第11章:夏の蛍
更衣室は、ドアの向こうからかすかに聞こえるざわめき以外、静まり返っていた。
夢は鏡台の前に座り、自分の顔をじっと見つめていた。
指はテーブルの縁を固く握りしめ、血の気が失せて白くなっている。
鏡の中の自分は、欠点一つない肌、丁寧に巻かれた髪、艶のある唇、完璧な姿勢。
でも、その奥には、自分の亡霊のような影が見えた。
笑顔は目に届いていない。
ステージライトの下で、肌は冷たく湿っているように感じた。
胸は浅く苦しげに上下していた。
背後で、ドアがきしむ音がした。
マネージャーがタブレットを手に入ってきた。
眉間には薄い苛立ちの線が刻まれている。
「今夜は大丈夫なんだよな?」
夢は瞬きもしなかった。
「はい。」
マネージャーはほとんど彼女を見もしない。
「プロモ撮影とQ&Aだけだから無理はするな。ただし、元気は出せよ。ファンが待ってるんだから。お前がだらけてると、みんなに悪影響だ。」
彼女は頷いたが、胸の重みはさらに増した。
「それと」
彼はスケジュールをめくりながら続けた。
「来週末、夢蛍祭な。夜のプログラムでちょっとだけ歌ってもらう。」
夢は瞬きをした。
「夏祭り……ですか?」
彼は頷いた。
「ここ数年、地元の集客が悪くてな。目玉が欲しいんだ。お前がトリで2曲歌え。宣伝になるし、名前もピッタリだろ。」
口元にかすかな笑みが浮かぶ。
「体調だけは崩すなよ。」
彼女は引きつった笑みを浮かべた。
胸の痛みが一瞬、鋭くなる。
「もちろんです。」
「いいな。」
それだけ言って、マネージャーは去っていった。
夢は数秒だけ沈黙に沈んだ後、ゆっくり息を吐き、バッグに手を伸ばした。
スマホが新着通知で震えている。
ファンからのメッセージは、もう何がなんだか分からないほど溜まっている――いいね、ハート、炎の絵文字、心配する言葉。
どれも煙のように胸をつまらせるだけだった。
彼女はそれを脇に置き、代わりに一枚の写真を開いた。
水族館でのミユとのツーショット。
背後に光る水槽、本物の笑顔。
目の奥の光――解き放たれたままの、飾らない輝き。
彼女には、もう何日も連絡していなかった。
もしかしたら、もっと長いかもしれない。
でも、祭りがあるなら……もしかしたら……
指が画面の上で止まる。
そして、ゆっくりと打ち始めた。
ミユは、家から遠くに行くつもりなんてなかった。
ただ新鮮な空気が吸いたかっただけ。
夢からの連絡が途絶えてから、心に霧がかかったみたいだった。
一日一日がぼやけて、家の壁は静かすぎて、冷たすぎた。
両親も、沈黙というより、どこかにいなくなってしまったような距離感だった。
だから、歩いた。
いつもの通学路を過ぎ、学校を過ぎ、コンビニを過ぎ――
気づけば、古い町並みへと足が向かっていた。
狭い路地、低い屋根、電話線にだらりとぶら下がるオレンジの提灯。
自分がどこへ向かっているのか気づいたのは、閉まったラーメン屋の間に挟まれた小さなホビーショップを通り過ぎたときだった。
ウィンドウは雑然としていた――プラモデル、トレカ、古びたアイドルグッズ。
ふと目に入ったのは、フックに半額でぶら下がる夢の古いアクリルチャームだった。
一、二年前のものだろうか。
まだ目が輝いていた頃。
ミユは目をそらした。
店には入らなかった。
さらに歩くと、掲示板の前で足を止めた。
掲示板は剥がれかけていて、語学講座、ギター教室、迷子の猫のチラシが何重にも貼られている。
その中で、一枚の紙が夏の風に揺れた。
彼女は近づいた。
夢蛍祭
夏の輝きを、もう一度。
夏祭り。
胃がきりきりと痛んだ。
彼女は、ああいう人が多くて騒がしい場所が苦手だった。
中学の頃に行った祭りは、泣いて終わった思い出しかない。
もう二度と行かないと決めていた。
でも、そのチラシは彼女を動けなくした。
夢。
自分の名前が、そこにあった――偶然かどうかなんて関係ない。
その一致が何か大きな意味を持つ気がした。
ミユの心臓が大きく脈を打った。
そして、その瞬間にスマホが震えた。
夢:ねえ…久しぶりだね。ごめん。最近ちょっと大変で。
でも伝えたくて…来週末の夢蛍祭、初めて出るの。来てくれたら嬉しいな。
ミユは画面を何度も読み返した。
手が震えた。
もう一度チラシを見て、静かな夏の街を見渡した。
何もかもが、この問いに備えてはくれなかった。
呼吸が速くなり、手のひらが湿った。
彼女は来てほしいんだ。
ミユはスマホを胸にぎゅっと抱きしめて、目を閉じた。
「会いたいな…少しだけでも。」
夢蛍祭の当日、暖かい風と提灯の光に包まれて始まった。
ミユは祭りの入口で息を浅く吐いた。
紺色の浴衣には小さな星が散りばめられ、髪をまとめた紫のリボンは少しほつれている。
支度だけで一時間以上かかった。手はずっと震えていた。
会場は色とりどりの屋台で賑わっていた。
たこ焼き、かき氷、りんご飴、金魚すくい。
笑い声と鈴の音が混じり、背景には穏やかな演奏が流れていた。
子どもたちは親の手を離れて駆け回り、
高校生たちは写真を撮り、
カップルは手をつないで揺れる提灯の下を歩いていた。
ミユは一歩ずつ確かめるように歩いた。
心臓はずっと鳴っていた。
視線は足元に落としたまま。
そして、音楽が変わった。
人々がステージに向かって動き出す。
ざわめきが静かに溶けていく。
ミユも引き寄せられるように歩いた。
光に導かれるみたいに。
ステージに立った夢は、いつものアイドル衣装を少しアレンジしたドレスを着ていた。
優しい金と紫が、提灯の明かりに照らされてきらめく。
袖は透けていて、帯には小さな蛍の模様。
歓声が湧き上がる。
ミユの息が止まった。
夢は多くを語らなかった。
軽くお辞儀をして、マイクを握りしめた。
一曲目は明るくて希望に満ちた祭りらしい曲。
でも二曲目は違った。
静かで、ゆっくりで、胸の奥に何かを運んでくる。
夢は歌いながら、何かを必死で繋ぎ止めようとしているように見えた。
止めたら全部崩れてしまうかのように。
ミユの胸が苦しくなった。
目頭が熱くなった。
そして、あっという間にステージは終わった。
夢は笑って、もう一度お辞儀をして、ステージ裏へ消えていった。
ミユは人混みの端に取り残されたまま、動けなかった。
まさか、夢が自分の前を通るなんて思っていなかった。
立ち止まってくれるなんて思っていなかった。
でも、夢は立ち止まった。
二人の目が合う。
夢の笑顔は疲れていた。
かすかだった。
でも、本物だった。
「来てくれたんだね。」
夢の声はそっと揺れた。
ミユは頷いた。
「…来たかったから。」
少し間があった。
夢はためらってから尋ねた。
「…あの、渡したプレゼント。開けた?」
ミユは凍りついた。
喉が渇いた。
「…あ…まだ…開けてなくて…その、ちゃんと…」
「そっか。」
夢の笑顔がかすかに崩れた。
視線が落ちる。
「…わかった。」
夢はもう振り返っていた。
「待って――!」
ミユは手を伸ばした。
でも夢はもういなかった。
人波に溶けていった。
ミユは黙って家に帰った。
部屋は暗かった。
両親が寝ているのか、いないのかも確認しなかった。
ベッドに座り、枕の下から小さな包みを取り出した。
何日も触れなかったせいで、紙は少しくしゃっとしていた。
指が震えながら、ゆっくりと包みを解く。
中には、小さな箱。
まだ、蓋は開けなかった。
ミユはただ、静かな部屋で箱を膝の上に置き、
ずっとそこに座っていた。
※ 短い章でごめんね!3章連続で長くしたくなかったんだ。12章はもっと長くなるよ!それと、もっといいお祭りの章を作る予定もあるけど、それは秘密!
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