第三話 墨色に染まる恋模様

 水野は同じ一階にある、美術準備室に入って早々に深呼吸をした。この部屋も美術室と同じで、潮の香りよりも墨の香りの方が濃いが、騒音の大きさを比べると幾分かましだ。床を見ると、絵画作品乾燥棚から溢れてしまった分の作品が、新聞紙の上に乱雑に並べられている。この部屋にも海が見える窓があるが、日焼け防止のため、大人の頭の位置くらいまである大きさの窓は全てカーテンが閉められていた。ここは薄暗くて、熱が多少籠もっている。窓は引き戸より上の位置にあるものしか開けられていなかった。この部屋には美術室との境目のすぐそば、廊下側に磨り硝子付きの引き戸があるが、そちらも迂闊には開けられない。床にある作品が海風で飛ばされるからだ。

「だいぶ静かになった……」

 水野は騒ぎ声が聞こえる場所から、やっと避難できたのだ。その安心感で、普段は彼らの迷惑行為に巻き込まれてなるものかと緊張していた身体が緩む。

 今の内にゆっくり過ごしたい。気分転換で、誰かのまともな作品でも鑑賞しよう。水野は念の為、木製の乾燥棚に空きがないかを探すついでに、他人の素晴らしい作品を見つけ出すことにした。水野は先ほど、海野の表彰ものの優れた作品を観たばかりだ。彼女は宝物を探す時のように期待に胸を膨らませていたが、とある作品を目にしてから、気分が急降下する。視線の先には、片山の恋人である金井のサインが印された作品があった。

 それは穏やかな水辺の風景だった。手前にあるのは、イネ科の植物だろう。そこが湖か、沼か、あるいは海かは判断しかねるが、広い水辺の奥には双子の山が見える。その真上では、透き通るような薄い雲の中を、鳥が絶妙なバランスで一列になっており、群れの後ろにはまばらに飛ぶ鳥たちがいた。この一枚だけでも、白鳥の集団移動が思い浮かぶ。なんて美しい、繊細な絵だろうか。

「……私には描けないな」

 水野は金井の作品がある棚よりずっと下に、自身が手掛けた作品を滑り込ませる。彼女は金井よりも明らかに稚拙な表現となってしまった力作を、人目から隠したかったのだ。

 完全な敗北を悟り、水野の薄い墨汁で滲んでいた心には、濃い黒色の染みが無遠慮に浸食していく。彼女が内に抱える薄雲は晴れない。塗り潰したかった劣等感は、まばゆい太陽のそばにいると悪目立ちしてしまうのだ。

 金井はパッチリ二重の容姿が可愛らしくて、愛想もいい。体型も同年齢の子よりもグラマラスで、毛先まで手入れが行き届いた、サラサラで丸みがあるナチュラルボブヘアーについ触れてみたくなるのは誰でも同じ。擽ったそうに口元に手をあてて上品に笑った時の顔と、楽しそうに大口を開けて軽快に笑う時の顔にギャップがあるが、不思議なことに、そのどちらも親しみが持てる。頭だって悪くない。明るくてギャルっぽいが、どこかお嬢様みたく気品がある。学年のマドンナは、まさに人気女優みたいに完璧だった。

「ずるいよ……」

 彼女はどうして、全て奪っていくのだろう。こんなの不公平だ。才能も、見た目の美しさも、好きな人も、全て金井のものだ。せめて金井が、傲慢な女王様のような性格だったら良かったのに。あいにく、金井の悪い話は聞いたことがない。あったとしても、それは信憑性のない噂であり、出どころは誰かのねたみに他ならない。一步間違えれば、自分だって嫌な奴になっていただろう。

 水野は益々、隣の美術室に帰りたくなくなった。誰が好き好んで、学年一のお似合いカップルが仲良くしているところに邪魔しに行くものか。しかも、片方は自分が報われない想いを寄せている人物だ。何の因果で、自分は金井と同じクラスになったのだろう。

 ため息がとてつもなく重い。この時、水野は周囲への警戒を怠っていた。

「あ、水野」

「わあっ! 片山くん……」

 いきなり美術準備室に入ってきたのは、水野の想い人である片山だった。片山は磨り硝子付きの引き戸を閉めると、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて、境界線の一歩手前に立っている。水野が片山の姿を確認した直後、彼女の破裂しかけた心臓がくしゃりと音を立てて握り潰された。今はこの空間で、彼に会いたくなかった。そんな思いは、片山との会話が始まればすぐに消え失せてしまう。乙女心とは複雑なもので、悲しみと共にあればあるほど、一瞬の輝きを大切にしたくなるものなのだ。

「驚かせちゃってごめん。水野も俺と同じタイミングできたんだな。邪魔するよ」

「い、いいよ。ゆっくりしていって」

「ハハッ! 自分の家かよ」

 大して面白いことを言ったつもりはないが、笑ってもらえたようだ。それが堪らなく嬉しい。水野は小さくガッツポーズをしたくなった代わりに、さり気なく伸ばしかけの髪の襟足を整えた。片山の前では、ちょっとでも綺麗な、可愛い自分でいたいのだ。

「そういや、水野ってさ……」

「えっ? 何?」

 片山の言葉は不自然に途切れた。水野は今まで恥ずかしがって少し下を向き、片山と目を合わせないようしていたが、つい顔を上げてしまった。キリッと上がった凛々しい目と眉、細く通った鼻筋。そのバランスの良さは男前と言わざるを得ない。全身に血が巡り、水野の想いが溢れ出す。自然に絡まる視線。心地よい沈黙に、水野は淡い期待を抱く。どうか、少しでも長く、片山くんが私のことだけを考えてくれますようにと──。

「水野って、可愛いな」

「えっ……?」

「本当だって。俺だけのものにしたいよ」

 信じられない。よく自分に清々しい笑顔を見せてくれる片山の瞳には、燃えたぎるようなギラついた炎が宿っていた。片山の表情は変わらず、瞳の奥にある感情とはちぐはぐだ。彼は水野を見ているようで、見ていない。その眼光には、捕食者としての使命感だけではなく、別の何かが取り憑いている。片山は炎の奥に映る水野を見て、恍惚とした色も滲ませていたのだ。この獣が鎖から解き放たれるまで、あとわずかな時間しか残されていないだろう。

 水野は嫌な予感がして、一步後退った。静寂に包まれる美術準備室でひとり、混乱する頭で考える。片山には可愛い恋人がいるのだ。水野は濡羽色ぬればいろの瞳で、仲睦まじいふたりの姿を何度も見たことがあった。ふたりが楽しそうにお喋りをしながら帰っていくところを、羨ましく思っていたのは記憶に新しい。間違いなく、あれは片山と金井だった。

「待って! 片山くん!」

 片山は何も言わず、水野に不意打ちの攻撃を仕掛けた。焦った水野が迫る片山の胸を手で押し返し、制止の声を上げる。しかし、片山はその声を無視して彼女の首裏に手を回すと、ぐいっと力を入れて、いとも簡単に柔らかくて小さな身体を掻き寄せた。普段の優しい片山の性格とは違って、とても自分勝手な行動だった。

「んむっ……!?」

 水野の思考がそこで中断した。水野は密着した身体から、互いを焼け焦がすような熱を感じながら、片山の強引な口付けを受け入れるしかなかったのだ。

 ぐっと押し付けられた唇の感触が、想像していたものよりずっと柔らかい。水野が嬉しいハプニングを冷静に分析できたのは、そこまでだった。

「待っ……! あっ……」

 うまく呼吸ができないため、角度を変える唇の動きに合わせて、酸素を取り込むしかない。だが、いかんせん水野には経験が圧倒的に足りなかった。水野は片山が本能のままに何度も自分の唇を喰らうせいで、次第に呼吸ができず苦しくなり、溺れているような感覚に陥っていた。荒々しいキスの波は、絶え間なく水野を襲う。水野が酸素を求めて口をはくはくと開閉する度に、口内に溢れる唾がちゃぷちゃぷと音を立て、飲み込めなかった分の唾液が彼女の顎を伝っていく。片山は一切、それを気にかけない。水野は彼に時折、唇をじゅっと、短く吸われると、意図せず甘い声を出しては背筋が震えてしまっていた。こんな脳まで痺れる感覚は全く知らなかった。

 時間にしてどれくらい経っただろうか。初めての快感が、水野を唇の感触と聴覚から支配する。それは彼女の身体の奥から、じわじわと焦れったい熱を放出させた。淡く爽やかで切ない恋をしていた乙女は、男の顔をした少年に本能のままに触れられ、底が見えない快楽の海に沈む。何が彼をそこまで追い立てたかは知らないが、水野にとって、それは未知の欲望であった。

 ここは学校で、しかも今は授業中。すぐ隣の教室には、教師と同級生が──その上、片山の恋人までいる。その背徳感も相まって、少女は自分を執拗に求めてくる異性を強烈に愛おしく想った。水野はたったの数分で、得体のしれない欲に駆られる想い人に応えようと決意する。真剣な恋愛において何も知らない少女は、背伸びをした健気で愚かな女の顔になっていたのだ。 

「はぁっ……! はぁ……」

 ふたりの息継ぎの音が重なる。彼女たちの唇には、てらてらと淫らな光が散らばっていた。片山はどこか焦点が合わない目で、もう一度水野の艷やかな黒色の瞳を見つめた。水野は片山の瞳の奥に、底知れない欲望が渦巻いているのをはっきりと認めた。

 今だけは、片山が自分だけを見つめてくれている。狂おしいほど自分を求めている。

 瞳に吸い寄せられたのは、どちらが先だったのか。水野は今度こそ抵抗を諦めて、そっと瞼を閉じた。享受した熱は潮の香りと共に押し寄せ、その唇はとろけるほど甘い味がする。

 今、この瞬間から、水野の頭の片隅では、片山の可愛い恋人の存在が綺麗さっぱり消えていた。

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