第16話 来訪前夜
今日の分を書き終えても、時間が余ってしまった。
伊勢物語を読み進めるのもいい。
改めて、義務ではない文字を書くのもいいかもしれない。
「ああ……」
保管しておきたいものを書くときは、墨と硯を使う。墨と硯が必要だと、また言いそびれていた。
「……書けばいいのか」
和紙を一枚新たに取り出し、『墨と硯、筆記具』と書いた。
なんとも味気なかった。
「…………」
他にも何か書こうと筆を握りしめたが、いざ書こうと思うとなんだか気合いが入りすぎて、浮かんでくることひとつひとつが、書くにふさわしいことかわからなくなってしまう。
「…………」
しばらく紙と向き合うが、手は動かなかった。
ようやく文乃は『茶道』『クサフジ』『夏にオオバクサフジ』と、それだけ書いた。
その頃になって、昼食の準備ができたとハナが呼びに来たので、諸々を仕舞って、文乃は一階に降りた。
宗十郎は袴にたすきを掛けた姿で、食堂ですでに握り飯を食べ始めていた。
「ん……ああ、すまない、文乃さん。いつものくせでさっさと食事をしてしまっていた」
文乃を見て、宗十郎は驚いた顔をした。
どうやら忙しく働いていて、文乃のことが頭から吹き飛んでいたらしい。
「いえ、問題ありません。お疲れ様です。宗十郎さんの普段のお昼はおにぎりなのですか?」
「うん。昼は大抵仕事の合間だからな。さっさと食べて、活力を補給して仕事に戻れるようにしている」
「そうなのですね」
宗十郎の前にはもう食べかけの握り飯しか残っていなかったが、宗十郎は食べる手を止めて、一旦お茶を飲んだ。
「……あの、私に気を遣わず、どうか作業に戻るのでしたら、戻ってください。そもそも準備を私がお手伝いできたらよかったのですが……」
「気に病まないでくれ。それに気を遣っているつもりはない。俺がここにいたいだけだ」
そんな風に言われると、返す言葉を失ってしまう。
「わ、わかりました……」
消え入りそうな力のない声では、照れ隠しすらできない。
運ばれてきた昼食に手を合わすことで、文乃はなんとか顔を隠した。
「あ、あの、宗十郎さん」
「うん」
結局宗十郎は自分の食事を終えた後も、文乃が食事をしているからと、そこにいてくれた。
「祓井さんが、あの、墨と硯を使えば、私の書くものでも呪いの影響をあまり受けずに済むとおっしゃっていたので、墨と硯を、えっと用立ててもらいたいのですが……」
「墨と硯か」
宗十郎が天を見上げる。
「最近はもっぱら付けペンか鉛筆だったからな……。硯はまだしも墨は家にないかもしれない。わかった。近日中に用意する。それとも急いで書きたいことでもあるだろうか」
「あ、いえ、えっと、いつもの枚数分書いておけば、そのあとは大丈夫と言われましたので、急ぎではないです。あ、あと鉛筆とかでもいいのではないかともおっしゃってました」
「そうか」
宗十郎が懐から手帳を取り出した。そこに刺してある鉛筆を引っこ抜く。
「では、一応これを渡しておこう。紙は……鉛筆に和紙だと破きかねないな」
文乃が鉛筆を受け取って、あたふたしている隙に、宗十郎は手帳から紙を数枚破りとった。
「ひとまず、これで」
「わ、わあ……よ、よかったのですか……?」
思い切りの良い行為に文乃は、少し動転する。
「私物だから問題ない」
「なら、いいんですが……あ、ありがとうございます」
鉛筆と紙を手に入れた。
「鉛筆の書き味が悪くなったら言ってくれ、削るから」
「じ、自分でやります……」
「ナイフで鉛筆を削ったことはあるのか?」
「ないです……」
「では、心配だから、俺がやる」
「ありがとうございます……宗十郎さんは刀だけでなくて、刃物の扱いもお得意なんですね……」
「いや、このくらいは普通のたしなみだ。包丁はてんで駄目だしな」
「てんでというには、握られたことはあるのですか?」
「専門が特殊とは言え軍人は軍人だ。炊事の訓練も一応受けている。……てんでだった」
少し遠い目をした。
「もう少しこちらでの生活に慣れたら、私、炊事を習いたいです」
「わかった。適切な時期を典堂に聞いておこう。指導の方は中山に任せる。俺はてんでだからな」
どうもその自虐が気に入ったらしい。
「宗十郎さんがてんでなら、私はやったこともありませんので、まるでですね」
「いや」
宗十郎は真剣な顔で否定した。
「君はこれからだ」
「は、はい……。ええっと、作業の進みはいかがですか?」
「兄を迎え入れる準備はまあ終わりそうだ。急なことだったが、なんとか形になりそうで、よかった」
「そうですか」
「文乃さんも兄に会ってくれるだろうか」
「も、もちろんです。あ、えっと、お兄様がよろしければですけど……」
「よろしいというか、兄の目的はそもそも君と会うことだと思う」
「えっ?」
「実家に君を迎えたことを連絡し、兄にも伝言を頼んだ。この機に来たいということは、君に会うのが目的だと思う」
「えっと……私が宗十郎さんに相応しい人間かどうか見極めにいらっしゃると言うことでしょうか……?」
困る。自信がない。そういうことならもう少し後にしてもらえないだろうか。どんなに短くてもあと半年くらい猶予がほしい。
「ああ、いや、兄はそこまで過保護な人ではないよ。ただ単に、よいきっかけなんだと思う」
「きっかけ」
「言ったとおり、兄と俺は、まあ複雑で、子供の頃から一緒に過ごせた時間は少ない。今も年末年始くらいにしか顔を合わせない。元々の始まりが普通の兄弟と違うが、今も普通の兄弟関係とは言いがたい。兄がどう思っているかはわからないが、俺は、兄とはもう少し……」
宗十郎が言葉に迷った。
「もう少し、普通の兄弟になりたい」
「普通」
「うん、普通……普通か、普通とは、なんだろうな」
「……とりあえず、私達は普通ではないと思います」
私達。文乃のこと。宗十郎のこと。文乃と宗十郎のこと。
「まあ、そうだな」
「私も普通になった方がいいでしょうか」
「いや」
宗十郎はしっかりとこちらを見て、そう言った。
「俺は今の君でいい。それでも、君がこうなりたいという姿があるのなら、手を貸す。必ず」
「……はい」
文乃はうなずいた。
「宗十郎さんなら、そう言ってくださる気がしました」
「そうか。そう思ってくれてるのなら、嬉しい」
自分は普通ではない。
でもせめて目の前のことをひとつずつ成していける自分でありたい。
課題がある。どこからこなしていいかわからないことばかりだ。
だから、そうだ、せめて、すぐ手を伸ばせるところにあるものから、片付けよう。
「……宗十郎さん、今夜はお時間ありますか?」
「今日はもう家のことに専念すると部隊には伝えてある。だから大きな問題が発生しない限り夜も家にいる」
「あの手紙を開封したいので、一緒にいてくれますか?」
「わかった」
宗十郎のうなずきには迷いがなかった。
それが文乃にはとっても心強かった。
文乃が昼食を終えると、宗十郎がハナに声を掛けた。
「ハナ」
「はいっ!」
「こちらの手伝いは一旦休んで、文乃さんの明日あさっての服装を決めておいてもらえるか。来るのは兄だから、そこまでかしこまらなくていいが、一応、それなりに整えてほしい」
「かしこまりました。文乃さま、今からお着物を持って、お部屋に伺って構いませんか? 他にやることがあるのなら、後にしますが」
「いえ、今からでお願いします」
「はい。そうだ、この機会なので! 宗十郎さま、文乃さまのお部屋の棚、立て付けが悪くてガタガタ言います。わたくしは慣れているので、なんとでもなりますが、今後文乃さまが自分で物を仕舞うのは大変だと思います!」
「わかった。後日、確認する。すまないがしばらくは任せる」
「はい!」
「文乃さんは、何かあるか?」
「ございません。作業がんばってくださいませ」
「ああ、ありがとう。ではまた夜に」
「はい、夜に」
部屋に戻ると、ハナがさっそく口を開いた。
「さて、どういたしましょう。典堂さまがお持ちくださったお着物はまだございますけど、すでに着たお着物の方が丈などが合っているとわかっているので、よいかもしれませんね。ああ、それとも他の着物も今ご試着なさいますか?」
「い、いえ、それはさすがに……」
宗十郎の兄をもてなすのだ。手間は掛けるべきだが、時間を掛けすぎるのはあまりよくない。
「では、三着を中心に選びましょうか。帯くらいなら変えてもよいかもしれませんね」
「私はこういうことには疎いので……。合わせる着物について考えるのは、ハナさんにお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです! こう見えて、昔から着物選びは褒められたものです」
「昔……? 宗十郎さんのお着物を選んでいたことが?」
「まさか。宗十郎さまはほとんど軍服ですし、ご自分が何色の着物を着ているかすら、毎回頓着してらっしゃいませんので、選び甲斐がないことこの上ございません」
あんまりにもばっさりと切り捨てられているが、そんな宗十郎がなんとも想像しやすく、文乃はつい苦笑してしまった。
「私、元は神倉の本家の方にいたのです。奥様、宗十郎さまのお母様にお仕えして、着物をお選びしてました。でも、奥様の具合が悪くなってからは、あまり……」
ハナの顔が寂しげになった。
「宗十郎さまにご結婚の話が出てから、こちらに移ってきました。……まあ最初にお仕えする予定だった方とは気付けば、なんだか破談になっていたのですが……」
宗十郎の元婚約者のことだろう。
「でも、今は文乃さまにお仕えできて楽しいです」
「……ありがとうございます」
過ぎたお世辞であろうとも、そう言ってくれるハナの心が嬉しかった。
「宗十郎さんのお母様のお着物をお世話されていたのなら、お茶会の準備をされたこともあるのですか?」
「ああ、はい。楽しかったですよ。私は茶道のさの字も知りませんけれど、奥様がお菓子を分けてくださったり……」
ハナが懐かしむように微笑んだ。
「では、お着物一通り持って参りますね」
ハナがパタパタと走り去っていった。
さて、どうしたものか。
たしか宗十郎の兄、冬一は文学に詳しいと宗十郎は言っていた。だとしたら伊勢物語から題をとった八橋はちょうどよいのではないか。それともいささかあざとすぎるだろうか。
「ふー……」
文乃は茶会を開けない。料理も出来ない。家の支度も手伝えない。
神倉宗十郎に嫁ぐには不足ばかりだ。
それでも宗十郎の兄を迎えることは、宗十郎と結婚する予定の人間としての、初めての仕事になる。
未熟でも、心を尽くして成し遂げたかった。
着物を抱えて戻ってきたハナに八橋の相談をした。
「いいじゃないですか! 話の糸口になりますよ!」
「いいですかね……」
「私、本家にお勤めしていたときも、冬一さまにはほとんどお目に掛かったことがないですけれど、その時にも文学の話を奥様とされていましたよ。あれは……そうだ雪の日に、枕草子の話をされてました。冬一さまのことは私もよく知りませんが、少なくとも文学がお好きなのは間違いないと思います」
「……じゃあ、一着は八橋で」
「はい!」
相談の結果、明日は八橋の着物をそのまま着ることにした。あさっての着物は明日改めて決めようということになった。
「ああ、そうだ。夜にも動かれるかもしれないので、羽織もお持ちしました」
丈の長い、落ち着いた印象の黒い羽織。鷹の羽の紋がついている。
「本当は色とりどりの絵羽織がご用意できたら、きっとおしゃれだったのですけど、さすがに間に合いませんから、ひとまずはこれで」
「あの、この紋……」
「はい、奥様のお下がりでございます。奥様が宗十郎さまの計画を聞きつけて、送ってらっしゃいました」
「宗十郎さんのお母様……」
まだ会ったことのない、これから嫁ぐ人の母。その人の羽織。
「大切にしなくてはいけませんね」
「是非、そうして差し上げてください」
そう言ったハナの笑顔は普段よりどこか大人びていた。懐かしむように、寂しがるように。
着物を選んでいるうちに、あっという間に夜が来た。
食堂に降りると、宗十郎は着流しに着替えていた。
動きやすい袴でやりたい作業があらかた終わったのだろう。
「お疲れ様です」
「うん。文乃さんもお疲れ様」
労られるようなことは何もしていない。そう思いもしたが、文乃はうなずいた。
「ありがとうございます」
夕食はすぐに運ばれてきた。
「明日なんだが、兄が飲みそうなら酒を出すつもりだ。文乃さんは酒は飲めるだろうか」
「えっと、飲んだことがありません」
「それは、そうか」
宗十郎が少し重苦しい声になる。
「なら念のため明日は飲まないでおこうか。酔いやすかったり、気分が悪くなったりしては、たいへんだ」
「はい、お願いします」
「あとは……いや、先回りして考えすぎてもな。文乃さんからは、何か確認しておきたいことはあるか?」
「……いえ、特に。楽しみですね、お兄さまと会うの」
「うん……」
宗十郎は子供のようにはにかんだ。
夕食を終え、またふたりは文乃の部屋、座敷の上に座った。
文箱を文机の真ん中に置く。
「ふー……」
思い切り息を吐いて、文乃は蓋を開けた。
文箱の中、折りたたまれた純白の紙。
「開けます」
「うん」
折られた紙を広げる。
中には二枚の紙が入っていた。
一枚目を、読む。
『塵塚家のこと。
昔々、その家の敷地には芥を捨てておくあばら家があった。昔からその家の人々は芥をただ放り込むばかりで、処分をせず、芥は溜まる一方であった。
あるときの当主が思い立ち、あばら家を取り壊すことになった。
芥を掻き出し、あばら家を打ち壊し、すべてまるごと火に
その日からその家には物の怪が現れるようになった。
物の怪が家の者たちを次々襲うので、当主は
とうとう霊鬼神魔にまつわる者とつながり、彼らは物の怪の正体を看破した。
物の怪はあばら家に棲み着いていた。
物の怪は芥に囲まれ修行をしている最中であった。
それに千年耐えることで、物の怪はカミになるはずであった。
元はそのことが知られていたがために塵塚に人々は芥を捨てていた。しかし長きにわたる修行の間、それを伝える者がいなくなり、物の怪の修行は誰にも知られることなく、とうとう中断させられてしまった。
物の怪は怒り、嘆いていた。
物の怪の祟りを鎮めるために、その家は姓を塵塚と改めた。
次はあばら家だけではなく、家全体を物の怪の修行場である塵塚とする。そのための名付けであった。
塵塚の古老より聞き取り』
末尾には明治の年月日が記されていた。今からおおよそ二十年ほど前の日付だった。
「これは……」
「……その文字は、母君の文字か?」
宗十郎の声は冷徹だった。初めて出会ったあのときのように、感情が見えてこない。
顔を上げても、宗十郎の表情は淡々としている。
「た、たぶん……」
母の字、だと思う。憧れの美しい文字。
「えっと、これは、母が塵塚家に嫁いでから、まとめたものですかね? 年月日からしても……」
「……おそらく。聞いていた話とだいたい一致する」
「聞いていた……。塵塚家の呪いですか?」
「うん。言うならば塵塚家縁起といったところか……」
じっと宗十郎は文乃の手元の紙を見つめている。
「……文乃さん、二枚目は?」
「あ、はい……」
一枚目をめくり、二枚目を表に出す。
長く紙にぎっしりと文字が詰め込まれた一枚目と違い、二枚目はとても簡素なものだった。
年月日だけが紙の真ん中に書かれている。その年は、一枚目に書かれているより数年後。今から十七年前の日付。
「……これ、私の誕生日です」
二枚目の紙を見つめたまま、文乃はそう言った。
「……お守り、か」
宗十郎がどこか腑に落ちたように言う。
「俺には二枚の年月日の文字を書いた人間が同じに見える」
「はい。母だと思います。これは、なんなのでしょう……」
文乃は戸惑う。
一枚目には知らなかった塵塚家の話が書かれている。しかしそれを宗十郎は知っていたという。つまるところ周知の事実というやつだ。文乃が世間知らずだっただけ。
二枚目に至っては自分の誕生日が書かれているだけだ。名前すら書かれていない。ただの覚え書きだといわれたら納得がいくくらいだ。
「名前が変わってもいいように、じゃないか」
「え……」
文乃は宗十郎の方を見た。宗十郎は部屋に置かれている衣桁と裲襠を見ていた。
「これは裲襠といっしょにとっておかれたものだ。つまり、君がいつか嫁ぐことを母君は想定していたのではないだろうか」
「あ……」
実際、現在、塵塚文乃はそのうち神倉文乃になる予定なのだ。
「でも、下の名前すら……」
「ならば、生まれてすぐ、名前がつく前に書かれたのかもしれない」
「え……」
「一枚目の日付はそうだろう。おそらくこの話を聞いた日付だ。ならば、二枚目は君が生まれた日に母君が記したものではないか」
「……日付だけ」
そう、なのだろうか。どこか前向きすぎて、ぴんとこない。
「……祓井さんはこれは護符だと言っていたのですが、どちらが護符なのでしょう……?」
二枚紙が入っていて、二枚に書かれていることは随分と毛色が違う。
どちらかが護符でどちらかに意味はないのだろうか。
「すまない、俺にはそれはわからない」
祓井も宗十郎は感知が得手ではないと言っていた。
「……塵塚の物の怪って、今もいるんでしょうか……?」
「少なくとも君の家に行ったときにそれらしきものはいなかった。俺が気付かなくとも、部下の誰かは気付くはずだ」
「そう、なんですか」
少し安心する。
母との思い出以外、温かい思い出などまるでない家でも、一応は生家である。もう物の怪がいないのなら、安心できる。この手紙と裲襠を宗十郎に託してくれたという女性も、まだあの家に勤めているのだろうから。
「……文乃さん、これらを、どうしたい?」
「…………」
もう一度、紙を見る。母の文字だ。それは間違いない。
けれども、文乃は、どうしても。
「……ちょっと、一枚目は気味が悪いです」
「うん、顔色が悪い」
宗十郎の声に顔を上げると、気付けば彼は文乃をじっと見ていた。
宗十郎の顔は、もう淡々としていない。心配が混じっている。
顔色が悪いのか、自分は。気付かなかった。
「……文乃さんさえよければ、一枚目は俺が預かろう。もちろん二枚ともと言うのならそうするし。そうしたくないというのなら、しない」
「…………」
考えこむ。
どうしたい。自分は何を望んでいる。
気味が悪い。そうだ。怖い。自分は、一枚目がどうしても怖い。
「預けても、よいですか」
「うん。明日、祓井が来たら改めてみてもらう」
文乃は一枚目を宗十郎に差し出した。
宗十郎は一切の迷いなく、それを受け取った。
「…………」
文乃は手元に残した二枚目の紙に目を落とす。ただの日付。本当にこれは自分の誕生日なのだろうか。いや、誕生日であることは事実だが、そういう意味で書いたのではない、ということもありうるのではないか。
考えたところで、答えはなかった。
手紙はなんとも言えない結果になった。
そもそも手紙のように包まれていただけで、手紙とも言えないものだった。
結局、文乃はもう寝てしまうことにした。考えても答えは出ない。
夢を見た。
あの座敷の夢を見た。
あの座敷に、物の怪がいた。
無数の芥の中にうずくまっていた。
じっとこちらを黒い目が見ている。
墨のように、闇のように、真っ黒な目。
物の怪の姿は、その目以外判然としなかった。
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