第3話 悪いもの

 神倉が呼んだのはふたりの男女だった。

 どうにも風変わりなふたりだった。

 ひとりは若い男。着ているのは白の狩衣だった。平安時代でもあるまいし、神社からやってきたのだろうか。

 もうひとりは若い女。こちらがまた複雑なかっこうをしていた。

 まず着物。松があしらわれた黒に近い灰色の着物に、それに近い色の前帯。結び目を前にしたその帯からは、緋色の志古貴しごき帯が下に垂れていて、そこだけが色鮮やかで目が引かれる。それだけなら地味にしたいのか、派手にしたいのか、わからぬだけの着物の女だ。

 しかし彼女はさらにその上に白衣を羽織っていた。白衣。文乃あやのは十年以上も昔に、医者が着ているのを見たことがあった。

「…………」

 珍妙なふたりに文乃はどう反応していいかわからず沈黙を続けた。

典堂てんどう

「はーい」

 神倉が声を掛けると、女の方が片手を上げて、コツコツと下駄を響かせながら、こちらへ近づいてきた。それで気付いたが、ここにいる人たちは文乃以外、みな土足である。もしやこの部屋一室だけが洋室なのではなく、神倉別邸全体が洋館なのだろうか。

「こんにちは、文乃ちゃん。典堂弥生やよいです。一応お医者さん」

 そう言って弥生はにっこりと笑った。ハナの明るい笑顔とは少し違う。あでやかさの混じる笑顔だった。

「お医者様……」

 母が死ぬ前のことを思い出す。まだ文乃の居場所が座敷ばかりではなかった頃。毎日のように母の元には医者が来ていた。しかしその中に着物を着た医者はいなかったと思う。

「じゃあまずゆっくり水飲んで」

 湯飲みが差し出される。水と典堂は言ったが、ほんのり温かかい白湯さゆだった。

 言われたとおり、ゆっくり、ちびちびと飲む。

「じゃ、脈、測るね」

 さっと典堂は文乃の首と手首に両手を当てた。

「ん、脈は大丈夫そう。痛むところは? 呼吸は正常? 苦しくない? いつもと違う感覚がするところは?」

「え、あ、大丈夫、です」

「本当に?」

 中山にしたのと同じようにとっさに大丈夫と言った文乃だったが、典堂はそれでは済まさなかった。

 切れ長の目が、じっとこちらの目を覗き込んでくる。ちょっと居心地が悪いくらいに、まっすぐに。

「う、た、たぶん……」

 念を押されると、自信がなくなる。文乃は困ってうなずき、目をそらす。

「あはは、こりゃ重症だ。痛くても、苦しくても、わかんないやつだね」

 なんだか怖いことを言うと、典堂はけらけらと笑った。こういう風に豪快に笑う女性とは初めて出会った。

 いや、そもそも文乃はそこまで知り合いがいない。面識のある女性など、今日増えた分を含めても両手で足りるくらいだ。

 それでも書物では女性が声を立てて笑うのは、はしたないとよく書かれている。

 それとも、それは古い書物に書かれていることで、もう古い考えなのだろうか。

 着物の上に白衣を着ている人間だって、書物には出てこないのに、目の前にいるのだし。

「まー、寝ている間にひととおり診たから、今はいいや。私はひとまずこれでいいよ、神倉」

「わかった。助かった」

 典堂はうなずくと、文乃から離れ、部屋の壁に背を預けた。

祓井はらい

 神倉はすぐに次の指示を出す。

「はい」

 祓井と呼ばれた狩衣の男が前に出た。彼は典堂と違って、文乃の方ではなく、その手前に目を向けた。

 手前、寝台の横に置かれているもの。

「あ……」

 そこには長持が置いてあった。文乃の座敷にあったあの長持。神倉は約束通り、ここに持ち出してくれたらしい。

 なら筆の方はどこなのだろう。そう思ったけれど、ここでその話題を割り込ませるほどの度胸は文乃にはなかった。

 祓井が長持の前に座り込んだ。

「んー、塵塚さん、こちら、鍵は?」

「あ、えっと、それ、形だけなので……」

「なるほど」

 祓井はうなずくと長持の錠前に手を掛けた。

「失礼します」

「あ、待っ……」

 止めなきゃ、と手を伸ばすより先に、祓井があっさり錠前を外し、長持の蓋を開けてしまった。

「うわっ」

 開けるやいなや、少し中身が見えたかどうかというくらいで祓井は小さく叫んで蓋を閉めた。上体がのけぞったが、倒れはしなかった。意外に体幹がいい。

「これ無理です!」

 祓井は快活に叫んだ。しかし声の元気さとは裏腹に、その顔には汗がにじんでいた。

「そうか、無理か」

 淡々と神倉がうなずく。どうやら想定の範囲内だったらしい。

「よくある門外漢には無理なやつです。おとなしく文車ふぐるま家の人呼んでください。神倉さん、せっかく伝手つてはあるんですから。まあ長持の方はまだ自分でもどうにかできそうなんで、一応お清めしときます?」

「頼む」

「はーい」

 返事をすると、祓井は長持の蓋を撫でながら、ブツブツと何かを唱え始めた。

「あの……」

「祓井は代々、霊障などの浄化を生業なりわいにしている家だ。こいつは次代当主」

 次代当主。神倉と同じ。

「そっちの典堂も医者は医者でも怪異専門医だ。そして神倉家も、そちら側で名を上げた霊鬼神魔れいきしんまにまつわる家だ」

 そう言うと神倉は腰の刀を撫でた。サーベル拵えの刀、と言っていたか。

「神倉家は代々魔を斬ってきた。だからこの刀はあの糸を斬れた」

 糸。座敷に張り巡らされていた不可触の糸。結界の糸。

「はあ……でも、あれは魔によるものではなく、人が仕掛けたものだったはずですが……」

 あの糸は人の手による結界だ。母の死後、父が人を呼び、作らせた。そして文乃と文乃が作り出すものをあの座敷に封じ込めた。

 神倉がずかずかと入り込んできたように、人の出入りはさほど難しくはないが、魔の類は通さない結界。文乃の文字も、あれがある限りは暴れださないはずだった。

 神倉に断ち切られたので、ああなってしまったが。

「人の技術も転じれば魔となる。まあ、魔でなくとも理外のものならたいがい斬れる」

 そう言い切った神倉の顔を祓井が座ったまま覗き込んだ。

「あー、やっぱ、斬っちゃってたんですか、あれ」

「斬った」

「もったいないなあ。大枚はたいて作らせただろうに」

 祓井が口を尖らせた。どうやら長持のお清めは終わったらしく、立ち上がる。

「というか、そんな無理に壊したら、塵塚さんへの反動もひどかったんじゃないですか、典堂さん」

「どっちみちって感じね」

 話を振られた典堂は肩をすくめた。

「どうせ、その長持に入ってるもんに囲まれて生きてりゃ、負荷は出るわ。何したって、しなくたって、いっしょよ、いっしょ」

「まあ、そっか」

 祓井は顔をしかめて長持を見下ろした。

「…………」

 文乃は黙る。

 外に出ても、塵塚家以外の人からしても、やっぱり、そうなのか。

 文乃と文乃の書くものは、ずっと悪いものだと言われて育った。遠ざけられ、屋敷の奥に隠された。

 文乃はそういうものだと思って生きてきた。

 けれども神倉が自分を望み、連れ出してくれたから、もしかしてと少しだけ期待してしまった。

 残念ながら、そうではないらしい。

 悪いものは、悪いままだ。

「ちょっと若旦那、あんたがちんたら長々説明してるから、文乃ちゃんが落ち込んでるわよ」

 めざとく典堂が声を上げた。

 神倉が文乃の方を向く。じっと見下ろされる。やっぱり目を合わせていられなくて、文乃はうつむく。

「何故、落ち込む」

 神倉の問いはやはり淡々としていた。詰問ではないのはわかるが、その中に込められている意図はいまいちわからない。

「いえ、落ち込むのは分不相応でした。当たり前のことでしたから」

「何故だ」

 今度の何故は、どこにかかっているかわからない。

 わからないと困ってしまう。

「……君はそもそも自分の力をどこまで把握している?」

 答えあぐねている文乃を見て、神倉が問いを変えた。

「えっと……」

 手を見る。筆がないのが頼りなかった。毎日握っている筆。

「私が書くものは、悪いもので、人に害をなします。ああやって、暴れ出します。筆を握れば、墨がなくとも、文字が書けます。文字以外も書けますが、力を出し切るには文字が一番効率が良いです。一日に一定の文字を書かないと、悪いものは私の中に溜まって、体が動かなくなります。書き上げたものにも悪いものは残るので、長持に入れています」

「悪いもの」

 神倉は感情の読めない声で繰り返した。

「悪いことは、起こったのか」

「えっと……母が生きている内は問題はありませんでした。でも母が血を吐いて亡くなってから、私は……」

 思い出す。母が死んだ。寂しかった。母とは毎日のように文字を書いていた。文乃に文字の読み書きを教えてくれたのは母だ。そのあとは書物から独りで学んだ。

 だから母の葬儀が終わった後、文乃は寂しくて、母が恋しくて、母と書きかけの帳面に、独りで続きを書いた。

「私ひとりで書いた文字は、帳面から飛び上がって、部屋が真っ黒になりました。……今日、あなたが糸を斬った時のように」

 あのときの耳をつんざく悲鳴。誰か使用人のものだったと思う。悲鳴を聞きつけ、部屋に駆け込んできた父。文乃も驚いたけれど、驚きすぎて声は出なかった。

 父は呆然と真っ黒になった部屋を見、文乃からいったんは筆を取り上げた。

 でも駄目だった。筆がないならないで、やっぱり文乃の手からは墨のようなものがこぼれ落ちていった。

 筆を取り上げられて、体が徐々に重くなっていった。そして数日後の朝、起きると布団が真っ黒に染まっていた。

 結局、父はあの座敷を作り、文乃はそこでずっと文字を書いた。

 あの結界の中でなら、文乃の文字が勝手に暴れ出すことはなかった。

 その時に与えられた長持は母の形見だ。嫁入り道具だったと聞いている。

 座敷にこもりきりになったあとも寝て起きると手から墨がこぼれ落ちていることがたまにあった。文乃は書く文字を増やした。そうすると、手から勝手に墨がこぼれてくることはなくなった。

「それは悪いことなのか」

「えっ」

 神倉の言葉に文乃は思わず顔を上げてしまった。

「えっ……でも、えっと……布団が汚れました」

「粗相をしても布団は汚れる」

「まあ、はい……」

 そう言われてしまうと反論はできないが、それはそれでなんだか自分が粗相をしたような感じで複雑だった。

「こら、若旦那。うら若い乙女相手に粗相はないでしょ、粗相は」

 典堂が軽い調子で茶々を入れた。

「……そうだな」

 神倉は少し考えてうなずいた。

「失礼」

「い、いえ……」

 素直に頭を下げた神倉に文乃は首を横に振った。

「あの、でも、今日だって、糸の結界を切ったら、暴れ出しました。それに書き物を入れておいた長持だって、祓井さんが顔をしかめるくらい、その、駄目……なんですよね?」

「駄目です」

 祓井が断言した。

「でも、これは閉じ込めてたせいもありますから」

 続く言葉に、え、と文乃はそちらを見た。

「えーっと、定期的に適切に処理しておけばよかったんですよ。十年くらい? 溜まりに溜まったせいで手がつけられないだけです」

「適切……?」

「ただその適切を知る人間が限られているので、塵塚家の人じゃ知るよしもなかったという話ですね。そうですよね、神倉さん」

 祓井がさらりと言った。

「……そうだな」

 神倉は何かにためらいながらも、うなずいた。

「塵塚家の人じゃ、とは……?」

 おろおろとどこに目線をやるべきか、誰に答えを求めるか迷う文乃を、神倉がまっすぐ見つめて、口を開いた。

「君のその力は半分は母君、文車家由来の力だ。塵塚家はおとなしく文車家に助けを乞うべきだったが、ふたつの不幸が重なった」

「はあ……?」

「まず一つ目、これは聞いた話だが、あの頃の文車家ではバタバタと人が死んだ。君の母君も例外ではない。だから混乱の中で外との連絡を取る余裕がなかった。そして……もうひとつの不幸、塵塚家は勘違いをした」

「勘違い……?」

「塵塚家は君の力を、塵塚家に伝わる呪いだと勘違いした。だから君を家の恥として封じ込めた。塵塚家もかつては霊鬼神魔にまつわる家だったが、具体的な伝承が途絶えた家だ。この大正の御代では珍しくもないがな」

「……つまり?」

「彼らはやり方を間違えていた。君の十年間は、間違いだった」

 神倉がまっすぐ文乃を見てそう言った。

 その目には深い悲しみが混じっている。

 文乃にも、それだけはわかった。

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