夏祭りをあなたと

遠部右喬

第1話

 私が初めてお兄さんに出会ったのは、小学三年生の夏祭りの時だった。


 毎年、家の近くの神社で行われる夏祭り。引っ込み思案だった私を誘ってくれる友達なんて居なかったし、お父さんもお母さんも仕事で帰りが遅いから、私がお祭りに参加出来ないことはほぼ決定していた。


「一人で出掛けたら駄目だよ」


 そう言われてはいたけれど、宿題も終わらせてしまっていたし、塾通いや習い事をしている訳でも無くて、テレビもちっとも面白くない。外からは時折、お祭り囃子と楽し気な賑わいが風に乗って聞こえてくる。


 日が傾き始め、そろそろ空気に夜の匂いが混じり始める頃、とうとう我慢できなくなった私は不用心にも一人で家を抜け出した。


 すぐに帰れば大丈夫……そう自分に言い聞かせ、そっと玄関を開けた。お隣のおじさんおばさんに見咎められない様に家を抜け出す。悪いことをしてると分かってたけど、冒険物語の主人公になったようでドキドキしながら、


(うん、誰にも見られてない)


 左右をしっかり確認し、お祭り囃子に向かって駆け出した。


 

 神社の参道には沢山の屋台が並んでいたけど、あまりお小遣いを持っていなかったし、買い食いなんてしたら晩御飯が食べられなくなってしまう。そうしたら、芋づる式に家を抜け出した事が親にバレてしまうだろう。残念だけど、眺めるだけ。それでも十分に楽しかった……最初の内は。

 親や友達と楽しそうにしている子達や、嬉しそうに手を繋ぐ浴衣姿のカップルたちを見ている内に、段々と寂しさが募る。なんだかいつもより独りぼっちになったみたいで、もう帰ろうかな、と思い始めた時だ。


「あれ、君、一人かな? お父さんやお母さんは? もしかして、迷子かい?」


 お祭りの見回りをしているらしいおじいさんに声を掛けられた。


 ――迷子センターに連れて行かれたら、お父さんとお母さんに連絡されてしまう。きっと、酷く怒られる。


「あっ、おおい!」


 私はおじいさんを振り切って、雑踏に飛び込んだ。


 どれくらい走ったのか、気付くと、私は見覚えの無い雑木林に一人で立っていた。日はすっかり暮れてしまったのか、辺りは随分と暗くて、樹々のシルエットがなんとかわかる位だった。神社の本殿もどこにも見当たらないし、お祭りの喧騒もやけに遠くに聞こえる。


(どうしよう、本当に迷子になっちゃった)


 恐ろしさと心細さに泣き出した私の背後で、草を踏みしめる気配がした。


「あれ、迷子かな?」


 振り向くと、いつの間にか浴衣姿の綺麗なお兄さんが立っていた。泣きながら頷く私に、お兄さんは困った顔をして、


「こんな所まで来たら駄目だよ」


 腰を屈めて私の右手を取り、浴衣の袂からハンカチを取り出した。


「折角の可愛い顔に、涙の跡が付いちゃってるよ。これで拭いて」


 渡された真っ白なハンカチで頬を拭うと、お香のようないい香りがふわっと広がる。それが何だかくすぐったくて、誤魔化すように私は訊ねた。


「あの、ここはどこですか?」

「神社の奥の奥だよ」


 私は首を傾げた。確かに神社の奥は雑木林になってるけど、本殿が見えなくなるほど深くは無かった筈だ。

 怪訝そうな私に、お兄さんが手を差し出した。


「そこまで送ってあげる」


 私はどぎまぎしながら、ハンカチを持ってない方の手でお兄さんの手を取った。現金なことに、その頃には私の涙はすっかり止まっていた。


 私達はぽつぽつと話しながら、ゆっくりと雑木林を歩いた。

 学校のこと。

 家のこと。

 知らない人に個人情報を喋ったらいけないかも、とは思ったけれど、お兄さんは悪い人に見えなかったし、私の他愛ない話を楽しそうに聞いてくれて、それが凄く嬉しかった。

 しばらく歩いていると、賑やかなお囃子が聞こえて来た。お兄さんが手を解き、優しく私の背中を押す。


「ほら、もう一人で帰れるね?」


 いつの間にか、目の先に本殿の裏側が見えていた。私は頷きかけ、手に握ったままだったハンカチの事を思い出した。


「これ、ありがとうございました。洗って返します。明日も会えますか?」


 すっかりしわになってしまったそれをそのまま返すなんて出来なかったし、何よりも、お兄さんにまた会いたかった。

 お兄さんは笑って、


「明日は無理かな」

「じゃあ、いつならいいですか?」

「……来年のお祭りに。もしも君が忘れてなかったら」

「忘れません」


 私の言葉に、お兄さんはなんだか寂しそうな顔をして、もう一度私の背を押した。


「もう行きなさい。気を付けてね」

「はい」


 少し歩いて振り返ると、もうお兄さんの姿は無かった。

 雑木林の中は随分と暗く感じたけど、周囲にはまだ少し明るさが残っている。私は胸を撫で下ろし、急いで家に帰った。

 幸い、お父さん達に私の外出がばれることは無かった。次の日の昼間、神社の雑木林を訪れてみたけど、やっぱり本殿や拝殿が見えなくなる程深くも無かったし、少し待ってみてもお兄さんは現れなかった。



 次の年の夏祭り。夕暮れ時。

 きちんと洗ってアイロンをかけた真っ白なハンカチを持って、私はまた家を抜け出して神社へと向かった。

 参道の屋台に目もくれず、見回りの人に見つからない様に注意しながら、本殿裏の雑木林に分け入る。やがて、段々とお祭りの喧騒が遠のいていき、


「本当に来たんだね」


 驚いた様な声と共に、一年前と同じ浴衣姿のお兄さんが木の影から現れた。


「約束したから」

「……時間も決めてないのに?」


 祭り囃子が微かに響く雑木林の中で、お兄さんが柔らかく笑った。でも私は確信していた。


「絶対に会えると思ったから」


 そう答えると、お兄さんが「そっか」と小さく呟いて微笑んだ。

 私はボディバッグから借りていたハンカチを取り出した。ちゃんと洗濯したのに、一年経っても未だにいい香りのするそれを手放すのは少し寂しかったけけど、


「これ、ありがとうございました」

「うん」


 お兄さんがハンカチを受け取り、たもとにしまう。その優雅な腕の動きをうっとりと眺めていたら、目が合った。自分でも驚く程、顔が熱くなる。慌てて、聞かれてもいない昨日読んだ漫画のことなどを矢継ぎ早に話し続けた。

 お兄さんはそれを優しい顔でじっと聞いてくれて、やがて、


「もう帰りなさい。そこまで送ってあげる」


 一年前と同じように手を差し出した。その手を取り、雑木林を並んで歩く。


「また、会えますか」


 歩きながらお兄さんを見上げて訊ねると、


「……来年のお祭りに。もしも君が忘れてなかったら」


 一年前とまったく同じ言葉が返って来る。


「忘れません」


 私も一年前と同じ言葉を返すと、僅かな微笑みが返って来た。

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