0歳から気管支喘息さん

0歳から何度も入退院を繰り返し、3歳からは神奈川県にある国立の分院に長期入院することになった。なぜ3歳からなのかは定かではないが、長期入院が可能な年齢だったからと聞かされた。


一番古い記憶は、おそらく3歳の時。大きい絨毯が敷かれた24畳程のプレイルームと呼ばれる場所で、小さな椅子に座りながら大型テレビでジブリ映画を観ていたことだ。記憶はあまりないが、イギリスのダイアナ妃がこの分院を訪問されたことがある。おそらく私もお会いしたのかもしれない。


幼稚園も保育園も知らず、病院の「保母さん」と呼ばれる「保育士」に面倒を見てもらっていた。ピアノに合わせて歌を唄ったり、病院の庭にある大きな遊具で遊んだりと、きっと外の世界と同じことをしていたのだろう。


6歳の入学式に合わせて退院が決まった時、保母さんに「小学生になったら自転車くらい乗れないと駄目だよ」と言われた。

病院の入口にあるロータリーで、一生懸命自転車の練習を始めた。外に出られる時間は限られていて、転んでは立ち上がり、転んではまた立ち上がる日々。何度も何度も、時間いっぱいに練習を繰り返した。

転んでも血を流しても、誰も心配することはなく助けにも来ない。そのことに5歳の私は「泣いた所で状況は変わらない」と学んだ。それからというもの、負けず嫌いになり、点滴の針を刺されても全く動じず、何事にも泣かない強さを身につけた。その強さは、この世界に適応するためだったのかもしれない。

日々の成果が実り、自転車に乗れるようになった時は本当に嬉しかった。看護師や保母さん全員に自慢したと思う。これで小学生になれるんだとウキウキしていた。


そして遂に、退院の日がやってきた。物心ついた時から入院していた私は、病院が自宅だと思っていた。親や姉妹の存在は知っていたが、一緒に暮らすことが普通だとは見当もつかなかった。親が月に一度面会に来るのが当たり前で、ホームシックになったことは一度もなかった。

母親が迎えに来て「家に帰るよ」と言った。私は何を言っているのか理解できず「え?ここが家だよ?」と答えた。母親はイラっとした顔をして、「じゃあ、ずっとここに居なさい」と言い放った。母親の怒りの言葉に反して、私は笑顔で「うん!」と応えた。

それに対して母親は、更に怒りを露わにして「何言ってるの!みんながいる家に帰るんでしょ!」と怒鳴った。私はその言葉の意味がわからず、ただただ困惑した。しかし、母親の怒りに対抗することもできず、仕方なく「家」と言われる場所へと向かうことになった。

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