第6話 オフィール

 頬に冷たい感触がする。


「う……」


 それが自分の口から出たうめき声だと理解するのに時間がかかった。

 がたがたと不安定な音と振動で体が軋む。

 勝手に閉じていた目を開くと、赤いものが見えた。その赤いものは液体のようでガタガタという振動でつぅぅっと左右にゆっくりと動き伝っていった。


 その赤いものを辿り、紫紺の髪が見えて思わず息を呑んだ。


「……起きた、のか」


 デライラよりもずっと低い掠れた声。

 彼女の兄であるテオドールがあお向けで胸から腹辺りまで斬られて血を流した状態で倒れていた。灰色の目は閉じそうになりながらかろうじてこちらを見ていた。


「い、一体、何が……?」


 自分を見回しても手足を縛られている以外に外傷はない。しかも荷馬車のようなものでどこかへ運ばれている最中のようだった。


 おかしい。ロイドが誰かに襲われて、回復魔法を使っている最中に私はテオドールに気絶させられたと思ったのに。

 どうして、テオドールは誰かに斬りつけられたような重篤な怪我をしているんだ? 私は情けないことに何の防御も反撃もできなかった。


 テオドールの視線を追うと、やや後方にロイドも縛られた状態で倒れていた。


「ロ、ロイド!」


 みっともなさなどかなぐり捨てて、虫のように這ってロイドのところにたどり着く。

 幸い、目を閉じたロイドの顔は青白いものの胸は上下しており生きている。


 荷馬車で運ばれているのは私たち三人だけのようだった。

 手足を縛られているので、ロイドの腕に額をくっつけてもう一度回復魔法をかける。どこかに触れていないとかからないからだ。


 ロイドにかけ終わってから、テオドールを注意深く観察した。

 武器を携帯しておらず、切り傷は深い。血をかなり流しており重傷だ。このままでは出血多量で死ぬだろう。


 しかし、回復魔法をすぐにかけるのはためらわれた。

 彼が味方かどうか判断がつかない。むしろ、気を失う寸前の状況を振り返ると敵である可能性が高い。


 荷馬車はなかなかの速度で進んでいて、私は身を起こしていたがすぐにまた振動で床に投げ出された。


 あまりの情けなさに奥歯を噛みしめる。

 おそらく、私は誘拐された。あの丘で殺しても良かったはずなのにわざわざ誘拐である。しかし、目の前のテオドールが首謀者ではない。彼以外の誰かだ。あるいは、仲間割れでも起こしたのか。


 デライラはどうなっただろうか。

 森に大型の魔物が出てライナーと一緒に走って行って……あの煙は? まさか森が燃えていたんじゃないだろうか。ドラゴンは?


 考えろ。ちゃんと考えるんだ。

 何でこんなことになっている? ロイドを一緒に攫ったのはきっと私に言うことを聞かせるため、脅すためだ。

 じゃあ、この斬られたテオドールは? 放っておいても死にそうだから証拠を残さないためか? 犯行現場をバレないようにするため?


 考えろ、考えるんだ。

 このままではデライラに迷惑がかかる。

 魔物との戦いで誰かが怪我をしていたら誰が治すんだ。私は救護に向かわなければいけない。


 ――お前なんてエストラーダ領に必要ないじゃないか。無様で情けない落ちぶれた元王族のお前なんて。


 頭を振ったが、頭の片隅で発生したその声は私の行動に反してだんだん大きくなった。私はその声を無視しようとして必死で頭を働かせる。


 また王妃と異母弟の起こしたことだったら? 彼らが首謀者なら私を殺すだろう。いや、今度は回復魔法目当てで監禁するつもりだろうか。

 魔物が出る騒動を起こしてデライラと私を引き離して誘拐を企てたのだとしたら?


 デライラは強い。ライナーだっている。サムエルたちだって。

 私がいたってせいぜい回復魔法を使えるだけだ。魔の森に入って、魔物を狩れるわけじゃない。彼女は私がいなくても困らない。押し付けられた夫などいなくても。

いや、怪我や毒で誰か死ぬかもしれない。私がいれば誰も死なない。


 ――本当に? お前は母親を救えなかったじゃないか。


 そんな声が頭の片隅で聞こえて、呼吸が一瞬できなくなる。

 そんなことはない。母は病で……。あれ、どうして私は母に回復魔法を使わなかったんだ? 乳母やロイドに使った覚えはあるのに母にはない。

 いつから、私は回復魔法を使えた……? 母が死んでからじゃなかったか?


 ――そう、お前はそれまで自分に無意識にしか回復魔法を使えなかった。覚えてないのか? 死んだ母親の横で、乳母が泣いているお前を抱きしめて背中を撫でてくれただろう。「殿下は悪くありません。決して悪くありません。殿下のせいじゃありません」と。


 この声はなんだ? 自分の声にとてもよく似ている。でも、私はそんなこと覚えてない! 母に回復魔法を使ってなど……。それに私はこんな口調で喋らない!


――お前は使おうとしたさ。愛する大切な母のために。でも使えなかった。一番肝心な時に使えなかった。


 嘘だ、嘘だ。そんなことあり得ない。


 ――教えてやるよ。ショックで忘れてるんだよ。毒を盛られてて回復魔法を自分優先にしか使えなかったんだよ。だから、お前は母親に回復魔法を使おうとしても使えなかった。意識的に使ったことなかったしな。


 頭が痛い。心臓も痛い。

 そんなこと覚えてない。でも、私はどうして母のために回復魔法を使った覚えがないんだ? どうして?

 どうして、あの時、乳母は「殿下は悪くない」って言ったんだ?


 頭の片隅で何かが割れる音がする。呼吸が浅く速くなって吸っているはずなのに酸素が足りない。


「裏切者が、いた」


 そんな声が聞こえて、ハッと私は意識を声ではなく目の前に戻した。

 テオドールがこちらを見ながらゆっくり口を開いている。血を流しすぎているから言葉が途切れ途切れだ。


「それが、ずっと、誰なのか、分からなかった」


 テオドールの掠れた声よりも自分の心臓の音が耳に大きく響いていた。

 彼の言葉を信用していいのか分からない。大嘘かもしれない。私を騙して回復魔法をかけさせて、首でも絞めるか馬車から下りて別の場所に誘拐されるかもしれない。


 エストラーダに来て、デライラに会って、落ちぶれた無様で無力な第一王子オフィールはいなくなったと思っていた。

 それは酷い勘違いだった。


 テオドールの様子が自分の母の様子に重なる。

 あぁ、母は、母は病で死んだのではなかった。どうしてそう信じ込んでいたんだ。あの日、私と母は猛毒を盛られたのだ。王族で毒見までいたにもかかわらず。


 猛毒で苦しむ母を横に、私は自分自身に回復魔法を無意識に巡らせたのだ。意識が戻った時には母は死んでいた。


 ――いいや、お前は猛毒に苦しみながらも母親に手を伸ばした。あれは泣けたね。魔力の配分がへったくそで回復魔法をかけられなかったが。猛毒で混濁した意識とその後のショックで忘れたんだよ。


 うるさい、うるさい!

 どうして忘れていたんだろう。あんなに重要なことを。


 そして、私は全然変わっていない。


 あの日、猛毒に苦しむ母に回復魔法を使えなかった私と成すすべなく誘拐されて何を信じればいいのか分からない今の自分。


 握りしめた拳にテオドールの流した血が触れる。

 私はあの日から何にも、何にも変わっていないじゃないか。


 私と母に猛毒が盛られたなんておかしいじゃないか。母は王妃だったのに。父の手引きがあったか、現王妃の勢力が仕組んだに違いないのに。

 私は何を呑気に忘れて、ずっとのうのうと一人毒を盛られながらも生き永らえていたのだろう。


 全然、全然変わってない。

 デライラの側にいて強くなって変わったつもりで全然変わってない。彼女の勇敢さと強さに側で感化されていただけで、私は何一つ変わってない。


 母さん。私は無様で情けなくて肝心な時に役に立たないままなのかな。

 デライラは? デライラは無事なのか。


 ――なぁ。また、お前は一番大切なものを守れないのか?


 そんな声が聞こえたのと同時に馬車が急停車した。

 流れた血と一緒に私も床を少し滑った。

 そして、勢い良く扉が開いて現れた人物に私は目を見張った。

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