第13章:紫陽花のあいだの言葉
夢蛍祭のあとの日々は、重たい八月の空のように長く伸びていった――昼は眩しいほど明るく、夜はゆるやかで息苦しい。
美優は長い休みを、小さな静かな習慣で満たしていた。
朝の光が薄いカーテンを通り抜け、彼女の好みよりも早く目を覚まさせる。祖母と一緒に低い卓に腰掛け、冷えたスイカを食べながら長居する。果汁が手首を伝い落ち、扇風機はのんびりと軋みながら回っていた。
ときどき、二筋先の古本屋に足を運ぶ。冷房の空気には古い紙と松の洗剤の匂いがかすかに混ざっていた。別の日には、アパートの細いベランダに腰を下ろし、膝の上にスケッチブックを広げる。紫陽花を描いても思うようにいかず――花びらが硬すぎたり、柔らかすぎたり――それでも鉛筆で輪郭を優しくこすり、ぼかしながら挑み続けた。
そしていつも、指には星の形の指輪がひんやりと光っていた。
淡いピンクは弱い日差しの中でも輝き、ラベンダー色の輪は空の青をかすかに映した。
世界が静まるたびに、無意識にそれを回す。
――これは誰かのためではない。夢からのもの。わたしのもの。
その想いは静かな鼓動のように繰り返される。そのたびに胸がきゅっと締めつけられ、理由は分からなかった。
一週間が、二週間にすべり込む。
ある夕暮れ、外で蝉が鳴く中、スマホの画面が薄暗い部屋を照らした。
夢「明日、空いてる?」
夢「駅の近くの公園。4時。」
美優は一瞬、時が止まったように固まった。扇風機の音が急に大きく聞こえる。祭りの夜以来、話していなかった。アイドルは忙しいから、と自分に言い聞かせてきたが、画面に「夢」の名前が浮かぶだけで胸が熱くはやく波打った。
親指が宙を迷う。
美優「うん」
胸の高鳴りに対してあまりに小さな文字に思えたが、考えすぎる前に送信していた。
翌日、空気は湿った布のように肌にまとわりついた。
駅近くの小さな公園は、商店街の喧騒をクスノキの並木が遮っていた。小道は砂利が敷かれ、色褪せた紫陽花の花壇を曲がりくねっていた。陽にさらされ色が抜け、縁は紙のように茶色く乾いている。土の温もりと潰れた葉の青い匂いが混ざり合っていた。
美優は早めに着き、砂利を踏みしめながら進む。いちばん濃い木陰のベンチを選び、落ち着かない足の動きを抑えようとした。
――指輪に気づかれたら?
彼女は指をひねり、光を受けた星が瞬く。
夢が姿を現した瞬間、世界はふっと静まった。
黒いバケットハットに顔を隠し、白いマスクで口元を覆っている。それでも夢の存在は、暗記してしまった旋律のように自然な優美さを纏っていた。
だが、どこかが違う。歩みは慎重で、まるで熱気が彼女ひとりに重くのしかかっているかのようだった。片手で生垣に触れ、体を支える。
「遅れてごめん」夢の声は柔らかく、少しかすれていた。
美優は慌てて立ち上がる。「い、いいえ! 全然!」バッグが肩からずれ落ちそうになる。
夢の目が細められ、楽しげに笑う。「変わらないね、美優は」と言い、ベンチに腰を下ろした。
会話は小さなことから始まった。容赦ない暑さ、紫陽花の間を駆け抜けた猫、祭りの花火の余韻。美優は思わず笑い声をあげ、自分の声に驚くほどだった。
けれど次第に、夢の声は弱まっていった。両手をベンチに置き、指の関節が白く浮き出る。帽子の影の下、その顔は透けるように淡く見えた。
「美優」蝉の声にかき消されそうなほど小さな声で夢は言った。「伝えたいことがあるの」
美優は心臓を速めて振り向く。「なに?」
夢の視線は指輪に落ちた。「まだつけてるんだね」
美優は手を持ち上げ、日差しに星をきらめかせた。「毎日だよ。外したことない」
夢は小さく震える息を吐いた。
「これを作ったとき、職人さんにからかわれたの。『こんな繊細なのは高いけど、誰にあげるの?』って」口元にかすかな照れ笑いが浮かぶ。「迷わずカードを出した。ただ…完璧にしたかった。あなたのために」
最後の言葉は震えていた。
「あれはただの飾りじゃないの。これは――」夢は一瞬ためらい、指をぎゅっと握りしめた。「わたしが言えないことの一部。ここにいられない時でも、あなたに持っていてほしい、わたしの一部なの」
美優の胸が強く締めつけられる。夢の肩は強張り、息は不規則で、言葉ひとつひとつに重みがあった。
「あなたは大切な人になった」夢は囁く。「一緒にいると、世界の重さを忘れられる。生きてるって感じられる。たぶん――」声が震え、そしてまた整う。「好き、なんだと思う」
湿った空気に、遠くの鐘のように響く言葉。
美優の思考は散り散りになり、胸の鼓動が耳に響いた。
「わ、わたしも好きだよ!」思わず口をついて出た。「夢は最高の友達。大好きなアイドルとこんなに近づけるなんて夢みたい。指輪も…本当に大事なの」
一瞬、夢の瞳が潤んだ。けれど次の瞬間、そこにかすかな陰りが走り、灯りが風に揺れるように弱まった。
「…ありがとう」彼女はそっと言った。
その後は、当たり障りのない話を続けた。新しいカフェのこと、次の流星群のこと。夢はまた笑ったが、その声は静かで、ひとつひとつを大切に量るようだった。
帰る時間になると、ゆっくりと立ち上がり、帽子のつばを整えた。「元気でね」そう言い、クスノキ並木の道へと歩き出す。
やがて葉の影に姿が消え、蝉の声だけが残った。
その夜、美優は布団に横たわり、扇風機の低い唸りと虫の声を聞いていた。
枕を抱きしめ、ふと笑みをこぼす。また夢に会えた。笑顔を見られた。寂しさが少し薄れた。
視線が星型の指輪へ向かう。月明かりに淡く光っている。
思わず夢の表情が浮かぶ。「友達」と言った後の沈黙。笑みの裏にちらりと見えた痛み。震える手。
美優は冷たい金属に触れ、胸が締めつけられる。
「…友達って意味じゃなかったんだよね」暗闇に囁くように声が漏れる。
目の端にじわりと涙がにじむ。指輪を胸に押し当てる。冷たい星の形は確かで、それなのに心の奥では、恐ろしくて知らない、けれどどうしようもなく温かなものが芽生えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます