亜美【三】

 智也の深い溜め息が、真っ暗な部屋の空気をさらに重くした。頼みの綱だった勇輝が、よりにもよって期待と真逆の回答をしてしまったのだから無理もない。ただ、ここで苛立ちを見せたり、非難まではいかなくとも、思わず舌打ちを漏らしたりしないところはいかにも智也らしい。

「──やっぱり、出るんじゃん」

 思い止まった智也の代わりに、私が棘のある小声で呟く。すると勇輝は、急に起き上がって胡座をかき、まるで居直り強盗が家主に説教でもするかのような声を出した。

「フナムシくらい、いるに決まってるだろ。ここは海のすぐそばなんだぞ。嫌なら帰れ」

「勇ちゃん、あーちゃんは虫が嫌いなんだから、そこまで言わなくても……」

 すかさずふかふかの綿のような智也の仲裁が、私と勇輝の間に滑り込む。しかし、私が自分に非があるとは思っていないように、勇輝だって自分が悪いとは思っていないだろう。このままでは互いに引っ込みがつかないまま、険悪な長い夜を過ごす羽目になってしまう。

 フナムシの恐怖と嫌な空気に当てられた私は、不覚にも大きく鼻をすすってしまった。涙ぐんでいることを悟られたくなかったが、出物腫れ物ところ嫌わず、だ。出てしまうものは仕方がない。

 そんな最悪の夜をきれいに吹き飛ばしてくれたのは、意外にも、思いやりや気配りとは最も縁遠い勇輝だった。

「言われなくても知ってる。そんなに怖がるなよ。トモと俺がいるんだぞ」

 はっとして、思わず勇輝の顔を盗み見た。視線を逸らしたまま憮然とはしているが、尖らせた口元や目付きに怒りの色はない。

「もしあいつらが入って来たら、トモと俺が絶対に追い払ってやるって。俺たち、そんなに信用ないか?」

 私は勇輝の言葉を聞いた途端、悔しくてたまらなくなった。いや、本当はその逆だったのだ。しかしまだまだ幼かった私が、相反する二つの感情を上手く折り合わせる術なんて持っているはずがなかった。

「あんたが寝ちゃったら、入って来ても気づかないじゃん」

「だったら起こせばいいだろ。俺でもトモでもいい」

「この部屋に入られるだけで嫌なの」

「そんなら俺が見張っててやる。あいつらは人の気配が嫌いな臆病者だからな」

「嘘、絶対寝ちゃうでしょ」

 勇輝は私の難癖に苦笑いを浮かべると、得意なゲームの攻略法を自慢するときみたいな、自信たっぷりの顔をして私の後ろを指差した。指の先を追って振り返ると、そこには指を差されてきょとんとしている智也がいる。

「大丈夫。もし俺が寝たら、トモが代わりに起きて見張ってくれるって」

 勇輝の屈託ない笑顔には、相手をその気にさせる不思議な力がある。そんな笑顔を出し抜けに差し向けられては、拒めるはずもない。智也が呆気に取られた顔のまま小刻みに頷くと、勇輝はその笑顔を私にも向けた。フナムシの不安が無くなったわけではなかったが、少しも嫌味のないこの笑顔を邪険に扱ってしまうと、私のほうが悪者になってしまうような気がする。

「部屋には一匹も入れないでよね」

 私は苦し紛れにそう言うと、勇輝に背を向けて横になった。掛け布団を頭から被って目を閉じると、私を取り巻く智也と勇輝の姿が瞼の裏に浮かんだ。方法は違えど、どうにか私をなだめようとしてくれた二人。我知らず涙が溢れてきて、誰にも見られていないのに慌てて目元を拭った。嬉しくて仕方がない反面、それを上手く伝えられない自分が嫌でたまらない。なぜ涙を拭わずにはいられなかったのか。それは多分、誰よりも私がこの涙を見たくなかったからだ。

 私は智也と勇輝に甘えっぱなしで、何か厄介事を起こすたびに二人を振り回していた。それは過去形ではなく、フナムシの夜から二十年近く経った今も大して変わらないのかもしれない。一人は私の夫になり、一人はダメな私が今でも気がかりなのか、遠くにいても度々連絡を入れてくれる。私がもっとしっかりしなければいけないことくらいわかっているのだが、幼馴染に恵まれた私の甘ったれは、ちっとも有り難くないことに相当筋金入りらしい。

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