『高慢と偏屈とゾンビ』
1
──青年が、必死に野山を駆けていた。
息を切らし、全身を汗だくにしながら、青年はなりふり構わず暗い夜道を走り続ける。
今、彼は必死だった。人生で一番速く走っていた。
そうしなければ追いつかれる。追いつかれてしまう。青年が目にしたモノに、青年が何もかも投げ出して逃げた元凶に。──見知った顔の、知らないモノに。
「チクショウ、チクショウ……ッ」
走る青年の唇からやるせない感情がこぼれ、その
何もない田舎だった。好きではなかった。だから、十五のときに飛び出した。
その後、色んな土地を転々として、苦労と経験を重ねながら自分も大人になった。それなりに落ち着く場所も得て、ふと思ったのが故郷のことだ。
──故郷を離れることを最後まで反対した両親、こっそりと家から抜け出すのを手伝ってくれた兄弟、告げた別れを惜しんでくれた
今さらどの面を下げてとも思ったが、仕事は順調だ。いっそ
──そして今、青年は暗闇の山中を、
ただ、あの場所を、土地を、故郷を、あのままにはしておけない。
家族を、兄弟を、幼馴染みを、あんな残酷な姿のままになど──。
「誰か、誰かが……っ!」
何とかしなくてはならない。──その一心で、青年は走り続けた。
山間から
太陽を求めるように、青年は走り続けた。
2
──バーリエル領の『太陽姫』。
プリシラ・バーリエルが領民にそう呼び慕われるのは、彼女自身の気質と能力、そして掛け値なしに輝かんばかりの美貌が原因である。
以前のバーリエル領の統治は、領民にとって非常に過酷なものだった。
プリシラの夫であり、王選が始まる直前に死没したライプ・バーリエルは無能ではなかったが、思いやりを欠落したような冷酷な老人だった。
故にその死後、バーリエル領の統治を引き継いだプリシラの手腕は、困窮していた領民たちにとってまさしく救世主、暗黒の世界を照らした太陽そのものだった。
そのため、彼らは敬愛の
「──オレ的には、思いやり不足って意味じゃ姫さんもライプ
渡り廊下の手すりに寄りかかり、屋敷の玄関ホールを見下ろす男がそう
色々と奇抜で、特徴的な外見をした人物だ。
それなりに鍛えた体に野卑な軽装を
奇抜な衣装に隻腕、そして顔を隠す鉄兜──プリシラ・バーリエルが
一見侮辱的だが、アル当人はその『道化』の肩書きを気に入っている。外で
プリシラが嫌なのではない。騎士の肩書きが嫌いだ。騎士など、
「むしろ、姫さんは大歓迎。胸の谷間眺めてても怒らねぇで許してくれるし」
「──またまたそんなこと言っちゃって。奥様に言いつけちゃいますよ~?」
「ととと」
「ヤエかよ。他人の独り言を盗み聞きするなんて趣味が悪ぃな」
「いっそ、聞いた私の方が後悔するような下品な独り言でしたけども」
「今話してんのは聞く側の品位の問題。話した側の品位はまた別の機会ってなもんだ」
「ええ~、アル様ってば理不尽~」
そう言って、嫌々と身をよじる少女はヤエ・テンゼン──このバーリエル邸でプリシラに仕えるメイドの一人であり、アルにとっても同僚に当たる相手だ。
色白の肌にすらりとした肢体、長い赤髪を一つにまとめた
変わり種が好きなプリシラが好んで侍従長に指名しただけあって、彼女もまたちょっとした変人の一人である。アルの異様な風体もすぐに受け入れ、こうしてフランクに接してくるあたりにその
ともあれ──、
「下にきてる連中、みんな姫さん目当てだろ? 懲りないね、マジで」
言いながら、アルが顎をしゃくって示すのは階下の玄関ホールだ。
そこには、先ほどからアルが見下ろしていた光景、屋敷へ詰めかけた領民たちと、その対応に追われる使用人たちの姿があった。
領主の屋敷へ大挙して押し寄せる領民、普通に考えれば武力蜂起の一幕だが、
「奥様への贈り物や、一目お会いしてご挨拶をと願い出る領民感情……それを無下にされる奥様ではありませんから、私もお慕い申し上げているわけでして」
隣に並んだヤエが、階下を眺めてそう
彼女の言葉通り、玄関ホールに集まる領民たちは、プリシラへの敵意ではなく、敬意から行動を起こしている。事実、屋敷の入口には領内の各地から届けられた贈り物が並べられ、プリシラへの拝謁を願う声が後を絶たない。
そうして下々に開かれた権力者の屋敷となれば、トラブルの種となるのも必然だ。そのため、屋敷へ上がる領民への対応は慎重を要するはずだが──、
「そのわりに、侍従長が対応してねぇってのはどういう了見なんだ? お慕いする姫さんの名前と安全のためにも、お前が
「だって、次から次へとキリがないんですもん。ヤエちゃん、お給金分しか働きたくありませんし。他のメイドの子たちにも成長してもらいたいですし?」
「どれが本音なんだか、食えねぇメイドだな……」
舌の根も乾かぬうちに、とはまさにこのことだ。悪びれず、「べ」と舌を出してみせるヤエの態度にアルは己の
考え事をする際の癖だが、最近はこんな調子で継ぎ目に触ることが多い。王選も本格的に始まり、ナーバスになっている自覚がアルにもあった。
「相手のペースを崩して遊ぶのはオレの専売特許だってのに、このところ調子が崩されっ放しでどうにもうまくねぇ」
「アル様、姿形以外は結構真人間ですもんね。私も、接しやすくて助かってますもん」
「からかいやすくて、の間違いじゃねぇのか?」
「──? その二つって、違いあります?」
「違いがねぇって思ってることが怖ぇよ」
不思議そうに首を
ただ、姿形以外は真人間と評されたことはそれなりに驚きだ。そしてプリシラに仕える上で、それを
アルを退屈とみなした瞬間、この首を
「それも、奥様を侮りすぎだと思いますけど」
「ビビりにビビっててちょうどいいぐれぇさ、姫さんのことは。──うん?」
と、表情の見えない内心を読み取り、そう言ってくるヤエにアルが応じた直後だ。にわかに階下が騒がしくなり、アルの注意が再び玄関ホールへ向く。
何事かと見れば、居並ぶ領民たちを
領主の屋敷とあって、他の領民たちはそれなりにまともな格好をしている。それが最低限の配慮であり、その青年にはそれがない。つまり──、
「よっぽどの間抜けか常識知らずじゃねぇ限り……」
「それだけ、大急ぎで伝える必要のある話ってことでしょうね~」
気安い調子で答えながら、赤髪を
そして、みすぼらしい姿の青年が侍女の下へ
「頼む、領主様に会わせてくれ……俺の、俺の故郷が、
青年の叫び声が響き渡り、玄関ホールの
その崩れ落ちた青年の姿と、
「──どうやら、奥様好みの陳情みたいですね~」
「……姫さん、呼んでくらぁ」
と、本心の見えない表情で
3
「俺……自分が故郷に戻ったのは、四日前のことです。最初はただ、数年ぶりの帰郷だったもので、家族が
ぽつぽつと、
場所は屋敷の玄関ホールから移って、最近は領民との謁見に使われることが多い大広間だ。床に紅の
「────」
そうした威圧的な赤が占有する広間の奥、
そのプリシラの
「妙だと思ったのは、所々で感じる受け答えの不自然さでした。記憶と違った話や、
「単なるど忘れじゃ説明がつかねぇと。けど、それで
と、青年の説明をつつくのは、屋敷の関係者で唯一、赤を
直立不動の『真紅戦線』や、プリシラの後ろに控える侍従長のヤエ、そしてプリシラの
そんな中、アルの存在はまさしく異質、異邦人の
「も、もちろんそれだけが原因じゃありません。決定的な場面を、目にして」
「決定的な場面、ね。何を見たんだ?」
「そ、れは……」
顔を
あるいはそのまま、言葉と共に故郷への思いも萎えてしまいかねない反応だった。
だが──、
「──そこで黙るでない、凡愚」
そう、押し黙りかけた青年へと
「
「ぁ……」
故に、アルはプリシラへと肩をすくめ、「姫さん」と呼びかけた。
「こんだけ弱ってる相手に追い打ちかけんなよ。何にでも言い方ってもんがあんだろ?」
「言い方なぞない。あるのは事実だけじゃ。──聞け、凡俗」
「今ここで貴様が口を
「────」
「なに、一度は捨てた故郷よ。
言葉の苛烈さはそのままに、プリシラは青年の心を
しかし、彼女の焼け付く言葉を受け、
「──さあ、貴様はどうする? 臆病者か?」
「……臆病者、です。賢くも、ない。でも、
問いかけに、青年は顔を上げて答えた。その答えを、プリシラはまるで最初からわかっていたかのように
結果、まんまとアルの言葉は踏み台とされ、何とも腹の中が
そんなアルの方へと、意地の悪い笑みを向けるヤエが憎たらしい。プリシラの手元でハラハラとした顔のシュルトは
「帰郷した日の夜、違和感がしこりのようになっていて、自分は寝付けずにいました。家族と食事もせず、部屋で横になっていて……ふと、誰かが家を出ていくのに気付いたんです。まるで人目を忍ぶようで、それが気になってあとを追いかけたら……」
覚悟を決めた表情で、青年が我が身に起きた出来事の説明を再開する。そして、青年は
「──自分たちの、崩れる手足を縫い合わせ、縫合する村人を見ました」
「────」
「最初は見間違いかと思いましたが、そうじゃない。あれは、腐りかけの手足をくっつけて、元通りにしようとしていたんだ。俺は、それを見てしまった」
見てはならないモノを目にした。物語において、そうした目撃者の末路は一つだ。しかし、青年は物語の法則に逆らい、その場から何とか逃げおおせた。
「枝を踏んで、
息も絶え絶えの状態で、領主であるプリシラの下へと助けを求めにきたのだと。
「その、
「……昔、故郷の辺りでは死体が動き回って人を襲ったなんて話がありました。それで親が子を叱るときに、
「──迷信と思っていた屍人が現れたと、そう考えたわけですね~」
段飛ばしの結論を、ヤエが冷静な指摘で補足する。それを経て、彼女はちらとプリシラの横顔を
青年の訴えへの結論はプリシラが出すべきだと、そう
ただし、そう割り切れていないものも、この場にはいて。
「プリシラ様……」
か細い声で
それはともすればプリシラの不興を買い、処断されかねない危険を
だが、プリシラはそんなシュルトを見ると、少年の桃髪に指を差し入れて
「──して、貴様は
「どうか、故郷を取り戻して……いえ」
唇を
プリシラは、望みのない希望を
──すでに、起こってしまった出来事を変えることはできない。それはなんであれ、誰であれ、許されてはならない
故に、青年が口にしたのは救ってほしい、ではなかった。
「屍人たちを、滅ぼしてください。故郷を……俺の家族を、兄弟を、
頭を下げ、青年が悲痛な、しかし覚悟のいる願いを口にした。
「────」
それを聞いたプリシラが
プリシラは赤い唇を
4
青年の故郷、『カッフルトン』はバーリエル領の南端に位置する寒村の一つだ。
何もない田舎に嫌気が差したという青年の言葉通り、これといった特色のない村であり、以前、プリシラが直接足を運んだ『ラドリマ』という村とは前提条件が違う。
あのとき、プリシラはラドリマ特産の『クレナイ』なる真っ赤な花が目当てだったが、カッフルトンにはそうした
だから、ありふれた領内の変事の一つとして、『真紅戦線』の一部を解決に向かわせるのが手っ取り早いはずだったが──、
「それがどうしてまた、姫さんが直接出向くなんて話になったかねえ」
真紅の地竜が引く竜車の中、豪華な内装を見上げるアルがそうぼやく。
『
そんな感慨を抱くアルの前で、「なんじゃ」とプリシラが片目を閉じ、
「
「ちょっとぼやいただけで命知らず扱いになんの? 最近、オレの扱い悪くねぇ?」
「たわけ。妾は常に公平にものを見る。貴様の扱いが
長い足を優雅に組み替え、プリシラは胸の谷間から抜いた扇で自分の口元を隠した。その仕草に「へいへい」とアルは手を振ると、
「実際、私兵も連れずに領主様自らってのは悪手なんじゃねぇの? そりゃ、相手が単なる村人ってんなら姫さんの威光にひれ伏すかもしれねぇけど、聞いた話じゃ相手はゾンビってんだろ? 脳がスポンジになってる連中に権力って通用すんのかね」
「またぞろ、妾の知らぬ言葉を用いたな。その『ぞんび』やら『すぽんじ』やらとは何のことじゃ」
「ああ、歩き回る死体のことをゾンビっていうの。スポンジは……なんだろ、食器とか水洗いするときに使う道具。ようはカスカスってこと」
「ふん。『すぽんじ』はともかく、『ぞんび』の方の響きは気に入った」
上機嫌に唇を緩め、プリシラが紅の
「それで、妾が直接出向く理由じゃったな。想像がつかんのか?」
「思いつく理由が、面白そう以外になくて困ってんだよ。別の理由とかあんの?」
「なくはない。無論、興味深いという理由が一番ではあるがな。──ただ、そればかりが理由でもないぞ。解決までの間、妾の思惑を推し量ることじゃな。万一、解決までに答えが得られなければ、貴様の扱いはより悪くなると思え」
「何それ、クイズってこと? 罰ゲームありなら、ご褒美もありにしてほしいね」
「何とも卑しいことじゃな。わかった。ならば、見事に妾の思惑を解き明かした暁には、貴様に妾の足を
それはご褒美なのか罰ゲームなのか。特殊な趣味の持ち主ならご褒美だろうが、基本的には罰ゲームの類だろう。プリシラのおみ足を間近にできると思えば、アルも頑張ってご褒美と捉えることもできなくはないが。
「あの~、お二人が色っぽいお話してるとこ申し訳ないんですけど~」
と、そんなアルとプリシラの会話に、おずおずと割り込んでくる声がある。それは竜車の車内、プリシラの隣に座っているヤエの声音だ。
小さく挙手した彼女はへらへらとした笑みを作り、
「どうしてまた、今回は私が連れ出されたんでしょ? いつもなら、シュルトちゃんとアル様の両手に花……片方は食虫花ですが、そうなさってたはずなのに」
「食虫花て。いや、かろうじてシュルトちゃんがそっちの可能性も……」
「あ、普通にアル様が食虫花ですよ。かなり柔らかくて甘めに評価しました」
「さいですか……」
ヤエの散々な評価にがっくりと肩を落としつつ、アルは内心で同じ疑問を得ていた。
今回、カッフルトンへの旅路にプリシラはシュルトを同行させていない。基本、どこへいくにも彼を連れ歩くプリシラには
そのシュルトの代わりに、ヤエを屋敷から連れ出すなど初めてのことである。
「そもそも、私ってあくまでお屋敷の侍女として旦那様……故人となられてしまいましたが、旦那様に雇われて、それで奥様にお仕えしている身ですし? 今の立場って、わりと契約外の労働って感じがしなくもなかったり?」
「つまり、なんだ? 雇用条件にそぐわない扱いを受けたから辞職したいって?」
「そこまでは言いませんよ~。ただ、私は時間外労働も契約外労働も、本来ならしたくない立場なので、それを強いる以上は……」
「相応の報酬を弾め、であろう? 心配するな。
「────」
一瞬、車内の空気が焦げる匂いがして、アルは身を硬くした。プリシラの低い声に
しかし、ヤエはすぐに普段の調子を取り戻し、その両手を自分の頬に添えて、
「いえいえ、そんなそんな、まさかまさか。奥様を疑おうなんて命知らずな! 私は立場を表明しただけ。奥様がそう言ってくださるなら、何の心配もありません。私は奥様の忠実な犬です。大切なお花にも、食虫花にも喜んで水やりをいたしますよ~」
「言っとくが、食虫花にはちゃんと虫を食べさせないと、水だけやった食虫花より明らかに弱くなるって研究データがあってな……」
「混ぜっ返すでないわ、アル。貴様の食虫花への知識なぞ今はいい。して、心を入れ替えたなら働きで見せよ、ヤエ。──カッフルトンについては?」
愚痴るアルを
「え~、特別、お渡しできる情報なんてありませんよ。ああ、
お役に立てずにすみません、とヤエは謝罪するが、その発言には十分に舌を巻く。もちろん、適当な答えを返したわけではない。全て、事実に基づいた情報だ。
領内の各町村では、住民の数と名前を把握するための検地が行われている。当然、その記録は領主であるプリシラの下に届くわけだが、侍従長たるヤエはその全てを把握しているとばかりに、あっさりとその知識を吐き出してみせた。
有能であるから使われる。──底知れぬ娘だが、プリシラが彼女を重用する
「──あ、ついたみたいですよ~」
そんなやり取りが一段落したところで、竜車がゆっくりと停車する。手綱を握る御者が恭しく竜車の扉を開けると、涼風が一行の来訪を歓迎していた。
そして、歓迎と呼べるほどまともなものは、それ以外には何もない。
「……見渡す限り、野っ原と畑しかねぇな」
「そういうところですもん。住人もたったの八十八人しかいませんし、私たちのお屋敷より敷地で言ったら狭いぐらいです」
高台から村を見下ろし、田舎の風景にアルとヤエが感想を交換する。
緑豊かで牧歌的などと言えば聞こえはいいが、若者には退屈すぎる寒村だと一目でわかる。青年が故郷を捨てて飛び出したのにも納得だ。
「少ない家も小ぢんまりとまとまったもんだ。けど……」
そこで言葉を切り、アルは遠目に村の様子を眺める。相応に離れた距離だが、それでも村の営みには生活の動きが見える。炊事の煙が立ち、村内を歩く人の姿もあった。
とても、
「今んとこ、普通の村に見えっけどね。オレの想像するゾンビは、あんな調子で炊事だの洗濯だのって働くイメージじゃねぇなぁ」
「四十年前、ルグニカ王国で猛威を振るった
アルの言葉を受け、ヤエが聞きかじりの知識でそう話してくれる。いずれにせよ、死後も誰かに
「いや、死ねるだけまだマシなのかね。頭が働かなくなってんなら、自分の不幸も自覚できなくなってそうだし」
「またずいぶんとおかしな仮定ですね~」
首をひねり、
「もしかすっと、屋敷にきたお兄ちゃんの方が頭おかしかったのかもしれねぇぜ? あっち調べた方がよかったかも……姫さん?」
「────」
呼びかけに返答はなく、プリシラは黙って平凡な寒村を見下ろしている。しかし、その紅の
アルやヤエの感じるものと、明らかに異なる確信が彼女の感情に火を
「どこの誰かは知らぬが、
唇を曲げ、そう言ったプリシラがずんずんと歩き出した。その迷いのない足取りに、アルたちは一瞬反応が遅れ、慌てて彼女の背中を追いかける。
「おい、姫さん! すげぇブチギレてんのはわかるけど、なんでそんないきなり!?」
「見ればわかろう。嗅げば匂おう。耳を澄ませば、人でなしの人形遊びの糸繰りが聞こえてこようが。──万事、妾に対する無礼とみなす」
「もう全部がわけわからねぇ!」
プリシラの物言いは難解で、アルは頭の中で
堂々と高台を降りたプリシラは、一切の
「おや、外からのお客人とは珍しい。そんなドレスで、この村に何の……」
「黙れ」
軽く手を上げ、和やかに話しかけてきた男が目を見開く。
次の瞬間、プリシラが虚空から抜いた真紅の宝剣で、男を
「か」
短い苦鳴が漏れ、直後に男の体が一気に炎に包まれる。
──プリシラの所有する『陽剣』は、斬りつけたものを焼き尽くす魔剣の一振りだ。その業火は消えることなく、その存在を灰と化すまで燃え上がらせる。
ものの見事に、壮年の男の体は一瞬で黒焦げの炭クズへと変貌して──、
「おいおいおいおい!? マジかよ!? 第一村人をいきなり焼殺!?」
「正確には斬殺かと思いますけど、微妙にどっちでもいい感じですよね。ええ~」
その暴挙を目の当たりにして、さすがのアルとヤエも
「『ぞんび』が
「いや、
少なくとも、アルの目で見た焼死した男は人間判定だ。それも、友好的な部類に入る人間判定であり、問答無用で焼死したのは悲劇としか言いようがない。
「私的には斬殺だと思いますって訂正重ねますけど……ああ、村の皆さんが」
頭を抱えるアルの隣で、ヤエが周りを見ながら
一瞬の早業だったので、彼らは第一村人の末路を目にしていない。とはいえ、人型の
「え~と、これはですね、皆さん」
なんと言って
「姫さ──」
「ふん」
しかし、その半歩もやはり、はるか先を行くプリシラの行動に追いつけない。
「────」
無防備にやってきたのが運の尽きと、プリシラの陽剣が容赦なく
「う、うわあああ──っ!!」
その突然の凶行を目の当たりにして、村人が恐慌状態へ突入する。だが、悲鳴はすぐに
「見よ、アル。あの男の報告は正しかったな」
「何が!? 現在進行形で、間違った判断したお偉いさんの乱心口封じシーンってイメージが
「──
真紅の宝剣を手の中で回して、プリシラが頭のなくなった男の胸を剣先で突く。当然、その衝撃で頭部を失った体は倒れ──ない。
首の切断面から血が出ないのは、陽剣が斬るのと同時に傷を焼くからだが、それだけではなかった。──首の断面から何かを
「──ちぃっ!」
舌打ちして、アルは強引にその首なし男へと体当たりした。頭がない分、軽々と男は後ろへ吹っ飛ぶが、すぐに四肢を地について体勢を立て直す。
「うげ」
首の切断面を直視して、アルがおぞましさに
男の傷口で蠢くのは、無数の植物の根のような触手だ。水中で踊る水草のように、蠢く触手がアルを
「陽剣の切っ先に触れて、無事で済むなどと思うな。燃え尽きよ、
吐き捨てるプリシラの前で、声なき断末魔を上げる男が炭となって崩れ落ちる。その間も、周囲の村人たちは逃げるのではなく、感情のない
大当たりだったと、プリシラの直感の正しさにアルは腰裏の
「クソが、本気でゾンビかよ! 姫さん、下がってろ!」
「うむ、任せた。これ以上、
「え、マジで?」
格好つけつつも、
プリシラは本気で陽剣を空へ
「あれ、これ死ぬんじゃね?」
「よっ! アル様、カッコいい! ここが男の見せ所です! 派手に
「ふざけてねぇでてめぇも手伝え!」
「あれれ~?」
青龍刀を構え、気抜けする応援を投げてくる侍従長にアルが
その、男の
「────」
衝撃に首を後ろへ倒して、男の足が止まった。しかし、すぐに男の頭はバネ仕掛けのように跳ね戻り、農具をアルへ叩き付ける作業を再開する。
その両腕を青龍刀で叩き切り、返す刀で首を、胴を、膝をぶった斬った。
「ここまでやって……やっと、一匹!」
「ひゃぁ、気が遠くなる。こういう元気な方々って、私と相性悪すぎません?」
ようやく一体のゾンビを沈黙させて、肩で息するアルにヤエが唇を
クナイは西方特有の暗器であり、彼女はその他にも多数の隠し武器をあの赤いメイド服の下に隠し持っている。それ故に戦えるメイド、それが彼女の真骨頂だ。
ただし、ヤエの基本攻撃は奇襲からの急所攻撃であり、頭部や心臓が単純な弱点とならないゾンビは相性最悪、嘆きたくもなる。
「姫さん! ちょっと、姫さんってば!」
「ぴいぴい
「その
嘆く間にも一人、二人と斬り倒し、アルは決死の気分で敵中を
一斉に襲いかかってくるゾンビ化した村人、それらの中を抜けるのはまさしく死中に活を
なのにプリシラは、そんなアルの悪戦苦闘を楽しげに観戦するばかりで──、
「アル様、頑張ってくださ~い。私も、応援するぐらいしかできそうにないんで」
「うるせぇ!」
状況の見えていない二人を背後に置いたまま、アルのかつてない死闘が続く。
本気で死にかけたアルのために、プリシラが再び陽剣を抜いてくれたのは、それからほんの数十秒後のことだった。
5
「それにしても、マジでゾンビの村だったとはな……」
そうこぼしながら、アルは自分が斬り殺した村人の
なにせ、単純な斬殺死体と違い、全身
ここまでの死体損壊、異常者の所業でもなければそうはお目にかかれまい。無論、アルにはそうした思惑はなく、必要に迫られてのことだったと言い訳ができるが。
「そもそも、斬られた死体の十倍以上も焼死体が転がってて、オレの言い訳なんかいるわきゃねぇって話だわな」
言いながら、ぐるりと周囲を見回すと、あるわあるわ焼死体の山だ。
襲ってくる村人を掻い潜り、戦い続けて死体はついには五十以上──その九割は焼死体であり、アルの作った死体など大した数でもなかった。中盤以降、アルはヤエと一緒になって、プリシラの紅の剣舞に声援を送り続けていただけだ。
とはいえ、それで最適解。
あの異常な生命力と、炎を浴びて滅びる姿。ますます、アルの知るゾンビの生態と酷似していた。もっと言えば、ゾンビより寄生体の方がしっくりくるが──、
「わかりやすさ優先でゾンビって呼んどくが……姫さんの観察通り、女子供のゾンビがいねぇな。こっそり、村の中で食糧なんてことになってなけりゃ……」
「そんな怖い想像やめてくださいよ~。ちゃんと見つけてきましたってば」
記憶と、炭化した死体の顔を見比べていると、村内を見回っていたヤエが戻ってくる。彼女はアルの
そこにはカッフルトンの住民だろう、女性や子どもたちの姿があった。
「それぞれ、日中はご家庭の納屋や倉庫に押し込まれていたそうで。姿形は家族と同じ化け物が、自分たちに普段の生活を強いていたとか……」
「そいつは……」
正直言って、相当に薄気味悪い要求だ。外見は家族と同じでも、その中身が全く違う
だが、彼女らはそれを強要されていた。挙句、夜ごと手足ががたつくゾンビのために、取れかけた手足を繕う仕事までやらされて。
「この手の話、自分じゃ結構耐性があるつもりだったんだがな」
「
「ビビったわけじゃねぇよ。ゾッとしねぇ話だなってのはあるけどな」
ヤエが気にかけているのは、助かった女子供にどう家族の末路を伝えるか、だ。ゾンビ化した上に、最後は
人生であまり想像する機会のない難題に、アルは無言で鉄兜の金具を
「──なんじゃ、村の生き残りか」
そこへ、高台に置いてきた竜車に戻っていたプリシラがやってきた。生存者たちを見つめるプリシラに、アルは「姫さん」と慌ててその肩を
「気持ちはわかる。けど、
「貴様、
「────」
正直思ったのだが、アルはその言葉をすんでのところで
そしてその間、プリシラは生き残りの女子供の方へ歩み寄る。その先頭、所在なく立っていた少女がプリシラを見て、「あの」と意を決したように口を開く。
「アレイは、無事なんでしょうか?」
「アレイ……?」
「屋敷に報告にきた男性ですよ。アレイ・デンクツ」
少女の尋ね人の名前に、首を
「無事じゃ。あれを村の外へ逃がしたのは貴様か?」
「……偽物の、気を引いただけです。でも、無事でよかった」
そっと胸を
だが、結果的にその行いが、この
「褒美を取らせる。近ぅ寄れ」
「え、あ、はい……」
その貢献を認め、プリシラが少女を手招きした。尊大な呼びかけに戸惑いつつ、少女は一歩、プリシラの下へ。そして──、
「舌を
「──っ」
次の瞬間、プリシラは何の
初対面、説明なし、女性同士──様々な問題を一息に飛び越え、プリシラの別角度からの暴挙に背後の女子供も驚く。無論、仰天したのはアルやヤエも同じだ。
「おいおいおいおい、何事だよ!?」
「──っ! アル様!」
「ああ!? なんだよ……って、うぉ!?」
褒美の定義について議論を求めるアルを、表情を変えたヤエが呼んだ。その呼びかけに
──その白い歯で、異形の触手に噛みついたまま。
「────」
そのまま一気に、プリシラが少女の体内から触手を外へと引きずり出す。全長一メートルほどの触手が暴れ、その鋭い先端をプリシラへ
「おらぁっ!」
それを、
「だが、貴様は生くるに値せぬ」
言って、地面で悶える触手が紅の宝剣によって焼き尽くされる。ゾンビ化した村人と同様、触手は焼かれた途端に
「これがゾンビの
ゾッとしない気分で、アルが地面で灰になった触手に息を
思い描くのは、首を断たれた男の断面で
だが、少女はゾンビ化していない。その違いはどこにあるのか。
「体質か、血の問題でしょ~か。もっと単純に、女性や子どもの体は奪えない?」
「それでも巣食うのは陸に上がるため、か。──おぞましい」
「──ぁ」
瞬間、生存者たちはその場に崩れ──一斉に、地面に
それから、彼女は自身の握る真紅の剣の刀身をそっと
「
「……つまり、体の中の触手だけ斬って焼いた?」
「
「一瞬、生き残りも全員ぶった斬ったのかと思ってヒヤッとしたぜ」
とはいえ、プリシラの陽剣がなければ、それに近い対処が必要だったはずだ。最悪、生き残り全員からキスして寄生体を引きずり出さなくてはならなかった。
「にしても、ご褒美って姫さんとのキスのことかよ。オレも、足を
「たわけ。妾の唇が至宝なのは事実じゃが、褒美は命の方に決まっておろうが。あれが命より情を優先した結果、今回のことが露見した。確かな働きである」
アルの言葉に嘆息し、プリシラが少女の行動力を
「女の子の恋心が悲劇を食い止める、か。出来すぎた話だったな。けど、何とかこれぐらいの被害で済んでマシだった……」
「──いいや、その
痛ましいカッフルトンの
「それは先ほど、奥様が御者に何かを命じて地竜を走らせたことと関係が?」
「無論よ。──竜車は屋敷の『真紅戦線』の下へ向かわせた。
答えながら、プリシラが真紅の扇を広げ、それで村の
「奥様は、川が感染源になっているとお考えなんですね」
「オレの浅い知識だと、ゾンビってのは
「あれらに人を噛む習性はなかった。その上、営みに溶け込もうとしておったろう?」
「確かにな」
そこが、アルの知るゾンビと、寄生された村人たちとの明確な違いだ。彼らは人を襲うのではなく、成り代わり、そのテリトリーを守ろうとしていた。
まるで、奪うのは肉体ではなく、人生そのものだとでもいうように。
「だとしたら、寄生虫なんて
「間違っても、川の水を飲むでないぞ。できれば触れるのもやめておけ。あの水を使った農作物も、焼き捨てておくのが確実じゃ」
「徹底してるな。それなら、水辺は虫にも気を付けた方がいいぜ。人間の血を吸う虫は水辺に多いしな。虫から病気が広がるってケースもよく聞く話だ」
「──いずれにせよ」
低く、プリシラが紅の
瞬間、アルの背筋を駆け上がったのは寒気──否、それに近いものだが、寒気ではなかった。冷たくはない。熱かった。
竜車の中でも嗅いだ、空気の焦げる匂いが
すなわち──、
「──誰であれ、この愚行の対価は支払わせる。その命でな」
6
プリシラの指示を受けた『真紅戦線』の行動は早い。
結果、寄生体の影響は他の二つの村でも発生しており、女子供の身柄の確保と引き換えに、やはり寄生された男たちが処分される結果を招いた。
「姫さんの陽剣なら、女子供とおんなじように男も助けられねぇの?」
「陽剣も万能ではない。体内の異物は殺せても、その異物に食われた穴まで埋めることはできん。貴様流に言えば、『すぽんじ』になった脳は救えぬ」
プリシラの答えを受け、アルは「なるほどね」と顎を引いた。
つまり、あの寄生体は男の脳を苗床にして、ゆっくりと全身を支配していくのだ。最初に脳が支配されるのだから、記憶や行動は曖昧なものになっていく。
バーリエル邸に異変を知らせた青年の証言、それとも一致する内容だった。
「あのお兄ちゃんは飯も食わずに、連中が手足を縫ってるのを見て逃げ出したって話だったな。……水、飲んでなきゃいいんだが」
「その点は、女性たちが抜かりありませんでしたよ。彼を無事に逃がしたい一心だったんでしょ~ね。持たせた水は煮沸、食事は保存食……感染源から遠ざけられていました」
「ひゅぅ、やる。愛だねえ」
おかげで青年は無事、彼の無事のために行動した少女もプリシラのおかげで無事だ。村は男手を失い、ほぼ壊滅状態だが、それでも失われていないものがある。
それなら、立て直すことは可能なはずだ。きっと。
「さて、そんなこんなで後味の悪い展開は避けられたってんなら……姫さんは、じーっと地図
「──妙だと思わんか? テンリル川の付近にある村は四つ。そのうち、『ぞんび』の被害に遭ったのは三つ、被害を免れた村が一つだけある」
カッフルトン村の中央、家主を亡くして無人となった村長宅で、プリシラが机の上の地図を眺めながらアルへ尋ねた。その言葉にアルは「あー」と
「たまたま、村の全員で断食と断水の荒行に挑んでたとか? なんかあるらしいぜ、そういう宗教。食べない飲まない遊ばないが、信仰の
「それで被害を免れたなら、『ぞんび』被害とは別の意味で問題であろうよ。考えられるのは川の流れ……他の村より、被害のなかった村は上流にあるな」
地図を指差して、被害の有無をテンリル川の上流と下流で分ける。当然、水は低きに流れるものなので、毒が流し込まれた場合、被害が出るのはその地点から下流のみ。
「なので、この被害を免れた村と、カッフルトンとの間に何があるかを調べてきました」
と、村長宅の扉を開けて、ひょいと顔を
「この印は?」
「水車の印です。川辺の森では木材が切り出されて、船で下流へ運ばれる仕組みになっています。水車は主に粉
「──悪巧みの
プリシラの返答に、我が意を得たりとヤエが
そんな二人の様子に、アルは「待った」と右腕を上げた。
「悪巧みだの隠れ蓑だのって盛り上がってるとこ悪ぃんだが……もうあれか? 姫さんたち的には完全に、ゾンビ災害はテロリズムって決め打ちした感じ?」
「当然であろう。いくら血の巡りが悪かろうと、これが人為的でなくてなんと考える? あまり馬鹿を申すな、アル。道化と愚物の違いくらいはわかっていよう?」
「……笑わせる
「前者は見所があるが、後者は
突き放すような物言いだが、プリシラにしては優しいというべきだろう。ただ、アルにはアルで、この状況を良しとしたくない理由があるのだ。
──バーリエル領で発生する『ゾンビ化騒動』など、聞いたこともないのだと。
「アル様、怖い顔してますね。いけませんよ~、笑顔笑顔」
「オレの顔は見えねぇだろ」
プリシラとのやり取りで
「で、
「そこから疑い始めるのが妥当であろうよ。ヤエ、代表者は?」
「──エッダ・レイファスト。荒くれ男たちを
「ふむ。
記録を参照するでもなく、パッと答えたヤエにプリシラは片目を閉じた。その彼女の答えを聞いて、アルとヤエは「条件?」と
そんな付き人二人の反応に、プリシラは「そうじゃ」と赤い唇を緩めて、
「『ぞんび』となったものは男ばかり。ここまでの先例を考えれば、その女傑とやらの脳が『すぽんじ』になっている可能性は低い」
「あー、なるほど。そりゃ確かに」
「ただ──」
と、そこでプリシラは言葉を切り、もう片方の目も閉じて
「──まぁいい。全ては、妾のこの目で確かめてからじゃ」
「────」
何かを言わせる前に、全てを自分で決めてしまうところがプリシラらしい。
アルの憂慮にも気付いているだろうに、彼女はそのことには目もくれない。そのくせ、歩き出す背中にアルがついてこないことに気付くと、
「何をしておるか、アル。──妾の後ろに、飼い犬のように続け」
などと、当然のように言うのだからたまらない。
「本気で、その白い足
「うわ~、アル様ったらどん引き~」
堂々と歩く背中に続こうとして、隣の赤毛のメイドにそんなことを言われる。アルは自分の
7
──エッダ・レイファストの印象は、『女傑』というより『鉄血』だ。
浅黒い肌の下、血管を流れているのは赤い血ではなく、どす黒い油ではなかろうか。肉厚の体に太い手足、はち切れんばかりに張り詰めた衣類の上から毛皮のコートを羽織り、美ではなく武を奉じたような厚化粧。
一見して、通常の美意識とかけ離れた美的感覚がそこに
「あーたが、プリシラ・バーリエル様だのね」
応接間で相対したエッダが、椅子に腰掛けたプリシラを見下ろしてそう言った。なお、見下ろす形なのは体格差が原因で、椅子の高さのせいではない。
プリシラも決して背の低い女性ではないが、エッダの身長はアルさえも首が痛くなるぐらい見上げる必要のある高さだ。さすがのプリシラも、そのことを怒りは──、
「頭が高いぞ、貴様。
「怒るんだ!? 身長だぜ!? どうしようもなくない!?」
「何を騒ぐ。妾を見下ろす不敬を思えば、腰の半分も床に埋まればいいだけの話じゃ。床が開く仕掛けの一つもなかったせいで、妾の不興を買ったな」
「そんな大掛かりな前準備、かもしれない運転でもやらねぇよ! 床に埋まっておかないと、偉い客の機嫌を損ねるかもしれない……生きづらいわ!」
「ぴいぴいとやかましい。貴様、今回はあれこれ妙にうるさくて
「それは……姫さんが心配なんだよ」
ソファに腰を
心配と、そう言ってしまえばそれが事実だ。しかし、そんなアルの考えはプリシラの足を止める理由にはならない。隣で、ヤエが深くため息をつくのが見える。
案の定、プリシラは「ふん」と小さく鼻を鳴らすと、エッダの方へ向き直った。
「妾の用向きは一つよ。貴様が仕切っている材木業と川の水車、いずれかで
「──不埒な企み、ねん」
「すでにカッフルトンをはじめ、テンリル川流域の三つの村が被害に遭っています。エッダ様のところの従業員に、体の不調を訴えるものはおりませんか~?」
プリシラの指摘に太い
その視線は良くないと、アルは平時の心境なら教えてやったはずだ。が、今のアルにはその配慮をエッダへ傾けてやる余裕がなかった。
それ故に、エッダの濁った視線がプリシラの機嫌を損ねるのをあえて見過ごす。
「その目つき、心当たりのある顔じゃな」
「──ここだけの話なら、ねん」
プリシラの追及からは逃れられないと観念したのか、エッダはすぐにそう答えた。それは肥え太った彼女の持つ、ある種の生存のための最適解を選ぶ能力か。
仮にもう一度とぼけていれば、プリシラは容赦なく陽剣を抜いていたはずだ。そんな修羅場にならずに済んで、アルとしても一安心──、
──そこに、油断が生じた。
「──お」
ふと、アルは自分の足下が揺らいで、踏ん張りが利かなくなったことに気付く。すぐに足下を見て、その原因を理解した。
床が、消えたのだ。
「姫さ──ッ」
「アル様、ごめんなさい!」
転落の瞬間、アルはプリシラを呼ぼうとして、その肩に衝撃を受けてひっくり返る。見れば、アルの肩を蹴って天井へ取り付くのは、同じく落ちそうになったヤエだ。彼女は天井の照明を
代わりにアルはバランスを崩し、もはや墜落は避けられない。だからせめて、アルは確かめなくてはならない姿だけ、視界の端に捜して──、
「────」
赤い、
落ちる、落ちる、落ちてゆく。──アルの体が真っ逆さまに、地下へ落ちていく。
声にならない声を上げ、アルはそのまま、深い暗闇の中へと
8
「────」
床下には暗く、どこまでも深い闇が広がっていた。
突然、前触れなく開いた床は、いっそ奈落と呼ぶべき暗闇へと全てを
赤い絨毯に大きなソファ、来客を迎えるテーブルとお茶の入ったカップ類──そして、とっさの判断が遅れ、反応できなかった漆黒の
尾を引く悲鳴を残しながら、男の姿が奈落の底へ消えるのを見届け、謀られた形になった紅の女──プリシラ・バーリエルは宝石の
「油断、した、わねん」
「……油断じゃと?」
背後、奈落へ目をやるうなじに声がかかり、プリシラは声の主へと振り返る。
そこで、血色の化粧を施した唇を
「──
「そう?」
「挙句、妾の姿勢をさして油断などと、貴様の器で測ったな。万死に値する」
「そーお?」
プリシラの冷酷な罪状確認に、しかしエッダは場違いな愉悦で体の肉を震わせる。浅黒い鉄油色の肌が震え、それがますますプリシラの不機嫌を助長した。
そのまま、プリシラは
「──奥様!」
瞬間、呼びかけと同時に空を黒刃が走り、肉が
空を走ったのはクナイと呼ばれる西方の暗器、投じたのはアルの肩を借りて、とっさに落下を免れていたヤエだった。そのヤエが投じたクナイが迫りくる敵──エッダの背後、壁の隠し戸から現れた二人の男の
さして刃渡りは長くないが、クナイの
そしてそれは、首の中央に刃を受けたエッダも例外ではない。
「あちゃ~、奥様ごめんなさい。うっかり反射的にやってしまいました」
プリシラの隣に身軽に降り立ち、ヤエが三人を
「
「ええと、アル様ですが、この高さだと……わーお、底が見えませんね~」
腕を組むプリシラの横で、奈落を
その表情も当然だろう。なにせ、どす黒い闇が広がる奈落は底が見えず、試しにヤエがクナイを落とすと、それが地面に当たった音が聞こえてこない。この高さと、敵を陥れるための
つまるところ、ここから落ちたアルの生存は絶望的と考えるしかなかった。
「奥様、大変言いづらいのですが、アル様はお亡くなりに~……」
「──ふむ。
「奥様?」
罠の見分を終え、アルの悲報を伝えたヤエが首を
正面、クナイを受けて倒れたエッダとその部下を眺めるプリシラ、彼女は敵の思惑を考察するのに集中しており、その横顔にアルを
まるで、アルという存在そのものを忘却したかのような無関心ぶりだ。
「奥様、それはいくら何でもアル様が浮かばれないのでは~」
「たわけ。
「妙ですか?」
「──妾を害する目的なら、
そのプリシラの指摘に、ヤエもまた違和を察して
道理だ。元々、奈落の上にはプリシラもいた。狙いがプリシラ陣営──否、中核たるプリシラだったなら、彼女が罠にかからなければ意味がない。
それなのに、敵はわざわざプリシラを巻き込まないように罠を動かして──、
「──それはねん、あーたの体に傷をつけたくなかったからよん」
「──っ」
ふと
二人の視線の先、ゆっくり立ち上がるのは首にクナイの刺さった巨体だ。芋虫のように太い指が黒刃の
──その原因は、ここまでの状況からすぐに察しがついた。
「もしかして、
「その言われ方は心外ねん。ただ、血の通ってない体を動かしてるだけよん」
いけしゃあしゃあと言ってのけ、エッダもとい屍人のエッダが陰惨に
その表情に苦痛の色はなく、首の傷がなければ醜い顔の生者と変わらない。だが、依然として、首には痛々しい穴が開いていて、見るものの現実感を喪失させる。
「────」
その屍人と相対し、ヤエはさりげなくプリシラを背後に
「
「って、奥様、そんな場合ですか~!?」
「たとえ場合と状況がどうあろうと、妾は妾のままで在る。それを曲げれば妾ではない。とはいえ、想定外の事態ではあるな」
全てを見通したような言動の多いプリシラが、珍しく自分の想定外を言明する。そのことにヤエが驚くと、プリシラは白く細い肩をすくめる。
「ただ
「ええ、言ったわん」
「なるほど。──つまり、次は妾の体が目当てか」
そのプリシラの一言に、エッダが赤黒い唇をより大きく
瞬間、床に倒れた二人の男が跳ね起き、
当然ながら、この二人──否、二体も屍人だ。
掴み掛かってくる一体を、ヤエはすらりと長い足で蹴り飛ばし、続く一体の襟首を掴んで器用に背後へ投げ落とす。結果、二体
だが──、
「まだまだ手勢はいるのよん。逃げられると思ったのん?」
「うげえ~!」
エッダの
正面入口に隠し扉、挙句に天井が開いて屋根裏からも伏兵が落ちてくる始末。その圧倒的な物量に、懐のクナイの残数を数えるヤエが
「これ、ちょっと笑けてくるぐらい劣勢ですね~。奥様、何か妙案あります?」
「侍従こそが
「そう
近寄ってくる
その徐々に追い込まれる状況を眺め、プリシラが吐息する。
「──ヤエ、妾を置いて一度
「え!? 奥様、アル様の存在をお忘れになったんじゃ?」
「案ずるだけ無駄と言っただけじゃろうが。たわけたことを抜かすな。貴様の逃げる隙ぐらいならこじ開けてやろう。光栄に思い、
「跪けって……ひぇ~っ!」
尊大な発言があった直後、横薙ぎに真紅の輝きが
反射的に跪くヤエ、その頭上をプリシラの宝剣が容赦なく薙ぎ払った。赤い
「
「奥様、どうぞご無事で~!」
その間に跳躍し、天井に取り付くヤエがするりと屋根裏へ滑り込む。そのまま、彼女は素早く戦場となった応接間から離脱、プリシラだけが残された。
「ふむ」
それを見届け、プリシラはさらに二度、三度と紅の宝剣を振り抜き、近付いてこようとする
「そろそろ打ち止め、ねん」
「そうじゃな」
悠然と、配下の屍人の奮戦を眺めていたエッダが
「日輪が陰ったか。相変わらず、妾の意のままになり切らぬ剣よな」
言い捨て、プリシラがぞんざいに宝剣を宙へ投げ捨てる。と、それは背後に立つ屍人の首を
「傷付けるのは本意じゃないのよん。大人しくついてきてくれるかしらん」
「周囲の汚物を妾に触れさせるな。そして、丁重にもてなすがいい」
腕を組み、自らの豊満な胸を誇示するように持ち上げ、プリシラは堂々と言い放つ。それを聞いたエッダは
そうして破顔したまま、『女傑』は続ける。
「その尊大な物言い、嫌いじゃないわん。──楽土の管理者にもってこいよん」
9
暗く深い奈落の底で、アルは汚水に
「マジかよ、これ……よく生き残ったな、オイ」
ぐずぐずとした足場、手を突いた地面の
その間、周囲に目をやるアルは何も見えない無灯の暗闇に舌打ちする。そして、兜の泥抜きを中断し、いそいそと腹の備えから白い石を取り出した。
──ラグマイト鉱石と呼ばれる、衝撃を受けると発光する特殊な石だ。
魔鉱石とはまた性質の異なる石で、火がなくても光を得られるために重宝する。それを自分の兜にぶつけ、白いぼんやりとした光で辺りを照らし出す。
そして、最初に目についたものを見て、アルは「うげ」と声を漏らした。
「死なずに済んでラッキーなんて、単純に思ってたわけじゃねぇが……」
レイファスト邸の応接間、その床が開いた奈落の
とはいえ、格好よく
ただし、そのクッションとは──、
「……ぐずぐずの死体の山、か。ひでぇ臭いだな」
鉄兜の隙間、金具に詰まったものが『泥』であるといいなと思いながら、アルは自分を受け止めたクッション的な状態の人間の末路に顔をしかめる。
その死体の数、十や二十では足りないほどだ。
おそらく、エッダの仕切っている材木業者の従業員、その一部ではなかろうか。どの死体も着衣はそのまま、装飾品も奪われていないため、金目当ての殺しではない。死体の処理は雑だが、死体が死体になった理由は単純な線ではないだろう。
「つまり、
ああして仕掛けてきた以上、エッダ・レイファストが屍人と関係があるのは確実だ。その影響力と財力を思えば、彼女こそが黒幕の可能性も十分にある。
そうなると、上に取り残されたプリシラの安否が危ぶまれるが──、
「ヤエの
そうして、ラグマイト鉱石の光を頼りに辺りを観察していると、ふと死体の山の方から妙な気配を感じ取った。そちらへ顔を向け、アルは光を傾ける。
──瞬間、空洞となった
「うお!?」
「あ、ぁぁぁあぁぁ!」
おぞましい亡者の
一瞬、反応が遅れてアルは息を
「──ぶ」
「へ?」
直後、その亡者の腐った頭部を、上から落ちてきたクナイが無惨にぶち抜いた。
──それが、応接間のヤエが奈落の深さを測るために落としたクナイであるなどと、このときのアルには理解しようがない。
ただ、理解し
亡者にも質があるのか、頭部を砕かれた死体が活動を止める。腐った腕を落とし、呻くことさえなく
しかし、それはあくまで最初の一体、その窮地を逃れただけに過ぎない。
「……
そう
だが、そんなアルの決死の試みは、思わぬ形で現れる
「どわぁっ!?」
刺激しないように、というアルの配慮が馬鹿らしくなるぐらい、それは勢いよく死体の山の上に転落し、盛大に腐肉を周囲へぶちまける。白い光に映ったのは、またしても上から落ちてきた異物、ただし今度は二人の人間だ。
ちらりと見えた姿が確かなら、少なくとも一人の
つまり、下手人はヤエ。彼女が上で奮戦している
「う、おおおお──っ!」
転落物の衝撃を受け、弱々しく蠢くだけだった死体の山に大きな動きが生まれる。それは正しく大きな動きで、死体の山そのものが動き出したような光景だった。
──十や二十では足りぬ腐った人体の塊、それらが絡み合いもつれ合い、もはや人ではないグロテスクな一個体として成立、
「じ、冗談じゃねぇ──っ!!」
猛然と転がってくる
足場と視界の悪さはアルの人生経験でも最悪の部類だ。これほど必死に命懸けで走るのは、剣奴孤島のコロシアムから脱走した夜以来──ただ、あのときに追ってきたのはどれだけ恐ろしくても人間だったが、今回は恐怖の性質が違う。
「下水? 排水処理場!? 出口あんのか、ここ!?」
ゾーリと汚水の相性は悪いが、かろうじて転ばずに走り続ける。道幅の広い通路が
地図もなく、出口の当てもない状態で走り続けるのは現実的ではないだろう。
追いかけてくる屍塊が息切れしてくれるなら逃げる価値もあるが、すでに生命活動の終わった死体とスタミナ対決しても勝ち目は薄い。
おまけに──、
「ぐっ、マジかよ!」
必死に走る正面、うっすらと視界に映り込むいくつもの人影。両手を突き出し、ゆらゆらふらつく姿はオーソドックスなゾンビスタイルだ。カッフルトンで見かけた
無論、おびただしい水音と腐臭をばらまいて迫るアルと屍塊に、通路に立ちはだかるゾンビたちが気付かないはずもない。前門のゾンビ、後門の屍塊。
ゾンビに
自分の命を救うには自分の力を尽くすしかない。──持てる、全てを使って。
「クソ、広さと尺がわからねぇ! 分が悪ぃが、くるめるか……!?」
迫ってくる屍塊と、目前に近付いてくるゾンビとのエンカウント。アルは必死に周囲の地形に目をやりながら、
そして、覚悟と共に
「──クソったれ! 領域、展開!!」
叫んだ瞬間、刹那だけアルの周囲の空間が
まるで、常外の存在の干渉を受けたような、
そして、
そして、そして、
そして──。
10
「ここにねん、我らが造物主の楽土を作る予定なのよん」
そう言って、部屋の床に直接座るエッダが相対するプリシラの顔を
「一切、
「つれないわねん。でも、あーたのそういう一貫した姿勢は貴重だわん。誰に対しても尊大で、必要な立場と権力がある……まさしく、理想的よん」
「──なるほど。大方の
「あらん、本当にん?」
特段、情報を漏らした自覚はないのか、エッダが太い首を
エッダ・レイファストの屋敷、その最奥の部屋にプリシラは軟禁されている。
すでに一度、日輪は陰った。落陽のあと、次の日昇には時間がかかる。
さすがのプリシラも、無手で屍人の群れから逃げおおせられるとは考えていない。そもそも、
「
「威勢のいいことねん。でも、その願いは
「妾の頭と体を、薄汚い寄生生物で乗っ取るつもりでいるからか?」
「──ふふ」
紅の
グラスに注がれているのは、
今の話の流れで置かれるグラスだ。何の変哲もないものであるはずがない。
「あーたは賢いわん。だから、説明は不要でしょん?」
「テンリル川の周辺の村が、貴様らの
「ごめんなさいねん。その分だけ、あーたの一杯は特別な一杯にしたからん」
特別な一杯と、その前置きがこうも
テンリル川の水を利用した村、その村民がことごとく屍人化した事態を思えば、その元凶たる寄生体が水から体内に侵入することは疑う余地がない。それはカッフルトン村の時点でわかっていたことだが、一点だけ問題があった。
この寄生体の寄生対象は成人男性のみで、女子供には無害だと考えられていたのだ。
それがエッダ・レイファストを支配し、次いでプリシラの肉体も狙っているのは──、
「──ある種の虫や
「……へえ。何なのん?」
「女王じゃ」
これが面白い、とプリシラはこの屋敷に入って初めて笑みを浮かべた。
集団で巣を作り、繁殖と巣の拡大を目的とした生物は頂点に女王を置く。子を産むのに女は不可欠と、それは生物の大小問わず不変の理であるらしい。
王ではなく、女王。何とも奇妙な在り様だが、それは今の状況にも符合する。
つまり──、
「──貴様らおぞましい寄生体も、女王の理屈が成立するようじゃな。すでにその体に命はなく、繁殖など夢のまた夢であろうに」
「あらん、どうかしらん。あたくしたちは急速に成長しているわん。最初は脳を腐らせて動くだけの死体、それが知性と思考を残した寄生体……このままいけば、完全に生きた状態で相手を乗っ取ることだって可能なはずよん」
「そして、ゆくゆくは生まれながらの『ぞんび』を作ると? 何とも、おぞましき千年王国を
「拒否はさせないわん。しても無駄なのはわかり切ってるでしょん? あーたが逃がしたメイドはまだ捕まってないけどん、それも時間の問題よん」
そうして、状況を冷静に分析するプリシラにエッダは笑いかける。
「んふん。そんなに嫌がることはないわよん。かく言うあたくしも、完全に別人ってわけじゃないんだからん。──ただ、大事なものの順番が入れ替わっただけよん」
「くだらんことを言うでない。それを死と、そう呼ぶのであろうが」
「──ぐふ」
分厚い唇から生臭い息を吐いて、エッダが低い音を立てながら
それからそっと、その白く細い指を酒のグラスへ伸ばし──、
「──ん」
「飲み干した、わねん。こっそりと流したなんてこともなく、従順ねん」
だが、妙な小細工はない。中身を床に捨てたなんてこともなく、飲み干している。
故にプリシラの体内には、エッダと同様の寄生体が侵入したはずで。
「そのうち、ゆっくりと効果が現れるわん。そうしたら、もっとあたくしと仲良くお話できるはずよん。造物主についても、話し合いましょん」
「またその名前か。ずいぶんとご執心のようじゃな」
「なんたって造物主だものん。あたくしたちの生みの親……正確には、今のあたくしに生まれ変わる切っ掛けだわん。あの方が安寧を得られる楽土を作り出すこと、それこそがあたくしたちの使命なのよん」
「造物主のための楽土の建設、か。──退屈極まりない話じゃな」
全身の肉をたわませ、どす黒い敬愛を声音に乗せたエッダにプリシラは肩をすくめた。一瞬、その言いようにエッダの
彼女は再び
「どんな言葉も、あたくしたちの仕打ちが怖くて逃げたあとじゃ説得力がないわん。これだけ尊大なあーたが、造物主のために尽くす姿はきっと見物よん」
「ほう、その
「あららん。じゃあ、あたくしと仲良くしてくれる気になったってことん?」
「たわけたことを申すな。──貴様は、妾が手ずから処刑する。その醜く肥え太った
エッダはそこで初めて、プリシラの存在に恐怖を覚えたように身震いする。それ自体が信じられないように、彼女は自分の
すでにエッダの肉体は変革され、この世のあらゆる辛苦から解放されている。にも
そうして、確かな優位にあるはずのエッダを見上げ、プリシラは目を細めた。そのまま彼女は胸の谷間から扇子を抜くと、それで己の口元を隠し、言った。
プリシラの代名詞にして、彼女が信じて疑わない絶対の
それは──、
「覚えておくがいい。──この世界は妾の都合の良いようにできておる」
「────」
「故に、貴様がどう
そう言って、プリシラは扇の先端を床へ向け、それ以上は語らない。
それ以上を、語る必要もなかった。
11
ヤエ・テンゼンが地下へ足を踏み入れたのは、すでに全てが終わったあとだった。
「うひゃ~、鼻が曲がりそう」
腐肉と汚水が混ざり合い、気が遠くなるような悪臭を嗅いでヤエが顔をしかめる。
夜目が利く体質のため、ヤエは暗闇の中に明かりを持たない。ただし、薄闇に浮かび上がるその光景は、夜目の訓練を受けたことを後悔するような地獄絵図だった。
死体、死体、死体。右を見ても左を見ても、死体、死体、死体の山だ。
ヤエの半生を思えば、死体を見ることなど珍しいことでも何でもないが、ここまで人の尊厳を奪われた死体はそうそうない。拷問や
「この状況で、奥様の指示に従う私ってめちゃめちゃ忠誠心ありますよね~。でも、やっぱり万一ってのは一万回に一回しか起きないもんですよ。これだと……」
落ちた同僚の姿を捜してここまできたが、やはり生存は絶望的だろう。この地下空間へくるまで結構な苦労があったが、実際に下りてみてその深さに
屋敷の床下から数十メートル、ヤエだって転落死しかねない高さである。
床下にこんな空間を作るなんて、考えただけでも嫌になる。おそらく、そこここに転がる死体こそが、その重労働に従事した貴重な労働力だったのだろう。
「ま~、同僚としては
故にかろうじて、同僚としての好感度はアルの方に
「……ゾンビと並べていい勝負って、あんま勝っても
「わお」
通路の端を歩いて、せめて腐汁の被害を最小限にと努めていたヤエは、その不意打ち気味の声に驚いて顔を上げ、薄闇にぼんやり浮かんだ人影にさらに驚く。
幽鬼めいた足取りで、気持ち悪い水音を立てながらこちらへやってくるのは──、
「──アル様ですか? 近寄って大丈夫です? うっかり屍人化してません?」
「あちこち
「私や奥様の見立てだと、傷から感染はしませんよ。水さえ飲んでいなければ……正直、この環境の水を飲むような方とは、屍人でなくてもお付き合いしたくないですが~」
「オレも泥水
そう言いながら、漆黒の
「アル様って空とか飛べたり? 西の
「オレも道化って言われちゃいるけど、あの手の道化とはタイプが違うぜ。たまたま運が良かっただけだ。ちょうど、真下に死体の山のクッションがあってよ」
「うええ~、それって運が良かったって言います?」
「死ななきゃ安いってのがオレの故郷の名分でな」
そこまで話したところで、アルが壁に背を預けてどっかりと座り込む。
「────」
軽口を
それに何より──、
「この、辺りにある大量の死体って、屍人だったのをアル様が?」
先ほどの推測が正しければ、死体の一部はこの地下空間を作るための労働力であり、
早い話、地上の屋敷やカッフルトン村で見かけた知性を有する
そして、それらの死体には共通して、身幅の厚い
「あー、しんどい。よく生き残ったぜ、オレ。マジでグッジョブ、神にサンクス……」
「────」
深々と疲労の重い息を吐くアル、その
この地下の惨状、全てをアルがやり遂げたのだとしたら意外の一言だ。
ヤエの正直な見立てでは、アルはそこまで腕の立つ男ではない。剣士としては二流、片腕を失っていることで戦士としても二流半がいいところで、継戦能力に秀でているとも考えにくく、持ち味が
いざというとき、プリシラの盾になるぐらいが関の山と。──それが、万全ではない屍人の群れとはいえ、これを撃滅し得るとは。
「愛の力、ですかね~」
「怖いこと言ってんじゃねぇよ。……あー、それで姫さんは? 無事か?」
「それなんですが、ちょっとマズいことになりまして~」
「ああ?」
エッダ・レイファストの謀略に加え、屍人の群れに支配された一帯。プリシラの身柄は敵に確保され、ヤエとアルのみが自由に動ける立場──。
「とはいえ、多勢に無勢です。私だけなら頑張って逃げるのも可能でしょ~が、援軍を連れて戻ってくる頃には……」
「姫さんに寄生体が入り込んでる可能性が高ぇ、と」
「そうなっちゃうと、無意味かな~と」
どうしましょ、とヤエはアルに意見を求めてみる。
もっとも、取れる手立てとしてはさして多くない。屍人の群れに対して、こちらの手札はたったの二枚。アルの生存はめでたい話だが、それが状況を劇的に変える一手になるとも考えにくく、ヤエの意識は屋敷の外──テンリル川周辺の村を回り、屍人の掃討に当たっている赤
彼らを呼び寄せれば、多少の屍人など歯牙にもかけまい。ただ問題は、その間にプリシラの自意識が寄生体に奪われ、操り人形と化してしまうことだった。
こればかりはプリシラの常軌を逸した自意識の強度に期待する、なんて根拠のない対抗策しか出てこない。それを頼りに動くなど、抵抗感が勝った。
と、そんなヤエの複雑な胸中を無視して──、
「なんで、お前はオレを捜しにきたんだ? 姫さんを助けるのが目的なら、外に抜け出して『真紅戦線』を呼ぶのが一番じゃねぇか」
「──。私も最初はそう考えましたよ? 落っこちたアル様が生きてるなんて、正直全然期待できませんでしたしね~。でも、奥様が」
「姫さんが?」
「アル様を捜せと。案ずるだけ無駄とも
離脱の間際、最後のプリシラの不敵な指示が思い出される。正直、プリシラの意見でなければ従う価値も
実際、こうしてアルが生きていたから無駄にはならなかったが、これが後々の何に
そんな考えでいたヤエが、ふとアルの雰囲気の変化に目を留めた。
「アル様?」
「────」
よくアルが見せる仕草だが、この瞬間ばかりは普段と異なる印象を覚えて──、
「──やってくれやがる、あの女」
向かう先はヤエがきた方角、すなわち地上の屋敷へ戻る道筋だ。
「アル様、上には敵さんいっぱいいらっしゃいますよ~!?」
「ヤエ、お前は気付かねぇのか?」
「はい? 何に……」
「あの姫さんが、空振りに終わるようなつまらねぇ手を打つかよ。オレやお前がすぐに悪手なんて気付くような馬鹿な手、姫さんが打つとは思えねぇ」
「それは……」
アルの指摘に言葉を詰まらせ、ヤエは自分の行動に不信感を覚えた。確かにそうだ。ヤエ自身、アルの捜索など無意味ではないかと考えていたではないか。
なのに、
「──結局、世界が姫さんに都合のいいように動いてやがんのさ」
そして、そのプリシラがアルを選んだのなら、それがこの場面の最善手なのだと。
「────」
アルが腰裏の
「わんさと敵がいますよ? アル様、百対一とかで勝てるおつもりですか~?」
「百対一どころか、二対一で十分危ねぇよ。てめぇの実力ぐらい
「百対一が、ですか?」
「敵の方が多いって局面だ。百対一と、敵が百人ってのは違ぇ話だぜ、ヤエ」
「────」
「百対一なら勝ち目はねぇが、一対一が百回ならどうだ? 不利には違いねぇが、万一の可能性がありそうな気がしてこねぇか?」
それは、敵が多勢の場合の正攻法だが、彼我の戦力差を思えば荒唐無稽な夢物語だ。
しかし、目の前の男はその針の穴のような
「一万回に一回なんてないも同然……それに、その可能性ならさっき私が使ってしまいましたよ。アル様が生きてるなんて、万一の可能性だと思ってましたし~」
「となると、オレが引き寄せなきゃなんねぇのは二万に一つの可能性ってわけか。オレも男の子だから燃えてくるぜ。──可能性がゼロでなきゃ、こじ開けてやる」
会話するアルとヤエの正面、地上へ
「オレが騒がしくしてる間、お前は屋敷を抜けて『真紅戦線』を拾ってこい。どのみち、寄生された連中は根絶やしにしなきゃならねぇ」
「……本気でやるんですか?」
「何度も言わせんな。決め
それだけ言って、アルが螺旋階段の一段目を踏んだ。これ以上は止めるだけ無粋と、ヤエはその場に丁寧に一礼し、
「私、アル様と奥様のこと、わりと気に入ってましたよ」
「今生の別れみてぇなこと言ってくなよ、縁起悪ぃ」
と、そんなやり取りを交わし、ヤエは素早くアルを追い越して走り出した。
アルにどんな隠し玉があるかは不明だが、命懸けの強がりだったとしてもその意を
この鼻の曲がる悪臭の元凶たちを、薄汚い庭から外へ出さずに駆除するために。
そうして、走るヤエの背後で、最後にアルが
それはヤエにはとんと、意味のわからない言葉で──。
「──領域展開、思考実験開始」
12
眼前の屍人の首を
「────」
次、また次と斬り捨て続けてどれだけ
元々死体が歩き回っていただけなのだから、不自然を自然が
どちらにせよ、死体は死体、これが自然な在り方だ。
こうなると、自分がいったい何をしているのかわからなくなってくるが。
「除霊ってわけでも鎮魂って話でもねぇ。運命の袋小路に入った
あるいはそれさえも、プリシラにとっては
ただ、自らの命運を自らの
たったそれだけのことで、こうまで死力を尽くしている自分の馬鹿さ加減も。
「さて、殺しも殺したり、百三十四体……ヤエの奴、目分量しやがって。百対一よりずっと多いじゃねぇかよ。けど、そろそろ……」
「──そろそろ、こちらの我慢も限界なのよん」
「────」
腐汁で汚れた
「ここだけの話、『女傑』じゃなくて『汚物』って名前に改名した方がよくね?」
「やってくれたわねん、あーた。これだけ数を
「苦労も何も水飲ませただけじゃねぇか。給水所に突っ立ってただけのくせに、マラソンランナーと同じだけ苦労しましたみてぇな面してんじゃねぇよ、デブ」
楽土の建設だのなんだのと、
故に──、
「てめぇを殺して、姫さんを連れ帰る。そろそろ本気で、あの白くて長い足をペロペロしてやるぜ」
「俗物ねん、あーた。そんなあーたに、あたくしたちの使命は邪魔させないわん」
青龍刀を突き付け、
次の瞬間、エッダの鉄油色の肌が膨らみ、異様な凹凸がパツパツの服の下で暴れる。そのまま服が破け、
「────」
それは、エッダが巨体の内に取り込んだ、複数の屍人の集合体だ。手や足が不自然に全身から突き出し、声なき声を上げる亡者の顔が腹や背中に付属する。
異常、異様の存在感に嫌悪を覚え、アルは
「グロい」
「あーたもあたくしの一部にして、あの女の鼻っ柱を折る材料にしてやるわん。そうしてあの女の地位と美貌で、地上に楽土が築かれるのよん──ッ!」
「──ッ!?」
勢いよく身を弾ませ、エッダの巨体が重量感を無視した跳躍でアルへと迫る。それを可能としたのは、取り込んだ死体の不自然な筋力の再利用か。全身からおびただしい量の腐汁をぶちまけて飛ぶ姿、まさしく最悪の敵だ。
地下で出くわした
そして、迫る敵ではなく、その向こうにいる
──ああ、まったく。
だから──、
「死ぃぃぃぃねぇぇぇぇ──!!」
飛んで迫ってくる
それを目の当たりにしながら、アルは軽く肩をすくめ、
「──オレもお前も、星が悪かったのさ」
13
「遅かったな、アル。どれだけ
「……それ、死闘を終えてようやく
どろどろの格好で扉を開けたアルが、その優しくないお出迎えに肩を落とす。
そんなアルを見据え、優雅に足を組み替えるのは屋敷の最奥で囚われのお姫様をやっていたプリシラだ。ただし、彼女はそんな不安な立場の影響など
「それに
「男が妾に
「本気で万に一つの勝ち目ってぐらい苦戦したけど……ま、姫さんが自分でやりてぇかと思ってな。動けないようにして転がしてあるよ」
「ふむ、よいぞ。褒めて遣わす」
言いながら、ゆるりと席を立ったプリシラがアルの隣を堂々と抜ける。その
そして、最奥の部屋を離れ、しばらく進んだ先で──、
「ぅ、あ、ぅ……」
「ふん。何とも、滑稽な姿に成り果てたものよな」
そう言ったプリシラの足下には、エッダ・レイファストだったものが転がっている。
その姿は無惨の一言──
彼女の太い指を芋虫と形容したが、本体がそうなるとは笑い話にもならない。
「貴様が醜く泣きじゃくり、命乞いする様を見物して
「あ、ーた……あれ、は、なん、なのん。あんな、何も、かもを……」
それが、自分をこんな姿にした相手、アルへの言及だとわかっていながら、プリシラは何らそれに答えず、中空から美しい紅の宝剣を抜き放った。
一度
「日輪は陰ろうと、
「どう、せ……あーたも、あたくし、と……」
何事か、負け惜しみを口にしようとした顔面に剣先が刺さった。強制的に沈黙を選ばされ、目を
そのまま、エッダを始点とした炎は壁や床に燃え移り、屋敷そのものを焼き尽くす大火となるための
「──姫さん、体は何ともねぇのか?」
そうして炎が広がるのを目にしながら、アルがプリシラの背中に問いかけた。
故に、プリシラにまで屍人と化す寄生体が入り込んだとは考えたくないが──、
「
「妾の完璧な体を『ぞんび』と変えるための無粋な手入れか?」
「────」
振り返るプリシラの視線を受け、アルは思わず押し黙った。彼女の紅の
その無風の視線に戸惑うアルへ、プリシラはふっと唇を緩めた。
「案ずるな。仮に妾の内が異物に
「取り除く手段って……あ」
寄生体に
ただし──、
「こ、ここにはヤエとかシュルトちゃんはいねぇぞ? 唯一、最後に残ってた同性も今しがた姫さんが焼いちまったし……」
「たわけ。焼け残っていたとして、誰が二つの意味で腐った唇に
「いや、それは……」
じろりとプリシラに
「ま、待て、姫さん! ほら、屋敷が燃えてるし、そんな場合じゃ……」
「
ゆるゆると首を横に振るが、プリシラはそんな拒絶をものともしない。触れることもおぞましい汚物に
そして──、
「──何度見ても、醜悪な目つきよな」
そんな一言に続いて、黒い兜が床の上に落ちる甲高い音が燃える屋敷に響いた。
14
「さすが奥様でしたね~。ご自身もお味方も無事、お見事でした」
「当然じゃ。が、称賛の言葉は心地良い。好きなだけ賛美せよ」
「はは~」
と、バーリエル邸の私室へ戻り、爪の手入れをさせるプリシラにヤエは平伏する。
すでにエッダ・レイファスト──
始まりから終わりまで、ほとんどの物語をプリシラは自身の力で解決した。無論、そこに一握の助力をした自負はヤエにもあるが、本当に一握だけだ。
全てはプリシラの
「手が止まったな、ヤエ」
「……おっと、ごめんなさい、奥様。ちょっとだけ考え事を」
「ほう、妾の世話の
「え~と、ほら、あれですよ。私が『真紅戦線』を連れて戻って、燃える屋敷の前で奥様たちと合流したときです。あのとき、アル様ったらやけに落ち着きがなくありませんでした? いえ、いつも落ち着きがないっていえばないんですが~」
もちろん、死線を
正直、屋敷の前で二人の姿を見つけたとき、ヤエは生涯で一番驚いた自信がある。それを顔に出さなかっただけ、自分で自分を褒めたいぐらい。
ただ、そんな高揚感では説明のつかないしどろもどろが、あのときのアルにはあった気がしたのだ。
「あれも馬鹿な男じゃからな」
そんなヤエの疑問に、プリシラの返答は答えになっているようでなっていない。中核に触れないふわふわした答えだが、それ以上を語るつもりは彼女にはなさそうだ。
「──はい、奥様。お手入れ終わりました。相変わらず、
煙に巻かれた気分のまま、ヤエはプリシラの爪の手入れを終える。言葉は世辞ではなく、プリシラの生来の美貌は本当に指先にまで通じている。
全身、どこを取っても美の塊だ。同じ女として信じ
「このまま、シュルトちゃんをお呼びします? いつも通り添い寝して……」
「今夜はいい。万が一もあるまいが、一晩は様子を見る。酒杯から
「なるほど。……奥様の体を奪おうなんて、
真紅の宝剣の力があれば、プリシラは自在に焼きたいものだけを焼ける。自分の体内に入った異物など、真っ先に焼かれて
「では、奥様、お疲れでしょうから私はこれで。アル様もぐったりなさっていましたし、どうぞごゆっくりお休みください」
「うむ。──ヤエ、大儀であった」
一礼し、部屋を辞そうとするヤエにプリシラがねぎらいの言葉をかける。それを受け取り、ヤエは一層深く頭を下げると、足音も立てずに
それからふと、ああも自然にプリシラにねぎらわれたのは初めてのことだと気付く。
さしものプリシラも、今日のことは大仕事だったと認めてくれたわけだ。ヤエも、単なる侍従にあるまじき働きを求められ、疲労と充実感がとんとんといったところ。
正直言って、今日一日は最悪の日だったが──悪くは、なかった。プリシラの下、バーリエル邸で働くようになって、一番興が乗った日だったと思える。
「何とも、因果な
自分の
楽しかった。悪くなかった。これからも、こんな日が続くならと思わなくもなかった。
だから──、
「──そこまでだ」
月が雲に隠れ、虫の歌声も聞こえぬ夜の
「────」
足を止め、息を止め、ヤエは心の震えを止めて、振り返る。
声に聞き覚えはあった。ただ、その声がここまで冷然としていた記憶はない。
そのことと、そもそもの状況を不審に思いながら、ヤエは常の笑顔を作った。
「アル様ですか~? こんな夜更けにどうされたんです?」
「────」
「今日はお疲れだったでしょうし、ゆっくりお休みだったと思いましたのに。それとも、人を斬りすぎて
「姫さんの部屋だな。ああ、わかってるぜ」
静かな口調に遮られ、ヤエは口を
まだだ。まだ、終わっていない。まだわからない。まだ取り繕える。
まだ、この日々を、時間を、終わらせないでいられるはずだ。
「わかってるならなおさらです。そりゃ~、どうせ
「困ったときほどよく
「────」
「もういっぺん言うぜ。この先は姫さんの部屋だ。お前はこんな夜に何しにいくんだ?」
確信めいたアルの言葉を受け、ヤエは短く息を詰めると肩を落とした。ゆるゆると首を横に振ると、束ねた赤髪が夜の中で残酷に揺れる。
ここまでと、諦めの悪いヤエの心情がそんな結論を下した。
「私、わりと完璧だったと思うんですけど、どうしてわかったんです?」
「安心しろ、お前は完璧だった。オレがちっとばかしズルして、カンニングしてるってだけさ。……オレも、できりゃぁ信じたくねぇ答えだったけどな」
「相変わらず、アル様の言葉は難しくて、学のない私にはわかりませんね~」
それがヤエの狙いを察した敵意だったのか、それ以外だったのかはわからない。わからないまま、ヤエとアルとの関係は終わりを迎える。
「……この場を見逃してくれれば、私、アル様には何の危害も加えませんよ~?」
「代わりに取られるもんがなけりゃ、それを聞いてやったかもしれねぇな」
「ですか~。はい、残念です。でも、それなら──」
と、ヤエは
「ぐ」
「アル様のこと、嫌いじゃありませんでしたよ」
と、苦鳴を漏らし、心臓を
勘のいいプリシラだ。このアルと自分の
「──仕事を果たしたかった、んですけどね~」
背後、自分の首筋に
その胸に突き立ったはずのクナイ、それが床に落ちると、その先端が服の胸元に仕込まれていた板切れに刺さっているのが見える。
それはまるで、ヤエの投じたクナイの狙いがわかっていたかのように。
「言ったろ? カンニングしたんだよ。お前がオレを殺すタイミングも、全部な」
「わけがわかりません。……私が諦めるって言えば、やめてくれますか?」
「……本気でお前が寝返るつもりなら、考えた。今朝までならな」
虫がいいとわかりつつの問いかけに、アルは苦しげに不思議な答えを返した。
今朝までなら話は違ったと。ヤエの提案を、受けるかどうか考えたかもしれないと。
だが、今は悩むことすらない。そして、その切っ掛けは──、
「グズグズの死体の山で、プリシラがオレを選んだ。だから、オレも選び返す。──ヤエ・テンゼン。お前はプリシラを殺す女だ。二度は殺させない」
「……一度も成功してませんよ?」
「そうだな。それを確定させるために、不確定の芽は全部摘む」
意味のわからないアルの発言に、ヤエはゾッと
使命感ではなく、仕事だからでもない。ヤエは自分の本能と技術に懸けて、この男を殺さなくてはならないと考えた。
「悪いな。オレもお前も、運が……いや」
「し──っ!」
刹那、ヤエは身を
その瞬間、黒光りする刃が届かんとする間際、声が聞こえた。
声が。
「──星が悪かったんだよ」
──翌日、バーリエル邸から一人の侍従が家庭の事情で職を辞した。
辞めた侍従は前日の、バーリエル領で発生した異常事態にひどく心を痛めていたと、プリシラに仕える
彼女の同僚であった侍従たちは、それに強く同情したが、一人、また一人と忙しい日々に埋没し、辞めた同僚への関心は少しずつ薄れていって。
──桃髪の少年執事だけが、別れを言えなかったことをずっと惜しみ続ける。
たったそれだけの出来事として、その存在は歴史の陰に隠されていくのであった。
15
──バーリエル領で起こり、収束した異変。これは、その蛇足のようなものだ。
「────」
暗く、湿った空間の奥底に、一つの小さな人影が存在していた。それは厳重な拘束に
暗闇の中、少女は身じろぎすることもなく、静かに時の経過を待ち続けている。
やがて、その少女の下へと、
百、二百、千、二千を越えようかという膨大な数の鼠が、暗がりの中で囚われの身となった少女を取り囲み、鳴き声も上げずに足を止めていた。
幼い少女の体ぐらい、この数の鼠が集まればものの数分で骨も残さず食い尽くせる。しかし、鼠が集まった目的は、決して彼女を獲物とみなしてではなかった。
むしろ、その逆だ。──鼠は少女を獲物ではなく、特別なモノとして崇めている。
それは女王へと向ける忠誠、本能の支配だけが成立させる、ありえざる凶気の結実、自由意思を失った鼠たちは、『
その忠誠、女王へ向けるモノとした表現さえも
全てを支配し、あらゆるモノを利用して、楽土を作り出し、造物主を迎えよう。
そんな、思わぬ我が子らの暴走を理解して、しかし、少女は静かに時を待つ。
それまでは──、
「──要・熟考、です」
《了》
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