの良い丘に車を停めて、直樹と二人で夜景を眺めていたところ、

美月みつきはそろそろ結婚したいんだろ。どうする?」

 と、突然のプロポーズ。彼はいつだってデリカシーがない。私はつい、きつい口調になった。

「どうするって何よ。こういうときはまず、自分の気持ちを伝えるものなんじゃないの?」

 私の一言によって、ほどよく甘かった車内の空気はたちまち塩漬けになった。このままでは二人とも漬け物みたいに潤いを失って、ぎすぎすするばかりだ。そんな私たちの間に割って入った、携帯電話の着信。今夜は一生の思い出になる記念すべき夜かもしれないのに、なんて無粋な横槍だろう。いや、もしこの空気を一掃してくれるというのなら、私はこの電話の主に生涯感謝を忘れないと誓おう。

 助手席の私が横目で窺うと、運転席で憮然としていた直樹は心配そうな視線を私の膝に向けた。そこには、さっきから唸り声を上げ続けている私のバッグがある。どうやら私の電話を気にしてくれているらしい。

 私は依然として仏頂面を作ったまま、バッグに片手を突っ込んで携帯電話を漁った。こういう気配りはできるのだから、いつものデリカシーのなさもどうにかなりそうなものではないか。そこさえ治してくれれば、こんなにやきもきすることもなく、喜んで彼の胸に飛び込んでいけるというのに。

 電話を鳴らしていたのは、実家に独居している母だった。電話の主を知った途端、通話ボタンに伸ばした指がぴたりと止まる。母とはもう二年近く口を聞いていない。

 私は高校卒業後、すぐに実家を出た。その後はほとんど連絡を取っておらず、昨年も一昨年も実家には一度も顔を出していない。母とは絶縁状態なので、母のほうから接触してくることもほぼなかった。

 それなのに、余計なことが伝わらなくて済むテキストメッセージではなく、声の調子によって無駄な感情まで伝わってしまう電話をいきなりかけてくるとは、どういう風の吹き回しだろう。しかも、単に近況を訊ねる電話にしては、あまりにもかけてくる時間が遅い。

 覚悟を決めて電話に出てみると、応答したのは母ではなく、母の店を手伝っているあやという女性だった。美人ではないが、おっとりとした雰囲気が親しみやすい三十代半ばのホステスだ。

「みーちゃん、遅くにゴメンね。実はママちゃんが倒れちゃって、今救急車で病院に着いたとこ。あ、命がどうこうってわけじゃないから安心してね。でも親族じゃないと判断できないこともあるみたいだから、みーちゃん、これから出て来られる?」

 絶句するしかなかった。よりにもよって、こんな大事な日に病院に担ぎ込まれるとは。やはり母とは相性が悪すぎる。私は呆然としたまま、曖昧な返事をして電話を切った。母には、こういうとき真っ先に駆けつけてくれる夫や親族がいない。だから彩は、私と母の不仲を知りながらも、私以外に連絡する相手を探し出せなかったのだ。

 直樹に事情を説明すると、彼は何も言わずすぐに車を出してくれた。彼は道すがら、院内まで付き添うと申し出てくれたが、それは丁重に断った。私の身内のことで今夜を台無しにしてしまったのだから、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

 車窓の外に広がるきらびやかな夜景が、淡々と冷たく流れていく。私は下唇をきゅっと噛んで、募る名残惜しさを噛み殺した。配慮に欠けるところはあるが、直樹は優しくて真面目な男だ。彼のプロポーズを受け入れる心の準備は、とうの昔にできている。あとは背中を押してくれる何かが、ほんのちょっとだけあればいい。

 それなのに、待望の甘い夜はまたこうして流れてしまった。今夜、私が彼の言葉にあんな形で突っかからなければ、話は望んでいる方向へすんなりと進んでいたはずだ。思い返せば思い返すほど、自分の不甲斐なさを責めずにはいられない。

 ふと母の面影が脳裡を過り、我知らず大きな溜め息が漏れた。そうだ、電話さえなければ。あのまま二人きりで夜景を見続けていたら、あの険悪な雰囲気もじきにおさまって、二人とも元の素直な自分に戻れていたかもしれない。そして私たちは、念願の幸せを満面の笑みで抱きしめていた──。それなのに母は、やっぱり自分が一番大事で、一人娘である私の人生をとことん振り回すつもりのようだ。

 小さい頃の記憶が蘇りそうになって、慌ててかぶりを振った。たまには母らしいことをしてくれたこともあったが、私は母が一人娘に背負わせた、いたたまれない恥辱を決して忘れない。少女時代の私は、母のせいで負わなくてもいい心の傷を負い、ずっとずっとそのはずかしめに悶え苦しんできたのだから。

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