第30話 アイドル
これまで特に何をしたというわけでもなく、ただ日常を怠惰に、しかし大切に過ごして来ただけだった。中学時代から仲の良い友人の秋男はそんな何でもない人生の色をいつも変えて行く。
何故こんな事を思ったのか。秋男が今日もまた、近くのカフェでコーヒーを飲まないか、そう誘ってくれたからである。つまり人生の色を塗り替えてくれる流れ。
春斗は疲れ果てていて寝ようと思っていたが、その意思を曲げて急いで準備を済ませて家のドアを開いた。
墨のように黒い空、その中で光り輝く白い月はまだ円を描き切れていない。あと数日も経てば夜空から闇を切り取ったような輝く穴の姿を見せてくれることだろう。
真冬の真っ只中の夜に吹く風はとても冷たく引き裂かれるような思いである。
自転車のサドルに跨り、かじかんでいるがために力の入りの悪い手になけなしの力を込めて、冷たい風の吹く坂道を下りてゆく。温かさは次第に奪われ寒さが残る。寒さを取り入れ続けて温もりを肌で感じ取ることが出来なくなってしまった。
秋男に勧められて買ったロードバイクはこれまで乗っていた自転車とは比べ物にならない速度を出し、風になれるような心地を得る。それがとても心地よいと感じられたのはどれ程昔の話だろう。今は寒さよりも速さとしか述べることが出来ない。
秋男曰く身長的に調度いい高さとの事だが、時たま右脚が警告の痛みを発する。もしかするとサイズの基準が日本人とはかけ離れているのかも知れない。
秋男から買うことを勧められてすぐさま値札に目を通してひっくり返ってしまいそうになったものの、実際に乗ってみればその値段に見合うだけの性能を持っているという事。数字は飾りなどではなく、正真正銘の一級品だと語るしるべ。
暗闇の中を頼りない一筋の光が照らし、地面の輝きだけを導き手にして進んで行く、と言いたいところだったが実際のところはベッドタウン特有の明るい暗闇の中だった。都会からそう離れてもいな人々は昼間には働きに出て日が沈むと帰る。そんな街であるために空は明るく、周りの景色は輝いていた。
街頭、家の電灯、店の光、様々な輝きに満ちているものの、その全てが無機的な明かりで、風情のある言葉の一つも許さない生きた街の証だった。
川を挟む道路を繋ぐ橋は無機質なコンクリートとアスファルトで出来ており、少しの間舗装されていなかっただけで削れてしまうものか、タイヤから伝わる感触が身体全てを揺さぶり乗り心地を最悪なものへと塗り替えてしまう。
こんな整えられてもいないような道路が広がる街で過度に質の良い自転車なんてものも考え物だ。そんな事を思いながら春斗は道路を進んで行く。
橋を抜け、住宅地を通過、そして左に曲がる。車の通行もあり、昔の田舎らしさは失われていた。田畑は家に姿を変えて木々も減った。
変わり行く現実に飲み込まれて生まれたもの。得られる物と失われるもの、どちらが良かっただろう。
答えの出ない、単純な考え方で御構わないような事を難しく考えながら進んでいた春斗だったが、後ろから嫌な気配と眩しさを感じた。
車が自転車の幅も考えないで迫ってくる。そんな姿勢を見て慌てて速度を上げて風となり、段差の低い所から歩道へ上がろうとするも上がり切れずに転けそうになる。そこからすぐさまブレーキを握り締め、左足を段差に乗せて支えとすることで転倒をどうにか防ぐ。
車は春斗に触れる直前、急に真ん中に寄せるような形で避けた。その自動車の運転手はきっと日頃からそのような運転をしているのだろう。
「素行の悪いやつ」
思わず零れる言葉を捨てて再び目的地へとタイヤを回し始める。二度信号に足止めされただろうか。急ぐ心が赤い光を睨む視線に現れていた。
そのような事がありつつも、特に事故も無く到着したのだった。
☆
秋男は店の中でただただ立って待っていた。笑うような表情と持ち物を窺うにどうやら注文はまだ告げていない様子。
「おっ、来たな」
春斗の視線を受け取ると共に決めておいたらしいチーズタルトと甘ったるいキャラメルラテを頼んで受け取った後、即座に外へと飛び出した。この寒さの中でも秋男は店内を利用しないつもりのよう。凍える空気の中で耐えるべきという考え方に喝を入れたくてたまらなかった。環境に合わせるということを知らないのだろうか。
コーヒーとサラダサンドを頼み、秋男の座るところへと向かうべく店のドアを開ける。店を出て壁際の席が並ぶ中、少し歩いて角を曲がる。そこには既に席に座ってチーズタルトと泡の盛られたキャラメルラテを味わっている秋男の姿があった。
「ほら、座れよ」
言葉に甘え、洒落た黒々とした鉄のイスに腰掛ける。冷たい椅子は春斗の体温を根こそぎ奪ってしまいそうだった。正直に言うと春斗は店の中で座りたい、それが心の霧に包み隠されたもの、澄んだ本音であるがきっと受け入れてなどもらえない。
「約束のアレ、来月だな」
カレンダーを一枚捲り、数字が一つ大きくなったその一区切りの後半、そこで秋男と出かける約束を取り付けてある。
そんな話が辺りを飛び回る中、女子高生が何やら日本の文学小説の話をしながら通り過ぎて行った。
かつてこの国に生きた文豪たちは何を想い、あのような作品を世に送り出して来たのだろう。きっと明るい事ばかりで無く、暗い事、悲しみや喜び、様々な人生が、想いが、魂が混ざり合う群像劇の中に馳せた想いを形にしたとても純粋でありながらも同時にとても不純、単純聡明にして複雑怪奇な世界の中のセカイ、作中作の様なものなのだろう。いつの世にも人の想いなど変わりない。
「ところで、本も読めて料理も出来て友人間じゃまともなのに何で彼女出来ないんだよ」
「さあね」
誤魔化し笑う。本も文系志望の知的な男とは掛け離れた怪しげな恐怖を綴ったような作品ばかりを好み、料理も得意と言うわけでもなくただ自分にとっては美味しくいただける程度の物を作れるだけ。
己の蓋を開けた内には「まとも」等と言った言葉は二度と掛けられないような人物である事は自覚していた。ただ議論を避けようとするだけ、衝突しない為にも逃げに回るだけ。
まさに臆病で救いようも救われようも無い正真正銘の永遠の独身が決まっている男。必然などこの世に無いと言っても必然が付いて回る人物だった。
月の明るさを身に浴びながらいつもよりも苦味の強いコーヒーを飲み干し、口に残る後味の悪さに打ちひしがれるだけ。月が薄汚れて見えてしまう味わいだった。
☆
自転車を押しながら歩く男二人は夜の闇をも掻き消しそうな程に話に盛り上がっていた。漫画の実写版の連ドラが面白いだのあのゲームのあの子が可愛いだの取り留めの無い、そして掛け替えのない普通の会話を繰り広げる。
街灯、店の明かり、様々な電灯が辺りを照らし始めた。ここはベッドタウン、買い物に困る程に暗くなる事はそうそう無かった。
そして歩き続け、やがて生き残りの田畑を左に確認し、秋男が口を開く。
「知ってるか。そこの家さ、俺の好きなアイドルグループの女の子のひとりが住んでたんだが少し前に自殺しちまったみたいで」
そのアイドルは人生の彼方に至るまでに何を思って何をしてどのような色で人生という道を塗り、どのような決意を固めて自殺へと走ったのだろうか、春斗には全く想像がつかないでいた。
「実はアイドル苦手なんだよ。あのヒラヒラでキャピキャピなの」
春斗の言葉に驚きを抱き、感情のままに目を見開きながら秋男は語り始めた。
「あのヒラヒラがロリっぽくてカワイイのに」
信号を渡り、かつての自転車登校の高校生の皆を苦しめた急激な上り坂を歩いて上り行く。あまりにも急で狭い歩道と路側帯を苦しみだけで走っていた事が信じられない。今では安全の上で降りる事を選んでしまう。
上り始めてすぐさま秋男の実家に着き、別れの挨拶を軽く済ませて一人自転車を押して自宅を目指す。途中で横断歩道を渡って隣の緩やかな坂を見つめて自転車に乗り、改めて以前では考えられない速度を実感しながら進み行く。やがて家が見えて来た。
ようやく辿り着いた家に駆け込むとふと疲労感がその身を襲う。麦茶を飲み、階段を上り、ベッドの中へと飛び込むように入り、転がるように姿勢を整え毛布へと潜り込む。そして沼に沈むように穏やかに眠り始めた。
暗闇は明るさを持っていて静かに辺りを包んでいる。ここはベッドタウン、まさに夜眠る為の街。
騒がしかったはずの思考もいつの間にか静まり返り、やがて意識は闇の中へと引きずり込まれて行った。
☆
そこは見渡す限り広がる野原。緑がとても優しく美しい。少し古びた灰色の家はその中に美しい女性を何人も飲み込んでいた。大きな家に飲み込まれていた人々はやがて出て来る。女は大勢いたものの、全てが整った顔立ちをしていた。
「アイドルのイベントだぜ」
そう、秋男に無理矢理連れて来られたのだった。恐らく事務所の抱えるいくつかのグループの合同合宿なのだろう。何日か、ファンが見学出来る日として金を稼ぐつもりなのだろう。
握手を頼むファン、サインを求めるファン、可憐な星たちを眺めるだけでは物足りない人々が群がっている。
そんな人々を確認したすぐ後、大して触れ合うつもりも応援する気も無く、雰囲気から浮いてしまっている春斗はただただ暇を潰すべく家の周りを眺め歩く。恐らく上の窓から眺めていたアイドルもいただろう、微かに雑草の生えた庭があり、そこにある石のテーブルもイスが備え付けられていた。
それらを何一つ使いはせず、立ったまま窓の向こうの部屋を眺める。
そこに女性がいるのが見えた。窓を挟んで向こう側から手招きをしている。
「まだ出て来ていない人もいたのか」
呟きながらしばらく夢中で見つめていたものの、友人からスマホで連絡が入り我に返る。
「早く戻って来いよ」
その内容を確認すると女の手招きを無視し、人々の集まるところへ戻って行く。ジャージを着た強そうな男が名を呼ぶ毎に美女の一人一人が返事をしていた。点呼を取っているようだ。
そんな中で異変は突如起こった。
「中村、中村」
名を呼び続けるも、返事は一向に返って来ない。美女の一人が通らぬ声で告げる。
「あのー、中村さんは『ジュスイ』で」
突如不安と恐怖に襲われる。手招きしていた女を思い出す。
顔が見えていたはずなのに思い出せない。携帯電話に指を伸ばし、アイドルのユニット名と中村の名を打ち込み検索をかけ始めた。
☆
開かれた目を出迎えたそこはベッドの上、冬だと言うのに汗で濡れていた。まだ外は暗く、動く事を心が許さない。心臓の鼓動は速く、身体は恐怖に捕らわれ縛られていた。喉の乾きは痛みすら感じさせる。
怖い、怖い、怖い、動きたくない、無理矢理寝ようとするもそれも叶わない。
どれだけそうしていただろうか。ふと時間が気になり始める。抑え切れぬ恐怖は全身を支配していた。
怖い話は好きだが怖い体験は嫌いなのだ。臆病な事は本人にも分かっていた。
何一つとして冗談を口にする余裕も持ち合わせておらず、しかし、それでも勇気を振り絞りベッドから身を離し、目覚まし時計の頭のボタンを押す。押されたボタンを合図に強いとは言い難い心地よい光が緑の文字、時を示す針と盤を照らす。三時を過ぎた頃だった。未だ恐怖はあれども足は地に立ってしまった。
部屋を震える足で出て階段を転ばぬよう慎重に下り、麦茶を飲む。
幾度と無く辺りを見渡し恐怖と戦い、部屋へと戻る。
そして再び飛び込むようにベッドへと入り、布団を被る。
その時だった。
隣に感じる気配、目を向けるとそこには周りよりも暗い女性の姿。全身が濡れていて沼のような泥臭さが鼻を突き刺す。女は怨念を込めた表情と悲しみに満ち溢れた瞳でただ睨み付けてくる。間違いなく、夢に出てきたあの女だった。
叫ぶ間すら与えられず春斗は意識を失った。
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