E/N’09:“Mining Mysteries”

 ながようみじかい、乗合自動車高速輸送オムニバス・ラピッド・トランジット乗車じょうしゃ終点しゅうてん到着とうちゃくわった。シルバーベインの郊外こうがいいたセイエイとウエモンとは、運賃うんちん支払しはらくるまりた。

軽量軌道交通ライト・レイル・トランジットほとんかわらないかんじがしたね」

うだねエ。車両しゃりょう乗合自動車オムニバス軌道きどうかってちがいがあるくらいかな……」

 感想かんそういつゝ、二人ふたりみちあるく。西にしローラシア大陸たいりくには長閑のどか平野へいや風景ふうけい印象いんしょうつよいが、坂道さかみち当然とうぜん存在そんざいする。なかにはきつい傾斜けいしゃ坂道さかみちもあり、いまのぼっているのがまされである。

 しばらのぼっていると、一気いっき景色けしきひろがった。坂道さかみち上側うえがわわりにちかづいたのである。シルバーベインハアバア駅前えきまえ山々やま〳〵ふたゝ姿すがたあらわし、港駅ハア〴〵えきときよりよりひくくなったようえる。つまりはれだけのぼったとことである。だが、したにはならなかった。

「——でも、シルバーベインなら、市街地しがいち結構けっこうはしまわってたから、乗合自動車オムニバスほうがいゝとおもうな。今回こんかいくるまはしらなかった道路どうろにも、走行路そうこうろ停留所ていりゅうじょとがあったから、時間帯じかんたいとか、なんうの、ダイヤグラムをつくとき行先いきさきけられるのかもね。ハア、あたままわらん……エヽ、選択肢せんたくしおおくできるってことだな」

 感想かんそう吸気きゅうき呼気こきとがじりはじめた。しばらのぼっていたが、ついしまう。なにかをするわけでもなく、いきとゝのえるためである。しかれは階段かいだんであってえきしゃべ自動階段エスカレイタではない。いきがっているのはウエモンである。セイエイはすこ上段じょうだんでウエモンがいきととのえるのをっている。セイエイのほう望遠鏡ぼうえんきょうかゝえているのに、ウエモンはおそい。ればかりは個人差こじんさもあるのだから仕方しかたがない。

昼食ちゅうしょく時間じかんはそろ〳〵かな」

「其の……はずだ、セイエイ、シルバーベインのとおりの看板かんばんが見えたら、其処そこを……ハアゥッ、がれ」

 しばらくして、目的地もくてきちが見つかった。ごはんさんである。営業えいぎょう時間じかんれば正午しょうご前後ぜんごしか営業えいぎょうしておらず、昼食ちゅうしょく特化とっかしていることうかゞえる。二人ふたり其処そこり、小一時間こいちじかん休憩きゅうけいねて昼食ちゅうしょくことにした。

 ると、木目調もくめちょう内装ないそうふるめかしい発光はっこうダイオードの照明しょうめいらしている。かべにかけられたいくつかの絵画かいがは、セイエイもことがある版画はんがだった。蒐集しゅうしゅうされたらしき絵画かいがは、れも個性的こせいてきなものがおお統一感とういつかんがなくえるが、時代じだいおなじくした画家がかのものなのだろう。

「おきなつくえにどうぞ」二人ふたりかおを見て店主てんしゅが言った。「御注文ごちゅうもんりんでどうぞ」

 窓際まどぎわせきに向かい、くつぎ、あしんですわる。ウエモンが冊子さっしになった料理りょうり一覧いちらんとりり、ひらげてせる。昼食ちゅうしょく特化とっかしたらしく、りょうおお料理りょうり写真しゃしん名前なまえとがならんでいる。料理りょうり範疇はんちゅうは、近場ちかばれるものをもちいた、文化混合ぶんかこんごう創作そうさく料理りょうり——っても、「さき大戦たいせん以後いご文化ぶんか戦前せんぜんからしたら創作物そうさくぶつようなものだが——れが適当てきとう表現ひょうげんであろう。

おれまったぞ」

ぼくもだな」

 一瞬いっしゅんだけ、りん何両方どちらはやとどくかと競争きょうそうこったが、セイエイの勝利しょうりわった。下半身かはんしん車輪しゅりんの、人造人間じんぞうにんげん店員てんいんがやってた。くち腹話術ふくわじゅつ人形にんぎょうようれており、以外いがいかお塗装とそうらしい。

御注文ごちゅうもんを」

あぶざけを」

 セイエイがうと、店員てんいん即座そくざ反応はんのうした。「難有ありがと御座ございます」とのことは、よく合成音声ごうせいおんせいの一つである。

おれ冷雑穀丼ひやざっこくどんねがいます」

難有ありがと御座ございます。ご注文ちゅうもんは、以上いじょう、で、しょうか」

 みょう音声おんせい空白くうはく合成音声ごうせいおんせいなどにつきものである。にせず二人ふたりわせた。なに追加ついかはないとの意思いし疎通そつうである。

以上いじょうです」

難有ありがと御座ございます」

 店員てんいん電動機でんどうきおとらしながら回転かいてんし、充電場じゅうでんばもどってった。みせ人間にんげん店主てんしゅとセイエイにウエモンだけらしく、料理りょうりはじまるおとこえはじめた。しばしウエモンは調理ちょうりがるけぶりていたが、ふと視線しせんをセイエイにもどした。

「其れにしても、シルバーベインがかわまえれたとはな。丁度ちょうどいい時期じきに『彗星すいせい』がてくれたもんだ……今日きょう観測かんそくしないけど」

 セイエイはシルバーベインハア〴〵えき歩廊プラットホオムから改札階かいさつかいかうくだりの階段かいだん景色けしきおもす。丘陵きゅうりょういたような、ぎん赤銅せきどうとのじる建築物けんちくぶつ密集みっしゅうするさまは、くもぞらもとでも歴史れきし伝統でんとうとを主張しゅちょうしていた。西にしローラシア大陸たいりく西海岸にしかいがんのシルバーベインハア〴〵えき正式せいしき名称めいしょうは「西ローラシア・シルバーベインハアバア」らしい)からびた大陸間隧道たいりくかんずいどうは、いま北太平洋きたたいへいようのナラヒア諸島しょとうカナモアとうまでしかとゞいていない。延伸えんしん区間くかんひがしローラシア大陸たいりく何処どこかの都市としで、十年じゅうねんたぬうちむすばれるはずである。セイエイはおもしつつ、なん事例じれい交通体系こうつうたいけいともにあるまちづくり計画けいかくことおもしていた。

「シルバーベインがかわるって、やっぱり大陸間隧道たいりくかんずいどうがらみなの。再開発さいかいはつなにか」

「シルバーベインの再生さいせいとか銘打めいうった計画けいかく……現地語げんちごばんなら情報じょうほうがっているだろう。乗合自動車高速輸送オムニバス・ラピッド・トランジット系統けいとう再編さいへんとかと一緒いっしょすゝんでるはずだ。一昔前ひとむかしまえう、空港くうこうにシルバーベインがなるんだからな」

 むかし大洋たいようはさむと、移動いどう手段しゅだんおそふね高速こうそく飛行機ひこうきしかないと時代じだいもあったらしいとはいたことがある。時代じだい自動車じどうしゃ地上ちじょうはしるものしかなかったとか。地上ちじょう国境こっきょうのあるくに検問所けんもんじょもうけるように、空港くうこう税関ぜいかん出入国しゅっにゅうこく管理かんり検疫けんめきなどを担っていた。

 いまいまだ、役割やくわりはカナモアとうになっているが、今後こんごはシルバーベインが場処ばしょとなる。うなるには、駅周辺えきしゅうへんかわ必要ひつようがある……あるいは、かわるとさらかせぎが見込みこめるとことである。しかし、うなれば当然とうぜん伝統的でんとうてきなシルバーベインの市街地しがいちは、全体ぜんたいではなくともしばらくするとうしなわれること確実かくじつである。

ておきたかったんだ、うなってまうまえに」

「ウエモン……」

 感傷かんしょうひたり、絵画かいが鑑賞かんしょうしていると、吹雪ふゞ街並まちなみを絵描えがいたらしい抽象画ちゅうしょうがる。吹雪ふぶきっておもしたのは、東西ひがしにしローラシア大陸たいりくもっとちかづくきた海峡かいきょうおこなわれた事業じぎょうである。しんベーリング地峡ちきょうれもまた大陸間隧道たいりくかんずいどう同様どうように、地球復興ちきゅうふっこうけたひとつの計画けいかくであった。

人類じんるいは『さき大戦たいせん』で傷付きづつぎた……変異人種へんにじんしゅしてしまうほどに……」

「セイエイ、きゅううした」

「イヤ、感想かんそうだよ……あのてさ、しんベーリング地峡ちきょうことおもして……」

 日本を中心ちゅうしん生活せいかつするセイエイとウエモンとには、しんベーリング地峡ちきょう周辺しゅうへん変遷へんせんしたのからない。しかし、「さき大戦たいせん」は、すで危機きゝてき状況じょうきょうにあった太陽系たいようけいなか地球ちきゅうとゞめをまであと一歩いっぽところまですゝめた——地球中ちきゅうぢゅうほとんどの地域ちいきで、平等びょうどう惨状さんじょうもたらしたとっている。

「あゝ、ニシの……。『地球復興ちきゅうふっこう』、たしかに、最近さいきんよくみゝにする惹句じゃっくだな」

 ウエモンがこたえる。其処そこに、充電器じゅうでんきからなにかがはずれるおとこえた。れば、配膳用はいぜんよう人造人間じんぞうにんげん此方こちらうごしたのだ。配膳用はいぜんよう注文ちゅうもんときとはことなり、料理りょうり配膳はいぜん特化とっかした形状けいじょうをしている。かわりに人間にんげん可愛かわいらしくおもわせる工夫くふうえた。

此方こちらあぶざけ冷雑穀丼ひやざっこくどんとで御座ございます」

「オヽ……」

「おください」

「ア、ハイ」

 二人ふたりして料理りょうりり、配膳用はいぜんよう人造人間じんぞうにんげん帰路きろかせた。いたゞきますをしたあと、「配膳はいぜんのあのこえ大西洋たいせいよう横断おうだん自動車じどうしゃのカーナビとおなじだったな」とすこしばかり会話かいわわしたが、料理りょうりけてからしばら食事しょくじ沈黙ちんもくつゞいた。其処そこにはちかくをとおくるまと、座布団ざぶとんあしえるおとと、食器しょっきおとと、空調くうちょうおととだけがあった。

 あぶられたさけかわあぶらかおりと、すみあじどんの、雑穀ざっこく香草こうそう阿利襪オリーブとがじったあじがする。マア、あじなのだから美味おいしいとか不味おいしくないとか個人差こじんさがあろうこと承知しょうちである。二人ふたりにはわるくないらしかったが、たがいのものをためそうとこらなかった。


 食後しょくごしばら休憩きゅうけいした二人ふたりは、新聞報道しんぶんほうどう確認かくにんした。「彗星すいせい」の報告ほうこく今後こんご動向どうこうもありつつ、日本国内こくない動向どうこうさぐっておかねばなるまい。さて——「銘茶めいちゃ新駿遠茶しんすんえんちゃ』、大規模だいきぼ購入こうにゅうにより品薄しなうす」(註釈ちゅうしゃく新生しんせい日本国にっぽんこく」の地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん最大さいだいくにからぐんちょうそんへとがる。新駿遠しんすんえんとは新駿河国しんするがのくに新遠江国しんとおとうみのくにとをあわせた呼称こしょう)との見出みだしの新聞動画しんぶんどうがや、話題わだい連続れんぞく失踪しっそう事件じけんもあった。乗合自動車高速輸送オムニバス・ラピッド・トランジット車内しゃない新聞しんぶんたものとは、概要がいようだけだった車内しゃないくらべて細報さいほうっている程度ていどちがいだった。だが、時間じかんつぶしにはなった。

 昼食ちゅうしょくみせから目的地もくてきちえきまでは、きゅう傾斜けいしゃ坂道さかみちく、前半ぜんはんくらべたらほゞ平坦へいたんっていいよう勾配こうばいつゞいた。シルバーベインえき大陸間隧道たいりくかんずいどうえきはシルバーベインえきであったのにたいし、此方こちらにはなにいていない。そして、近年きんねん開業かいぎょうした大陸間隧道たいりくかんずいどうえきくらべ、此方こちらほうふるい。駅舎えきしゃかんじはハア〴〵えき大差たいさないが、えかなにかでもしたのだろうか。ともかく、二人ふたり其処そこ予約票よやくひょうせ、切符きっぷった。

今夜こんやなに観測かんそくしないと前々まえ〳〵からかっていたけど、すこしそわ〳〵するなア」

「ウエモン……一番いちばんれているのはきみだろうに」

「まあなア。でも、今回こんかい全員ぜんにん一回いっかい観測かんそくしないもうけたもうめてのたびだもんで、おれ観測かんそくしないのははじめてなんだ」

「ヘエ。なにもしないのは……ぼくすこ戸惑とまどっているがするよ」

「セイエイ、新参者しんざんものにはからんかもれんが、毎晩まいばん々々観測かんそくつづけたときもあったんだよ。れはれで、一回いっかい望遠鏡ぼうえんきょう故障こしょうして計画けいかく台無だいなしになったんだがな」ウエモンは溜息ためいきいた。「今回こんかい補修ほしゅう要員よういんるのはれからまなんだんだ。むかしはネエ、若気わかげいたりとうかなんうか……ハア」

 セイエイは、ウエモンが愚痴ぐちめられなくなりそうだったのでめるべきか逡巡しゅん〴〵しているうち言葉ことば不満ふまんあら溜息ためいきばしたつもりになったのをて、結局けっきょくなにもしなかった。二人ふたりえきり、歩廊プラットホーム乗車じょうしゃ列車れっしゃっている状態じょうたいなので、見知みしらぬ外国人がいこくじん観光客かんこうきゃく自分達じぶんらのたちの言語げんごさわ醜態しゅうたいさらしたくなかったのもあろう。

 列車れっしゃ——夜行寝台列車やこうしんだいれっしゃは、暫く待っていると遅れなく入って来た。列車の折り返しの時は車内整備などで暫く入れない時間のあるものもあるが、此れには其れがない。既に整備した状態で入線したのだ。

 車内に灯った灯りは、昼食の時に見た照明より橙がかっており、人の眠気を邪魔しない様にしているのが察せられる。扉は暫く開かなかったが、長く待つ事なく、幾つかの音で単純な旋律を奏でた後、開いた。

 二人ふたりは扉が開くなり乗車し、予約した部屋と座席とを確認する。

「部屋と座席とがあるけど、何両方にするか」

「部屋に荷物を置いて、座席とか」

「セイエイ、慣れない国で荷物を目から外すのはご法度だ」

「ア……ぢゃ、一回部屋の確認をしておいてから、荷物を持って座席かな。僕もウエモンも同じ部屋なら、忘れ物も二重に確認できてしづらくなろうし」

 乗り込んだ場所は丁度ちょうど寝台車しんだいしゃの部分で、予約した個室も直ぐ見つかった。部屋は何も無しに開き、二人用ふたりよう二段にだん寝台しんだいった。部屋へやれば、列車れっしゃかべからえたよう二段にだん寝台しんだいと、二人用ふたりようの机一脚と一人椅子二脚とがあるのが見えたが、二人ふたり何両方どちらも見ただけで荷物を置かなかった。列車の揺れでずれる対策か、椅子も机も据え付けられていた。

 窓からは、駅舎と、日没か近づき微かに見え始めた「彗星すいせい」が覗いていた。

「ネエ、少し観測してもいいかな」

「エヽ……」ウエモンは切符を見、発車時刻を確かめる。「望遠鏡でか」

「双眼鏡で……『彗星すいせい』が暗くなった時用のさ、あるでしょう」

「あるが、仰々しく言うもんだから本体を使うのかと思ったわ。セイエイったらマア……」

 セイエイは「天ツ川会」の黒い鞄から、小包こづつみを取り出し、中の双眼鏡を取り出した。落とさない為の首掛けをして覗く。駅舎の向こうに見える「彗星すいせい」は、見慣れた姿ではあったが、まるで弱った飼い魚を見ているかの心持ちになった。

「見よウエモン、弱々しい気がしないか」

 首掛けを外し、ウエモンに渡す。ウエモンの首に一旦双眼鏡が提げられた後、ウエモンの目は双眼鏡を覗き込んだ。

「ハア」併し、異変らしいものは見当たらないと言う。「仮分析の亀裂の示唆は昨日だったか。未だ〳〵分からんよ、肉眼ぢゃあな」

「然う……」

 ウエモンから双眼鏡を受け取ったセイエイは、不満気でありつつも仕舞い、寝台車から座席車に移動する。主な目的は夕食と其れ迄の暇潰しである。セイエイも、ウエモンから今回予約したのは、指定席付きの寝台券の様な切符であると云うのは聞いていたが、座席車と寝台車との間は予想以上に長かった。やっと座席を見つけて座ると、足が疲れて暫く動けない気がした。其の座席は、二人分ふたりぶんが向き合った、四人掛けとなっていた。

 窓を見る。移動の間も、席に着いてからも、未だ列車は乗客を待っているのか動かない。寝台夜行列車しんだいやこうれっしゃなのだから、乗客がセイエイとウエモンとだけ何て事は流石に有り得ないだろう。鉄道が斜陽産業だと言われていた何千年か前かに比べれば、大量輸送に特化した此の交通機関の利用者は多い。其の筈である。乗車の多いのは途中駅からかも知れないなどと思案していると、次々と乗り込んで来る足音が聞こえた。

 左手の車外へ向けていた視線を右にやれば、歩廊から乗り込む人々の姿が見えた。接続している乗合自動車か何かから降りて来たのだろう、荷物には似通った札が付いているものも見受けられる。二人ふたりは望遠鏡と其れ以外しか持ち歩いていないが、其れ以上に大きな荷物を運ぶ人も居る。だが、殆どが別の号車に行っているらしかった。

「……ウエモン、『彗星すいせい』の情報で何か面白いものはないか」

 人間観察に飽きたセイエイは話しかける。

「矢っ張り亀裂ぢゃないか。崩壊の予兆だで、するかしないかとか、何処で崩壊するかとか……」

 座席車とデッキとを繋ぐ自動扉が何回目か、開いた。其処には紺の外套を纏う青年せいねんらしき姿があった。併し、二人ふたりは会話に熱が入り始めて目もくれない。青年せいねんは座席の窓の間に貼られた座席番号と、手持ちの切符の座席番号とを交互に確かめて歩き進む。

「然うだよね、ウエモン——」

 会話かいわさえぎように、発車はっしゃらせる電鈴でんれい鳴動めいどうした。此の夜行寝台列車やこうしんだいれっしゃの発車時刻となったのだ。扉が閉まり、列車が動き出す。其の動き出す時の、一気に足元が引っ張られる感覚は、立っていると蹌踉よろめきそうになる。実際に転んだ事はないが、見た事はある。

「アッ」

 青年せいねんが転んだ。咄嗟にウエモンは、体を右の通路へ動かし、青年せいねんを受け止める壁となった。其れはセイエイにとって何処か、久しい友人と会った時の様だった。

「失礼しました」

 年齢も分からなかったが、声は日本語を喋った。彼れは手にする切符と座席に記された番号とを比べ、此の四人分の座席の一人だと分かった。

「丁度、此処が私の席みたいですね……」

 仕方なかったとは雖も、急な接触を経験した故に照れ臭いらしく、青年せいねんは座席に腰を下ろした。座席に向かい合わせに座ったのは、桐三竹以来久しいものである。桐三竹——失踪した変異人種、而て恐らく失踪の直前に二人ふたりは同じ時を過ごしたのである。桐三竹を意識した所為か、此の青年せいねん思えて来る。別に艶やかでも何でもないが、妖怪の様にセイエイは感ぜられたのである。

れで……。あゝ、頭巾ずきんはずさなければ」二人ふたり無理むりうさせるはなかったが、青年せいねん無言むごんなにかをかんじたらしく、ひとりでにはずした。「れで警戒けいかい必要ひつよう御座ござらんでしょう」

 青年せいねんの、いろうものをらぬかみはだとが眼前がんぜんあらわされた。黒子ほくろだに見当みあたらぬはだは、まるで人造人間じんぞうにんげんである。しかし、陶器とうきようはだにも筋肉きんにくすじえる。時代じだい人工じんこう筋肉きんにくなによりもたかいもの——たゞし、宇宙うちゅう関連かんれん寄附きふのぞく——である。うセイエイが見惚みとれているあいだに、ウエモンはつぎ会話かいわはじめた。

「ア、うだな、おれからも警戒けいかいいてもらおう。元津もとづ右衛門うえもん地球ちきゅう日本にっぽんってところ出身しゅっしんだ」

「……」

「セイエイ、初対面しょたいめん同士どうしつめいぢゃあむつまじさはきづけんぞ。ホラ、え。れとも思念話しねんわこゝろみとんのか」

「ア。べつうぢゃアないわ。寺内てらうち情栄せいえい日本人にっぽんじんです。今晩こんばんよろしく……かな」

二人共ふたりとも難有ありがと御座ございます。わたし地球人ちきゅうじん名乗なのっておきましょう」青年せいねんは、まどつめた。列車は駅を出て、暗中くらがりはしっている。れはまどそとていたのか、まどうつ自分じぶんていたのか。「出身しゅっしんは……日本にほんえますね。れで、あの、先刻さっき、『彗星すいせい』とこえたのですが、興味きょうみきましてね」

 青年せいねんえてか、名乗なのらずに話題わだいえた。「彗星すいせい」——恒星間天体こうせいかんてんたいユゴスの通称つうしょう——は、全地球的ぜんちきゅうてき注目ちゅうもくまととなっている。れは恒星間天体こうせいかんてんたい何時いつるかからない来訪者らいほうしゃゆえで、系外生命けいがいせいめいなどの探査たんさ天体てんたい自体じたい情熱じょうねつやす人々ひと〴〵などにとっては勿論もちろんこと世間せけんにもめずしいこと認識にんしきされている。セイエイも、彗星観測すいせいかんそくチームにったのちに「彗星すいせい」のうわさ新聞紙しんぶんし新聞動画しんぶんどうが等々など〳〵新聞報道しんぶんほうどう見聞みききしている。

「何処から話そうか。『彗星すいせい』と僕達の係わりとかかな」

出来できれば……最初さいしょから。『彗星すいせい』をはじめて、ぢかいたもので」

 セイエイがくびかしいだ。ことは、一般人いっぱんじんらしき青年せいねんはっすることとはかんがえづらいものだった。しかし、れはいま彗星すいせい」に好奇心こうきしんいだいている。「彗星すいせい」に好奇心こうきしんいだくならば、今迄いまゝで見聞みききしていなかったのだろうが……、世界せかいき、「彗星すいせい」をたしてかずにられるなどあろうか、とセイエイはおもえる。状況じょうきょう——アルチヤスで出会であったミタケもうわさ程度ていどとはいえどいていたはずである。

沈黙ちんもくしてください……。早急さっきゅうにおねが出来できませんか。すこし……好奇心こうきしんが……。貴方あなたんでしまうかも」

 青年せいねんは、片手かたてひらかおけ、したいた。あせきそうなほど一気いっきに見た目の体調たいちょう悪化あっかして行く。

大丈夫たいじょうぶか」

「いゝえ。ですから、おしえて下さい。早く」

 セイエイがかおのぞんだが、つめかえ余裕よゆうもないらしい。れのことけるならば、「彗星すいせい」をかたればさそうである。

「ぢゃあ、からだね」セイエイの言葉ことば同時どうじに、列車れっしゃ転轍機てんてつきかなでた。セイエイは手帳てちょうし、めくりつゝ説明せつめいする。「『彗星すいせい』はをユゴスと恒星間天体こうせいかんてんたい通称つうしょうで、地球ちきゅうでは約半年前やくはんとしまえ接近せっきん予見よけんされた天体てんたいだ。オールトのくも早期そうき警戒網けいかいもうが、発見はっけんしたものだね」

 地球ちきゅうで、とくわえたのはオールトのくも地球ちきゅうとは光年こうねん単位たんいはなれているめだ。

発見はっけん軌道きどう予測よそくがなされた。明確めいかく双曲線そうきょくせん軌道きどをとる、太陽系たいようけい通過つうか一度いちどだけおこな天体てんたい機会きかいのがさず、数週間すうしゅうかんたずして公的機関こうてききかんから観測機かんそくきげられた」セイエイに続き、手帳に記されていない事をウエモンがそらんじた。青年せいねん顔色かおいろふたゝもともどっていき、かお二人ふたりいた。とき通路つうろはさんだ右側みぎがわまどこうをウエモンは指差ゆびさした。「える。あれだ」

「あのひかりが、『彗星すいせい』ことユゴスと」

 青年せいねん見惚みとれた。セイエイは何回目なんかいめかの観察かんさつで、座席ざせきすわまえにも一回いっかい双眼鏡そうがんきょうているが、れでも素晴すばらしくうつくしくかんぜられた。だが、ウエモンは、ほそめた。けっしてえづらいとうのではない、心情的しんじょうてきなにかだろう。観測かんそくチームの仲間なかま元津もとづさんの父親ちゝおや云々うんぬん途中とちゅうまでかされたこともある。セイエイは、みづかろうとすればかへってとほざけられそうだもんなにろうとはしていない。ウエモンにおしえるべきかたび様子ようすからかんがえてやろうとわれたのも一因いちいんだろう。

れが、『彗星すいせい』、ユゴスだったのか……難有ありがと御座ございます。偶然ぐうぜんはあるものですね」

 青年せいねんなに偶然ぐうぜん説明せつめいするはなさそうである。

「ン……マア、あるだろう」

 寝台夜行列車しんだいやこうれっしゃ始発しはつえき出発しゅっぱつして数分すうふん車内しゃない放送ほうそうはじまった。トゥイッセルピーク鉄道てつどう会社かいしゃめい名乗なのり、路線名ろせんめい列車愛称れっしゃあいしょうと、到着とうちゃく時刻じこくつゞくが、日本語にほんご放送ほうそうながれないことすでっている。放送ほうそう車掌しゃしょうによる肉声にくせいで、模範もはんてきなものとははなかたこえかたちがう。雑音ざつおんじりの拡声器かくせいきに、みゝかしいではみたものゝ、れるがしなかった。放送ほうそうわり、視線しせんもどした青年せいねん冷徹れいてつこえまゝたずねた。

「——お二人ふたりと『彗星すいせい』ユゴスとの関係かんけいをおきしてもよろしいでしょうか」

かまわんよ」

大丈夫だいじょうぶです」

「……お二人ふたり民間人みんかんじんようですが、『彗星すいせい』をよく知っている。好奇心こうきしんの様なものをかんじます。かかわる手法しゅほうは……なんでしょうか」

 其の質問しつもんは、暴発ぼうはつしそうな好奇心こうきしんおさえる気配けはい完全かんぜんえた、冷徹れいてつこえだった。

此奴こいつだ」ウエモンはセイエイの膝上ひざうえの「あま川会かわかい」の望遠鏡ぼうえんきょうくろかばんれた。「二人ふたり一組ひとくみんで観測かんそくしている。今日きょうはしないだから、うしてよる列車れっしゃっている」

二人ふたり一組ひとくみ……ほかにもるのでしょうか」

うだね。何組なんくみいたかすうわすれたけど、複数組ふくすうくみ……くみはあったはずだよ。れが、北半球きたはんきゅう各地かく観測かんそくするんだ。ンンんな、『彗星すいせい』に関心かんしんっとる。……好奇心こうきしんか、学術的がくじゅつてき重要性じゅうようせい認識にんしきしているかの何両方どちらかだとおもうな」

「もうひとつ、べつのメンバーに心酔しんすいしてやつもいる」ウエモンがセイエイにくわえた。「れはめずらしいやつだ」

「あゝ、必ずしも全員が理解の為に観測している訳ではないと。其れで、『彗星すいせい』と関わって、何を得たんですか」

「俺か」

 ウエモンは視線を窓の外の「彗星すいせい」に逸らし、青年せいねん二人ふたりを見た儘、答える。

「お二人ふたりでも、仲間でも。先程聞きました科学的な分析結果を、官能的に何う捉えたのかをです」

「……」

 ウエモンは「彗星すいせい」を見ている。セイエイが左手の車窓から外を見ると、「彗星すいせい」と列車との写真を撮ろうとしているのか、車外に三脚で固定した撮影機を手にする人々が見えた。セイエイは直ぐ戻したが、ウエモンの凝視は続きそうである。

「僕から話そう。旅の間も連絡を取り合っている仲間には、不思議な体験をした人も居てね。別に『彗星すいせい』が宇宙人の乗り物だとか言いたい訳ぢゃない。マア、特別なものなのは理解していたが、実体験としても其の感覚を得たかな。

 分析結果に就ては、然うだな、何も言う事は無いかな」

「然うですか。私には、あの天体が……ソウジキに見えるのです」

「掃除機だって」

「えゝ、其れです。掃除機……アクセントが違いましたか。此の世界を清める様なものですよ。此の地球は、彼れによって変容する事は確実だとでも言わんばかりの主張をしている……なんて、私は超能力者ぢゃないので、ただの感覚ですが」

 尾を伸ばす「彗星すいせい」……掃除機にも、見えなくはないか、無理がある気がする。其れとも青年せいねんの言う「見える」とは見た目ではない本質の感覚を言っているのか。だが、直截過ぎる——人間誰しも然う思うのではなかろうか。

「確かに、清めてるね。ウエモンは、何う思うかな」

 セイエイが問う。ウエモンが其れに応えて視線を戻すと、列車が隧道に入った。然う云えば、曲線を通過した覚えが未だない。ウエモンは暫し沈黙し、語り出す。

「俺は……人類の成果だと思った。月から始まり、小惑星迄行えていた資料の回収が、遂に恒星間天体に迄辿り着いたのだとな。……言ってなかったかな、あの探査機には資料の回収計画が存在するんだ。今、其れは尾の中で必死に資料を集めつつ、画像を撮影している所だろう」

「あ、分析結果には地球への影響の予測はありましたか」

「直接的にはない。軌道も、地球の公転軌道に交わらないし、尾から出てくる物質も少ない……と、当初の予測にはあった」

「一度した予測は絶対的なものではないのですか」

「当然然うだ。太陽系は複雑なんだぞ。惑星は四つ、其の外側に小惑星帯もある。其れに、エッジワース・カイパーベルトやオールトの雲の天体の軌道は複雑怪奇だ。未発見の天体もある筈だから、引力は単純化出来ない」

「全て計算出来ないのですか」

馬鹿ばかえ、量子りょうし計算機けいさんきでも速報そくほうせなくなるぞ」ウエモンはくちとがらせたが、一瞬いっしゅん眉間みけんしわせてよどんだ。青年せいねんわづかな逡巡しゅんじゅん見逃みのがさなかったが、ウエモンのことつゞきをだまってく。「何時いつかの戦争せんそう太陽系たいようけい惑星わくせい破壊はかいされて半減はんげんしてから随分ずいぶんったとはえ、太陽系たいようけいないでも……未発見みはっけん天体てんたい数多かずおおい。第三十七だいさんじゅうななガニメデ砕片さいへん隕石いんせきによる火星かせい第一期だいいっき地球化ちきゅうか拠点きょてん全滅ぜんめつ事件じけん以降いご観測かんそくはじめてから五百年ごひゃくねんぶん蓄積ちくせきがあっても人類じんるい太陽系たいようけい解明かいめい入口いりぐちったばかりなんだ」

成程なるほど……しかして、太陽たいよう随分ずいぶんわかいのは、しや……」

「あゝ、ントね……木星型惑星もくせいがたわくせい四星よつぼしからかれた瓦斯がすんだからだね」

「ユゴスがまえから、随分ずいぶんと、太陽系たいようけい渾沌こんとんとしているみたいです」

……ン、今、何て……」

 丁度ちょうどはなし区切くぎりがいたとき景色けしきひらけ、夕日ゆうひなか鉱山こうざん地帯ちたいた。列車れっしゃかなでるおと鉄橋てっきょうの其れにかわり、たか場所ばしょ通過つうかして行く。鉄橋てっきょう吊橋つりばしらしく、ふと鋼線ケーブル隙間すきまからはふか川谷かわだにのぞいた。此の列車れっしゃ長大橋ちょうだいきょうとをのぞいてひといとなみはり、自然しぜん支配しはいされたかわいた大地だいちえる。

真実しんじつ何時いつふかい。人間にんげんことには限界げんかいがあるんだ」

元津もとづさん……」

 ウエモンのつぶやきは、夕日ゆうひらされたシルバーベイン高原こうげん谷底たにぞこちていくようだった。しかし、セイエイはれをひろげた。

「ウエモン、れはうだけど、人類じんるいろうとしてきたぢゃないか。限界げんかい拡張かくちょうをしてた。だからさ、れるるさ」

楽観的らっかんてきだな」

「……ぼく真面目まじめ心算つもりだ。ぼくは、ときしりりたいとおもったことをまでだけど、しみなく手段しゅだんもちいるさ」

素晴すばらしい……」青年せいねん口角こうかくがる。「まさに、まさに、寺内てらうちさん、まさしく、寺内てらうちさん、貴方あなた知識ちしきもとめるひとだ」

 唐突とうとつ興奮こうふんはじめた青年せいねんに、セイエイはなにうべきかからなくなる。困惑こんわくしたセイエイの視界しかいでは、夕陽ゆうひ所為せいか、青年せいねんひとみおくから青紫あおむらさきひかりているようにもえた。深淵しんえんからのぞんでいるのか、れとも、深淵しんえんちた存在そんざいが、青年せいねん姿すがたをとっているのか。しかし其れに気付きづかぬまゝ、ウエモンは、何処いづこかでセイエイがはっしたことみずからのくち再生さいせいした。

自分勝手じぶんかってなだけさ」

れでも、わたしには素晴すばらしくおもえます。元津もとづさんも。貴方あなたは、……『彗星すいせい』に畏怖いふかんじていますね」

 唐突とうとつ興奮こうふんしたかとおもえば、唐突とうとつ冷徹れいせいになり話題わだいもどった。

「ヘ」

 貫徹かんてつされずにうご青年せいねん言動げんどういま状態じょうたい理解りかいしようとしたが、間抜まぬけなこえ二人ふたりからはっされた。事態じたいまであいだに、列車れっしゃは、橋梁きょうりょうからかわつくした段丘だんきゅう着地点ちゃくちてんつけき、落石らくせき防止用ぼうしよう洞門とうもんる。三人みたりせきには、夕日ゆうひかげとが素早すばや交互こうごおとずはじめた。

「知識を求める人間と云うのは。自分に出来る範囲の事をしようとする。自分に出来る範囲を広げようとする。然うでいて、すべて識れるなんてはなから思っていない。……此の推測は合っているでしょう」

 セイエイとウエモンとは顔を見合わせた。畏怖、と聞いて思い出すのは、昨日と今日とで経験したナラヒア諸島での「神々」の話、栫井八千代——お千代が映像通話で語った奇妙な経験。だが、二人ふたりは、「彗星すいせい」に自分が畏怖しているとは思えなかった。畏れる方法も見当がつかなかった。「地球に衝突する虞」があるならば、神頼みにでも行っていたろうが、二人ふたりがした神頼みは、観測が上手く行く様にとのものである。

ふたつある。質問です」冷徹な声に戻り、夕べの陽と影との明滅の繰り返す場所で、青年せいねん二人ふたりに問う。「一つ、畏怖の自覚と、二つ、対象です」

 両つ——セイエイと、ウエモンとは今日何度目になるか、顔を見合った。

「セイエイは此の前不思議な体験をしていたな」

「エ、然うだっけ」

「ホラ、夢の奴だよ。カーナビの音声とか、栫井に似た……ケエ・ベエ・エンだっけ、人工智能とかのだよ」

 セイエイの記憶に、消えかけたものが蘇る。忘れていた訳ではない。だが、会話の中で体系化されたものが解体されていた。

「すっかり忘れとったわ」脳内で、もう一度汲み上げて行く。其れは忘却と云う井戸の底に何かを忘れ去っているかも知れなく、本来はなかったものが混入しているかも知れなく、もう一度完璧に体系を再現する事は出来ないかも知れなかったが、せずに居るよりはした方が好かった。「『彗星すいせい』観測の日、僕は夢を見た。謎めいた男に話しかけられる夢だった。其れから、僕は『彗星すいせい』の下で寝る度に不思議な夢を見ていた……一昨日迄は、です。昨日は何も見なんだ」

「内容は何でしたか。何を感じましたか、或いは今思い出して、何を思いますか」

「僕は……世界を旅していた。電子的な場所、沙漠、国家の崩壊した町と森林、死後の世界、未来の宇宙移民船団……現実と地続きの、其れでいて神々の居る世界……」

「聞くに、彼れからも繰り返ししていたみたいだな」

 語った世界の数が増えている事に、ウエモンは気付いた。

「……興味深い」

「ウエモンに君、『蝴蝶の夢』は知っているか。夢現の区別がつかなくなる、古代東ローラシア極東の伝説だ。僕は其の状態だったらしい……。昨日は、何も見なかったが」

 寂しそうに目線を逸らそうとしたが、列車が洞門から隧道に入った事で、車窓には青い車内と自分の様子しか映らなかった。青色は、夕陽の消えた世界に次第に目が慣れて行き消え去った。セイエイは自らを「マコト」と呼んだ青い髪の人工智能の相棒の姿を幻視した。記憶の中での体格はセイエイと然程変わらなかった。

「……少し、興味が湧いて来ました。併し、寺内さん、貴方は其れに興味より恐怖を抱いていますね」

 二度目の心中の言い当てである。先程よりも自然な流れであるので、驚きは少なかった。現実とは何か、何両方が本当の自分なのか。其の問いは、夢を見ず、忘れかけた事で遠ざかった様に思えてならなかった。

 次に隧道を出た時、日の入りを過ぎていた。太陽は地平線に沈み、僅かに赤らんだ西の空も、夜空と云う闇に沈んでいく。夜が無ければ、太陽以外の星は見えないと知っていても、今日だけは、夜が疎ましかった。

「……」

 其処に、放送が聞こえた。自動放送となっており、聴き取り易い。夕食の提供を始めると云う内容であった。数分も経たず、通路を乗務員の押す手押し車が通り、夕食が運ばれてくる。此処ではなく、事前に注文したものの様だ。形式としては、以前、桐三竹と偶然出会って食事を共にしたアルチヤスと同じものである。

 乗務員は三人の席の隣に来た。誰が会話するか決め兼ねていると、乗務員が現地語で声をかける。意外にも、青年せいねんが乗務員に最初に顔を向け、会話を始めた。現地語をよく知らなくても流暢であろうと察せられる。

座席番号ざせきばんごう……ふたつがお二人ふたりぶんみたいです」

 指示の通りに食事のある盆を受け取り、続いて青年せいねんの分も渡される。乗務員は次の座席に向かう為、手押し車に手をかける。

「ツァンキェー」

「ツァンキェー」

 現地語での感謝の言葉を何とかして述べてお辞儀する。乗務員は微笑んで見せ、顔を戻して歩き始めた。ツァンキェーと云うのは戦前はサンキューとか発音されていたと聞いた事がある。

「其れにしても流暢に聞こえた。何処で学んだんだ」

元津もとづさん、になりますか。うふゝ」青年せいねんは、視線しせん若干じゃっかんげた。かげえて、いろらない青年せいねん肌色はだいろ所為せいで、まるですわ青年せいねん全身ぜんしん座席ざせきえがかれた模様もようであると錯覚さっかくしそうになる。「なんことありませんよ」

る、か」 

 ことは、二人ふたり同時どうじはっされた。

貴方あなたにも……二人ふたり同時どうじには難しいかも知れませんが、知りたいならば、を教えてもいいんですよ。然うなれば、私も、貴方の事をもう少し見極めねばなりませんが」

「俺は遠慮するよ」ウエモンはきっぱりと断った。「君を必要とする時が来る迄、未だ〳〵時間がありそうだからな」

 然うして、三人は頂きますをした。

 手を合わせた後、三人は皿を見つめた。雑穀蒸しと温豆ぬくまめ料理りょうり塩魚しおざかなとが並び、彩りのある。

「初めてですか。手前から順に、左回りに味を見るといいですよ」

 青年せいねんは匙と肉刺しと箸の包みに描かれた西ローラシア乾燥地帯の景色を見つつ小声で囁いた。

「順番か、然うなのか」ウエモンが手前の塩魚しおざかなを見、左上の鮮やかなる温豆ぬくまめ料理りょうりを見、右上の雑穀蒸しを見た。左に座るセイエイのも見る。「全員、同じ様に並んでるな」

「アアルイチ第三区の郷土きょうど料理りょうりと云うか、地域特有の献立と云うか、然う云うものだった筈です」

 セイエイはAard-hthirアヽルイチと検索してみたが、見当たらない。「アアルイチ第三……ムラネオオ第三ぢゃないか」と訝しむ。

「あ……間違えて覚えていたかも知れませんね」

 「Laurasiaローラシア Mnan/thtadhdムラネオヽ」で再検索すると、画像が浮かんで来た。此の三種の献立や、色違いにも見える画像が多数を占めている。後は「先の大戦」の核融合兵器の窪地位である。理解し難い存在に思えた青年せいねんも、斯うも人間らしい間違いをするならば、少し信頼してもいいかも知れない——単に自分以上の知識を持つ図書館としてではなく、人間として接しようとようやくセイエイはおもえたのである。ぎゃくに、青年せいねんうたぐっていた自分じぶんなにであるか見失みうしないそうにもおもえてきた。

 三種さんしゅあった食器しょっきからはしえらび、塩魚しおざかなくちにする。其の塩辛しおからさは随一ずいいちにもおもえたが、温豆ぬくまめしるすゝればうすまっていく。食事しょくじ以前いぜん観光列車かんこうれっしゃアルチヤスでもしたが、れは観光客かんこうきゃくけだった。此方こちらは其れ以上いじょう現地げんちのものを提供ていきょうすると云う意味合いみあいがつよかんぜられた。此の寝台夜行列車しんだいやこうれっしゃは、夜間やかん西にしローラシアない東西連絡とうざいれんらくと云う列車れっしゃ自体じたい性質せいしつがあるが、抑々そも〳〵観光客かんこうきゃくけではない。大衆たいしゅうけなのだ。

 しばらくすると、食事しょくじえた乗客じょうきゃくせきち、荷物にもつまとめて進行方向しんこうほうこううしがわ移動いどうしてくるまっている。せきいたところ時折ときおり乗務員じょうむいんさんが手押ておぐるまあらわれ、座席ざせきごと片付かたづけをじゅんはじめている。

 セイエイ、ウエモン、其れに青年せいねん食事しょくじえ、きゃく随分ずいぶんった座席車ざせきしゃ名残なごりしさに見回みまわす。「彗星すいせい」がたかのぼったことで車窓から消え、星々を背景にした高原が見えていたが、街灯は殆ど見えず、乾燥地帯に耐える草木が星々の影になって形が判る程度である。併し其の分美しい夜空である……車内は、意匠や設計に若干古さを感じつつも今も通ずる実用性を兼ね備えていた。例えば、網棚とかである。

 他の乗客が然うした様に、進行方向後ろ側の車両、寝台車へ歩き始める。セイエイとウエモンとは二段寝台のある部屋だが、他にも寝台個室がある車両だ。

「然う言えば、お二人ふたりの自身のこと、あまり聞いていない気がします」

 彼れは然う寝台車の通路で発した。だが、此れ以上、何を話すべきだろうか。個人の経歴か、友人、世間話か。然う言えば最近、更なる地球防衛網の構築予算が承認されたり、軌道エレベータの起工式があったりしたな……。

「具体的に、どんな話がしたいとかあるかな。取っ掛かりがないのが今の難点みたいだ……」

 ウエモンも頷いている。三人も三人が考え込んで、通路に立ち止まっている。荷物を抱えた状態であるのは宜しくない。

「何処か別の場所で話し合わないか。此処だと人の邪魔だ」

 然う言いつつ、ウエモンは一室、進行方向右側の部屋を開けた。既にセイエイとウエモンとの部屋には着いていたらしく、立ち止まったのは思案のみが原因ではなかった。

「ア、私が入っても……」

「構わんよ」

「俺も」

 三人は順に個室に入る。窓に張り付く様な二段寝台が視界に入った後、狭くも辛うじてある二人分ふたりぶんの机一脚と椅子二脚とが左奥に現れる。セイエイは片方を青年せいねんに差し出し、自分は下段寝台に腰を下ろした。セイエイとウエモンとは荷物入れに望遠鏡や着替えの分を入れた。暫しの物音、而て沈黙の後、青年せいねんを交えての会話が始まった。

 扉が閉じて、ウエモンは照明を付けた。睡眠を阻害しない赤みを帯びた光が淡く三人を照らす。

「考えてみて、お二人ふたりが旅をする理由、此の世界其の物に就て、然う云うのを聞きたいと思いました」

「此れはお前にも初めて話す。然うしてもいいと思えたからだが」ウエモンは、セイエイを一瞥して口を開けた。「元津右衛門と云う人間が斯う旅をしているのは、経過であって、結果であって、目的ではない。手段だ。俺には執着するものがある——其れに近づくには、彗星すいせいの観測が必要だった。其れで旅をしている」

「大切なもの、ですか」

「其の通りだ。君も教えてくれるんだろうね」

「勿論ですよ、元津さん。でも其の前に、寺内さん……」

「あゝ、僕が旅をするのは、知識か、経験かが欲しいからだ。自分は、興味が抱いたものに対して特に何が好きとなることなく知り続けたくなる気質かたぎらしくてね」車輪が甲高く音を奏で始め、車が減速する。気になってセイエイは窓の外を見た。「僕は国の外に出たことがなかった。地元に目を向けてばかりで、国家の国民と云う存在など意識したこともない。たゞ……世間は地球人としての自覚を求めているだろう。だから、見てみたくなった。旅は、ざっと地球を見るのにいいものだろうと思って此の組織……えっと」

彗星観測すいせいかんそくチーム」

「難有うウエモン、然う、彗星観測すいせいかんそくチームに応募した。『彗星すいせい』——ユゴスにも、一般的な彗星すいせいにも興味はある」

 セイエイの顔は進行方向前側、ウエモンの方へ向きつつも視線は窓の先へと向かった儘だった。列車は遂に止まる。顔を背けられた儘の青年せいねんが、視界に入ろうと勢いよく前へ飛び出した。

「ヨッ」

「ンゥ……ア——」其の刹那だけ、セイエイの視界は背後から左を回って此方へ向き合う「何か」を見た。勘が鋭いとか、霊感があるとか然う云うものは信じない。セイエイは善なる科学を信じる人間だったが、此の時だけは——地球外の香りを感じ、其の何かに恐怖した。が、片目をつむって瞬けば彼れは青年せいねんだった。「アッ、アヽ……何だ君か」

「然うですよ。次は私が旅する理由ですよ」

 セイエイを見つめるウエモンからの視線を遮る様に青年せいねんが顔を出す。頭巾から顔を出した時から今迄、人間らしくもすえじみた肌と銀白色の髪と以外を意識していなかったが、黒い瞳をしていた。セイエイの視界の左半分が車内を見る。「何か」と形容すべきものは無く、地球外の香りも、知覚した異常な一切は消えていた。

 もう一方のセイエイの視界、右半分の車外は夜行寝台列車の停車した駅で、正子の近づいた駅に人気はなく、車内に流れる停車理由の放送もない。其の駅に置かれた貨物容器が光り始める。其の発光に、青年せいねんも気付き、話が中断した。

「実は昨日も此の列車に乗ったんですが、其の時は気付きませんでした。煙草を喫む女性——」

 青年せいねんの声が、一瞬、警笛に遮られた。先刻から輝いて見えた光の正体は、高速で駆け抜ける貨物列車であった。貨物容器は反射していたのだ。

 暫くして緩りと発車する。夜行寝台列車は、静かに分岐を踏み右へ転線し、電動機が唸り始める。

「此処の路線の生い立ち、知っていますか」青年せいねんは一見すると自らの旅する理由と関係なく思える問いを立てた。「シルバーベイン高原を走る、トゥイッセルピーク鉄道の生い立ちです」

「戦後の新鉱物発見が云々だっけ」

「セイエイ、戦後は公表だ。発見自体は戦中……『先の大戦』では兵器利用も検討されていた筈だ。だが、俺は路線との関係は知らないな……」

元津もとづさんも寺内てらうちさんもよくっていますね。路線ろせんは、新鉱物しんこうぶつ大量たいりょう保有ほゆうする鉱山こうざんため路線ろせんです。もとはとえば、戦中せんぢゅう核攻撃かくこうげき露出ろしゅつした地下ちかふかくの岩盤がんばんふくまれていたことわかったことがきっかけです」特殊とくしゅ信号しんごう現示げんじ通過つうかしていくと、列車れっしゃ二条式にじょうしき鉄道てつどうにしては異例いれい高速度こうそくど加速かそくしていく。「しかし、場所ばしょかつ存在そんざいしたくには、発見はっけんするのがおそすぎた。てきによる本土ほんど攻撃こうげきがきっかけとなったんですからね」

 青年せいねんが水を飲み、一旦話が途切れるのに合わせたかの如く列車は隧道へ入る。セイエイの視線も、二人ふたりに戻された。今も稼働する鉱山から、窓越しにきつい臭いが感ぜられる。セイエイには、何時か聞いた、故郷の喘息の公害を思い出さずにはいられなかった。

「……此の話が、君が世界を旅する理由に何う繋がるんだ」

 ウエモンの問いに、青年せいねんは応えない。

「時期が違えば。若しも、油頁岩など他資源の調査などでボーリングがされていれば。一つの世界でも、複数の世界を生み出す可能性を秘めている」

 ウエモンは其の話を聞いて、何処かの科学者の講演会の内容を思い出す。随分と昔だったか、確か戦時中——戦意発揚の為の、何かだったか。

「此れを……ッヂヤ・ホツでしたっけ、あれ、日本語で……」

「多元宇宙論」

「寺内さん、其れです。私は、妄想の為に旅しているのでしょうね」

 セイエイの思案が一瞬であったと雖も、視線が少しずれてしまった。セイエイは其れを戻すのも素っ気無く、窓越しに移る青年せいねんの顔を見た。其の横で、ウエモンが回顧を始めた。其れは決して懐古ではなく、厭古とでも云うべきものだろう。

「妄想、か」

 ウエモンは、無くしてきたものを思い出す様に呟いた。薄暗い隧道の中は、嘗ての地上の景色によく似ていた。長い戦争の果てに訪れた太陽のない昼間は、長く続いて、人を苦しめた。人類の過ちではあったのだろうが、関係のない存在をも巻き込み過ぎていた。而て、元津少年は宇宙に希望を託した人々の英雄となる筈だった父親に憧れていた。併し其の暗闇は、「変異人種」と呼ばれる存在を生み出しもした。識りたがっている。併し……此の冷徹な男を頼る気にはなれない。

「『高い城の男』と云う作品は、丁度、西ローラシア大陸を舞台にしていましたね」

「Philip Kindred Dickか。アメリカの話だったな、あれは……第二次世界大戦後の架空世界だった」

「アメリカ……西にしローラシアと西にしゴンドワナと西側にしがわ南北なんぼく二大陸にたいりくことぢゃなくてか」

 首を傾いでセイエイは問うた。古風な言い方で敢えて「アメリカ」だなんて言い方に固執した時期もあったが、海向こうと云う感覚しか持っていなかった。

「昔は然う云う名前の国があったの。其の地域は北米、乃ち今の西ローラシアだ」

「ヘエ」

「若しも『先の大戦』時に新鉱物を早期発見出来ていれば、アメリカの名は続いていたかも知れませんね。其れこそ、日本の様に」

「止めてくれ、今の日本は戦前とは全然違うんだ。新生『日本国』はNNで、以前とは略称も領域も首都も主要都市も国家体制も何もかも違う。『先の大戦』に生き残れなかった周辺国を吸収した……ッ」ウエモンは、其処で会話をやめてしまった。「妄想は所詮、未熟者のする安易なものだよ」

 暫しの沈黙が続くかと思われたが、セイエイの口が動き出す。

「君は妄想の為と言ったが、妄想には思えない。君は君なりの実体験を伴った……何かをしているね」

 セイエイの中に生じた疑問が、自身の理性に漉されずに口から漏れ出した。寺内情栄と云う人間は、此の青年せいねんが不気味の知れなさを孕んだ——或る意味では無垢、故に危険——な存在であると先程認識した筈なのに、そんな言を呟いてしまった。其れは、黙ってしまったウエモンに代わって何かを言わねばならないと思った故なのかも知れない。併し、沈黙ならば、此の三人の会話の中で数回既に訪れていた。再開に何も困難がないことを確認している筈だった。だのに……。

「ええ」

 其の溜息交じりの声は、興奮の呼気だった。此方を向くのか、やけに緩り青年せいねんの顔が回る気がする。其の行動を齎す思考は、恐らく、寺内情栄と云う一人間には覗けぬものだろう。だが、青年せいねんは今し方、自身の深淵を覗かせて来た。

「確実に妄想ではないかも知れないが、妄想と言わねば受け止める術がない」

 青年せいねんの吸気を感じた所為なのか、引き寄せられ視線が動き、青年せいねんの顔が、窓の反射越しでなく、直接目に入る。其の瞬間に、セイエイは何かを感じた。視界からウエモンが吹き飛んで行ったことに驚いていると、青年せいねんが其処に居続けていることに更に驚く。而て、青年せいねんの瞳の色は、最早黒色ではなかった。

 片目が青紫。青年せいねんの右目である。先刻迄の、夜行寝台列車の個室内での位置関係から考えれば、青年せいねんの右目はセイエイからしか見えない。驚きが続いての目撃故に、セイエイは其の瞳の色を、電撃の如く真面まともに受けてしまった。其処に、社会に対して無知な青年せいねんらしさ溢れる声はなく、冷徹な声が発せられた。

「知識を得るとは、知識を元々持つ人の世界観を識ると云うことでもあります。複数は、混合し、知識は殖える。併し、相手に其の気が無ければ、相手は

 其の言葉遣いは、理解されることを前提としていない様に思えた。人間の言葉を用いているが、人間が発している訳ではない——セイエイは、何うしてこんな存在を「人間らしい間違いをするならば、少し信頼してもいいかも知れない」などと感想を抱いたのか不思議でならなかった。此の青年せいねんが人間であるか否か、未だ確認していないが、此れ迄係わってきた非人間の存在の中で、最も人間的と思えた存在が思い浮かぶ。ナラヒア諸島マヒラ島で出会った神々は、古生物に文字と、地球の記憶に残るものの姿をしていた。二人ふたりに対して親切であった。併し、眼前の、瞳の色を変えた青年せいねんは、まさしく、ALYAUNTEアアリエン文字もじ似合にあう。

 姿すがた青年せいねん性別せいべつらぬが、青年せいねんまと未知みちは、出会であったばかりのよくらない人間にんげん未知みちとはことなる。

——「妄想マウサウ」……。

「セイエイッ」

 視界から消えても尚、自分を呼ぶウエモンの声を一瞬聞き取った直後、西瓜すいか割りの一太刀の如く、感覚が割れた。五感が五感の儘、二分される。聴覚は、左前の青紫にあっめられた。其れに逆らうかの如く、視覚は右から青に染まり、浮き近づく何かを見せる。

「マコトォッ」

 視覚から出現した「アヲ」が、「彗星コメーテース」の如く髪を靡かせ、聴覚に其れを届けた。自分を呼ぶ声である。

「ひよい……」

 割れた感覚の中で発された其の呟きは、セイエイのものであったのか、介入を恨めしく思う青年せいねんのものであったのか定かでない。セイエイは其の存在、の少年の姿を模った人工智能を識っていた。だが、決して彼れが僕をセイエイと呼ばないであろうことも識っていた。僕は「マコト」でないのに。寺内情栄は誰か。マコトはセイエイの妄想の産物なのではなかろうか。或いは……。

 此の思案に如何なる意味があろうとも、青年せいねんに圧倒される前に、個たる自分の感覚を取り戻そうと、心理の中で踠いた。何処からか現れたひよいが、空中を飛行した儘、自分と並走する。——何うやら、僕は寝台夜行列車の個室の中に居る儘らしい。周囲は不相変、青年せいねんの纏う空気に隠された儘だが、ひよいが暗に示してくれていた。

「手を取れ」

 彼れの叫び通り、セイエイは、右手をひよいへ伸ばした。此の人工智能——C.B.'nたるひよいの瞳には、「Mosktegh-ia-sia-ar 9141」と記されているのが目に入る。モスクチイイアシャア社の製造物と、自然物との二人ふたりの右手は、確かに、重なった筈だった。が——

——Ha’át’íí biniiyéなんのためにか?

 視界しかい明転めいてんした。隧道ずいどう暗闇くらやみり、隧道名ずいどうのなしめ銘板めいばん直後すぐあとよる沙漠さばくあらわれた。其処そこには、まど反射はんしゃした青年せいねん姿すがたがあった。視線しせんだけ右手みぎてにやると、しかったひよいの感覚かんかくよみがえる——せいのない「マコト」の相棒あいぼうの。

「……」セイエイは、青年せいねんを睨めた。「奇妙な体験をすると、夢ではないかと疑う。でも、何両方も然うだ。眠気がなくとも、何両方も夢現みたいなものだ」

 セイエイが姿勢を改めると、其の体は布団に沈んだ。其の軋みに、ウエモンが顔を上げる。薄目から徐に開いていく一方で、セイエイは自身の感覚を改めて確かめた。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。違和——自身の腹部に蠢く何かを捉えた。やおら立ち上がり、寝惚けたウエモンに「お手洗いに」とだけ言い残して立ち去る。

「フェ。あゝ、行ってらっしゃい」

 其の言葉の直後、個室の扉は閉じられ、自動でった。


 セイエイが退出してから、暫くあった沈黙を最初に破ったのは、青年せいねんだった。其の色を知らない白い髪に何回目かの街灯が過ぎた時、唐突に問うたのである。

「元津さん、貴方にとって寺内さんとはどんな地球人ですか」

 唐突な問いに、ウエモンは思わず笑みを漏らした。

「どんな、ネエ……。彼奴は、真面目な奴だ。知識に、他人ひとに、然う云う非自と言うか、他ばかり気にして、己れを見失いがちだ。最近は、……おかしくなっている気もする」

「おかしい、ですか」

 青年せいねんかしいだ首が、素朴に訊ねている空気感を出す。

「ぼんやりすることが多く見える。結構寝ているが、其れでも時折眠そうにして、ガッ、とも行かずにボケエッとしている。妄想に取り憑かれているのかも知れん」自身の口から出た言を認識して、ウエモンは一旦閉じた口を又開けた。乾いた舌が、舌打ちの音を発した。「ǁ、仲間なかま悪口わるくちうもんぢゃないな……。しかも、昨日きのう今日きょうったばかりのひとに、まない」

「いえ〳〵」青年せいねんくびもどし、おそめにかぶりった。「心配しんぱいだからこそのことでしょう。おもいは……」

 青年せいねんの、其のれたまぶたともにあるくろ双眸そうぼうが、ウエモンをいた。

「……元津もとづさん、寺内てらうちさんがかわっても、相棒あいぼうでいてあげてください」

相棒あいぼう……」

 れは、言葉ことばあやであったかもれない。あるいは、ウエモンがすでにセイエイをみとめていたこと気付きづいたゆえ発言はつげんであったかもれなかった。

「えゝ。貴方あなたと、っているとおもいますよ。元津もとづさん、結構けっこう信頼しんらいしているんぢゃありませんか。寺内てらうちさんも、貴方あなたむつんでいる様子ようすえました」

態々わざ〳〵言葉ことばにされるとずかしいものだな」

 やさしく微笑ほゝえんだ青年せいねんに、ウエモンも口角こうかくげた。かお若干じゃっかんあかく、わすれた陶器とうきよう青年せいねんとはことなっていた。意味いみでは、二人ふたり鏡映かゞみうつしだったのかもれない。

「そろ〳〵、寺内さんが戻られますかね。元津さんもお手洗いに行かれますかね」

「あゝ、行っておこう。君こそ先に行かなくていいのかな」

「結構です。排泄をば……私の場合……あまり必要としません」

 扉が開かれた。出た時はお腹を気にしていたセイエイも、すっかり調子を取り戻した様で、安心である。セイエイが寝台個室に入り、ウエモンが貴重品を手にして動き出す。「今度は俺が行くよ」と、セイエイに告げて入れ替わって行く。セイエイはウエモンを振り返り、ウエモンの心の中で背負っていた何かが軽くなっている様に足取りを見た。

 扉が再び閉まる直前、ウエモンは自分の中の何かを自覚させた此の青年せいねんを一瞥した。併し、其の視界の中の青年せいねんは、窓外からの街灯の光が幾度か車内をよぎる中、ただ窓の外を見ているだけだった。


 ウエモンはセイエイと入れ替わって部屋を出、暫く歩音あしおとが響いた。扉が閉じれば、セイエイの感覚には、時折照らされる部屋の内装と、其処に座る青年と、夜行寝台列車の奏でる足音と揺れと位しか捉えられなかった。路線が近年開業しただけあって、布団に沈む足は殆ど動かない。

「寺内さん」沈黙を破ったのは、青年だった。「椅子は空いていますよ」

「エ。あゝ、ン。僕は正座で充分だもんでね、難有う」

 青年の言は、ウエモンが席を立ったのだから其れに座っては何うかと云う気遣いだったらしいが、座面の硬い椅子に洋座ようずわるより座布団に似た柔らかい布団に正座した方が楽であった。が、青年の反応は芳しくなかった。

「セイザとは何です」

 青年は「彗星すいせい」に対して無知なだけではなかったらしい。セイエイは思考した——「現代日本語は過激とも云える言語復古・純化運動の産物であるが、文化は戦前を知る人々による学校外での伝達・保存に依存している」と。座り方一つ、案外気にしないものだろう。たれかがいて問題になったものを、記録にとゞまらず生きた文化として保存すべきかと云う議論もあったか。

「マア、斯う云う座り方だね」

「ヘエ、興味深う御座います」

 其の人間味溢れる青年の表情でも、瞳が異色を一瞬放ったのを、セイエイは見てしまった。——否、幻覚だろう。不思議体験の繰り返しは、興味関心を其処へ向けさせなくなるに足る程経験していた。

「此れは僕の話になるんだが」セイエイは今の幻覚を追求せずに、他の話を始めた。「一昨日おとつい迄見てた夢が気になっているんだ」

「然うですか。夢の内容は、普段から覚えていらしているんでしょうか」

「否、全くないね。でも、其の『旅』だけは、全く覚えている」

「対照的ですね。其の旅の内容を具体的にお願いします。連続性があるのか、出て来たものなど

 青年の瞳は煌めくが、声は冷徹になった。

「最初の夢は、自分が未知の中を浮遊している所から始まった。未知は『謎めいた男』に化身して、僕に『マコト』と名を付けたんだってエ。最初は其れだけだったわ。けンどねエ——」セイエイは続けて、「マコト」がひよいを名乗る人工智能——モスクチイイアシャア社のC.B.'nケエ・ベエ・エン、9141ごう出会であったことれと雪山ゆきやま沙漠さばく亡国ぼうこくゼエゲ、死後しご楽園らくえん遠未来えんみらい宇宙うちゅう移民いみん船団せんだんJ7ESF、神々かみ〴〵饗宴きょうえん滅亡めつぼう進化しんかとの狭間はざま地球ちきゅうと云った異世界いせかいたびしたことかたる。其処そこ出会であった存在そんざいのないものから、固有こゆう名称めいしょうものまで——サナエ船団長せんだんちょうとJ7ESFの旗艦きかん宇宙船クヱアツ・ミライと、相互理解そうごりかいもと鮫少女さめしょうじょとなった人間にんげん・マーデと相互理解そうごりかいもとんだ人間にんげん・イハ……。「斯々然々かく〳〵しか〴〵

「成程、貴方は……寺内さんは、夢の中で、『マコト』として、『ひよい』と一緒に旅して来た……『世界の旅行者』と」

此処こゝいらぢゃ、旅人はチャメウだっけね」

「えゝ。Travel(l)erと綴りまして、エウ……lエウが一つならチャメウ、二つならチャメリでしたね。……意味も別の、使い分けのある筈です」

 窓の向こう側では、街灯が目立ち始めた。昼行の特急ならば停車する都市であるが、此の夜行寝台列車は速度を落すだけで、寝静まったみやこを通過する。

「……其れで、寺内さん」

「僕が此れに恐怖を抱いていると、君は言い当てたろう。だが、勿論……興味もある。妙に現実的で、浮世離れしたものだから……」

 セイエイも、台詞せりふ矛盾むじゅんふくんでいることなど、指摘してきされるまでもなく気付きづいているが、うとしか形容けいよう出来できなかった。青年せいねんをセイエイとまどとかららしたが、みゝかたむけたまゝだ。

すべが、しいですか」

 文句もんくは、活字かつじたとえるならば、たゞの文字もじではなかった。まるで製本せいほんなかから、十一文字じゅういちもんじだけがこゝろにじくかのごとく、相手あいてげられた。

——「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」

 其れに応えるかの如く、記憶は其の言を呼び覚ました。セイエイが「謎めいた男」に応えた言葉。或いは——「マコト」を縛る言葉。併しセイエイも又、此の科白によって、今回の旅の行動を造り上げていた。

「知識欲は、人を進化させます。進化の要因全てが知識欲でなくとも、知識欲は充分に『プロメーテウスの火』ですから」

 Προμηθεύς。ギリシヤの神話に伝えられる神の名。唐突な神名に、セイエイは背を後ろへ反らせた。

「でも、でも……知識は、知った後も制御できる。難有う、君と会話して、向き合い方が分かった気がするよ」

「えゝ」青年は微笑んだ。話の終わりが見えたと、セイエイも数分に亘る長話から正座を崩し、床に立った。が。「ですが、私が貴方に出来ることは、此れだけではありません」

 不意を衝かれた。「私が貴方に出来ること」と来たら「此処迄だ」と云うのが相場な気がし、先入観を崩されたからだ。意外さに、青年を凝視した。

「ア、此れを持っていて下さい」不意に、青年の分の切符がセイエイに手渡された。日付は今日、シルバーベイン駅発の片道乗車券。二枚目は、此の列車の号室が、十三号車の——おっと、他人のものを読むのは宜しくない。青年は、予約を確認し合う旅の相棒ではないのだ。セイエイが顔を上げると、青年は更に微笑んだ。細まった目から、青紫の光が漏れた気がした。「お教えしましょう」

 其の言を耳にした途端、世界の速度がひずんだ。村のはじ迄進んで加速していた列車、一瞬で過ぎ去る筈の街灯、全ての遅まり。舞台照明の様に、止まった街灯が室内を照らした。夜の街灯につきものゝ羽虫の影も、緩慢に漂う。青年は一体何を教えようというのか、自ら服を脱ぎ始めた。此の遅延する世界の中で、青年の服の下から一体何があわられる[#「あわられる」は原文ママ]のか、途端に見当がつかなくなってしまった。だが、人間の器官である。しゅ上膊じょうはく下膊かはくきょうふく人間にんげん肉体にくたいようではあったが、外見がいけんでさえ、すえ——磁器じきごとく、しかきず黒子ほくろもないはだだった。

「よく見て下さい」

 青年が胸を指す。其の乳首——ではなく、其れは、紫の瞳だった。青みを帯びた紫の色は、丁度、セイエイが正に先程幻視した世界の色である。

「…………」

 眼球は、頭の其れと同じ様に瞬き、見回し、湿っている。此の眼——セイエイは確信する。青年は、変異人種などではない。抑々が、此の世界に於る、人間の範疇から外れたものなのだ、と。

「オ、然うですか。貴方の世界観も気になりますね」

 心中しんぢゅうを読まれて驚き、青年の胸の眼を見つめる。青紫の眼は、セイエイを射抜き、魂の深い奥底迄見透かそうとする視線である。頭の方の目を見れば、セイエイには青年が自身が「世界の旅行者」であるか確かめようとしてくれているのが分かった。だが、表情は険しくなっていく。

「分らない——済みません。でも、もう一つ、識る術があります」

 青年——の、姿をした存在は然う言って、「貴方も、知りたいでしょう」と言外に疏通させる。其の術と云うものが如何なるものであったとしても、知るだけで選択肢は増えるのだ。セイエイの頷きに、青年は、姿を変え始めて——擬態を、解いたのだ。

「翼のある使者……」

 牙の覗く口元、濃く鮮やかな青紫の瞳、煌めく薄い翼あるいは翅、四肢の先の爪。強靭な肉体を持つ存在が其処に立っていた。眺めていると、足が変な気になる。

「お前は然う思うのだな」

 口調は変っても、声は青年の儘だったが、響きは変って、無理に人間を真似ている様に聞こえた。一体、何が欠けたのか。目を細めたセイエイに、訝しむ目の「其れ」はぼやけ、其の中にか、溶けた肉塊が見えた。熔けた金属の様で、精神もない抜け殻、記憶・経験・知識だけ残るものが此の多数の肉塊らしい。冷徹な青年に、何を何うしたらこんなものが重なって見えるのか……。

「——ッ……ユッ……」

 セイエイは、自分が其れを何と認識し、何と呟いたのか解らなかった。

「然う、寺内情栄。融合しよう」

「……ッ」

 再び見開かれたセイエイの目に入る視界からは、曖昧なものは一切消えた。恐らく、「プロメーテウスの火」とは、他でもない、自身の比喩だったのだろう。

「我々が知識を合一すれば、は貴方の真実を覗けるかも知れない」

「融合……」

 彼れの云う、「」……其れは、寺内情栄であると言えるのだろうか。「翼のある使者」とは、セイエイが不図呟いた言葉だが、其れになぞらえるならば、此奴はみずがねだ。飲めば途轍もない効能を得られると考えられていた猛毒である。

 毒であれば。毒でなければ。なかったとして、其の後は。

——自分が人類の一員でなくなった時、自分は一体何の為に識っていると云うのだろうか。

 思案の沈黙を、此の冷徹な存在、「翼のある使者」は、黙って見つめてくれていた。だが、心と云うものは、大きな分岐点で立ち止るものだ。殊に、「大きな分岐点」の姿をして、〆切しめきりが分からない状態であるともなれば。

 足が震え出した。足も組み替えず正座をし続けたである。靴は大きな震えにも動ぜずにおれど、体は却って崩れそうになる。

「ほら、摑まれ」然う冷徹に言った「翼のある使者」が歩み寄り、手を差し伸べた。僅かな沈黙の後、付け加える。「爪に」

 さきえた鉤爪かぎづめは、したさわればはだくが、上側うえがわなめらかで湾曲わんきょくしておるだけである。おおきな鉤爪かぎづめ両手りょうてえたセイエイは、れをしびれた両足りょうあしわりとしつつ、冷徹れいてつ存在そんざい人情にんじょうぬくみをかんじた。異国いこくで、こんなことこるとは——いな国際的こくさいてきには、地球上ちきゅうじょうのものはすべおな地球とぅいい市民しみんていだったか、いなれは人間にんげんではないのだから、ン、いまぼくなにいなんでなに再構成さいこうせいしようとしたのか……。うだ、「異国ことくに」ではない。が、「異人ことひと」ではある。まった異質いしつ存在そんざいが、おなとき共有きょうゆうしている。当事者とうじしゃになってまったんだわ。

 セイエイは、かつ何処いづこかでいた、異教徒いきょうと教化きょうけ寓話ぐうわおもした。とはっても、「あやまった価値観かちかん」のたとえとして、「たゞしい宗教しゅうきょう」の信者しんじゃが、異教徒いきょうと出会であい、れを逆縁ぎゃくえんとして教化きょうかこゝろみる——が、相手あいてかえりみずにわる結果けっかとなる、そんな事例じれいげられたのだったか。融合ゆうごうは、教化きょうかに似ている。だが、結果は分らない。融合を提案した存在は、長い腕の向こうに居るが、此奴からは呼気も吸気も、聞こえも触れもせずにある。「其れ」は、静かに、足の痺れの引いた後に来る筈の答えを待っている。……此の生理現象は本当にたゞの痺れだったのか。

「時間切れだ」

 併し、足の痺れと震えとが収まった頃、冷徹な声は放たれた。「翼のある使者」は青年の姿へと縮み戻り始め、服を手にした。困惑するセイエイは何も動けず、青年が裸の上半身に服を纏い、自分の手から切符を三枚とも摑んでも、だが、セイエイは気付かず指先に力を込めた儘だった。

「『結局、自分のものになるのだから、離さなくてもいい』、と云うことですか」

「ヘ」

「切符」

「エ、アッ」セイエイは手から切符を離した。「いや、今は……」

 此処で融合したら、確実に一人の乗客が車内から消えた怪事件になる、とセイエイはせめてもの言い訳を思い付いた。

「然うですか」何時もの——何方が本性なのか、セイエイには判別が付かないが——口調に戻った青年が溜息を吐いた。其の様子を見て、セイエイは融合したとしたら、此の青年の親御さんたちは何を何う思うのだろうかと心配になった。セイエイは彼れのことを何も知らない——殆ど、無知であること以外だとは内緒である。「ハヽ」

 椅子いす腰掛こしかけた青年せいねんは、セイエイの思案しあんわらった。直後ちょくご世界せかい時間じかん普段通ふだんどおながはじめた。ゆか固定こていされているようおもえたくつうごようになり、セイエイは移動いどうしてくつぎ、布団ふとん正座せいざする。今日きょう午後ごご、ずっとていた相手あいてである青年せいねんかおは、最初さいしょころかわらない。だが、かおおくに、融合ゆうごう欲求よっきゅうった——れは、気付きづかなんだだけではじめからったのだ。

何故どうして……。君なら、おのぞみのことるなんて出来できたろう。とき一瞬いっしゅん躊躇ためらいをしてまで——」

「其れは、不公平ふこうへいだとかんじたので」

 とき部屋へやとびらいた。ウエモンがお手洗てあらいをませてかえってたのだ。——とき融合ゆうごうれていたら、本当ほんとう青年せいねんうする心算つもりだったのだろうか。

「オ、もう西にしローラシア大陸たりいく中央部ちゅうおうぶ中西部ちゅうせいぶか」

 ウエモンがまどた。

かえってましたか。丁度ちょうどはなしげるにも頃合ころあいですね」

 青年せいねんふたゝがり、わるようく。

「ア、きみ今日きょう難有ありがとうね」

「えゝ。ぢゃあ、最後さいごに一つ、問うておきましょう」おれいをした青年せいねんは、とびらけた。まりはじめたとびらこうから、「最後さいごい」がげかけられる。「知識欲ちしきよくは——人間にんげん以外いがいにもあるとおもいますか。おやすみなさい」

「おやすみなさい……」

「おやすみなさい」

 とびらざゝれた。ウエモンはセイエイを見て、「面白おもしろ質問しつもんだったな。系外生命けいがいせいめいことかもな」などとはなしたが、セイエイにはあまみゝっておらず、相槌あいづちつだけだった。先程迄さきほどまでしんぜられない光景こうけいにすること今日きょうは——おそらく今後こんごも、もうないだろうと、つかれがおもてしつゝあった。

 知識欲ちしきよくは、青年せいねんはあの姿すがたとなっても確実かくじつっていた。セイエイには人間にんげんでないとおもえたが、あのいがたゞしいとすれば、あの姿すがた——「つばさのある使者ししゃ」を人間にんげんみとめることになるだろう。……あたままわらない。時間じかん確認かくにんすれば、睡眠すいみんはじめてもいい時間帯じかんたいである。二人ふたり二段寝台にだんしんだいゆかになる。

 ウエモンは上段じょうだんに、セイエイは下段かだんに。二人ふたりは、たがいのいききながら、ふかく、ふかくへと、睡眠すいみんはじめた。


/*視点変更*/


 次元龜󠄁裂󠄀と云うものを二人が知ってから、既に数日が経っていた。次元龜󠄁裂󠄀を拠点とすべく暫く行っていた整備を粗方終え、「マコト」は座布団に腰を下ろした。

「マコト、お茶は要るかな。そろ〳〵憩いたかろう」

「あゝ、いゝのか……」淹れて貰おうと口にする直前、ひよいの言の奇妙さに気付いた。「ひよい、何処でチャッパを手に入れた」

「買ったのよ。ホラ、セイエイの世界の、通信網の販売があるでしょう。彼処あそこから通貨を取り出して、買って来たよ。えっと……」ひよいは、棚の中から袋を出した。「どっさりね」

 ひよいの摑んだ袋の中には、緑茶を淹れる為の加工が為されており、空いた片手には急須もある。而て机の上には、給湯器もあった。マコトの視界に入る製品の幾つかには社章があり、其の全てが、花押の様な「NN社」の社章だ。Nippon the Newbornニッポン・セ・ニュウボアン——新生「日本国」の製造業を支える官営企業の名である。

「人間の文化を識るのは楽しいね……。ア、マコトは元からか」何うやって此れを、其の前に通貨を手に入れたのか、自分から語り出した。「戦時中に、沢山の通貨が行方不明になったらしいのね。其れでさ、其れが発見されたと云う申し立てをして、換金してもらってさ、買ったんだわ」

「アヽ、ンヘゥ」

 変な心持ちになって、マコトは訳の分からない返答をしてしまった。

「お金は未だ余ってるよ。其の布団だけぢゃなくて、次から添い寝用のぬいぐるみを数人買ってもいいんだよ」

「アア、めてくれ、知っとるなら此れも知っておろう、世間的には恥ずかしい事なんだよ」

「ヘエ、でも、戦時を経験した人に心的外傷を癒す手段として普及した筈だけど……」

「世界は、直ぐに変わる訣ぢゃないんだよ」

「フン……ハイお茶」ひよいは、語っている間も手を止めていた訳ではなかった。「味、言葉にして教えて欲しいな」

「あゝ……ン。新駿遠茶か」マコトはんで直ぐに分かった。「懐かしいな……。味、ネエ……」

 嚥み込まれた其の味を言葉にすると云うものは、マコトにとって、「セイエイ」である時もした事が無かった。語り渋っていると、茶の味の残るマコトの口内に、ひよいの知識欲が割り込んで来た。一体何回目になるか最早覚えてもいないが、決して恋愛ではないとは思われる。

「此れが味のクオリアなのね」

「ハア」

 重ねた唇を離したひよいは自分の分の湯呑を取り出すと、茶を喫み始めた。喫み、淹れ、喫み、淹れ、喫み、淹れるを繰り返すひよいに、マコトは、適切な量と云うものを教えるべきか思案した。併し、思案に耽っていると、感覚が「夢」から乖離し始める様な気分になる。一睡もせずに数日間、次元龜󠄁裂󠄀と云う広大な広袤を切り取り、斯うして拠点化していた事を自覚した。疲労の所為で、一息吐いた筈が、床に伏してしまったらしい。だが、起きる気力も涌かなかった。マコトの胸飾りの様に振舞う、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえいまんだはかったが、外す前にマコトの目が閉じて行く。

「( ˘ω˘)スヤァ」

 其れが、次元龜裂内でマコトが最後に遺した言葉だった。


——振動。定期的な振動。

 音は、金属音。くゞもった、回転する車輪の金属音。時折響く別の音は、車輪が踏み奏でるものだ。

 視界が開けた……否、自分で目を開けたのだ。椅子に座った自分の、膝の辺りを中心に、視界は、車内を捉えた。鉄道である。窓は、雪の積もった平野である。

「……寺内、情栄……」

 彼れは一瞬然う思ったが、其の呟き自体が、此の現実を感じる主体がセイエイでない事を示していた。窓からの冷たい風が、「マコト」の首から下げた何かを翻らせた。目をやると、其れは次元龜󠄁裂󠄀内で身に付けていた、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元射影さんじげんしゃえいの形をした撮影機の不良品ではなかった。読めば、

Mi-sgioba aithris A.G.L.A.Mh.: Macoto-C.

「アクレウ取材班ㇲキぺ⹀アリㇱ マコト C.」

Macoto-C. bi-na ball mi-sgioba aithris, gabh-mu-na cead coimh-ghabh ta obair so.

「マコト C.は取材班として此の作戦に同行ピナ・パウㇽ・ミㇲキペ⹀アリㇱ・カウムナする事を許可された人間である・キェㇳ・コ゚アㇳ・カウ・タ・オペㇽ・ソ(人間=ナ)」

 知らない言語で然う書かれた、名札。知らない言語を翻訳機なしに知れるのは、記憶の限りではセイエイではできず、マコトととだけが使用可能な能力であった。自分の体を確認しても雌雄のみ判別が付くだけで、セイエイかマコトかは判別が付かないが、此の名札が正しいのであれば、彼れは今、マコトが眠った筈なのにマコトとして動いている事になる。

御乗車難有う御座いますモーラㇴ・タン・タ・トテレㇴ医師の皆様方コイガウ・キㇳレナ・ソホレホ・ソ此の列車は臨時列車のピカ・エ・トㇽサ・クイイカルトメ行政区行きです・イーカレトメ・アセ到着迄、今暫くお待ち下さいませフェㇷ・フリㇶ・ネ・ペㇰ・クㇲ・ルイㇰ・ネ

 しどろもどろに周囲を見回し、首を回し終える時期を見失った儘、列車の放送が聞こえた。名札に書かれていたのと同じ言語に聞こえた。ケルト語風の何か、と云う印象であった。昼間を走る列車は、速度を落とし始め、イイカルトメ行政区アセと云う場所に近づいていた。

 停車の衝撃が伝った列車から、医師と共にマコトは駅へ降り立った。大勢の流れに従えば、雪を踏んだ。駅舎の外へ出た流れの先には、紋章が彩られた乗合自動車が見えた。其の儘、医師の乗り込む乗合自動車に足を向けようとした時、声が聞こえた。

取材班の方タ・チイㇱ・パウㇽ・ミㇲキペ⹀アリㇱ……。アクレウの方タ・チイㇱ・ヲ・アクレウッ」

 聞きなれた声が、慣れない言語を必死に話していた。顔を向けようとしたが、人が壁となって見えない。不意に、誰かが背中を押した。「行けファラウナ」との声と共に、躓いて転びそうになる。だが、流れの外に押し出され、マコトを読んだ声の主が見えた。自家用車の脇に立つ青い女、ひよいである。

「ア、此方だよアショ

「……ひよい」

「ウン、私だよ。車内で話そうか。マコトは助手席にお願いね」

 車内は、「セイエイ」の知る何れとも違う形をしていた。マコトの知っている道路を走る車両と云うものは、運転席に操縦桿一本と踏みペダル複数枚、多数の押し釦と画面とがあり運転機能が集約されていた。だが此の車両は、飛行機の操縦室に似ていた。だが、「電波磁気誘導」を示す文字列が車の扉に描かれており、異世界の、別方向に発展した技術なのだろうと思った。ひよいはマコトが車内を観察している間も、着々と発車準備を進めている。

前方信号点灯確認チエンナ・キニチㇷ・ミコホル・ピカ出発進行イマㇷチ=オヘリㇳ制限キヘヒリ……ヒトフタマル……十六と、六十四……制限八十キヘヒリ=フィへㇳ目的地確認チエルヰㇶナ・ルキアウニ鉱山メーニ発車ファラウカ

認証しましたデルバヒㇶテ

 指差歓呼の後、自家用車は緩りと動き出した。マコトの知る自動運転車に似ていたが、空を飛ぶ様子はなく、足が遅い。医師の大勢乗り込んだ乗合自動車を追いかけているが、軽い筈の此方の方がのっそりしている。

「ʘ、遅すぎる。此奴こやつ、上り坂を認識していないのか。ワッタシガ……私がアッ、運ン転してやるッ」

 苛つきの儘、ひよいは操縦桿に頭突きしたかと思うと、其の衝撃で生じた一瞬の隙を付いて自動運転の制御系統を上書きした。頭突きとは……随分と人間らしくなったものだが、外部入力を受け付けぬ筈の自動運転の介入を行ったのだから矢張り人工智能らしい。マコトは背中が加速度を受けて押し付けられるのを感じた。遠かった長い乗合自動車のお尻が見る〳〵内に近づいていく。横の窓から見える景色は、雪が横殴りに降り始めていた。

「ひよい、珍しいね、介入なんて」

「マア、あのZnaoh-eゼエゲでカーナビの中に入り込むなんて経験がなければ思いつかなんだでしょうね」ひよいは息を吐いた。「貴方あんたは忘れてるかも知れんけど此の体は元々仮想空間上にあったものよ。物理法則を少しは無視して機械に干渉も出来るのよ。実際、重ね合わさったりしたでしょう」

「然うだったね」

 マコトとひよいとが初めて会った場所は、確かに仮置きした建築物に似た何かのある空間——仮想空間だった。其の後、二人は雪山の仮想空間の世界で、意図的に遭難し、二人での世界の旅が始まったのだった。

「あの日も、こんな雪だったっけね」

「マコト……もっと酷く吹雪いてたよ。今は此方が速いだけ。の時は、地山の亀裂に潜んで暖を取ってたから、外の事は私も覚えてないけどね」

 ひよいの目は、薄らと細められ、心此処に在らずと云う感じに見えた。介入しての道路上での車両運転に集中しているのか、マコトと出会う前に見た「夢」の事を思い出しているのか、マコトには分からなかった。窓から見える雪原は、不相変、一致する記憶なく流れて行く。

 程なくして、目の前を横切る川が下より姿を現し、「Ìgartome Fhaseイイカルトメ・アセ」「Ilamenie Graoidheamhイラメニア・クルウエウ」と記された看板が目に入る。イイカルトメ行政区アセは、川向こう、岩肌の見える丘陵地帯であるらしかった。其処に、今回、二人が識るべきものがある。何故取材班であるのか、「アクレウ」とは何かだに知らねども、意識は前方の山塊と其の向こう側へと向けられた。


「アクレウと云うものは、翻訳すればメヂアだ。報道機関だから、斯う云う、取材が出来るらしい。都合がいいが……」

「マコトも、身分証を偽装した記憶はないみたいね」

「話が早いな」

 ひよいは自分の身分証を見せた。

「Mi-sgioba aithris A.G.L.A.Mh.: Sheofhoimh-M.」

「Sheofhoimh-M. bi-ca ball mi-sgioba aithris, gabh-mu-ca cead coimh-ghabh ta obair so.」

 とある。和訳すれば、

「アクレウ取材班ㇲキぺ⹀アリㇱ ひよい M.」

「ひよい M.は取材班として此の作戦に同行ピカ・パウㇽ・ミㇲキペ⹀アリㇱ・カウムカする事を許可された人間である・キェㇳ・コ゚アㇳ・カウ・タ・オペㇽ・ソ(非生物=カ)」

 だろうか。

「あ、此の言語、全然ケルト語ぢゃないや。多分、人間と非生物とで動詞語尾を変えてる。……ひよいは人間扱いされてないみたいだ」

「別に、其れが普通でしょう」ひよいは、落胆するマコトに冷たく言い放つ。「貴方あんたを見てると、私が人間と区別されるべき存在である事が一層理解出来るわ」

 川を渡り切り、見えていた「イラメニア・クルウエウ(地域)」と「イイカルトメ・アセ(行政区)」との看板が横を過ぎて行った。道は平坦になり、車が速くなる。

「……何に就て識るべきか、解っているか」

「知らないのか。ぢゃあ、私もマコトも、何も知らないね」

「先ずは、お医者さん達に話を聞こうか」

「然うねエ」

 丘陵地帯の岳麓がくろくに町並みが姿を現したが、道路は高架橋を進んで行く。マコトが遠目に町を見ると、奇妙な予感がした。「セイエイ」の故郷にあったと云う、煤煙ばいえんの公害を思い出したのだ。

「医者が大量に必要になる出来事か」

「あの乗合自動車は皆な医者だったのかねエ、ナ、マコト」

 疑念を口にして、返答を確かめようとマコトへへ顔を向けた。だがひよいが気付かぬ内に、マコトの顔は蒼白になっていた。

「なにイ、マコト……」

「あの町の奥に、崩れた堰堤があるに」

「エヽッ。そりゃア……」ひよいは車の外側に付けられた撮影機の映像を確認した。進行方向左側に小さく見える、段丘の谷底平野の其の上流に、崩壊した堰堤が見えた。周囲には、青紫色の可視光線と紫外線とを放つ何かが付着している。何処かで見た、鉱滓堰堤の崩壊の写真に似ていた。「医師が必要になる、か」


 数十分後、医師と二人との姿は其の町の高台にあった。医師を乗合自動車は、高架橋から下道を経由した後、仮設橋を通り、此の場所に着いた。町を見下ろせば、何かが流れた跡が見て取れ、青紫のものが町に撒き散らされている。

あんまり見ない方がいいですよペナ・エーㇼ・クㇴ・ハㇴ・ファイㇰナ・クサㇼ」マコトとひよいとの後ろに、一人医師が現れる。「アクレウの方ですよねピナ・テス・ヒチイㇱ・ヲ・アクレウナ

あゝイーはいショㇰ

 薄い蛍光色の上着を着た人間だった。振り返れば、乗合自動車から降りた医師の全てが、同じ上着を着た数人に案内されて高台から降りて行っている。

「……」

「……」

「アクレウの方、質問を」

「ア、はい何うしてカㇽソㇴ健康被害が起こったんですかタヒㇽムカ・タ・ㇳリペリッ・ㇲラーㇴュテ

「鉱滓堰堤が崩壊したからです。精しく言えば、トリ、鉱物の所為です」

 医師は予め用意していた三人分の資料を取り出し、二人に配った。余った一人分は医師が持ち、詳細を語り始めた。

トリに就て、先ず説明しますミーニㇶナ・ルトリナ・アㇴトㇱヤㇶ知られている限りではアツア・フィオㇲナ此の地域でのみ産出される鉱物でルトリナ・ピナ・ルメーニナ・スロイニタ・アワニ精錬されたトリからはヲ・ルトリナ・リエヱナ無尽蔵のエネルギーを抽出できますキㇲペールㇱタ・タラニギタナ・フェノㇷリエㇷネㇷタ

 資料を読み進めれば、トリと云う鉱物の特徴が記されていた。「アクレウ取材班」である今回のマコトとひよいとに合わせて、報道向けの平易な文体の説明であった。頁を幾つか捲れば、人体に齎す被害の詳細も書かれている。文章を読んで理解するのに手間取るが、「トリは人間に対して、記憶の混濁を齎す。した事をしていないと認識したり、実際の行動と異なる事を記憶していたりする」と云う事が書かれているのだろう。

「トリは発見当初、人体に無害とされていました。併し、実際には影響があった。殆どが、精神的な影響です」

「……人体に無害なものと云う当初の予想が誤りだったと」

「其の通りですが、原因物質は現在も調査中です。丁度、今ですね」

 医師に見えた人々の中には、医師以外も混ざっていたらしい。

「当初、発症したのは鉱山労働者の一部でした。併し此の幻覚・記憶の混濁症例は、人間以外の生物、無生物にも起こるものだった。症例が増えて行くにつれ、当初の仮説で説明不能な事例が増えたのです」

 続く医師の説明は、資料に書かれている通りの事だった。映像記録に、其の場に居ない筈の人間が移り込んだり、人間が何もない所で切り傷を負い、別の場所にあった刃物に其の人の血が現れたりなど。単に人間の記憶や無生物の記録に留まらず、人間と無生物や人間同士の事例が発生したらしい。

「夢みたいですね」

「ですが、現実なのです。調査せねばなりません。ですから、あの方々に乗合自動車で調査に来ていただいたのです。お二人は、其の様子を知りたい、でしたか、取材をして頂くと云う事でしたね」

「はい」

「あの堰堤は、からみ溜めですが、トリの鉱山の一部でした」此の人は顔を上げ、上流にある崩れた堰堤を指した。「危険性が判明した事により、トリの鉱山は閉鎖され、廃業手続きを進めていました。ですが、鉱滓堰堤は崩壊しました。取り敢えず、予定していた説明は以上です」

「難有う御座います……」

 医師は何処かへと歩き、足音は数歩分だけ響いた後、霧の様に消えた。風音だけ聞こえる中、マコトとひよいとは互いの表情を見て、今の霧散を共に見た事を言外に確かめ合う。

「トリの鉱害。原因は何だと思う」

「わしらは専門家ぢゃのうて素人でしょう、マコト」

「トリ……ただの鉱物なら、夢や記憶が混ざるなんて説明がつかない。まるで、『セイエイ』だな」

「エ」ひよいは一瞬、顔と背中とを強張らせた。「比喩に辿り着いた過程を示して欲しいかな」

「夢現が曖昧になる部分から、セイエイを連想した。寺内情栄は、マコトの事を夢の存在か、現実の存在か判らなくなっていたから」

「フウン。マコトも自分が夢の中の存在ぢゃないか思うんけ」

「サア。僕自身は慣れたけど、僕からするとセイエイが然う思えるね。分れ合った片方が、互いに胡蝶の夢に陥ってる。

 扠、夢の様な、曖昧になる症状がトリの特徴……あとは、無尽蔵とも言えるエネルギーがある、だっけか。考えてみると、最初から可怪おかしかったな……」マコトは、セイエイの記憶を思い出す。セイエイの生きる世界では、以前は新物理と呼ばれていた第二標準理論が完成を迎えており、高エネルギーと時空間の振舞いや、量子重力理論が組み込まれた。だが、無尽蔵なエネルギーが単なる鉱物に含まれているとは考えづらい。爆薬も有限だ。「見てみない事には、解る事も解らないだろう。行こまい」

「ン」ひよいは頷いた。「危険があったら、直ぐに体が重なる様に準備しておくね」

 ひよいは浮き上がり、マコトに肩車する。斯うしておけば、ひよいは落ちるだけでマコトと重なれるが、未だ、ひよいは透けず、高くから遠くを見渡した。視線を河岸段丘の下段へと移せば、人数は判然としないが、複数人が市街地の中を歩いている。

「あの青紫、文字通り目に毒だな。眩し過ぎる……案外、無尽蔵のエネルギーと云うのは本当かも知れんな。マコト、下れ」

「ハアイ」

 マコトは坂を下り始めたが、肩と首とに感じるひよいは妙に軽かった。


 町は、報道向けの規制線が敷かれていた。山間やまあいの町には鉱滓が撒き散らされ、河川が流れていたであろう一番の低地と、其の次の段丘とには、青紫の光を放つ物質がある。まるで絵の具の溶液が乾いた後の様である。

 反射材のある蛍光色の防護服を身に付けた人々は、其の青紫の段丘面を歩いている。段丘崖の下には河川が流れ、青色の川が流れている。併し、川の青色は、空を反射しての青色ではない。其れ以上に鮮やかな青色だった。調査員が、川に釣竿を垂らし、暫くして回収していく。他の調査員は、何も持たない者も居れば、器具を持つ者も居た。器具にも、桶の様な単純なものから複雑な器械迄あった。彼れらが足を進める度に、青紫の地面は、粘り気を以て、足を離してから一拍遅れて離れる。

「……」

 青紫の地面を見続ければ気が可怪しくなる様に思えて来て、マコトは目を逸らした。其の視線の先には、崩れ落ち、重なった家屋が見えた。青紫色は無かった。其れでも、其の家屋の中に、遊ぶ子を見た。マコトの視線には気付かず、親子で遊んでいる。此の場所に立つ前に見た景色をマコトは思い出す。子も、大人も、防護服なく——まるで、日常の風景の様に青紫の上を歩いていた。だが、青紫の地面は、彼れらの歩に付かない。代りに、足跡の窪みが残されている。

「……ア」

 彼れらは、霧散した。足跡の窪みは、何もなかったかの様に青紫に埋まり戻る。再び動揺するマコトの頭に、ひよいは手を添えた。

、私も見たけど、霧散は……彼れらの消滅ではない気がする」

 マコトに肩車されたひよいの目が、上からマコトの顔を覗き込んだ。マコトの視界ははなだの双眸に占められ、其の呟きが暗に含んだものを伝えた。

「可能性を見せるもの……と言うべきものか」

「記憶の混濁は、現実と、在り得たかも知れない可能性との混濁かも知れない。Schroedingerの猫が、其の儘、箱の外に出た様なものかね」

「シュレーディンガーの猫が……観測しても、定まらない状態だと」

「其れを齎すものは……世界を超えて安定性を示す、『世界の旅行者』の様な存在の……死骸か」

 トリは、猫の生死を並列させるのかも知れない。鉱滓堰堤の崩壊と云う大惨事の中に可有あるべきものがない、或いは処理される筈のものが残っている様に見えたのは、トリの効果によるものである事には違いない。思案の中、響いた足音。固い地面を踏んだ音だったが、仮説の洗練は続く声で中断された。

「お二人は、此方へ。続いて、病院の取材をお願いします。患者さんの同意も取ってありますので、車で付いて来て下さい」霧散した様に見えた、「アクレウ取材班」の対応を務める医者の姿が其処にあった。「何うしたんですか……サア、行きましょう」

「行こまい、マコト」

「分ったよ……」

 マコトとひよいとは坂を上り、四輪車の車内に戻り、飲料を口にした。マコトがめば、其の味は新駿遠茶である。何故、此処に新駿遠茶があるのかとひよいを見る。彼れの手元に、棒状の羊羹の様ななりのものが握ってある。

「此れが何だか知りたげね。私も知らんわ」

 お茶を飲みながら、此処に来る直前の記憶を思い返す。新駿遠茶、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえい……。マコトの胸元には、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえいなりをした撮影機の不良品が、目を閉じた時其の儘の状態であった。撮影機があれば、記録は容易になるだろう。四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたいを空間上に展開してみる。次元龜󠄁裂󠄀の切り取りと内部の整備とをする間に、マーデに不良の原因は突き止めてもらっていたから、其れを思い出して不良の起こらぬ様に設定を変更して一焚きすれば、撮影機の周囲の球状空間が記録に残された。

「準備は、何うですか」

 お茶を飲み終えた頃、医者は発動機付きの一輪車に跨り、車の前に出た。

「出来ました」


 患者の診察を行っていると云う病院は、市街地から離れた、別の河川流域にあった。マコトとひよいとは医師に案内され、部屋に入る。窓からは青紫の色はなく、河川は水の色をしている。部屋に、患者を担当していると云う医師が入って来た。

「——アクレウの方がお見えになりました。患者さん、始めますね」

「お願いします」

「アクレウ取材班のマコトC.です」

「同じく、ひよいM.です」

 二人は、身分証にあった通りの名を名乗った。苗字と云うものなのかは分らないが、個人の識別には役立つだろう。患者は至って健康的に見え、下半身が布団に隠れているとは雖も、清潔な衣に顔色も悪くない——実際、容体は安定しており、現在は安静にしての経過観察中であると云う。取材は、想像していたものと大差なく、マコトもひよいも、知りたい事を知る事が出来た。だが、唐突に、患者は腹部を押さえた。

「ン。どうかされましたか。お二人は別室へ——看護師ッ。診療を、速やかに。トリ事案である連絡は忘れずに」

 容体の急変したのだ。窓の外から、大きな音が聞こえた。何かが凹み、何かと衝突した時の様な音だった。

「何が……」

 マコトが移動中に呟いたが、廊下を響く五月蠅い足音に掻き消される。首に下がる四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえいの形をした撮影機を服の中に仕舞い、マコトは待機室の椅子に座った。何が何う動き、過ぎて行ったのか分らない。患者の穏やかな顔が、一瞬にして顰められた事が頭を占め、思考、感覚さえも占領する。隣にひよいが座っている事を忘れる程に。

 扉の開く音が聞こえた。医師——二人を案内する医師が立っていた。

「奇妙な巡り会わせですね。先程の患者さんはを負われました」

「室内でか」其の声が自分の真横から発せられた時、やっとマコトはひよいを再び見た。「取材中だった」

「トリとは、然う云うものなのです。まるで何処かで起こった出来事を、他人に負わせる様な……。現実が曖昧になっていってしまう病を、トリは齎します」医師は、二人に向かって数歩進んだ。「此れから、今回の事態に関する調査が行われます。許可は取りました。いらっしゃるかは自由です」

「具体的には」

「えゝ、マコト C.さん、同時刻に、廃棄物処理場内の貨車の一両が自壊した事が報告されました。最初に、病院から数名を派遣して此れから確認に向かいます。……勝手な事は言えませんが、其の車両に患者さんの身元を特定できる様なものが付着していれば、正式にトリ事案に認定される流れです。続いて、トリ鉱山の坑道にある貨車用軌道の点検が行われます。丁度、当初の予定と同じ時間帯に調査が始まります」

 幾らかの逡巡の後、マコトとひよいとは行く、と口にした。再び医師に案内され、他の職員と合流し、廃棄物処理場へと歩いて向かった。其の中に、確かに破損した車両があった。前面がひしゃげ、側面も一方向に歪んでいる。然程歪んでいない為に、車両の形式や号車迄もが鮮明に読み取れた。

「附トクフ38800-9141、か……」

 ひよいの呟きに、貨車の写真を撮っていた職員が反応する。

「ひよい M.さん。トリ鉱山で使われていた貨車、附トクフ38800系の、9141号車と云う所ですかね。車歴を調べれば、発注、搬入、使用開始日とか細かく分かりますが……今では其れが信頼できるかも怪しいですね」

「然うですか。質問は——」

「マコト C.さんも、構いませんよ」

 喋る職員だけでなく、全員がマコトの質問をしてもいいかと云う問いに首肯した。マコトは、胸飾りにも見える四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい——正八胞体せいはちほうたいとも言うらしい——の三次元投影さんじげんとうえいを爪で開き、立方体りっぽうたいが八個からなる、十字架に似た展開図の形にした。軸を、四個の立方体りっぽうたいの連なる部分とするならば、端から二番目の立方体りっぽうたいには、四個の立方体りっぽうたいが接している形だ。此れが、此の四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影型さんじげんとうえいがたの撮影機を展開した時の最初の形だった。

「難有う御座います。其れにしても、前面が何かにぶつかった様だ……。自壊、でしたっけ」

 マコトは、何の装飾もない撮影機を捻り回し動かして操作を進め、附トクフ38800-9141と云う車両を撮影機に収めた。立方体を一個押し潰すと、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたいの展開図の立方体の一個に、歪んだ状態の附トクフ38800-9141が現れ、軸も定まらずに暴れる様な回転を始めた。神妙な気持ちで見守っていると、回転は止む。現在の附トクフ38800-9141の状態は突飛な形の撮影機に保存された事を示している。職員は其れを待っていた訳ではなかったが、

「えゝ。監視映像にありました。此の場処にあった綺麗な車が、独りでに歪むのをね」

「9141……」

 マコトの背後からの震えた呟きは、ひよいからのものだった。前回、「まるでダリの『磔刑Crucifixión』だな」と軽口を叩いた女形めがた人工智能の姿とは思えなかった。9141——偶然か、其の数字は嘗てモスクチイイアシャア社がひよいに与えた識別名だった。其れに如何なる意味が込められているのか、マコトは考えようとしたが、肩に食い込むひよいの爪が思考を阻害した。


——次の準備の為、マコトとひよいとは防護服を身に纏い、連絡装置を取り付けてもらい、鉱山の入口に立った。

「自分は、坑道の貨車用軌道の点検に同行させて頂きます、アクレウ取材班のひよい M.であります」

「自分は、同じくアクレウ取材班、マコト C.であります」

「了解した。我々は今回、坑道内の貨車用軌道の点検を担当する業者、——です。宜しくお願いますね」

 坑道に入り歩き進むと、陽が隠れ、電灯に照らされた道が見えて来る。だが、業者は立ち止まり、確認を始めた。

「オイ、送電の申請はしたか」

「しましたが、送電開始の連絡は未だです」

「報告しておけ。現在時刻は正午……五分前」

 送電していない筈なのに、電球が点っている事を不思議に思いつつも、業者は再び進み始める。二人も其れに付いて行くと、左から複線の狭い線路が見え始めた。線路は、先程見た附トクフ38800-9141の台車と同じはゞで、トリ鉱山の坑道内でのみ用いられていた事が察せられる。二本の軌条の間には平らな歯車が敷かれており、急激に下る坑道の中でも辷らずに動いたのだろう。下り始めて十分と経たずして、軌道が大きく乱れている箇所に当たった。

「記録を開始する。取材班のお二人は下がって……撮影しますので」

 業者さん方は長方形の薄い板の様なものを取り出し、軌道の前に翳した。板の上に指を触れさせて奇妙な動きをすれば、長方形の四点から、八面体を作り出す様に光線が射出され、軌道の歪んだ部分を其の内部に収める。八面体の内部に光が満ち、坑道を激しく照らす。何秒続いたろうか、気付けば業者は板を仕舞っていた。

「以上です。同じ衝突による衝撃の変形であるかは、此の後です。検証と報告に戻りますので、付いて来て下さい」

 マコトとひよいとは、何十‰かある急な勾配を上り、先導する業者さん方に付いて行く。遅かれども着実に昇り、出口の光が見え始める。声が、自身や他の業者さん方の体と複雑に動いて耳に届く。

「大丈夫ですか」

「はい……」息が切れながらも答えたひよいの声は、単純に坑道の表面を反射して伝わって来た。「あれ」

 光に満ちた外と、暗い内と以外に何も見えなくなっている。恐らく、光の中に業者さん方が出たのだろうと、二人は出入口付近と云う事もあって緩くなった坑道を駈け、外の光の中へ出た。だが、何時まで経っても、目が光に慣れる気配がない。目の奥が灼けるほど白く、影が存在できない光。息を吸っても肺の中まで光で満たされる様だった。太陽光よりも白くあり続ける光を眺めていると、空間の等方性と云うものを認識させられる。半実体とでも云うべきか、仮想の体のひよいは、其の輝きに自分が侵され、存在が薄まる気がした。

「ア、まずい」

 何秒かに渡る思案の後、ひよいは急いでマコトに飛び込んだ。其の体が重なり合い、重ね合わさった直後、二人の意識を様な、多くの何かが一瞬にして通り過ぎて行く。否、実体をも焼かんとする情報だった。無造作に置かれた蔵書が一気に雪崩れ、知識が、其の紙の情報が、一気に入り込む様なものだった。マコトも、ひよいも、二人が重ね合わせていなければ消えていたろう事は想像に難くない。

——光が収まった。

 気付けば、足は坑道の外に立っていた。重なった儘の二人の体は、ひよいの半実体の体が纏う青い何某かが漏れ光り、暗い地面を照らしている。

「……暗い」

 見上げれば、太陽は忘れられた様に消えていた。一瞬にして……然うでなくても、坑道に入り出る迄の間に日没を迎えたとは考えづらいものである。坑道に入る迄、南中前後の位置に高くあったではないか。其の代りにか、星が朧にある。星の並びは、何の記憶とも一致しない——マコトの知る「地球」、ひよいの知る「トクシマシカ」でもない夜空だ。空全体は朧な儘、業者さん方が現れる気配はない。通信機器を取り付けてもらった事を思い出し、通信を試すが、繋がる気配はない。夜を彩る虫の音もなく、風なく、寒気が降り始める。

「何が起こって……取り敢えず、歩いてみるか、ひよい」

「其れがよさそうに思うよ、マコト」

 トリ鉱山の敷地を仕切る場処に、警備員が倒れているのが見えた。体の凍えそうな程の中に眠り、起きる気配はない。「止せ、何うせ……」二人の何両方だったかが言う。こんな時間帯に、屋外で寝た人の末路など深く考える迄もない。誰にも気づかれず、死ぬだけだ。

 マコトは手を首元に寄せ凍える。其の時、胸元にあった筈の四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影型さんじげんとうえいがたの撮影機がない事に気付いた。

「アヽ、雪イ」

 朧の空から、凍える空気が降りて来たかと思えば、徐ら雪が降り始める。其の時、死と云うものを予感した——消滅、と云うべきか、誰の記憶からも忘れ去られて行く事に、体が震えた。気付けば、駈け出していた。転んでも、倒れて擦る事はなく、空を飛んで必死に戻る。

——何処にか。

「知る場処、行ける中で……車へッ」

 空を飛ぶ中で、雪に埋もれ始めた其処が見えた。駈け寄り入れば、寒さは微かに和らいだ。運転席に座った二人だが、運転を始めようとするが、機器類の応答がない。自動運転の制御系統に頭突きしても、中身は空っぽだった。此の車は、魂が抜け落ちているのだ。中途半端に同期した所為で、警備員も、車も、記憶や魂を抜き取られた並行世界——其の様に、ひよいには思えた。

「恐うなってまったわ」

 息を切らしたひよいは体を抱いた。感ぜられるものは、最早、滅び行く世界のみかと、重ね合わさった腕に温い息がかゝる。必死に空を飛んだ所為か、胃腸が蠕動を始めている。心臓は必死に拍を打ち、全身に血を行き渡らせている。

「僕の体なんだけど」

「ア、御免ね」

 必死過ぎてマコトの事を忘れていたらしく、声を聞いて思い出す。何故なにゆえか知らねども、今が、マコトと出会って旅󠄀人󠄀となる迄に過ごした、雪山の洞窟の記憶と重なった。不随意筋によるマコトの体内の動きを温かく感じた様に、あの時、「人間」としてマコトが現れた事に希望を感じた。モスクチイイアシャア社と云う存在を、逃れられぬ巨悪と感じていた当時のひよいに、マコトが別の選択肢を提示した。非現実的な「逃亡」の選択肢を、眼前に現したのだ。当人に其の自覚はなくとも……。ひよいは、仮想世界で出会い、雪山で人情を示した人間の温もりを感じていた。

「裏切らないでね……然うしても、付いて行くからさ」


 其れから、何時間経ったろうか……。

「ネエ、鉱山こうざんかないか。もう一回いっかいだけさ」ひよいはうマコトをさそった。「今度こんど旅人たびゞととしてておきたいの。あと、仮説かせつたしかめられてない」

 マコトはかまわないとうなづいた。いまでもうすべきだったかは判然はんぜんとしない。其れはれを経験けいけんしたからである。マア、時間じかんてばぐにおとずれるだろう。荷物にもつまとめ、くるまんで鉱山こうざん入口いりぐちかう。恐怖きょうふえていた。

 鉱山こうざんなかすゝんでくと、最初さいしょよりすこ採掘さいくつすゝんだ空間くうかんがあった。うのむかし採掘さいくつわっていたはずであるのにもかゝわらず採掘さいくつすゝんでいるのだ。

 鶴嘴つるはしおと鉱床こうしょうけずられるおと採掘さいくつおと

 しかだれもいない。無人むじん坑道こうどうひゞいているのみだ。

 マコトのあたまなかに、世界せかいえた同一性どういつせいと云う仮説かせつ議論ぎろんよみがる。同一どういつたも境界きょうかいうしった死骸しがいは、並行世界へいこうせかいんで一つの死骸しがいであろうとする。もしも、目撃もくげきした人間にんげんちがっていたら、けずられた場所ばしょちがったら、されたエネルギーの利用りよう方法ほうほうちがったら。些細さゝいこと分岐ぶんきし、二度にどまじわらないはず並行世界へいこうせかいを、れはしばり付けているのではないか。

 鉱滓こうさい堰堤えんていで見た景色を思い出す。マコトは太陽の元、綺麗な堰堤を見た。外観は美しく、内部に毒を湛えているとは思えない。堰堤上の道路を行き来し……いや違う、マコトは崩壊した鉱滓堰堤を見たのだ。では、何故其れをも思い出したと云うのだろうか。「健康被害を起こしておらず、未だに採掘が続けられている並行世界」……なのか。

 マコトの眼前に、金山の労働者が現れた。イイカルトメ行政区を支え続けている——あゝ、疑念が晴れた。鉱山が一時的に閉鎖されてもなお電力が供給され続けたのは、超世界生物の死骸が独りでに供給され、エネルギーを分け与えていたからなのだ。

「マコト……」

 鉱山労働者のいる世界で、ひよいは声だけの存在となった。併し、何うやったら戻れると云うのだろう。此の二つの並行世界は近過ぎて、次元龜󠄁裂󠄀による往来は反って世界の不安定さを増させ兼ねない。

「ひよい……」

 弱々しく呟く。並行世界と云う意識しなかった存在が、正しく数の暴力となり困難を齎している。勘案の中、労働者の姿が次第に、焦点のぼやけた写真の様にぶれていき、其れでいて同じだけ各労働風景に焦点が合っている。——離れるが吉だ。マコトは然う思った。

「分かった。取り敢えず外に出てみましょう」

 姿は見えなくとも、相棒と思い合うだけの信頼はある。超世界生物の死骸たる鉱物に支配された此処から一刻も早く脱出するべく、増殖する労働者の風景を背にして坑道を駈け出した。

 ——何も行動せずにいれば呑み込まれていたろう。其れでも最適な行動をとっていたのかは分からない。

 今、マコトは坑道を上目指して駈けている。多重に響く足の振動と共に聞こえてくる複数——労働者の合図、回り続ける巨大な換気扇、全てが多重に見え始めた。併し、自分だけは確実に一つだった。

「…………『寺内情栄』……」

 其の確信さえも、自らの呟きによって揺らいだ。寺内情栄と云う人間が今何をしているのか、マコトは知らない。マコトにとってセイエイは「自分」なのか、解らない。ただ、記憶を共有していた時期もある。若しかすると、「謎めいた男」はセイエイの中に眠っていたマコトを目覚めさせただけなのかも知れない。然うすれば別人との結論となろう。仮説のもう一つ……自分がセイエイから分離した存在ならば、「自分」は二人となり得る。

 深く考える迄もないと、マコトはかぶりを振る。ひよいはマコトとほぼ記憶を共有しているが、マコトではない。セイエイも同様であろう、と。ひよいとセイエイとで、何が違うと云うのだ。

「未だかッ」

 走りつつの思案から意識を戻して立ち止まると、出口を示すだけの看板が見えた。霧が濃くなってきた気がして、視界が暈ける。感覚が変だ。立ち尽くすマコトの周囲には何も、誰も居ない、動いていないのに、ひよいの思念だけ感じている筈なのに、聴覚が近くで動くベルトコンベヤを捉え、触覚が四肢を倒れ伏して感じる地面を捉えている。マコトは視覚で肩から生える両腕の先の両手を流し見る。手を頬に、叩く様に付ける。

 視覚の中では、其れは起こった。触覚は、下膊かはくと下腿とで感ぜられた地面は、背中に回った。寝転んだらしい。何時迄経っても両手を頬で感じられない。触覚が捉えているのは、走り終えて地面に立ち尽くす今のマコトではなく、地面に倒れ込んだマコトなのではないか。唐突に、全身に地鳴りの感覚を得るが、音もない。構わず再び駈け始める。

「ひよいィィィィッ」

 叫んだ。マコトの叫びは、長い坑道に響く。叫びと共にある筈の全身の震えは感ぜられず、聴覚が其れを捉えている。だが、出口は確実に近づいている。看板の示す距離は短くなっている。全身の触覚が奪われたが、其れでも四感で何とかなっている。何時でも其処にあると思っていた、地に触れる足と云う感覚は喪失し、時折足元を見て其れが動いているのは、まるで足が他人のものになってしまった様な、神経接続を伴わない義足にでも変えた様な心持ちがする。嗅覚は鋭敏になり、地下の地層と地上からの空気とを嗅いでいる。其れでも触覚は相変わらず地鳴りを捉え、背中に重力を感じている。だが……唐突に、腹側の全体に伸し掛かる圧倒的なものを感じた。

「アヽッ」

 感覚に耐えられず、走るのを止め、腹を守る様に丸まる。併し、重量は圧倒的で、何かを感じた。

「エ……」

 触覚では、落ちてくる石々に全身が塞がれた。而て最期には、全身が圧っされて——触覚は瞬時に今のマコトのものに切り替わった。だが、其れは却って体内に蠢き疼く、不快感への生理反応を目立たせた。

 嘔いた。見たくなくて、目を閉じた。其の時、懐かしく、


——既知きち未知みちとがようわさって、すべてが不明瞭ふめいりょうになる。其処そこ暗闇くらやみだったが、ブラックホールの気配けはいはなかった。何方どちらかとえば宇宙うちゅう間隙かんげきかんでいるようだった。

「懐かしい。何年前の記憶だろう、初めて僕が僕になった日にとても似ている……」

 マコトの思案は、言葉になる事はなく、頭の中に留まった。マコトは、此の空間を再び目撃する事になるとは思ってもおらず、驚愕していた。併し、考えてみると、先刻迄いた筈の坑道は消えていた。此の空間に、自分は何時辿り着いたのだろうか。

づきましたか」

 眼前の未知は唐突に男の姿をとる。黒衣の男は、マコトのきっかけを生み出した存在である。何故今更……。

「ああ……」

 疑念を抱く中、マコトの体は記憶を再演する様に、「謎めいた男」に曖昧に首肯した。

「——りたくはありませんか」

 謎めいた男は、再び問う。記憶の詳細を思い出せば、此の後セイエイは「何から識ればいい」と問い、「ご自由に。貴方が選ばねば、私から与えることになりますが」と返される筈だ。

「何から識ればいい」

「………………ご自由に。貴方が選ばねば、私から与えることになりますが」

「……識る対象は定められているのか」

「特にありません。貴方の好きなものです」

 まるで複写物を読んでいるかの様だった。叮嚀に細部迄同じであろう事は容易に察せられた。何から何迄同じなのである。答えは——「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」/「僕に識りたいものはない。断らせてもらう」

 だが、予想外だったのは、セイエイが二つの言を同時に発した事だった。返答も二通りとなり、記憶通りの「いいでしょう、了解しました」と「残念です」とがほぼ同時に聞こえる。

 其の時、提案を断った世界の感覚が消えた。其処から、周囲が早回しになった。

 感覚の断裂——次元亀裂と云う安定点から、自分マコトが、自分セイエイの人格を保ちながら、断裂した世界を横断的に感覚する。

 誰かに踏まれ、最早動く事のない飛蝗を見た。

 扇子が示す、羽が切れ、地を這うだけの鳳蝶を見た。

 其れはマコトの知るセイエイの歩み。ウエモンと云う相棒と共に進んだ景色である。

「まるで走馬灯だな」

 マコトは然う思ったものの、五感を以て体感する世界の数が増えていく度に思考の余裕も無くなっていく。セイエイの歩む歩幅が違っていれば、会話で選んだ言葉が違えばと、五感は倍々になって行く。其のは増す度に不快な程、同じものの僅かに時刻が異なって連続していく感覚となる。喩えるならば濁り。其れは、再生速度が僅かに異なるビデオテープの様に、同じ時刻に揃う事も決してない。正に、記憶の濁流である。たゞ、就寝すれば静寂が訪れた。

 何回目だろうか。

「寝ている間の記憶がないな」

 全てのセイエイが然う言った朝があった。マコトも「セイエイ」が行動する此の日は知らなかった。AFNFの神々と遭遇し、饗宴に加えてもらった後の朝だ。早回しで進む数多のセイエイの感覚からは、曖昧でありつつも実際には記憶している事が分かった。

 何故に記憶が薄れているのか、マコトには理解し難かった。

 而てセイエイは、電磁連絡船、大陸間隧道に乗り、仮眠後、シルバーベインハアバア駅に到着した。此れは、マコトがマーデやイハと出会った夢である事は理解できた。マコトは其の記憶を思い出して胸飾りを触ろうとしたが、多数のセイエイの感覚を追体験させられている現状では「自分の身体」がなく、出来る筈もなかった。

 新しい日も過ぎ、眠る場面になり、一瞬、思案も静寂となった。併し、一つだけ残っていた。

「気になる……」

 其のセイエイは目を開け、寝台夜行列車が減速している事に気づく。廊下のある方を壁越しに見る。気の所為か、青紫に見えた。此の分岐のセイエイは、思案もせずに動き出し、布団を抜け、部屋の中を足音を殺して動き始める。ウエモンの静かな寝息が聞こえた。静かに扉を開け、閉める。大きく息を吐き、緊張を解いた此のセイエイは、廊下に立つ其の人の声を聞いた。

「寺内さん……もう少しで部屋に戻ろうかと思っていた処でしたよ」

 青年は囁きの通り、セイエイを待っていた。列車は此れから目的地別に分割併合を行おうとしているのだ。急ぎ足で二人は青年の部屋に入り、窓掛けを閉じる。一瞬窓の外に見えたのは、大規模な操車場に泊まる長大編成の夜行列車。西ローラシア大陸東海岸を南北に連なる大都市へ向かう夜行列車の数々が、此処を拠点に分割併合しているのである。厚い窓掛けを閉じて出来た暗闇では、聴覚が鋭敏になり、車内へ乗り込んできた分割併合の為の作業員の足音がよく聞こえた。

 服を脱ぎ始めた所で、青年の目が光った。最早青紫色を隠す必要もなく、一方的だが意志疏通が行われる。

「様々な列車が行き交う操車場。我々が合一する舞台にぴったりです」

 此のセイエイは、其の暗闇の中で変貌していく青年の体を眺めた。暗い分、其の体が薄く発光している箇所があるのがよく分かる。マコトが異常な空気を感じ取りながらも、当然何も抵抗出来ず、而て、セイエイは其れに触れた。

 軽く触れて離すと、其の間に糸が引いた。「納豆みたいだ」と、セイエイが思うも束の間、引いた糸は「翼のある使者」と同じ青紫に薄く光る。糸は既に手だけでなく、此の分岐のセイエイと「翼のある使者」とが触れ合った場所に引いていた。触れ合う度に、此の二人の間には回路が繋がる様に糸が引く。知識を語る口、味を感ずる口、息をする口、ものを見る目、息をする鼻、ものを聞く耳、ものに触れる肌——此の二人は共有を始めた。……が、マコトは然うではなかった。

 セイエイは、「翼のある使者」は、知っていく。何よりも確実で正確な相手の情報を。欠落は一切無く、知識は爆発的に増えていく。併し、マコトには決して理解出来なかった。セイエイの五感は感じ取れても、第六感以上は共有されていなかったからだ。而て、セイエイが人間を超越し始めて、最早マコトとの同一性のない、別の存在に変貌しつつあるからだった。

 セイエイが人ならざるものを受け入れていけば、マコトの感覚はセイエイから分離していく。気付けば、マコトは普段の体で空間に立ち、セイエイの裸体を見ていた。融合相手である冷徹な青年——「翼のある使者」の姿は何処にも無い。だが、融合は進んでいる。

「此れが……融合……」マコトは、裸体のセイエイが、人間でない存在を受け入れていく様子を眺めていた。眺めている事に気づき、自分マコトの手を見て、また自分セイエイを見て、思わず呟く。「俺の身体……。俺が、……僕を見ている……のか」

 手の向こうで、薄ら目をして全身に青紫の紋を這わせるセイエイが首を傾いだ。向こうのセイエイが、唇を微かに開けて息を漏らす。

「フ……」

 向こう側、今迄一方的にマコトが体験するだけだったセイエイ、其の一人は、今、斯うしてマコトを見て微笑んだ。口角の上がった其の口から、牙が伸びて行く。まるで博物館や教科書で見た、人類が祖先から現代種迄に進化する映像を見ている様に、姿が変る。併し眼前にする此れは、人類種を超越したもの。セイエイの体から、性別と云う概念が消えた。其の変貌は、知的好奇心を満たす為。旺盛な好奇心が求める能力を備えた姿。「翼のある使者」同様、或る意味では怪物に似ていながら、全く別。其の佇まいは——セイエイ自身が、マコトをぼんやりと知っており、大量の好奇心を向ける相手ではないからだろうが——知性がある。

「深淵を覗く時、深淵を覗いているとは、誰の言でしたかね」

「あゝ……」マコトは、冷徹なセイエイ——から変貌していく存在の声に鳥肌を立てた刹那、其の引用の間違いに気付いた。「FW……ニーチシェか。セイエイ、『深淵も又此方を覗いているのだ』、だぞ」

「あら〳〵、然うでしたね。『Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.』」外見は変わっても、中身の精神は然程変っていないらしい。「知識は増えましたが、精神は其の儘、か」

「……お前は誰だ」

「其方こそ。我々が融合する前から、貴方はの事を覗いていたのでしょう」

は……」マコトは、説明するべき事情を頭の中で汲み上げ始めた。次元龜󠄁裂󠄀に滞在し始め、旅の目的地を選定していた時、気付けばイラメニア世界に居た事、ひよいと合流して世界の推測を行い、「超世界生物」の死骸を予測通り発見した事、併し、全ての世界で死んでいる其の亡骸が、マコトが他の並行世界のセイエイと干渉を始めてしまい、気付けば此処に居たと。「『超世界生物』に巻き込まれたんだ。其の死骸に、は沢山のセイエイの並行世界を体感させられてしまった」

「……マア、一応理解しました」

だろう、敬語を使わなくてもよかろう」

 変貌したセイエイ——今は、融合体と呼ぶべきか——は、徐ら降り、足を地につけた。青年の本性「翼のある使者」とは、似ていても異なる。

「わかったよ、マコト。斯うして対面する事になるとは思わなかったね」

「セイエイ……」

 自分と同じ声を、其の異形から聞いた。

「私は此処ではと名乗ろう。マコトは何うするか」

で」

 異形が頷くと、彼れは語り始めた。だが、其れは暗に、自分が寺内情栄と云う人間ではないと主張している様にも聞こえた。

「セイエイ——君も、其の人間は知っているだろう。は彼れの見た未知との遭遇の夢から始まった。マコト君は、其処で与えられた名を自らの名として、『世界の旅行者』として其の時から。私は、彼れ自身の選択によって、青年——あゝ、得た記憶によれば、『進化態融合体』と云うらしい……と、融合して生まれた、『融合体』として今、生れた」

「お前はセイエイであると自認するか」

「さアね」融合体は首をもたげ、自らを抱いた。繊細な指先が、其の肉体に弾かれる。「記憶も人格も受け継いだ。此れから、私は彗星観測すいせいかんそくチームの一員寺内情栄として活動を続けるだろう。だが、知識や能力にはの青年のものが加わっている。君と同じ、世界を渡り歩く能力も……。

 其の気になれば、青年の真似事も出来よう……二人から生まれた、二人でない存在と言った所か」

「君自身も、超世界生物になったのか」

 其れは、質問と云うには自明過ぎた。彼れが纏う、「青年」から受け継いだ光は、世界の理を幾つか無視し得る力を持っている事は五感を以てしても十分過ぎる程に実感できる。

「何うだマコト、、融合してみないか。我々は補い合う存在だった。胡蝶の夢に陥ったりもしたが、今や新たな関係を築き合える」

「……」

 マコトは、首元に手をやった。其処には、アパイ御崎グロワムの世界の、マーデの土産、イハの形見、次元龜裂を生じさせる超技術の撮影機の不良品——触れようとして、其れが見つからずにいた事を思い出す。併し、手は其れに触れた。見れば、四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえいの形が其処にある。

「其れは……私の知らないものだな。異次元人の……超次元の技術なのか。マコト君にとって大切なものか」

 マコトは、頷いた。続けて語り出すマコトの言葉は、理性的な儘、怒りが薄く含まれていた。

「提案だが、断らせてもらうよ。

 君は自ら一人間・寺内情栄である事を捨て、融合を選んだ。俺には其の選択肢すらなかった。だが、気付く事が出来た。融合は補い合うように見えて、結局は一つに溶けてしまう。合一した存在は、自分の外に相手を持てない。俺はマコトの名を与えられて以来、其れを捨てなかった。俺にとっての選択はただ一つ——俺は俺のままでいる。だから君の道は歩まない」

「然うか……君は、最初から、寺内情栄である事を捨てていなかったのだな。而て、其の胸飾り……君は確かに融合を選べえせなんだかも知れんが、私の持っとらんものを既に得ているぢゃないか」融合体は、再びセイエイの姿に戻り始める。だが、今度は擬態だ。「寝台夜行列車が動き出した。私はセイエイ君の居るべき場所へ戻らねばならない」

「然うか、お休み」

「あゝ……」

 自らセイエイである事を捨てた、其れでいてセイエイに擬態する此の融合体は、マコトに拒絶された動揺を隠そうと背を向けた。マコトは、其の異形の肩が、僅かに震えたのを見逃さなかった。

 確かに、此の存在が融合を提案された後、寺内情栄と云う人間が持つ「人類の為に識る」など、実際はまやかしの目標だと思った。だから、機会を逃すまいと融合したのだ。併し、然うしてセイエイを唯の仮面にしたが故にマコトは彼れを拒絶したのだ。

 先刻迄セイエイであった融合体と、マコトとが共有した精神世界は、亀裂を生じて崩れ始めた。マコトの体は透け薄まり、意識も——。

「俺は……目覚められるのか……」


…………


「アッ」

 「マコト」は崩れ落ち、「セイエイ」は飛び起きた。見られなかった異世界を旅する夢を見たと思ったら、夢の中で現の並行世界を体感し、最後には「融合を選択した自分」と対話したのだ。

は……セイエイ。寺内の……」

 手を握り、開き、握り、開く。内面に「青年」は巣食っておらず、此の自分は寺内情栄其の物であると確認する。

 二段寝台の上段では、ウエモンがすや〳〵と掛け布団を上下させ眠っている。睡眠は深そうで、瞼の開く気配はない。窓を見れば、此の寝台夜行列車が下流となった河川と進行方向を同じくして進んでいるのが分かる。素早く流れていく景色の中でも、河川は次々に合流している。其の刹那だけ、セイエイの視界に、夢で見た景色が割り込んで来た。

 僕が選択肢として認識していないものでも、並行世界へと分裂していく世界。運転士の指差喚呼、信号切り替えの瞬間、其の差も並行世界を生み出している。僕は、融合を選び僕である事を捨てた僕を拒んだ。夢の中の僕の選択だった。だが、夢現の差はある筈だ。何処迄同じで、何処から違うのか。思案を深めようにも、其れは答えを出す事に繋がるだろう。

 考えるのが怖くなって、セイエイは此の部屋から出たくなくて、布団にくるまり震え上がった。

 実際、セイエイは出なくて命拾いをしていた。其の部屋の脇の廊下では、冷徹なあの「青年」が今か今かとセイエイを待っていたのだ。

「……来ないならば、分割併合の時に寝てしまえばよかった。睡眠は必要ないにせよ、降車の準備を始めなければ……」青年は自分の部屋へと歩み始めた。其の身体から青紫の光が漏れていたが、あかつきの寝台夜行列車の廊下に其れを目にする人間は居なかった。「眠気も似せる必要はなかったな……」

 危険が去った事をセイエイに告げるかの如く、旭日が川面を照らし始めた。だが、按堵と共にセイエイの目は再び閉じていく……。


…………


「マコト、お早う」

 目を覚ましたのは、次元龜󠄁裂󠄀に整備した拠点の中に用意していた布団の中だった。ひよいも布団の中に寐ており、互いの体はまるで人間と添い寝のぬいぐるみとの如くだった。

「何で近くに寝てたんだ」

貴方あんたがぬいぐるみを買うのを渋ってたから、私がなろうと思って」ひよいは冗談めかして手を広げて見せる。ひよいの腕が布団をまくる形となり、布団の中のひよいの姿を見せた。「私は非生物だから安心しなさいな」

「非生物……然うだひよい、夢、覚えているか」

「三つ思い浮かんだかな」

「えっと……一番新しいのだ。トリの、不思議体験だよ」

「あゝ、あれね」ひよいは布団から出、服を着始めた。途中、抽斗ひきだしを開け、見繕ったマコトの服を投げた。「結局何だったんだか」

「サア」

 マコトも服を着始めるが、首に何かが引っ掛かる。四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい三次元投影さんじげんとうえい、あの撮影機である。服を着、整えてから中身を確認すれば、附トクフ38800-9141の車体がある。

「現實だったのか……」

「現実ぢゃないの」

「同じだろう」

「ンゥ……文字は、厄介ね」ひよいは然う、誰かに囁いた。「トリの不思議体験だけど、何故か、私達に取材班と云う役割があったね——否、今迄の旅の役割が旅人だったと云う事なのかな……」

「誰かが、知って欲しかったのかも知れない」

 マコトは足元の、次元龜󠄁裂󠄀を特徴とくちょうける、立体的に配置された星々を見つめた。

「死んだ、超世界生物の、魂かは分からんが」

「……」

「考察だ。正解は出んよ」

 マコトのは、むね四次元超立方体よじげんちょうりっぽうたい——正八胞体せいはちほうたい——の、三次元投影さんじげんとうえいを弄っていた。

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