第6話 コーヒーの残り香

 夜道には不思議な力がある。すぐさま帰ってしまいたくなる不思議な雰囲気を秘めた夜空の下、春斗は夜空を見上げてふとため息をついた。

「今日は楽しかったけど」

 秋男と冬子の二人が真っ暗な空に映し出される。あの二人と寿司を食べに行ったことが、一時間程度の昔話がまるで数日前のように映ってしまう。そんな不思議な力を持つ夜空のいたずら。

 アパート群が見えて来た、自らの輝きが照らすそれ、その中に一軒の異質を見た。

 アパートである事には変わりないものの、外の壁に掛けられた布は紐や金具で止められて微かな風に靡いて揺れている。そういった現象が幽霊と錯覚させるのだ、非常にタチの悪い存在のように見受けられた。悪気の無い状況にどうする術もないまま布を眺める。

 それはアパートの一室を用いて営業する店のようだった。

 服屋に占いの館、古本屋といった様々な店があるのだと知る中で春斗の目を止める文字もあった。

「カフェあるのか」

 コーヒーの香りが既に春斗の脳の髄にまで広がりを見せている。どうやらそのカフェは二十二時まで営業していて他の店よりも遅い時間までやっているようだと確認。そこから春斗の腕に巻かれた時計の盤を見る。針は二十時半を指しており、まだ余裕があるように思えた。

「行ってみよう」

 コーヒーに対する好奇心を抑えることが出来ない。見えない階段を上り、二階へと、更にその奥へと足を進める。

 幾つかのドアを通り過ぎ、やがて出迎える一番奥のドア、そこに掛けられた珈琲豆の絵とカフェの文字を確認してドアを引いて中へ、靴を脱いで上がる春斗を迎え入れるのは優しそうな顔をした茶色のエプロン姿の男。少しだけ筋肉の張りを見ることが出来るだろうか、顔には爽やかな気が漂っていた。

 そんな顔をまじまじと見つめながら冬子が好きそうな顔、などと軽く浮かんで口の外を目指す冗談をどうにか抑え込んでいた。

 カフェのマスターだろうか、あまりにも若々しい雰囲気からして店員の一人といわれても一瞬で納得してしまいそうだった。

 席へと案内して、立派ながらも木の断面の質感をしっかりと残した椅子について説明を始めた。

「こちらは隣のアパートで購入したものでございます」

 テーブルもメニューを立て支える木についても同じ。つまるところ、同じような経営体制を取る仲間の宣伝も兼ねているのだろう。最大の問題は春斗の財力だった。

 そのまま腰掛け、辺りを包み込むコーヒーの香りを堪能しながらメニュー表を手に取った。

 紅茶にカプチーノ、ココア。飲み物はそれなり程度、コーヒーは様々な産地のものが書かれていた。

 キリマンジャロやモカといった聞き馴染みのあるものからクリスタルマウンテンにハワイコナ。春斗の人生の経験の中では記憶にないものまで取り扱われており、一番下にカフェロワイヤルと書かれラインナップの終わりを告げる。

「すみません、このカフェロワイヤルって」

 途端に店長がにこりと笑う。その笑顔の優しさはこの上なく心地よい接客。

「専用のスプーンに角砂糖を乗せてブランデーをかけ火を点けます、青い炎が綺麗ですよ」

 想像以上に攻めの姿勢を見せる前衛的なスタイルに思えた春斗。しかしながらナポレオンが愛飲した程に歴史の深い飲み方なのだという事。彼がそれを知るのはもっと未来の話だった。

 今の春斗は甘い物を飲む気分でもなく、クリスタルマウンテンを頼む。

「この時間にお似合いの良い選択ですね」

 マスターの笑みはあまりにも柔らかで表情から声まで何もかもが愛想を貼り付けているようにすら思えてしまうのは春斗の心の影の仕業だろうか。

 五分間の静寂、マスターは奥の方へと籠ってなかなか戻ってくる気配が無い。果たして帰って来るものだろうか。

 そんな疑惑を持っていた春斗の元に力強く香ばしい香りが漂って来る。先程までと比べてより一層濃くなった香りに癒されながら運ばれて来るコーヒーを見つめる。

「すっきりとした味わいと程よい香りでどうぞ安らかなひと時を」

 そう告げられてはその通りに過ごしてしまう。今感情に逆らうのはあまりにも不作法なもの。春斗は香りを寄せて数秒間静寂を得て、そのまま静かにコーヒーを啜り、更に強く濃い安らぎを見つける。

 そんな幸せな時間を過ごして満足感を得て帰路についた。


 次の日の事。家にまで迎えに来た秋男と冬子の二人を引き連れてアパート群の中を歩く。昨日のカフェに向かって歩いて行く。

「凄くよかったんだよ」

「カフェロワイヤルってやつやりてえ」

 秋男の好奇心は想定外へと、角砂糖の上で揺らめく青い炎の噂を見ていた。

 やがて幾つかの布を看板の代わりに垂らしたアパートにたどり着いて、春斗は目を見開いた。

 服屋に占いの館、古本屋など様々な店がある中で一番端にあったはずのカフェの気配が見受けられないのだ。

「そんな、確かに間違いなく」

 階段を上り、奥を目指す。昨日と同じ心地を持った踏み心地、記憶は確かなものだったはずなのに、そこにカフェの姿が無かった。

「どうして」

 疑問を持った春斗の肩を引っ張る感触に視線は引っ張られる。冬子が占いの館を指していた。ドアを開く秋男、そのまま導かれる二人。

 占い師は入って来る三人の姿を見るや否や身体を震わせた。

「幾つもの不吉なモノと出会っていますね」

 恐らくは霊的な存在の事だろう。否定出来るだけの嘘など持ち合わせておらず頷く以外の選択肢を見つけることが出来なかった。

「特にそこの昨日このアパートを訪れたの」

 春斗は身体を揺らす。見られていないはずなのに視られている。動揺する他なかった。

「三年以上前に閉まったカフェに訪れたなんて鮮度の高い話を持ち込んだ」

 つまるところ、春斗が立ち寄った場所はカフェなどではなく過去の亡霊だったという事。想像の中にしかいない青い炎が占い師の部屋を照らすロウソクと重なり揺らめいた。そこから伸びる影に優しく笑うマスターの姿を見たような気がした。

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