第六話 水溜まりの秘密

 美術準備室前の廊下に虹がかかる。手洗い場の蛇口さえ壊れていなければ、とても綺麗な光景だった。

「普通に使ってたら、急にホースから水が噴き出して、私たちも何が何だか……」

 水野が見つめる先には、応急処置でハンカチとネクタイをぐるぐる巻きにされたホースがあった。水分を含んだ布から、水がポタポタと垂れている。またいつ水が飛び散ってもおかしくはない状況だ。

「急にだって? そりゃ変な話だ。この前の休みに点検をしたばっかりだぞ。何でこうなったか、お前たちは本当に知らないんだな?」

 水野たちは水浸しになって重くなった制服のまま、騒ぎを聞いて駆けつけた担任の教師に尋問される。いくら悪戯好きな生徒が多いとはいえ、そんなに自分が受け持つクラスから新たな問題児を誕生させたくないのか。小心者のくせに疑り深い川口に、水野は物怖じせず堂々と言い放った。

「はい。私たちは美術室が騒がしかったんで、廊下でバケツと筆を洗ってたんです。この現場には、たまたま居合わせただけですよ」

「蛇口が壊れたことについて、心当たりは?」

「さあ……? 水道管の老朽化じゃないですか?」

 いや、自分で破壊しておいて、どの口が言う。海野は口から出かけた言葉を無理やり飲み込んだ。自分に容疑の矛先が向いて、異能のことをうっかり漏らさないよう、この場は丸く収めたい。同じ異能の持ち主である彼女になら責任を追及されてもいいが、まずは着替えたいのが正直なところだ。なにより、命に別状はないと分かっていても、片山の身体の状態が気になる。念の為に、のだ。それには、人目を忍んで能力を使う必要がある。もちろん、水野にも勘付かれてはいけない。

「それと、片山が美術準備室でぐったりしていたのはなぜだ?」

 川口が怪訝そうな顔つきでふたりに尋ねた。

 意識を失った片山は、先に別の教師によって保健室に運ばれている。抱きかかえられた片山を見て、彼女の金井がショックのあまり悲鳴を上げていたが、他のクラスメイトはなぜか倒れた片山を英雄扱いしていた。やはり、二年四組の生徒たちはどこかズレている。いや、人間性が常人とかなり乖離している。

「多分、片山さんは廊下での騒ぎを聞いて、美術準備室のドアを開けたんですよ。そしたら、噴き出た水が彼の顔面に直撃したんです。あまりの水圧で、片山さんはバランスを崩して、そこの乾燥棚の門に頭をぶつけて……」

 なおもしらばっくれる水野は、わざとらしく悲しそうな表情で乾燥棚を指さした。

 彼女は演技の才能まであったのか。女優に向いていそうだ。そんなことを気にする海野も呑気なものである。

「本当か、海野」

「はい。間違いありません。先生、僕らは悪ふざけなんかするタイプじゃないですよ」

 なにも優等生に擬態できるのは、水野だけではない。海野も演技は苦手ではないのだ。

 川口は真面目な海野が言うならばと、とうとう自力で真相を究明することを諦めた。

「分かった。お前たちを信じよう。俺は応急処置した箇所を補強しておく。ここの掃除もしないとな……。根津!」

 近くで友人とお喋りをしていた見物人の根津は、快活に笑ったまま川口に顔を向けた。

「うん? 川口、呼んだ?」

「すまんが、用務員の高野さんをここに連れてきてくれ」

「えー!? 何で俺が!?」

「昨日の数学の時間、お前また加藤先生を怒らせたんだってな?」

「いいよ! 高野さんを呼んでくるわ!」

 根津は自分に都合の悪い話を振られると、清々しいくらいに話題を逸らす。これも二年四組のお約束だ。

 川口は「根津は何で俺にだけタメ口なんだ……」と少し落ち込んでいるが、彼は美術室での教師と生徒の罵り合いを知らないらしい。むしろ知らない方が幸せだろう。これ以上、川口の胃に負担をかけるのははばかられる。会話やアイコンタクトなど何もなくとも、水野と海野の考えは一致した。

「それじゃあ、水野たちは一旦保健室に行きなさい。渡嶋先生がタオルと替えの下着をくれるだろう。あっ、着替えが必要だから体操服を持っていけよ」

「はーい」

「分かりました」

 水野まで担任の前で「良い子」でいることに飽きたのか、彼女は間延びした返事をする。悲しいことに、川口がそれを気にする様子は全くない。彼は水溜まりができた廊下を掃除すべく、ひとり近くの掃除用具入れへ雑巾を取りに向かった。野次馬の生徒たちは誰も動かない。珍しいトラブルの原因は何だと、あーだこーだと憶測で議論を交わすだけだった。

「どう? さすがにもう頭が冷えたでしょう?」

 ひときわ騒がしい廊下にて、水野は小声で海野に話しかけた。

 海野は首を少し動かして、隣を歩く水野を見つめた。水野は軽い微笑を左の頬だけに浮かべている。彼女はリーダー気質の人間ではないはずだ。それなのに、今はこんなにも頼もしい。それは、他人が仕出かした過ちを機転を利かせて誤魔化してくれたからだろう。異能持ち同士とはいえ、水野はを目撃したのに、自分が怖くないのだろうか。それに、恐らくは想い人相手に恨まれても仕方ないことをしたのだが、彼女はとんでもない大きさの器の持ち主だ。

 海野の羨望の眼差しの先には、いつもと違って飾らない素の水野がいた。

「水野さん……」

 海野は頭で考えるよりも先に、彼女の名前を呼んでいた。先走った感情が何を伝えたかったのか、本人も分かっていなかった。そんな状況に海野自身も薄っすらと戸惑いを覚えたが、心は真っ直ぐに水野へと向かう。ところが、彼はすぐに冷静になった。

「は、早く保健室に行こう!」

「えっ? 何よ、急に早歩きなんかして。ちょっと待ってよ!」

 理由なんか言えるはずがない。ついつい肌に貼り付いたワイシャツに視線が移りそうになったなんて。先ほど片山との濃厚なキス現場を見たせいか、彼女に妙な色気を感じてしまう。

 海野は邪念を振り払うべく、小走りで先頭に躍り出た。そんな海野に対して、水野は小首を傾げながらも、その細い背中を追いかけるのだった。



 何でこうなるんだ……。気まずいままじゃないか。

 海野は保健室のカーテンで区切られたスペースで、ひとり悶々としながら着替えていた。隣から聞こえる水を含んだ衣擦れの音が、彼の心拍数を嫌でも上げる。一度意識してしまうと、際どい想像しかできなくなるのが困りものだ。きっと、彼女も今頃はワイシャツを脱いで、水を弾くきめ細かい肌をタオルで拭いている……。と、いつの間にか彼女にかかった微量の海水を通じて、水野の呼吸を感じ、彼女と同調しそうになるのだ。これは自分の体質のせいなのだが、海水に触れるだけで五感が研ぎ澄まされてしまう。

 海野は異能力の源となる海水をコントロールすることができても、海水に触れている間だけ感覚に敏感になるのは非常に困っていた。特に今は何としてでも感覚を遮断したいのだが、水野との間にあるのはペラペラの布切れ一枚だけだ。

 海野は横のベッドで眠っている片山に気を遣うことを忘れ、無心になるべく急いで着替えを済ませた。

「あら、随分早い着替えだったのね。髪がまだ濡れてるわよ」

 海野が勢いよく開けたカーテンの先には、養護教諭の若い女性がいた。三十代前半の渡嶋は、左手で暗い茶色の横髪を耳にかける。その際、薬指に嵌めたシルバーの指輪がちらりと見えた。たしか、根津がこの養護教諭に熱を上げていたはずだ。彼女が人妻だと知った根津が、年齢の差を嘆いて膝を突いていたのを思い出す。

「夏でも濡れっぱなしは風邪を引くんだから。ほら、ちゃんと拭いて。拭かないと、給食の時間に間に合わないよ。私としては、びしょ濡れのままご飯は衛生面が心配だなあ」

 渡嶋は海野が両肩にかけていたタオルを指差し、食欲旺盛な年頃の男子生徒をからかう。

「分かりましたよ」

 子ども扱いされたことが腑に落ちない海野は、少し生意気な態度で指導に従う。濡れた髪をわしゃわしゃと拭く海野は見た目を気にしないのか、男らしく大胆な動作だ。渡嶋は自分の特徴である、ぽてっとした厚い唇の右端にあるほくろを覆うように、左手で笑みを隠す。

「蛇口が急に壊れるなんて、災難だったね。でもついこの間、点検して異常がなかったはずなんだけど……。どうしたんだろうね?」

 問われた海野はタオルの隙間から渡嶋を観察していた。そして、渡嶋がやんちゃ坊主を微笑ましく見守るような目で、自分を見つめていることに気が付く。どうやら彼女もまた、その青味のある黒色が印象的な瞳で、海野の心の深淵しんえんを覗いているのだ。ここに来てから、なんだか身体の隅々まで覗かれているような気がする。それが不思議と不快ではないのだが、少なからず警戒はしてしまう。

 妖艶さと無邪気さ。この相容れない雰囲気と、計算高さを兼ね備えていそうな、鳥羽色の瞳を持つ渡嶋は、誰かに似ているような気がした。

凪美なみちゃん、着替えとタオルありがとう」

茉尋まひろ、学校では先生って呼んでってば」

「ごめん、ごめん」

 ここでようやく着替えを終えた水野がふたりの前に姿を現す。服装は海野と同じ、半袖半ズボンで学年カラーの紺色の体操服だ。

「えっと……? ふたりはどういったご関係で?」

 水野まで学校にいる大人にタメ口とは、一体どうしたというのか。ふたりを交互に見た海野は我慢できず、浮かんだ疑問をそのまま口にした。

 彼の疑問に答えたのは渡嶋だった。

「ああ、驚かせちゃったね。私たち、従姉妹なの」

「えっ? そうなんですか」

「うん。苗字が違うし、養護教諭だと生徒とそんなに接点がないから、誰も気付かないよね。まあ、ふたりきりで会えば私も癖が出ちゃうけど」

「だからつい名前で凪美ちゃんを呼んじゃった。そもそもこの関係は誰にも教えてないし、今後も教える必要はないよ。凪美ちゃんは私に依怙贔屓するタイプじゃないし」

「さすが茉尋! 分かってるね!」

 指を鳴らしてウインクまで飛ばす渡嶋に、先ほどまでの大人の女性特有の妖艶さは皆無だ。はっきり言えば、悪ふざけが過ぎる。

「いや、そうかもしれないけど……。というか、今はふたりきりではないですよ。僕と片山くんがいるし。もうちょっとこう……僕らにも気を遣って……。もういいや」

 身内のノリなのか、ハイタッチまでして楽しそうで何よりだ。

 そういえば、片山は濡れたままベッドに寝かされているのだろうか。違うとしたら、片山の着替えは誰が行ったのか。……考えない方が良さそうだ。

「僕、片山くんの様子を見てきますね」

 寝ている生徒そっちのけで従姉妹と女子会のトークを続ける渡嶋は、久しぶりに水野と会って嬉しいのか、「よろしくー!」と職務放棄とも取れる返事をする。

 海野はそんないい加減な大人に呆れて大きな溜め息をつくと、騒がしくなった保健室でも遠慮がちに声をかけてから、片山が眠るカーテンを引いた。ベッドシーツの上にタオルが敷かれ、その上に片山が横になっている。どうやらびしょ濡れのワイシャツだけ脱がされたようで、片山はタンクトップ一枚の姿で上からタオルケットがかけられていた。学生服の黒いスボンはそのままだ。

「……ごめんね、片山くん」

 海野は眠る片山の額に手をかざす。片山からの返事は何もない。

「君の記憶を消させてもらうよ」

 海野はかざした右手の上に、右肩にかけたタオルを左手で引っ張り出してタオルを強く握った。タオルに含ませた海水が絞って出てくる。海野はぼたぼたと落ちる海水の力が右手に集まるのを感じた。

「美術準備室でのことは忘れてほしい。ついでに、金井さんを好きだった記憶も」

 海野の右手から短くて細い海水の足が何本も出てくる。それはまるで神経のようだった。

 海から神秘の力を授かった海野は、片山の記憶の深潭しんたん躊躇ためらわず飛び込んだ。

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