主人公だけの世界

ふつうのひと

第1章

第1話 You'll drown in me!

 ───逃げなければ、逃げなければ。これは本気でシャレにならない。


 口から漏れる熱い息は、冷たい頬を刺激し熱を与えていく。

 身体の震えを押し殺し、ひたすらに足を動かす。前へ前へと進んでいる足は先程から無駄な動きが多く、体力の消耗を促進しているような気がする。

 しかし、そんな事を気にする余裕も無く、ただひたすらに足を動かした。


「────」


 すぐ後ろ、本当にすぐ後ろで鳴り響く轟音は、鼓膜をやや激しめにノックしながら、確実に恐怖を植え付けていく。

 後ろを振り返る余裕なんてある訳が無いが、恐らく当たれば即死級の技が連発されているに違いない。轟音が鳴る度に軽い地震が起きているのが良い証拠だ。


 ───生きなければ、何とかしてこの場から離れなければ。


 誰が、何のために、どのような技で、自分を殺そうとしているのかは分からないが、足を止めて無事で済むわけがない事だけは、余裕が無く矮小化した脳みそでも理解が出来た。

 必死に手を振り空気を掻き分け、微かな希望を捨てないように視線だけは前を向いている。それがどんな効力を成すのか、生き残ることに繋がるのか。恐らく得られる効力など、意味など無いだろう。

 ただ必死に縋っているだけ。足掻いているだけ。そんな事は百も承知で、必死に手足を動かしている。


「クッソ....!何だってこんな...こんな...!」


 既に底を尽きそうな体力と酸素をひねり出し、弱々しい虫の音のような声で、自身の運の悪さを恨む。


 あぁ、もしのような成功作だったら、のように世界に愛されていたら。

 もしも自分が────


 言葉は続かず、中途半端なタイミングで鋭い痛みが右肩を襲う。筋肉が急速に縮むような感覚を味わいながら、肩の肉を離すまいと刺さった異物が何かを判断する。

 肉を抉るほどの鋭利なもの、肩に刺さった直後の鋭い痛み、そしてあまり深くは刺さらない程度の大きさ。

 これらから推測するに、ナイフのようなものが肩に刺さったのだろう。

 それを理解した途端、止まっていたかのように無反応だった脳が警鐘を鳴らすように激しい頭痛を訴える。同時に、肩を中心に熱が広がり、身体から力が抜けていく。

 全力疾走だった状態から、やがてふらふらと歩いているような状態にまで落ち、絶え間なく響く轟音が死のカウントダウンの如く鼓膜を震わせる。


「こんな.....ところで」


 道端に落ちていた、ただの石っころに躓き、身体は受け身も取ろうとせずに地面に倒れ伏す。

 地面に激突した頬に小石が刺さり、痛い。

 倒れた拍子に抜け落ちたナイフが残した、悪寒と激痛が、耐えられない程に痛い。


 必死に生き永らえようと、必死に空気を吸い込み、吐く。しかし、口から出たのは血液が混同した胃液だった。

 口の中が妙に酸っぱくなり、有り得ない程に熱く舌を、歯茎を焦がす。

 地面に撒き散らされた胃液は顔面を汚し、目を刺激する。

 そんな醜い姿で、生きる気力も失った状態で、片方の視界に確かに捉える。


 一本の白く綺麗な細い足が視界を彩った。

 今までに見たことの無いような、ほとんど肉も付いてない完璧な、理想の肌色と足だった。

 それは何と美しく、完璧で、綺麗で、美白で、脚線美で、艶やかで魅力的で可憐で端正で蠱惑的で妖艶で、ああ、なんて美しいのだろう。


「───った....ない.......もっと....思っ......で...が」


 何を言っているかは聞き取れない。もう、一言一句を正確に聞ける聴力も残っちゃいない。

 ただ、それは美しい声だった。誰もが美声と認め、それだけで好意を持ててしまうような、透き通った大人しめの女声だった。

 途切れ途切れの声を耳に入れ、脳で咀嚼しているだけで、虜になってしまいそうな、そんな────


「異....常...だ。どう........して」


 異常だ。

 どうして、こんなにも心は穏やかになっているのだろう。身体が激しい疲れをさっぱり忘れてしまったかのように、まるで何事も無かったかのように、綺麗に呼吸が整えられ、痛みも無くなっている。


 そして、頭の中で「この人なら信用出来る。救ってくれる」そう信じきっている自分がいることに、異常性を感じたのだ。

 そもそも、こんな状況で、こんな状態の自分を見て、何故悠長に話しかけられる。何故、何故────


 白い指に抉り取られた2つの眼球は、なおも目の前の女を見つめているのだろう。


「ふふ.......かわ....眠っ.....ね」


 ───逃げなければ、逃げなければ。これは本気でシャレにならない。


 あぁもう、逃げても無駄だ。

 そう、本能で理解出来た。ジュワジュワと、眼球が入っていた場所に広がっていく嫌な痛み、感覚を失った右腕、聴力を失った両耳、薄れゆく意識。

 急に痛みが引いたから、心臓の鼓動がほとんど感じれなくなったから、生きる気力を失ったから、もう、死は寸前にあるんだなと理解、した。

 生き残れる道筋が立てられない。例え生き残ったとしても、この身体じゃあ最早生き地獄だろう。



 あぁ、全てが無に堕ちていく。

 何でだろう、どこで間違えたのだろう。

 ただ、欲しかっただけなのだ。心の底から、喉から手が出るほど、欲していただけなのだ。

 圧倒的な強さを、才能を、決して挫けない百折不撓の心を。

 それら全ては、いつでも物語の主人公が持っていた。

 ただ、欲しかったんだ。主人公の力を、全てを。手に入れたかっただけなんだ。


「───みん...なの....英雄....が...今......た...すけに.....行く.....ぞ...」



 叶いもしない、聞くに絶えない願いを胸に燃やし続けた。



「だっ...て.....俺は....勇...者.....だか.....ら」



 欲し続けた。




 主人公という、【永遠の肩書き】を。

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