鬼の王は最愛の生贄妻だけを愛す

重田いの

第1話


――この世界の名は、【箱庭】。あるいは、【神々の玉手箱】と呼ばれる。


ひとつの大陸とそれを取り巻くひとつの海があり、ただそれだけの世界だ。大陸の中央にそびえ立つ巨大な崑崙山には神々が住む。そして人間たちは山裾から平野にかけて、崑崙山から流れるいくつかの河川に寄り添うように村を築き暮らしていた。


大陸には、妖魔が出る。どこか獣に似た姿をした化け物だ。牛の頭に人間の身体をした牛魔。人間の上半身に鳥の翼と下半身、それから鉤を持った鳥魔。犬の身体に人間の頭を持った犬魔……。数え上げればきりがない。そして妖魔どもは、人間を好んで食べた。


妖魔は到底人間に敵う相手ではなく、村が襲撃されると狼煙が上がり、崑崙山からそれを見た神が己の信奉者どもを助けてやるべく降りてくる。たまに、神の不興を買って見殺しにされる村もある。


か弱い人間が生きるのは常に、神々の機嫌次第だった。人々はただ神々に縋り、祈ることで生き延びようとする。


崑崙山の【神域】に娘を差し出すのもまた、人間たちがとった生きるための手段の一つだった……。


瑠璃子はほうっと息をついた。あまり垢ぬけた顔立ちではないが、抜けるように白い肌の娘である。ぬばたまの黒髪は腰まで伸ばされ、たっぷりとしたそれを侍女が梳いてくれているところだった。

「いかがなさいましたか、奥方様?」


侍女のコマはにっこり微笑んだ。優しい垂れ目の、ネズミの顔をした女性である。身長は人間の十歳くらいだろうか、立てば瑠璃子のみぞおちまで。ふさふさしたひげ、毛並み、しっぽは全部つやつやになるまで手入れされ、今みたいに近くにいるとふわんと花の香りがする。


瑠璃子は肩越しに侍女に笑い返す。

「夢みたいと思ったのよ、コマ。私は一年前まで【下界】でお義母様たちのお世話をしていたのに、今は【神域】であなたに髪を手入れしてもらってるなんてね」


コマは木櫛を片手にころころと笑い声をあげる。ネズミの顔できゅっと目を閉じた顔、しゅるんと振られるしっぽの全部が愛らしい。


「奥方様は朱天王様の正式なお妃様でいらっしゃいます。わたしどもがお世話させていただくのは当然ですわ。むしろもっとたくさん侍女をお召し抱えなさってもいいくらい。――さあ、おぐしが仕上がりましたよ」


「ありがとう」

「お茶とお菓子をご用意いたしましょう」

「うん。ありがとう」

コマは温かい目で瑠璃子を眺めると、裳裾の音をさらさら響かせて厨へ下がっていった。


静かだった。義母の金切り声も異母妹がガラスを割る音もしなかった。家じゅうの家事をやらされてささくれ立っていた手は、すっかりなめらかになった。瑠璃子の目はうっとりと庭を眺める。


こぢんまりとした、だがしっかりしたつくりの趣味の良い庭園だった。家屋敷もそう。そもそも敷地そのものが決して大きくはない。瑠璃子がそう望んだから。


周囲を高い塀が取り囲んでいる。それを隠すように竹林が庭を取り囲み、風の音に細長い葉が擦れてしゃららんと音がする。小さな池があり、苔むした石が点在し、白い砂利が波を表現して敷かれる。池に渡された小さな丸い石の橋も苔が生えて、その上に立って水面を覗き込むと鯉と目が合う。


瑠璃子の住む朱天の屋敷は白壁づくりで、重厚な黒の木造だった実家とは違って爽やかな印象だ。だから池の上から屋敷を見上げると、そこにはまるきりあの海辺の街から崑崙山を見たときのように思えた。


夫がそこまで計算してこの家を造ってくれたのか、瑠璃子にはわからない。わからないのだが、これ以上ないものを与えてもらえたのだということだけはわかる。決して忘れない、忘れられない、感謝だ。――生まれてはじめて、瑠璃子の心を考えて何かをしてくれた人がいるということに対する。


素晴らしい庭、美しい家、そして愛しい夫。自分にこれほどの幸運が舞い込んだなんて、思ってもみなかった。今でも瞬きをしたらはっと目が覚めて、そしてこれが夢だったことを知るのではないかと怖い。本当は瑠璃子は実家の物置小屋にいて、ムシロの上に寝ているのではないか。


瑠璃子はそっと胸に手を当てて、誓いを新たにする。

(もし――朱天様が私に飽きて、次の花嫁を選んでも、恨まないわ)


これほどの暮らしをさせてもらったのだ。感謝こそすれ、決して恨むまい。憎むまい。

(お母様みたいには、ならない……)


庭の竹林が、さあっと吹いた風に揺れた。崑崙山の中腹、鬼の王の隠れ家は常に春の気候、昼下がりの陽光、豊かな水の気配に満ちている。


瑠璃子の人生は、ここに来るまで何もなかった。命以外の何も。

母が父を恨んで恨んで死んでしまうと、長年彼の愛人だった人が後妻として家に入ってきて、そして瑠璃子を使用人扱いすることに決めた。継子いじめ。よくある話だ。


鬼の王が花嫁を欲しているという【神託】が崑崙山から発されて、瑠璃子を含め村人たちはそれが生贄の言いかえであることを知っていた。年頃の娘で、いなくなっても誰も悲しまないのは瑠璃子だけだった。父も義母も異母妹たちも、みんな彼女のことを惜しまなかった。幼い頃から瑠璃子が大きくなるのを見ていたはずの使用人たちも。笑顔で挨拶してくれた村人も。誰も。


崑崙山にやってきたとき瑠璃子は……悲しかったのだろうか? 村に帰りたかったのだろうか? 死ぬつもりだったのは確かだ。鬼の王に頭からばりばりと噛み砕かれて死ぬのだろうと、ぼんやり思っていた。何も感じていなかったのかもしれない。


だが現実は瑠璃子の想像と違っていた。

朱天は優しかった。


逞しい腕が後ろから伸びてきて、瑠璃子の身体を引き寄せる。彼女はなんとなく、彼が近づいてくる気配を感じていたし、その腕の熱さや筋肉のかたちをよく知っていたから驚かなかった。瑠璃子は朱天の胸板に頬を寄せ、彼の顔を振り仰いだ。


「驚かせたか?」

「いいえ。おかえりなさい」

「ただいま」


彼らはそっと口づけを交わした。ちょうど運悪く襖を開けて盆を運んできたコマは、ぴゃっと耳としっぽを立てて驚いた。素早く盆を置き、音を立てずに下がる仕草はあくまでたおやかだった。


唇が離れ、瑠璃子は息を乱しながらちらりと襖を見る。


「悪いことしちゃった」

「構わん。あれはネズミだ」


「まあ。コマは神様ですよ。私なんかよりずっと上等な存在です」

瑠璃子はくすくす笑う。すべてが満ち足りて、うっとりするほど完璧だった。


「俺の妻以上に上等なものはこの世に存在しないし、もしいるという奴がいるなら意見を変えさせてやる」

朱天はどこかむっとした表情で瑠璃子のつむじに口づける。彼女は柔らかい笑顔でそれを受け入れた。

「お前は神々のうち誰よりも美しい」


朱天はにやりと笑った。凄絶な美貌である。きりりとした鼻筋、顎と額の線。切れ長の目は古い神像のような金色で、太い眉は髪と同じ深紅の赤色。ざんばらに長い赤い髪をかきわけて額に生えた二本の角は鹿のように枝分かれして、すべての先端が尖っている。着物をちゃんと着ないからおへそまで開けて浅黒い肌が覗き、そのみごとな腹筋の凹凸が瑠璃子にぴったり寄り添うよう。唇の間からちらちら除く鋭い白い犬歯。おそらく今日も妖魔を村から退けるため戦ってきたのだろう、かすかに血のにおいがした。


瑠璃子は一瞬、彼の顔に見惚れた。底知れぬ視線が宵闇に輝く満月のように彼女を射貫き、鬼の王の王たるゆえんの一端に触れた気がした。何百年、ひょっとしたらこの世界ができたそのときからずっと続く戦いの日々で磨かれた彼の容貌……。


瑠璃子は小さな白い手を朱天のすっきりと整った輪郭に当て、にっこり微笑んだ。

「お怪我はないみたい。ようございました」

「ふん。あの程度の群れに後れを取るわけがないさ」


内心、彼女に褒められて嬉しくてたまらないらしい。朱天はつんと顔を仰向けたが、その指先がわずかに震えたのを瑠璃子は感じ取った。


彼は彼女の髪や首筋に顔を埋め、まるで犬のように香りを嗅いだ。妻が間違いなくここにいるのだということを実感したがっているようだった。動作のひとつひとつに、瑠璃子にはわからないなんらかの悲しみがあった。


庭から差し込む温かい光に照らされながら、瑠璃子は朱天の膝の上に座り、互いを撫で合ったり口づけし合ったりしてしばしの時間を過ごした。盆の上でお茶は冷めていき、練り切りはだんだん固くなっていった。


「お前の匂いは変わらないな」

口づけの合間に朱天は囁く。彼のと息は桃の味がする。

「あのとき、手を放してしまってすまなかった。今度こそ、ぜったいにあんな目には遭わせないから」

「いいえ。気にしないでください。私、覚えていないんですもの」

瑠璃子は首を横に振った。朱天は悲しそうな顔をして、瑠璃子を強く抱きしめた。


――瑠璃子は三百年前に死んだ朱天の恋人の生まれ変わり、なのだという。彼は彼女が生まれたことを知って、花嫁を求める【神託】を出したのだという。だがそれが間違って【下界】に伝わり、というよりこれまで他の神々に差し出された娘たちは皆、帰ってこなかったから、これは生贄なのだろうということになって、それで瑠璃子が選ばれたのだった。


朱天に出会ったとき、瑠璃子はこれから食われるのだと思っていた。崑崙山に昇り、たくさんの美しい女性たちに世話され身綺麗され、綺麗な着物を着せてもらい、本当にありがたかった。生贄扱いでも嬉しかったのだ。


だから閨ではじめて顔を合わせた朱天に向かって頭を下げ、

「どうか召し上がってくださいませ……」

とかろうじて震える声で言った。生まれ育った村のために死ぬのはいやだったが、それでもこんな美しい鬼に食べられるなら本望だと思った。せめて痛くないといい……と思って涙をこぼす瑠璃子の手首を朱天は掴み、


「待て待て待て。何か違うぞ。お前は勘違いしている――やっと会えたのに、どうしてそんなことを言うんだ!」

と叫んだ。瑠璃子はぽかんとした。


それから互いの認識を擦り合わせ、自分が生贄ではなく本当に花嫁として望まれていたのを知った。お前は俺のかつての恋人の生まれ変わりだ、神ならば魂の色がわかるのだと豪語され、彼に愛されて。瑠璃子は今やすっかり夫を愛している。


でも――ときどき、不安になることは、ある。だって瑠璃子は人間だ、神様の言う魂の色だの前世の契りだのといったことはとんとわからない。本当なのだろうか? 輪廻転生なんて、本当にあるのだろうか?


いつか朱天がぽんと頭でも打って、はっと正気に返ったらどうなるだろう。瑠璃子はお世辞にも美人ではない。これから老いて、どんどん小さく皺がれていく身だ。俺、なんでこんなのを大事にしていたんだろう? と夫が気づいてしまう日が。いつかくるのではないかと思うと、瑠璃子は怖い。怖くて怖くて、たまらない。


瑠璃子にできるのは、ただ夫を信じることだけだ。彼女はぎゅっと夫に縋りついた。広いがっしりした胸板、血管の浮き出る頑丈な手足。綺麗な袴に流麗な帯の模様は、全部瑠璃子が好きだと褒めたものばかり。瑠璃子の好きなもので彼女の周りを満たし、なんでも買い与えるのが目下のところ朱天の最大の喜びであるらしい。


だから、今、この状況に疑念を抱くだなんて、それこそ不敬なことだった。


「私は幸せ……」

ほうっとため息とともに言葉が転がり出、瑠璃子は朱天の首を抱く腕の力を強くする。


「生贄のつもりでお山に昇ったのに、こんな素敵な旦那様ができたのですもの。私は今、幸せです。ならそれでいいじゃありませんか。昔のことに引きずられないでください」


朱天の顔にはまだかすかに悲しみの気配が漂っていた。彼が瑠璃子に前世の記憶を思い出してほしがっているのだ。彼女が彼女であることの証をほしがっている。


だが瑠璃子には、どうにもできない。思い出そうとしても出てくる記憶は村の物置小屋で寝起きした頃のことばかり。もっと振り返ってみても、亡き母の膝の上でかな文字を教えてもらったことくらい。むしろそれが唯一の幸せな記憶だった。


「――これからもっと幸せにする。俺と生涯を共にしてほしい」


朱天の精悍な顔がとろんと笑み崩れ、瑠璃子は彼の目に見つめられてうっとりした。そこには金色の濃く深い闇が広がっている。満月が宵闇の中でいっそう輝くように、深い愛の向こうに悲しみの海がある。


「はい」

瑠璃子は頷いた。温かく、満ち足りて、もう十分だった、何もかもが。


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