第7話 水茄子の堅実さ

 相川あいかわさんは千利休せんのりきゅうで唇を湿らすと、また穏やかな表情で口を開く。


「ご援助はさすがに断りましたけど、奨学金返済分はありがたくいただくことにしました。ほんまに奇跡が起きた気分です。ほんまやったら自分で返すんが筋なんでしょうけど、お相手さんのご厚意でもありますし。って、都合良すぎですかね」


 そんなことを言いながら、苦笑を浮かべる。世都は「いいえ」と首を振った。


「今までご苦労されたんですから、当然の権利っちゅうか、受け取ってええご厚意やと思いますよ」


「苦労……、あんま苦労してきた実感は無いんですけどね」


「それは麻痺してます。はたから見たら、相川さんのこれまではめっちゃハードモードですからね」


「そうなんですかねぇ」


 ご祖父母が亡くなり、お母さまとふたりになってから、相川さんは相当大変だったはずだ。お母さまはお仕事の都合で夜は家にいなかっただろうし、ネグレクトというのだからお世話もされておらず、家事などもしていたかどうかも怪しい。


 それでも相川さんはこんなにも立派に成長した。これからは、これまでのことを帳消しにするほどに幸せになって欲しい。


 結婚だってきっと祝福されるはずだ。それをはばんでいた奨学金の返済が解消するのだから。


「これからですよ、相川さん。きっとこれからの相川さんには、たーくさんのええことが待ってますよ!」


 世都が満面の笑顔で言うと、相川さんはほがらかな笑みを浮かべた。ああ、なんて美しいのだろう。


「それやったら嬉しいです」




「凄いな。こんな漫画みたいな話、ほんまにあるんやなぁ」


 高階さんが感心した様に言いながら、東洋美人とうようびじん純米大吟醸壱番纏いちばんまといを傾ける。


 東洋美人は山口県の澄川すみかわ酒造場さんが醸す日本酒だ。フルーティな甘さが際立っているのだが、かすかな酸味が全体を引き締めている。


 お惣菜は水茄子の塩昆布漬けである。水茄子は泉州せんしゅう地域で栽培される大阪の特産品だ。見た目は丸く、形は京都の賀茂茄子や米茄子に似ている。


 一般的な細長いお茄子と比べると水分が多くて瑞々しく、生食に適している。さっくりとした歯応えで、そっと噛み締めると爽やかなジュースが溢れてくるのだ。シーズンになれば百貨店やスーパーなどでは生はもちろん、浅漬けやぬか漬けなどが並ぶ。


 塩昆布漬けは水茄子を厚めの半月切りやいちょう切りにし、ナイロン袋に塩昆布と一緒に入れて、袋越しにがしがしと揉んで作る。水茄子に昆布の旨味とほのかな塩気がまとい、良い味わいになるのだ。


 漫画みたいな話。言われずとも相川さんのことだと分かる。世都もそう思う。お相手にとって相川さんは結婚相手の娘である。当時の相川さんの年齢だと、本来なら生計をともにしてもおかしくは無い。なのにそうはならなかった。


 なので冷たい様だが、お相手に相川さんを助ける義理は無いと言える。事態を引き起こしたのはお母さまで、本来ならお母さまが請け負うことなのだ。


 だがきっとお母さまには生活能力が無い。恐らく結婚以降はお相手に寄り掛かって生きて来たのだろう。だから相川さんの現状を招いたのだ。


 相川さんに生活費を渡せるほどのお金は動かせたそうで、それだけは幸いだった。曲がりなりにも親として、それだけはと思ったのだろう。罪悪感もあったのかも知れない。


 それでも相川さんは折れず、自らの道を築き上げて来た。きっとまだまだ道半ばだ。そしてこれからの相川さんの前途に、輝く光がぱぁっと差した。


「ほんまですね。でもこれで、相川さんはもっともっとええ様になりますよ」


「せやな。なんや酒もいつもより旨く感じるわ。あ、せやから相川さん、いつもは迷わず千利休やのに、今日は迷いはったんや。これからは過度な節約いらんくなるもんなぁ」


「それでも結局千利休を頼まはるところに、相川さんの堅実けんじつさが表れてる感じがしますよねぇ」


「ほんまやな」


 高階さんはおかしそうに、くつくつと笑った。

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