E/N’09:“Mining Mysteries”
「
「
「——でも、シルバーベインなら、
「
「其の……
「お
「
「
「
「
セイエイが
「
「
「
「
「其れにしても、シルバーベインが
セイエイはシルバーベイン
「シルバーベインが
「シルバーベインの
「
「ウエモン……」
「
「セイエイ、
「イヤ、
日本を
「あゝ、ニシの……。『
ウエモンが
「
「オヽ……」
「お
「ア、ハイ」
「
「ウエモン……
「まあなア。でも、
「ヘエ。
「セイエイ、
セイエイは、ウエモンが
車内に灯った灯りは、昼食の時に見た照明より橙がかっており、人の眠気を邪魔しない様にしているのが察せられる。扉は暫く開かなかったが、長く待つ事なく、幾つかの音で単純な旋律を奏でた後、開いた。
「部屋と座席とがあるけど、何両方にするか」
「部屋に荷物を置いて、座席とか」
「セイエイ、慣れない国で荷物を目から外すのはご法度だ」
「ア……ぢゃ、一回部屋の確認をしておいてから、荷物を持って座席かな。僕もウエモンも同じ部屋なら、忘れ物も二重に確認できてしづらくなろうし」
乗り込んだ場所は
窓からは、駅舎と、日没か近づき微かに見え始めた「
「ネエ、少し観測してもいいかな」
「エヽ……」ウエモンは切符を見、発車時刻を確かめる。「望遠鏡でか」
「双眼鏡で……『
「あるが、仰々しく言うもんだから本体を使うのかと思ったわ。セイエイったらマア……」
セイエイは「天ツ川会」の黒い鞄から、
「見よウエモン、弱々しい気がしないか」
首掛けを外し、ウエモンに渡す。ウエモンの首に一旦双眼鏡が提げられた後、ウエモンの目は双眼鏡を覗き込んだ。
「ハア」併し、異変らしいものは見当たらないと言う。「仮分析の亀裂の示唆は昨日だったか。未だ〳〵分からんよ、肉眼ぢゃあな」
「然う……」
ウエモンから双眼鏡を受け取ったセイエイは、不満気でありつつも仕舞い、寝台車から座席車に移動する。主な目的は夕食と其れ迄の暇潰しである。セイエイも、ウエモンから今回予約したのは、指定席付きの寝台券の様な切符であると云うのは聞いていたが、座席車と寝台車との間は予想以上に長かった。やっと座席を見つけて座ると、足が疲れて暫く動けない気がした。其の座席は、
窓を見る。移動の間も、席に着いてからも、未だ列車は乗客を待っているのか動かない。
左手の車外へ向けていた視線を右にやれば、歩廊から乗り込む人々の姿が見えた。接続している乗合自動車か何かから降りて来たのだろう、荷物には似通った札が付いているものも見受けられる。
「……ウエモン、『
人間観察に飽きたセイエイは話しかける。
「矢っ張り亀裂ぢゃないか。崩壊の予兆だで、するかしないかとか、何処で崩壊するかとか……」
座席車とデッキとを繋ぐ自動扉が何回目か、開いた。其処には紺の外套を纏う
「然うだよね、ウエモン——」
「アッ」
「失礼しました」
年齢も分からなかったが、声は日本語を喋った。彼れは手にする切符と座席に記された番号とを比べ、此の四人分の座席の一人だと分かった。
「丁度、此処が私の席みたいですね……」
仕方なかったとは雖も、急な接触を経験した故に照れ臭いらしく、
「
「ア、
「……」
「セイエイ、
「ア。
「
「何処から話そうか。『
「
セイエイが
「
「
「いゝえ。ですから、
セイエイが
「ぢゃあ、あらましからだね」セイエイの
「
「あの
「
「ン……マア、あるだろう」
「——お
「
「
「……お
其の
「
「
「
「もう
「あゝ、必ずしも全員が理解の為に観測している訳ではないと。其れで、『
「俺か」
ウエモンは視線を窓の外の「
「お
「……」
ウエモンは「
「僕から話そう。旅の間も連絡を取り合っている仲間には、不思議な体験をした人も居てね。別に『
分析結果に就ては、然うだな、何も言う事は無いかな」
「然うですか。私には、あの天体が……ソウジキに見えるのです」
「掃除機だって」
「えゝ、其れです。掃除機……アクセントが違いましたか。此の世界を清める様なものですよ。此の地球は、彼れによって変容する事は確実だとでも言わんばかりの主張をしている……なんて、私は超能力者ぢゃないので、ただの感覚ですが」
尾を伸ばす「
「確かに、清めてるね。ウエモンは、何う思うかな」
セイエイが問う。ウエモンが其れに応えて視線を戻すと、列車が隧道に入った。然う云えば、曲線を通過した覚えが未だない。ウエモンは暫し沈黙し、語り出す。
「俺は……人類の成果だと思った。月から始まり、小惑星迄行えていた資料の回収が、遂に恒星間天体に迄辿り着いたのだとな。……言ってなかったかな、あの探査機には資料の回収計画が存在するんだ。今、其れは尾の中で必死に資料を集めつつ、画像を撮影している所だろう」
「あ、分析結果には地球への影響の予測はありましたか」
「直接的にはない。軌道も、地球の公転軌道に交わらないし、尾から出てくる物質も少ない……と、当初の予測にはあった」
「一度した予測は絶対的なものではないのですか」
「当然然うだ。太陽系は複雑なんだぞ。惑星は四つ、其の外側に小惑星帯もある。其れに、エッジワース・カイパーベルトやオールトの雲の天体の軌道は複雑怪奇だ。未発見の天体もある筈だから、引力は単純化出来ない」
「全て計算出来ないのですか」
「
「
「あゝ、ントね……
「ユゴスが
「此の……ン、今、何て……」
「
「
ウエモンの
「ウエモン、
「
「……
「
「
「
「ヘ」
「知識を求める人間と云うのは。自分に出来る範囲の事をしようとする。自分に出来る範囲を広げようとする。然うでいて、
セイエイとウエモンとは顔を見合わせた。畏怖、と聞いて思い出すのは、昨日と今日とで経験したナラヒア諸島での「神々」の話、栫井八千代——お千代が映像通話で語った奇妙な経験。だが、
「
両つ——セイエイと、ウエモンとは今日何度目になるか、顔を見合った。
「セイエイは此の前不思議な体験をしていたな」
「エ、然うだっけ」
「ホラ、夢の奴だよ。カーナビの音声とか、栫井に似た……ケエ・ベエ・エンだっけ、人工智能とかのだよ」
セイエイの記憶に、消えかけたものが蘇る。忘れていた訳ではない。だが、会話の中で体系化されたものが解体されていた。
「すっかり忘れとったわ」脳内で、もう一度汲み上げて行く。其れは忘却と云う井戸の底に何かを忘れ去っているかも知れなく、本来はなかったものが混入しているかも知れなく、もう一度完璧に体系を再現する事は出来ないかも知れなかったが、せずに居るよりはした方が好かった。「『
「内容は何でしたか。何を感じましたか、或いは今思い出して、何を思いますか」
「僕は……世界を旅していた。電子的な場所、沙漠、国家の崩壊した町と森林、死後の世界、未来の宇宙移民船団……現実と地続きの、其れでいて神々の居る世界……」
「聞くに、彼れからも繰り返し旅していたみたいだな」
語った世界の数が増えている事に、ウエモンは気付いた。
「……興味深い」
「ウエモンに君、『蝴蝶の夢』は知っているか。夢現の区別がつかなくなる、古代東ローラシア極東の伝説だ。僕は其の状態だったらしい……。昨日は、何も見なかったが」
寂しそうに目線を逸らそうとしたが、列車が洞門から隧道に入った事で、車窓には青い車内と自分の様子しか映らなかった。青色は、夕陽の消えた世界に次第に目が慣れて行き消え去った。セイエイは自らを「マコト」と呼んだ青い髪の人工智能の相棒の姿を幻視した。記憶の中での体格はセイエイと然程変わらなかった。
「……少し、興味が湧いて来ました。併し、寺内さん、貴方は其れに興味より恐怖を抱いていますね」
二度目の心中の言い当てである。先程よりも自然な流れであるので、驚きは少なかった。現実とは何か、何両方が本当の自分なのか。其の問いは、夢を見ず、忘れかけた事で遠ざかった様に思えてならなかった。
次に隧道を出た時、日の入りを過ぎていた。太陽は地平線に沈み、僅かに赤らんだ西の空も、夜空と云う闇に沈んでいく。夜が無ければ、太陽以外の星は見えないと知っていても、今日だけは、夜が疎ましかった。
「……」
其処に、放送が聞こえた。自動放送となっており、聴き取り易い。夕食の提供を始めると云う内容であった。数分も経たず、通路を乗務員の押す手押し車が通り、夕食が運ばれてくる。此処ではなく、事前に注文したものの様だ。形式としては、以前、桐三竹と偶然出会って食事を共にしたアルチヤスと同じものである。
乗務員は三人の席の隣に来た。誰が会話するか決め兼ねていると、乗務員が現地語で声をかける。意外にも、
「
指示の通りに食事のある盆を受け取り、続いて
「ツァンキェー」
「ツァンキェー」
現地語での感謝の言葉を何とかして述べてお辞儀する。乗務員は微笑んで見せ、顔を戻して歩き始めた。ツァンキェーと云うのは戦前はサンキューとか発音されていたと聞いた事がある。
「其れにしても流暢に聞こえた。何処で学んだんだ」
「
「
「
「俺は遠慮するよ」ウエモンはきっぱりと断った。「君を必要とする時が来る迄、未だ〳〵時間がありそうだからな」
然うして、三人は頂きますをした。
手を合わせた後、三人は皿を見つめた。雑穀蒸しと
「初めてですか。手前から順に、左回りに味を見るといいですよ」
「順番か、然うなのか」ウエモンが手前の
「アアルイチ第三区の
セイエイは
「あ……間違えて覚えていたかも知れませんね」
「
セイエイ、ウエモン、其れに
他の乗客が然うした様に、進行方向後ろ側の車両、寝台車へ歩き始める。セイエイとウエモンとは二段寝台のある部屋だが、他にも寝台個室がある車両だ。
「然う言えば、お
彼れは然う寝台車の通路で発した。だが、此れ以上、何を話すべきだろうか。個人の経歴か、友人、世間話か。然う言えば最近、更なる地球防衛網の構築予算が承認されたり、軌道エレベータの起工式があったりしたな……。
「具体的に、どんな話がしたいとかあるかな。取っ掛かりがないのが今の難点みたいだ……」
ウエモンも頷いている。三人も三人が考え込んで、通路に立ち止まっている。荷物を抱えた状態であるのは宜しくない。
「何処か別の場所で話し合わないか。此処だと人の邪魔だ」
然う言いつつ、ウエモンは一室、進行方向右側の部屋を開けた。既にセイエイとウエモンとの部屋には着いていたらしく、立ち止まったのは思案のみが原因ではなかった。
「ア、私が入っても……」
「構わんよ」
「俺も」
三人は順に個室に入る。窓に張り付く様な二段寝台が視界に入った後、狭くも辛うじてある
扉が閉じて、ウエモンは照明を付けた。睡眠を阻害しない赤みを帯びた光が淡く三人を照らす。
「考えてみて、お
「此れはお前にも初めて話す。然うしてもいいと思えたからだが」ウエモンは、セイエイを一瞥して口を開けた。「元津右衛門と云う人間が斯う旅をしているのは、経過であって、結果であって、目的ではない。手段だ。俺には執着するものがある——其れに近づくには、
「大切なもの、ですか」
「其の通りだ。君も教えてくれるんだろうね」
「勿論ですよ、元津さん。でも其の前に、寺内さん……」
「あゝ、僕が旅をするのは、知識か、経験かが欲しいからだ。自分は、興味が抱いたものに対して特に何が好きとなる
「
「難有うウエモン、然う、
セイエイの顔は進行方向前側、ウエモンの方へ向きつつも視線は窓の先へと向かった儘だった。列車は遂に止まる。顔を背けられた儘の
「ヨッ」
「ンゥ……ア——」其の刹那だけ、セイエイの視界は背後から左を回って此方へ向き合う「何か」を見た。勘が鋭いとか、霊感があるとか然う云うものは信じない。セイエイは善なる科学を信じる人間だったが、此の時だけは——地球外の香りを感じ、其の何かに恐怖した。が、片目を
「然うですよ。次は私が旅する理由ですよ」
セイエイを見つめるウエモンからの視線を遮る様に
もう一方のセイエイの視界、右半分の車外は夜行寝台列車の停車した駅で、正子の近づいた駅に人気はなく、車内に流れる停車理由の放送もない。其の駅に置かれた貨物容器が光り始める。其の発光に、
「実は昨日も此の列車に乗ったんですが、其の時は気付きませんでした。煙草を喫む女性——」
暫くして緩りと発車する。夜行寝台列車は、静かに分岐を踏み右へ転線し、電動機が唸り始める。
「此処の路線の生い立ち、知っていますか」
「戦後の新鉱物発見が云々だっけ」
「セイエイ、戦後は公表だ。発見自体は戦中……『先の大戦』では兵器利用も検討されていた筈だ。だが、俺は路線との関係は知らないな……」
「
「……此の話が、君が世界を旅する理由に何う繋がるんだ」
ウエモンの問いに、
「時期が違えば。若しも、油頁岩など他資源の調査などでボーリングが
ウエモンは其の話を聞いて、何処かの科学者の講演会の内容を思い出す。随分と昔だったか、確か戦時中——戦意発揚の為の、何かだったか。
「此れを……ッヂヤ・ホツでしたっけ、あれ、日本語で……」
「多元宇宙論」
「寺内さん、其れです。私は、妄想の為に旅しているのでしょうね」
セイエイの思案が一瞬であったと雖も、視線が少しずれてしまった。セイエイは其れを戻すのも素っ気無く、窓越しに移る
「妄想、か」
ウエモンは、無くしてきたものを思い出す様に呟いた。薄暗い隧道の中は、嘗ての地上の景色によく似ていた。長い戦争の果てに訪れた太陽のない昼間は、長く続いて、人を苦しめた。人類の過ちではあったのだろうが、関係のない存在をも巻き込み過ぎていた。而て、元津少年は宇宙に希望を託した人々の英雄となる筈だった父親に憧れていた。併し其の暗闇は、「変異人種」と呼ばれる存在を生み出しもした。識りたがっている。併し……此の冷徹な男を頼る気にはなれない。
「『高い城の男』と云う作品は、丁度、西ローラシア大陸を舞台にしていましたね」
「Philip Kindred Dickか。アメリカの話だったな、あれは……第二次世界大戦後の架空世界だった」
「アメリカ……
首を傾いでセイエイは問うた。古風な言い方で敢えて「アメリカ」だなんて言い方に固執した時期もあったが、海向こうと云う感覚しか持っていなかった。
「昔は然う云う名前の国があったの。其の地域は北米、乃ち今の西ローラシアだ」
「ヘエ」
「若しも『先の大戦』時に新鉱物を早期発見出来ていれば、アメリカの名は続いていたかも知れませんね。其れこそ、日本の様に」
「止めてくれ、今の日本は戦前とは全然違うんだ。新生『日本国』はNNで、以前とは略称も領域も首都も主要都市も国家体制も何もかも違う。『先の大戦』に生き残れなかった周辺国を吸収した……ッ」ウエモンは、其処で会話をやめてしまった。「妄想は所詮、未熟者のする安易なものだよ」
暫しの沈黙が続くかと思われたが、セイエイの口が動き出す。
「君は妄想の為と言ったが、妄想には思えない。君は君なりの実体験を伴った……何かをしているね」
セイエイの中に生じた疑問が、自身の理性に漉されずに口から漏れ出した。寺内情栄と云う人間は、此の
「ええ」
其の溜息交じりの声は、興奮の呼気だった。此方を向くのか、やけに緩り
「確実に妄想ではないかも知れないが、妄想と言わねば受け止める術がない」
片目が青紫。
「知識を得るとは、知識を元々持つ人の世界観を識ると云う
其の言葉遣いは、理解される
——「
「セイエイッ」
視界から消えても尚、自分を呼ぶウエモンの声を一瞬聞き取った直後、
「マコトォッ」
視覚から出現した「
「ひよい……」
割れた感覚の中で発された其の呟きは、セイエイのものであったのか、介入を恨めしく思う
此の思案に如何なる意味があろうとも、
「手を取れ」
彼れの叫び通り、セイエイは、右手をひよいへ伸ばした。此の人工智能——C.B.'nたるひよいの瞳には、「Mosktegh-ia-sia-ar 9141」と記されているのが目に入る。モスクチイイアシャア社の製造物と、自然物との
——
「……」セイエイは、
セイエイが姿勢を改めると、其の体は布団に沈んだ。其の軋みに、ウエモンが顔を上げる。薄目から徐に開いていく一方で、セイエイは自身の感覚を改めて確かめた。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。違和——自身の腹部に蠢く何かを捉えた。やおら立ち上がり、寝惚けたウエモンに「お手洗いに」とだけ言い残して立ち去る。
「フェ。あゝ、行ってらっしゃい」
其の言葉の直後、個室の扉は閉じられ、自動で
セイエイが退出してから、暫くあった沈黙を最初に破ったのは、
「元津さん、貴方にとって寺内さんとはどんな地球人ですか」
唐突な問いに、ウエモンは思わず笑みを漏らした。
「どんな、ネエ……。彼奴は、真面目な奴だ。知識に、
「おかしい、ですか」
「ぼんやりする
「いえ〳〵」
「……
「
「えゝ。
「
「そろ〳〵、寺内さんが戻られますかね。元津さんもお手洗いに行かれますかね」
「あゝ、行っておこう。君こそ先に行かなくていいのかな」
「結構です。排泄をば……私の場合……あまり必要としません」
扉が開かれた。出た時はお腹を気にしていたセイエイも、すっかり調子を取り戻した様で、安心である。セイエイが寝台個室に入り、ウエモンが貴重品を手にして動き出す。「今度は俺が行くよ」と、セイエイに告げて入れ替わって行く。セイエイはウエモンを振り返り、ウエモンの心の中で背負っていた何かが軽くなっている様に足取りを見た。
扉が再び閉まる直前、ウエモンは自分の中の何かを自覚させた此の
ウエモンはセイエイと入れ替わって部屋を出、暫く
「寺内さん」沈黙を破ったのは、青年だった。「椅子は空いていますよ」
「エ。あゝ、ン。僕は正座で充分だもんでね、難有う」
青年の言は、ウエモンが席を立ったのだから其れに座っては何うかと云う気遣いだったらしいが、座面の硬い椅子に
「セイザとは何です」
青年は「
「マア、斯う云う座り方だね」
「ヘエ、興味深う御座います」
其の人間味溢れる青年の表情でも、瞳が異色を一瞬放ったのを、セイエイは見てしまった。——否、幻覚だろう。不思議体験の繰り返しは、興味関心を其処へ向けさせなくなるに足る程経験していた。
「此れは僕の話になるんだが」セイエイは今の幻覚を追求せずに、他の話を始めた。「
「然うですか。夢の内容は、普段から覚えていらしているんでしょうか」
「否、全くないね。でも、其の『旅』だけは、全く覚えている」
「対照的ですね。其の旅の内容を具体的にお願いします。連続性があるのか、出て来たもの
青年の瞳は煌めくが、声は冷徹になった。
「最初の夢は、自分が未知の中を浮遊している所から始まった。未知は『謎めいた男』に化身して、僕に『マコト』と名を付けたんだってエ。最初は其れだけだったわ。けンどねエ——」セイエイは続けて、「マコト」がひよいを名乗る人工智能——モスクチイイアシャア社の
「成程、貴方は……寺内さんは、夢の中で、『マコト』として、『ひよい』と一緒に旅して来た……『世界の旅行者』と」
「
「えゝ。Travel(l)erと綴りまして、エウ……
窓の向こう側では、街灯が目立ち始めた。昼行の特急ならば停車する都市であるが、此の夜行寝台列車は速度を落すだけで、寝静まった
「……其れで、寺内さん」
「僕が此れに恐怖を抱いていると、君は言い当てたろう。だが、勿論……興味もある。妙に現実的で、浮世離れしたものだから……」
セイエイも、
「
——「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」
其れに応えるかの如く、記憶は其の言を呼び覚ました。セイエイが「謎めいた男」に応えた言葉。或いは——「マコト」を縛る言葉。併しセイエイも又、此の科白によって、今回の旅の行動を造り上げていた。
「知識欲は、人を進化させます。進化の要因全てが知識欲でなくとも、知識欲は充分に『プロメーテウスの火』ですから」
Προμηθεύς。ギリシヤの神話に伝えられる神の名。唐突な神名に、セイエイは背を後ろへ反らせた。
「でも、でも……知識は、知った後も制御できる。難有う、君と会話して、向き合い方が分かった気がするよ」
「えゝ」青年は微笑んだ。話の終わりが見えたと、セイエイも数分に亘る長話から正座を崩し、床に立った。が。「ですが、私が貴方に出来る
不意を衝かれた。「私が貴方に出来る
「ア、此れを持っていて下さい」不意に、青年の分の切符がセイエイに手渡された。日付は今日、シルバーベイン駅発の片道乗車券。二枚目は、此の列車の号室が、十三号車の——おっと、他人のものを読むのは宜しくない。青年は、予約を確認し合う旅の相棒ではないのだ。セイエイが顔を上げると、青年は更に微笑んだ。細まった目から、青紫の光が漏れた気がした。「お教えしましょう」
其の言を耳にした途端、世界の速度が
「よく見て下さい」
青年が胸を指す。其の乳首——ではなく、其れは、紫の瞳だった。青みを帯びた紫の色は、丁度、セイエイが正に先程幻視した世界の色である。
「……
眼球は、頭の其れと同じ様に瞬き、見回し、湿っている。此の眼——セイエイは確信する。青年は、変異人種などではない。抑々が、此の世界に於る、人間の範疇から外れたものなのだ、と。
「オ、然うですか。貴方の世界観も気になりますね」
「分らない——済みません。でも、もう一つ、識る術があります」
青年——の、姿をした存在は然う言って、「貴方も、知りたいでしょう」と言外に疏通させる。其の術と云うものが如何なるものであったとしても、知るだけで選択肢は増えるのだ。セイエイの頷きに、青年は、姿を変え始めて——擬態を、解いたのだ。
「翼のある使者……」
牙の覗く口元、濃く鮮やかな青紫の瞳、煌めく薄い翼あるいは翅、四肢の先の爪。強靭な肉体を持つ存在が其処に立っていた。眺めていると、足が変な気になる。
「お前は然う思うのだな」
口調は変っても、声は青年の儘だったが、響きは変って、無理に人間を真似ている様に聞こえた。一体、何が欠けたのか。目を細めたセイエイに、訝しむ目の「其れ」は
「——ッ……ユッ……」
セイエイは、自分が其れを何と認識し、何と呟いたのか解らなかった。
「然う、寺内情栄。融合しよう」
「……ッ」
再び見開かれたセイエイの目に入る視界からは、曖昧なものは一切消えた。恐らく、「プロメーテウスの火」とは、他でもない、自身の比喩だったのだろう。
「我々が知識を合一すれば、我々は貴方の真実を覗けるかも知れない」
「融合……」
彼れの云う、「我々」……其れは、寺内情栄であると言えるのだろうか。「翼のある使者」とは、セイエイが不図呟いた言葉だが、其れに
毒であれば。毒でなければ。なかったとして、其の後は。
——自分が人類の一員でなくなった時、自分は一体何の為に識っていると云うのだろうか。
思案の沈黙を、此の冷徹な存在、「翼のある使者」は、黙って見つめてくれていた。だが、心と云うものは、大きな分岐点で立ち止るものだ。殊に、「大きな分岐点」の姿をして、
足が震え出した。足も組み替えず正座をし続けたつけである。靴は大きな震えにも動ぜずにおれど、体は却って崩れそうになる。
「ほら、摑まれ」然う冷徹に言った「翼のある使者」が歩み寄り、手を差し伸べた。僅かな沈黙の後、付け加える。「爪に」
セイエイは、
「時間切れだ」
併し、足の痺れと震えとが収まった頃、冷徹な声は放たれた。「翼のある使者」は青年の姿へと縮み戻り始め、服を手にした。困惑するセイエイは何も動けず、青年が裸の上半身に服を纏い、自分の手から切符を三枚とも摑んでも、だが、セイエイは気付かず指先に力を込めた儘だった。
「『結局、自分のものになるのだから、離さなくてもいい』、と云う
「ヘ」
「切符」
「エ、アッ」セイエイは手から切符を離した。「いや、今は……」
此処で融合したら、確実に一人の乗客が車内から消えた怪事件になる、とセイエイはせめてもの言い訳を思い付いた。
「然うですか」何時もの——何方が本性なのか、セイエイには判別が付かないが——口調に戻った青年が溜息を吐いた。其の様子を見て、セイエイは融合したとしたら、此の青年の親御さんたちは何を何う思うのだろうかと心配になった。セイエイは彼れの
「
「其れは、
「オ、もう
ウエモンが
「
「ア、
「えゝ。ぢゃあ、
「お
「お
ウエモンは
/*視点変更*/
次元龜󠄁裂󠄀と云うものを二人が知ってから、既に数日が経っていた。次元龜󠄁裂󠄀を拠点とすべく暫く行っていた整備を粗方終え、「マコト」は座布団に腰を下ろした。
「マコト、お茶は要るかな。そろ〳〵憩いたかろう」
「あゝ、いゝのか……」淹れて貰おうと口にする直前、ひよいの言の奇妙さに気付いた。「ひよい、何処で
「買ったのよ。ホラ、セイエイの世界の、通信網の販売があるでしょう。
ひよいの摑んだ袋の中には、緑茶を淹れる為の加工が為されており、空いた片手には急須もある。而て机の上には、給湯器もあった。マコトの視界に入る製品の幾つかには社章があり、其の全てが、花押の様な「NN社」の社章だ。
「人間の文化を識るのは楽しいね……。ア、マコトは元からか」何うやって此れを、其の前に通貨を手に入れたのか、自分から語り出した。「戦時中に、沢山の通貨が行方不明になったらしいのね。其れでさ、其れが発見されたと云う申し立てをして、換金してもらってさ、買ったんだわ」
「アヽ、ンヘゥ」
変な心持ちになって、マコトは訳の分からない返答をしてしまった。
「お金は未だ余ってるよ。其の布団だけぢゃなくて、次から添い寝用のぬいぐるみを数人買ってもいいんだよ」
「アア、
「ヘエ、でも、戦時を経験した人に心的外傷を癒す手段として普及した筈だけど……」
「世界は、直ぐに変わる訣ぢゃないんだよ」
「フン……ハイお茶」ひよいは、語っている間も手を止めていた訳ではなかった。「味、言葉にして教えて欲しいな」
「あゝ……ン。新駿遠茶か」マコトは
嚥み込まれた其の味を言葉にすると云うものは、マコトにとって、「セイエイ」である時もした事が無かった。語り渋っていると、茶の味の残るマコトの口内に、ひよいの知識欲が割り込んで来た。一体何回目になるか最早覚えてもいないが、決して恋愛ではないとは思われる。
「此れが味のクオリアなのね」
「ハア」
重ねた唇を離したひよいは自分の分の湯呑を取り出すと、茶を喫み始めた。喫み、淹れ、喫み、淹れ、喫み、淹れるを繰り返すひよいに、マコトは、適切な量と云うものを教えるべきか思案した。併し、思案に耽っていると、感覚が「夢」から乖離し始める様な気分になる。一睡もせずに数日間、次元龜󠄁裂󠄀と云う広大な広袤を切り取り、斯うして拠点化していた事を自覚した。疲労の所為で、一息吐いた筈が、床に伏してしまったらしい。だが、起きる気力も涌かなかった。マコトの胸飾りの様に振舞う、
「( ˘ω˘)スヤァ」
其れが、次元龜裂内でマコトが最後に遺した言葉だった。
——振動。定期的な振動。
音は、金属音。くゞもった、回転する車輪の金属音。時折響く別の音は、車輪が踏み奏でるものだ。
視界が開けた……否、自分で目を開けたのだ。椅子に座った自分の、膝の辺りを中心に、視界は、車内を捉えた。鉄道である。窓は、雪の積もった平野である。
「……寺内、情栄……」
彼れは一瞬然う思ったが、其の呟き自体が、此の現実を感じる主体がセイエイでない事を示していた。窓からの冷たい風が、「マコト」の首から下げた何かを翻らせた。目をやると、其れは次元龜󠄁裂󠄀内で身に付けていた、
Mi-sgioba aithris A.G.L.A.Mh.: Macoto-C.
「アクレウ
Macoto-C. bi-na ball mi-sgioba aithris, gabh-mu-na cead coimh-ghabh ta obair so.
「マコト C.
知らない言語で然う書かれた、名札。知らない言語を翻訳機なしに知れるのは、記憶の限りではセイエイではできず、マコトとひよいとだけが使用可能な能力であった。自分の体を確認しても雌雄のみ判別が付くだけで、セイエイかマコトかは判別が付かないが、此の名札が正しいのであれば、彼れは今、マコトが眠った筈なのにマコトとして動いている事になる。
「
しどろもどろに周囲を見回し、首を回し終える時期を見失った儘、列車の放送が聞こえた。名札に書かれていたのと同じ言語に聞こえた。ケルト語風の何か、と云う印象であった。昼間を走る列車は、速度を落とし始め、イイカルトメ
停車の衝撃が伝った列車から、医師と共にマコトは駅へ降り立った。大勢の流れに従えば、雪を踏んだ。駅舎の外へ出た流れの先には、紋章が彩られた乗合自動車が見えた。其の儘、医師の乗り込む乗合自動車に足を向けようとした時、声が聞こえた。
「
聞きなれた声が、慣れない言語を必死に話していた。顔を向けようとしたが、人が壁となって見えない。不意に、誰かが背中を押した。「
「ア、
「……ひよい」
「ウン、私だよ。車内で話そうか。マコトは助手席にお願いね」
車内は、「セイエイ」の知る何れとも違う形をしていた。マコトの知っている道路を走る車両と云うものは、運転席に操縦桿一本と踏みペダル複数枚、多数の押し釦と画面とがあり運転機能が集約されていた。だが此の車両は、飛行機の操縦室に似ていた。だが、「電波磁気誘導」を示す文字列が車の扉に描かれており、異世界の、別方向に発展した技術なのだろうと思った。ひよいはマコトが車内を観察している間も、着々と発車準備を進めている。
「
「
指差歓呼の後、自家用車は緩りと動き出した。マコトの知る自動運転車に似ていたが、空を飛ぶ様子はなく、足が遅い。医師の大勢乗り込んだ乗合自動車を追いかけているが、軽い筈の此方の方がのっそりしている。
「ʘ、遅すぎる。
苛つきの儘、ひよいは操縦桿に頭突きしたかと思うと、其の衝撃で生じた一瞬の隙を付いて自動運転の制御系統を上書きした。頭突きとは……随分と人間らしくなったものだが、外部入力を受け付けぬ筈の自動運転の介入を行ったのだから矢張り人工智能らしい。マコトは背中が加速度を受けて押し付けられるのを感じた。遠かった長い乗合自動車のお尻が見る〳〵内に近づいていく。横の窓から見える景色は、雪が横殴りに降り始めていた。
「ひよい、珍しいね、介入なんて」
「マア、あの
「然うだったね」
マコトとひよいとが初めて会った場所は、確かに仮置きした建築物に似た何かのある空間——仮想空間だった。其の後、二人は雪山の仮想空間の世界で、意図的に遭難し、二人での世界の旅が始まったのだった。
「あの日も、こんな雪だったっけね」
「マコト……もっと酷く吹雪いてたよ。今は此方が速いだけ。
ひよいの目は、薄らと細められ、心此処に在らずと云う感じに見えた。介入しての道路上での車両運転に集中しているのか、マコトと出会う前に見た「夢」の事を思い出しているのか、マコトには分からなかった。窓から見える雪原は、不相変、一致する記憶なく流れて行く。
程なくして、目の前を横切る川が下より姿を現し、「
「アクレウと云うものは、翻訳すればメヂアだ。報道機関だから、斯う云う、取材が出来るらしい。都合がいいが……」
「マコトも、身分証を偽装した記憶はないみたいね」
「話が早いな」
ひよいは自分の身分証を見せた。
「Mi-sgioba aithris A.G.L.A.Mh.: Sheofhoimh-M.」
「Sheofhoimh-M. bi-ca ball mi-sgioba aithris, gabh-mu-ca cead coimh-ghabh ta obair so.」
とある。和訳すれば、
「アクレウ
「ひよい M.
だろうか。
「あ、此の言語、全然ケルト語ぢゃないや。多分、人間と非生物とで動詞語尾を変えてる。……ひよいは人間扱いされてないみたいだ」
「別に、其れが普通でしょう」ひよいは、落胆するマコトに冷たく言い放つ。「
川を渡り切り、見えていた「イラメニア・クルウエウ(地域)」と「イイカルトメ・アセ(行政区)」との看板が横を過ぎて行った。道は平坦になり、車が速くなる。
「……何に就て識るべきか、解っているか」
「知らないのか。ぢゃあ、私もマコトも、何も知らないね」
「先ずは、お医者さん達に話を聞こうか」
「然うねエ」
丘陵地帯の
「医者が大量に必要になる出来事か」
「あの乗合自動車は皆な医者だったのかねエ、ナ、マコト」
疑念を口にして、返答を確かめようとマコトへへ顔を向けた。だがひよいが気付かぬ内に、マコトの顔は蒼白になっていた。
「なにイ、マコト……」
「あの町の奥に、崩れた堰堤があるに」
「エヽッ。そりゃア……」ひよいは車の外側に付けられた撮影機の映像を確認した。進行方向左側に小さく見える、段丘の谷底平野の其の上流に、崩壊した堰堤が見えた。周囲には、青紫色の可視光線と紫外線とを放つ何かが付着している。何処かで見た、鉱滓堰堤の崩壊の写真に似ていた。「医師が必要になる、か」
数十分後、医師と二人との姿は其の町の高台にあった。医師を乗合自動車は、高架橋から下道を経由した後、仮設橋を通り、此の場所に着いた。町を見下ろせば、何かが流れた跡が見て取れ、青紫のものが町に撒き散らされている。
「
「
薄い蛍光色の上着を着た人間だった。振り返れば、乗合自動車から降りた医師の全てが、同じ上着を着た数人に案内されて高台から降りて行っている。
「……」
「……」
「アクレウの方、質問を」
「ア、
「鉱滓堰堤が崩壊したからです。精しく言えば、トリ、鉱物の所為です」
医師は予め用意していた三人分の資料を取り出し、二人に配った。余った一人分は医師が持ち、詳細を語り始めた。
「
資料を読み進めれば、トリと云う鉱物の特徴が記されていた。「アクレウ取材班」である今回のマコトとひよいとに合わせて、報道向けの平易な文体の説明であった。頁を幾つか捲れば、人体に齎す被害の詳細も書かれている。文章を読んで理解するのに手間取るが、「トリは人間に対して、記憶の混濁を齎す。した事をしていないと認識したり、実際の行動と異なる事を記憶していたりする」と云う事が書かれているのだろう。
「トリは発見当初、人体に無害とされていました。併し、実際には影響があった。殆どが、精神的な影響です」
「……人体に無害なものと云う当初の予想が誤りだったと」
「其の通りですが、原因物質は現在も調査中です。丁度、今ですね」
医師に見えた人々の中には、医師以外も混ざっていたらしい。
「当初、発症したのは鉱山労働者の一部でした。併し此の幻覚・記憶の混濁症例は、人間以外の生物、無生物にも起こるものだった。症例が増えて行くにつれ、当初の仮説で説明不能な事例が増えたのです」
続く医師の説明は、資料に書かれている通りの事だった。映像記録に、其の場に居ない筈の人間が移り込んだり、人間が何もない所で切り傷を負い、別の場所にあった刃物に其の人の血が現れたりなど。単に人間の記憶や無生物の記録に留まらず、人間と無生物や人間同士の事例が発生したらしい。
「夢みたいですね」
「ですが、現実なのです。調査せねばなりません。ですから、あの方々に乗合自動車で調査に来ていただいたのです。お二人は、其の様子を知りたい、でしたか、取材をして頂くと云う事でしたね」
「はい」
「あの堰堤は、
「難有う御座います……」
医師は何処かへと歩き、足音は数歩分だけ響いた後、霧の様に消えた。風音だけ聞こえる中、マコトとひよいとは互いの表情を見て、今の霧散を共に見た事を言外に確かめ合う。
「トリの鉱害。原因は何だと思う」
「わしらは専門家ぢゃのうて素人でしょう、マコト」
「トリ……ただの鉱物なら、夢や記憶が混ざるなんて説明がつかない。まるで、『セイエイ』だな」
「エ」ひよいは一瞬、顔と背中とを強張らせた。「比喩に辿り着いた過程を示して欲しいかな」
「夢現が曖昧になる部分から、セイエイを連想した。寺内情栄は、
「フウン。マコトも自分が夢の中の存在ぢゃないか思うんけ」
「サア。僕自身は慣れたけど、僕からするとセイエイが然う思えるね。分れ合った片方が、互いに胡蝶の夢に陥ってる。
扠、夢の様な、曖昧になる症状がトリの特徴……あとは、無尽蔵とも言えるエネルギーがある、だっけか。考えてみると、最初から
「ン」ひよいは頷いた。「危険があったら、直ぐに体が重なる様に準備しておくね」
ひよいは浮き上がり、マコトに肩車する。斯うしておけば、ひよいは落ちるだけでマコトと重なれるが、未だ、ひよいは透けず、高くから遠くを見渡した。視線を河岸段丘の下段へと移せば、人数は判然としないが、複数人が市街地の中を歩いている。
「あの青紫、文字通り目に毒だな。眩し過ぎる……案外、無尽蔵のエネルギーと云うのは本当かも知れんな。マコト、下れ」
「ハアイ」
マコトは坂を下り始めたが、肩と首とに感じるひよいは妙に軽かった。
町は、報道向けの規制線が敷かれていた。
反射材のある蛍光色の防護服を身に付けた人々は、其の青紫の段丘面を歩いている。段丘崖の下には河川が流れ、青色の川が流れている。併し、川の青色は、空を反射しての青色ではない。其れ以上に鮮やかな青色だった。調査員が、川に釣竿を垂らし、暫くして回収していく。他の調査員は、何も持たない者も居れば、器具を持つ者も居た。器具にも、桶の様な単純なものから複雑な器械迄あった。彼れらが足を進める度に、青紫の地面は、粘り気を以て、足を離してから一拍遅れて離れる。
「……」
青紫の地面を見続ければ気が可怪しくなる様に思えて来て、マコトは目を逸らした。其の視線の先には、崩れ落ち、重なった家屋が見えた。青紫色は無かった。其れでも、其の家屋の中に、遊ぶ子を見た。マコトの視線には気付かず、親子で遊んでいる。此の場所に立つ前に見た景色をマコトは思い出す。子も、大人も、防護服なく——まるで、日常の風景の様に青紫の上を歩いていた。だが、青紫の地面は、彼れらの歩に付かない。代りに、足跡の窪みが残されている。
「……ア」
彼れらは、霧散した。足跡の窪みは、何もなかったかの様に青紫に埋まり戻る。再び動揺するマコトの頭に、ひよいは手を添えた。
「あれ、私も見たけど、霧散は……彼れらの消滅ではない気がする」
マコトに肩車されたひよいの目が、上からマコトの顔を覗き込んだ。マコトの視界は
「可能性を見せるもの……と言うべきものか」
「記憶の混濁は、現実と、在り得たかも知れない可能性との混濁かも知れない。Schroedingerの猫が、其の儘、箱の外に出た様なものかね」
「シュレーディンガーの猫が……観測しても、定まらない状態だと」
「其れを齎すものは……世界を超えて安定性を示す、『世界の旅行者』の様な存在の……死骸か」
トリは、猫の生死を並列させるのかも知れない。鉱滓堰堤の崩壊と云う大惨事の中に
「お二人は、此方へ。続いて、病院の取材をお願いします。患者さんの同意も取ってありますので、車で付いて来て下さい」霧散した様に見えた、「アクレウ取材班」の対応を務める医者の姿が其処にあった。「何うしたんですか……サア、行きましょう」
「行こまい、マコト」
「分ったよ……」
マコトとひよいとは坂を上り、四輪車の車内に戻り、飲料を口にした。マコトが
「此れが何だか知りたげね。私も知らんわ」
お茶を飲みながら、此処に来る直前の記憶を思い返す。新駿遠茶、
「準備は、何うですか」
お茶を飲み終えた頃、医者は発動機付きの一輪車に跨り、車の前に出た。
「出来ました」
患者の診察を行っていると云う病院は、市街地から離れた、別の河川流域にあった。マコトとひよいとは医師に案内され、部屋に入る。窓からは青紫の色はなく、河川は水の色をしている。部屋に、患者を担当していると云う医師が入って来た。
「——アクレウの方がお見えになりました。患者さん、始めますね」
「お願いします」
「アクレウ取材班のマコトC.です」
「同じく、ひよいM.です」
二人は、身分証にあった通りの名を名乗った。苗字と云うものなのかは分らないが、個人の識別には役立つだろう。患者は至って健康的に見え、下半身が布団に隠れているとは雖も、清潔な衣に顔色も悪くない——実際、容体は安定しており、現在は安静にしての経過観察中であると云う。取材は、想像していたものと大差なく、マコトもひよいも、知りたい事を知る事が出来た。だが、唐突に、患者は腹部を押さえた。
「ン。どうかされましたか。お二人は別室へ——看護師ッ。診療を、速やかに。トリ事案である連絡は忘れずに」
容体の急変したのだ。窓の外から、大きな音が聞こえた。何かが凹み、何かと衝突した時の様な音だった。
「何が……」
マコトが移動中に呟いたが、廊下を響く五月蠅い足音に掻き消される。首に下がる
扉の開く音が聞こえた。医師——二人を案内する医師が立っていた。
「奇妙な巡り会わせですね。先程の患者さんは交通事故による外傷を負われました」
「室内でか」其の声が自分の真横から発せられた時、やっとマコトはひよいを再び見た。「取材中だった」
「トリとは、然う云うものなのです。まるで何処かで起こった出来事を、他人に負わせる様な……。現実が曖昧になっていってしまう病を、トリは齎します」医師は、二人に向かって数歩進んだ。「此れから、今回の事態に関する調査が行われます。許可は取りました。いらっしゃるかは自由です」
「具体的には」
「えゝ、マコト C.さん、同時刻に、廃棄物処理場内の貨車の一両が自壊した事が報告されました。最初に、病院から数名を派遣して此れから確認に向かいます。……勝手な事は言えませんが、其の車両に患者さんの身元を特定できる様なものが付着していれば、正式にトリ事案に認定される流れです。続いて、トリ鉱山の坑道にある貨車用軌道の点検が行われます。丁度、当初の予定と同じ時間帯に調査が始まります」
幾らかの逡巡の後、マコトとひよいとは行く、と口にした。再び医師に案内され、他の職員と合流し、廃棄物処理場へと歩いて向かった。其の中に、確かに破損した車両があった。前面が
「附トクフ38800-9141、か……」
ひよいの呟きに、貨車の写真を撮っていた職員が反応する。
「ひよい M.さん。トリ鉱山で使われていた貨車、附トクフ38800系の、9141号車と云う所ですかね。車歴を調べれば、発注、搬入、使用開始日とか細かく分かりますが……今では其れが信頼できるかも怪しいですね」
「然うですか。質問は——」
「マコト C.さんも、構いませんよ」
喋る職員だけでなく、全員がマコトの質問をしてもいいかと云う問いに首肯した。マコトは、胸飾りにも見える
「難有う御座います。其れにしても、前面が何かにぶつかった様だ……。自壊、でしたっけ」
マコトは、何の装飾もない撮影機を捻り回し動かして操作を進め、附トクフ38800-9141と云う車両を撮影機に収めた。立方体を一個押し潰すと、
「えゝ。監視映像にありました。此の場処にあった綺麗な車が、独りでに歪むのをね」
「9141……」
マコトの背後からの震えた呟きは、ひよいからのものだった。前回、「まるでダリの『
——次の準備の為、マコトとひよいとは防護服を身に纏い、連絡装置を取り付けてもらい、鉱山の入口に立った。
「自分は、坑道の貨車用軌道の点検に同行させて頂きます、アクレウ取材班のひよい M.であります」
「自分は、同じくアクレウ取材班、マコト C.であります」
「了解した。我々は今回、坑道内の貨車用軌道の点検を担当する業者、——です。宜しくお願いますね」
坑道に入り歩き進むと、陽が隠れ、電灯に照らされた道が見えて来る。だが、業者は立ち止まり、確認を始めた。
「オイ、送電の申請はしたか」
「しましたが、送電開始の連絡は未だです」
「報告しておけ。現在時刻は正午……五分前」
送電していない筈なのに、電球が点っている事を不思議に思いつつも、業者は再び進み始める。二人も其れに付いて行くと、左から複線の狭い線路が見え始めた。線路は、先程見た附トクフ38800-9141の台車と同じ
「記録を開始する。取材班のお二人は下がって……撮影しますので」
業者さん方は長方形の薄い板の様なものを取り出し、軌道の前に翳した。板の上に指を触れさせて奇妙な動きをすれば、長方形の四点から、八面体を作り出す様に光線が射出され、軌道の歪んだ部分を其の内部に収める。八面体の内部に光が満ち、坑道を激しく照らす。何秒続いたろうか、気付けば業者は板を仕舞っていた。
「以上です。同じ衝突による衝撃の変形であるかは、此の後です。検証と報告に戻りますので、付いて来て下さい」
マコトとひよいとは、何十‰かある急な勾配を上り、先導する業者さん方に付いて行く。遅かれども着実に昇り、出口の光が見え始める。声が、自身や他の業者さん方の体と複雑に動いて耳に届く。
「大丈夫ですか」
「はい……」息が切れながらも答えたひよいの声は、単純に坑道の表面を反射して伝わって来た。「あれ」
光に満ちた外と、暗い内と以外に何も見えなくなっている。恐らく、光の中に業者さん方が出たのだろうと、二人は出入口付近と云う事もあって緩くなった坑道を駈け、外の光の中へ出た。だが、何時まで経っても、目が光に慣れる気配がない。目の奥が灼けるほど白く、影が存在できない光。息を吸っても肺の中まで光で満たされる様だった。太陽光よりも白くあり続ける光を眺めていると、空間の等方性と云うものを認識させられる。半実体とでも云うべきか、仮想の体のひよいは、其の輝きに自分が侵され、存在が薄まる気がした。
「ア、まずい」
何秒かに渡る思案の後、ひよいは急いでマコトに飛び込んだ。其の体が重なり合い、重ね合わさった直後、二人の意識を焼く様な、多くの何かが一瞬にして通り過ぎて行く。否、実体をも焼かんとする情報だった。無造作に置かれた蔵書が一気に雪崩れ、知識が、其の紙の情報が、一気に入り込む様なものだった。マコトも、ひよいも、二人が重ね合わせていなければ消えていたろう事は想像に難くない。
——光が収まった。
気付けば、足は坑道の外に立っていた。重なった儘の二人の体は、ひよいの半実体の体が纏う青い何某かが漏れ光り、暗い地面を照らしている。
「……暗い」
見上げれば、太陽は忘れられた様に消えていた。一瞬にして……然うでなくても、坑道に入り出る迄の間に日没を迎えたとは考えづらいものである。坑道に入る迄、南中前後の位置に高くあったではないか。其の代りにか、星が朧にある。星の並びは、何の記憶とも一致しない——マコトの知る「地球」、ひよいの知る「トクシマシカ」でもない夜空だ。空全体は朧な儘、業者さん方が現れる気配はない。通信機器を取り付けてもらった事を思い出し、通信を試すが、繋がる気配はない。夜を彩る虫の音もなく、風なく、寒気が降り始める。
「何が起こって……取り敢えず、歩いてみるか、ひよい」
「其れがよさそうに思うよ、マコト」
トリ鉱山の敷地を仕切る場処に、警備員が倒れているのが見えた。体の凍えそうな程の中に眠り、起きる気配はない。「止せ、何うせ……」二人の何両方だったかが言う。こんな時間帯に、屋外で寝た人の末路など深く考える迄もない。誰にも気づかれず、死ぬだけだ。
マコトは手を首元に寄せ凍える。其の時、胸元にあった筈の
「アヽ、雪イ」
朧の空から、凍える空気が降りて来たかと思えば、徐ら雪が降り始める。其の時、死と云うものを予感した——消滅、と云うべきか、誰の記憶からも忘れ去られて行く事に、体が震えた。気付けば、駈け出していた。転んでも、倒れて擦る事はなく、空を飛んで必死に戻る。
——何処にか。
「知る場処、行ける中で……車へッ」
空を飛ぶ中で、雪に埋もれ始めた其処が見えた。駈け寄り入れば、寒さは微かに和らいだ。運転席に座った二人だが、運転を始めようとするが、機器類の応答がない。自動運転の制御系統に頭突きしても、中身は空っぽだった。此の車は、魂が抜け落ちているのだ。中途半端に同期した所為で、警備員も、車も、記憶や魂を抜き取られた並行世界——其の様に、ひよいには思えた。
「恐うなってまったわ」
息を切らしたひよいは体を抱いた。感ぜられるものは、最早、滅び行く世界のみかと、重ね合わさった腕に温い息がかゝる。必死に空を飛んだ所為か、胃腸が蠕動を始めている。心臓は必死に拍を打ち、全身に血を行き渡らせている。
「僕の体なんだけど」
「ア、御免ね」
必死過ぎてマコトの事を忘れていたらしく、声を聞いて思い出す。
「裏切らないでね……然うしても、付いて行くからさ」
其れから、何時間経ったろうか……。
「ネエ、
マコトは
マコトの
マコトの眼前に、金山の労働者が現れた。イイカルトメ行政区を支え続けている——あゝ、疑念が晴れた。鉱山が一時的に閉鎖されてもなお電力が供給され続けたのは、超世界生物の死骸が独りでに供給され、エネルギーを分け与えていたからなのだ。
「マコト……」
鉱山労働者のいる世界で、ひよいは声だけの存在となった。併し、何うやったら戻れると云うのだろう。此の二つの並行世界は近過ぎて、次元龜󠄁裂󠄀による往来は反って世界の不安定さを増させ兼ねない。
「ひよい……」
弱々しく呟く。並行世界と云う意識しなかった存在が、正しく数の暴力となり困難を齎している。勘案の中、労働者の姿が次第に、焦点のぼやけた写真の様にぶれていき、其れでいて同じだけ各労働風景に焦点が合っている。——離れるが吉だ。マコトは然う思った。
「分かった。取り敢えず外に出てみましょう」
姿は見えなくとも、相棒と思い合うだけの信頼はある。超世界生物の死骸たる鉱物に支配された此処から一刻も早く脱出するべく、増殖する労働者の風景を背にして坑道を駈け出した。
——何も行動せずにいれば呑み込まれていたろう。其れでも最適な行動をとっていたのかは分からない。
今、マコトは坑道を上目指して駈けている。多重に響く足の振動と共に聞こえてくる複数——労働者の合図、回り続ける巨大な換気扇、全てが多重に見え始めた。併し、自分だけは確実に一つだった。
「…………『寺内情栄』……」
其の確信さえも、自らの呟きによって揺らいだ。寺内情栄と云う人間が今何をしているのか、マコトは知らない。マコトにとってセイエイは「自分」なのか、解らない。ただ、記憶を共有していた時期もある。若しかすると、「謎めいた男」はセイエイの中に眠っていたマコトを目覚めさせただけなのかも知れない。然うすれば別人との結論となろう。仮説のもう一つ……自分がセイエイから分離した存在ならば、「自分」は二人となり得る。
深く考える迄もないと、マコトは
「未だかッ」
走りつつの思案から意識を戻して立ち止まると、出口を示すだけの看板が見えた。霧が濃くなってきた気がして、視界が暈ける。感覚が変だ。立ち尽くすマコトの周囲には何も、誰も居ない、動いていないのに、ひよいの思念だけ感じている筈なのに、聴覚が近くで動くベルトコンベヤを捉え、触覚が四肢を倒れ伏して感じる地面を捉えている。マコトは視覚で肩から生える両腕の先の両手を流し見る。手を頬に、叩く様に付ける。
視覚の中では、其れは起こった。触覚は、
「ひよいィィィィッ」
叫んだ。マコトの叫びは、長い坑道に響く。叫びと共にある筈の全身の震えは感ぜられず、聴覚が其れを捉えている。だが、出口は確実に近づいている。看板の示す距離は短くなっている。全身の触覚が奪われたが、其れでも四感で何とかなっている。何時でも其処にあると思っていた、地に触れる足と云う感覚は喪失し、時折足元を見て其れが動いているのは、まるで足が他人のものになってしまった様な、神経接続を伴わない義足にでも変えた様な心持ちがする。嗅覚は鋭敏になり、地下の地層と地上からの空気とを嗅いでいる。其れでも触覚は相変わらず地鳴りを捉え、背中に重力を感じている。だが……唐突に、腹側の全体に伸し掛かる圧倒的なものを感じた。
「アヽッ」
感覚に耐えられず、走るのを止め、腹を守る様に丸まる。併し、重量は圧倒的で、何かを感じた。
「エ……」
触覚では、落ちてくる石々に全身が塞がれた。而て最期には、全身が圧っされて——触覚は瞬時に今のマコトのものに切り替わった。だが、其れは却って体内に蠢き疼く、不快感への生理反応を目立たせた。
嘔いた。見たくなくて、目を閉じた。其の時、懐かしく、世界が暗転した気がした。
——
「懐かしい。何年前の記憶だろう、初めて僕が僕になった日にとても似ている……」
マコトの思案は、言葉になる事はなく、頭の中に留まった。マコトは、此の空間を再び目撃する事になるとは思ってもおらず、驚愕していた。併し、考えてみると、先刻迄いた筈の坑道は消えていた。此の空間に、自分は何時辿り着いたのだろうか。
「
眼前の未知は唐突に男の姿をとる。黒衣の男は、マコトのきっかけを生み出した存在である。何故今更……。
「ああ……」
疑念を抱く中、マコトの体は記憶を再演する様に、「謎めいた男」に曖昧に首肯した。
「——
謎めいた男は、再び問う。記憶の詳細を思い出せば、此の後セイエイは「何から識ればいい」と問い、「ご自由に。貴方が選ばねば、私から与えることになりますが」と返される筈だ。
「何から識ればいい」
「………………ご自由に。貴方が選ばねば、私から与えることになりますが」
「……識る対象は定められているのか」
「特にありません。貴方の好きなものです」
まるで複写物を読んでいるかの様だった。叮嚀に細部迄同じであろう事は容易に察せられた。何から何迄同じなのである。答えは——「僕は、其の時に知りたいと思ったことを識る迄だ」/「僕に識りたいものはない。断らせてもらう」
だが、予想外だったのは、セイエイが二つの言を同時に発した事だった。返答も二通りとなり、記憶通りの「いいでしょう、了解しました」と「残念です」とがほぼ同時に聞こえる。
其の時、提案を断った世界の感覚が消えた。其処から、周囲が早回しになった。
感覚の断裂——次元亀裂と云う安定点から、
誰かに踏まれ、最早動く事のない飛蝗を見た。
扇子が示す、羽が切れ、地を這うだけの鳳蝶を見た。
其れはマコトの知るセイエイの歩み。ウエモンと云う相棒と共に進んだ景色である。
「まるで走馬灯だな」
マコトは然う思ったものの、五感を以て体感する世界の数が増えていく度に思考の余裕も無くなっていく。セイエイの歩む歩幅が違っていれば、会話で選んだ言葉が違えばと、五感は倍々になって行く。其のずれは増す度に不快な程、同じものの僅かに時刻が異なって連続していく感覚となる。喩えるならば濁り。其れは、再生速度が僅かに異なるビデオテープの様に、同じ時刻に揃う事も決してない。正に、記憶の濁流である。たゞ、就寝すれば静寂が訪れた。
何回目だろうか。
「寝ている間の記憶がないな」
全てのセイエイが然う言った朝があった。マコトも「セイエイ」が行動する此の日は知らなかった。AFNFの神々と遭遇し、饗宴に加えてもらった後の朝だ。早回しで進む数多のセイエイの感覚からは、曖昧でありつつも実際には記憶している事が分かった。
何故に記憶が薄れているのか、マコトには理解し難かった。
而てセイエイは、電磁連絡船、大陸間隧道に乗り、仮眠後、シルバーベイン
新しい日も過ぎ、眠る場面になり、一瞬、思案も静寂となった。併し、一つだけ残っていた。
「気になる……」
其のセイエイは目を開け、寝台夜行列車が減速している事に気づく。廊下のある方を壁越しに見る。気の所為か、青紫に見えた。此の分岐のセイエイは、思案もせずに動き出し、布団を抜け、部屋の中を足音を殺して動き始める。ウエモンの静かな寝息が聞こえた。静かに扉を開け、閉める。大きく息を吐き、緊張を解いた此のセイエイは、廊下に立つ其の人の声を聞いた。
「寺内さん……もう少しで部屋に戻ろうかと思っていた処でしたよ」
青年は囁きの通り、セイエイを待っていた。列車は此れから目的地別に分割併合を行おうとしているのだ。急ぎ足で二人は青年の部屋に入り、窓掛けを閉じる。一瞬窓の外に見えたのは、大規模な操車場に泊まる長大編成の夜行列車。西ローラシア大陸東海岸を南北に連なる大都市へ向かう夜行列車の数々が、此処を拠点に分割併合しているのである。厚い窓掛けを閉じて出来た暗闇では、聴覚が鋭敏になり、車内へ乗り込んできた分割併合の為の作業員の足音がよく聞こえた。
服を脱ぎ始めた所で、青年の目が光った。最早青紫色を隠す必要もなく、一方的だが意志疏通が行われる。
「様々な列車が行き交う操車場。我々が合一する舞台にぴったりです」
此のセイエイは、其の暗闇の中で変貌していく青年の体を眺めた。暗い分、其の体が薄く発光している箇所があるのがよく分かる。マコトが異常な空気を感じ取りながらも、当然何も抵抗出来ず、而て、セイエイは其れに触れた。
軽く触れて離すと、其の間に糸が引いた。「納豆みたいだ」と、セイエイが思うも束の間、引いた糸は「翼のある使者」と同じ青紫に薄く光る。糸は既に手だけでなく、此の分岐のセイエイと「翼のある使者」とが触れ合った場所に引いていた。触れ合う度に、此の二人の間には回路が繋がる様に糸が引く。知識を語る口、味を感ずる口、息をする口、ものを見る目、息をする鼻、ものを聞く耳、ものに触れる肌——此の二人は共有を始めた。……が、マコトは然うではなかった。
セイエイは、「翼のある使者」は、知っていく。何よりも確実で正確な相手の情報を。欠落は一切無く、知識は爆発的に増えていく。併し、マコトには決して理解出来なかった。セイエイの五感は感じ取れても、第六感以上は共有されていなかったからだ。而て、セイエイが人間を超越し始めて、最早マコトとの同一性のない、別の存在に変貌しつつあるからだった。
セイエイが人ならざるものを受け入れていけば、マコトの感覚はセイエイから分離していく。気付けば、マコトは普段の体で空間に立ち、セイエイの裸体を見ていた。融合相手である冷徹な青年——「翼のある使者」の姿は何処にも無い。だが、融合は進んでいる。
「此れが……融合……」マコトは、裸体のセイエイが、人間でない存在を受け入れていく様子を眺めていた。眺めている事に気づき、
手の向こうで、薄ら目をして全身に青紫の紋を這わせるセイエイが首を傾いだ。向こうのセイエイが、唇を微かに開けて息を漏らす。
「フ……」
向こう側、今迄一方的にマコトが体験するだけだったセイエイ、其の一人は、今、斯うしてマコトを見て微笑んだ。口角の上がった其の口から、牙が伸びて行く。まるで博物館や教科書で見た、人類が祖先から現代種迄に進化する映像を見ている様に、姿が変る。併し眼前にする此れは、人類種を超越したもの。セイエイの体から、性別と云う概念が消えた。其の変貌は、知的好奇心を満たす為。旺盛な好奇心が求める能力を備えた姿。「翼のある使者」同様、或る意味では怪物に似ていながら、全く別。其の佇まいは——セイエイ自身が、マコトをぼんやりと知っており、大量の好奇心を向ける相手ではないからだろうが——知性がある。
「深淵を覗く時、深淵を覗いているとは、誰の言でしたかね」
「あゝ……」マコトは、冷徹なセイエイ——から変貌していく存在の声に鳥肌を立てた刹那、其の引用の間違いに気付いた。「FW……ニーチシェか。セイエイ、『深淵も又此方を覗いているのだ』、だぞ」
「あら〳〵、然うでしたね。『Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.』」外見は変わっても、中身の精神は然程変っていないらしい。「知識は増えましたが、精神は其の儘、か」
「……お前は誰だ」
「其方こそ。我々が融合する前から、貴方は僕の事を覗いていたのでしょう」
「僕は……」マコトは、説明するべき事情を頭の中で汲み上げ始めた。次元龜󠄁裂󠄀に滞在し始め、旅の目的地を選定していた時、気付けばイラメニア世界に居た事、ひよいと合流して世界の推測を行い、「超世界生物」の死骸を予測通り発見した事、併し、全ての世界で死んでいる其の亡骸が、マコトが他の並行世界のセイエイと干渉を始めてしまい、気付けば此処に居たと。「『超世界生物』に巻き込まれたんだ。其の死骸に、僕は沢山のセイエイの並行世界を体感させられてしまった」
「……マア、一応理解しました」
「君は僕だろう、敬語を使わなくてもよかろう」
変貌したセイエイ——今は、融合体と呼ぶべきか——は、徐ら降り、足を地につけた。青年の本性「翼のある使者」とは、似ていても異なる。
「わかったよ、マコト。斯うして対面する事になるとは思わなかったね」
「セイエイ……」
自分と同じ声を、其の異形から聞いた。
「私は此処では私と名乗ろう。マコトは何うするか」
「俺で」
異形が頷くと、彼れは語り始めた。だが、其れは暗に、自分が寺内情栄と云う人間ではないと主張している様にも聞こえた。
「セイエイ——君も、其の人間は知っているだろう。僕達は彼れの見た未知との遭遇の夢から始まった。マコト君は、其処で与えられた名を自らの名として、『世界の旅行者』として其の時から。私は、彼れ自身の選択によって、青年——あゝ、得た記憶によれば、『進化態融合体』と云うらしい……と、融合して生まれた、『融合体』として今、生れた」
「お前はセイエイであると自認するか」
「さアね」融合体は首を
其の気になれば、青年の真似事も出来よう……二人から生まれた、二人でない存在と言った所か」
「君自身も、超世界生物になったのか」
其れは、質問と云うには自明過ぎた。彼れが纏う、「青年」から受け継いだ光は、世界の理を幾つか無視し得る力を持っている事は五感を以てしても十分過ぎる程に実感できる。
「何うだマコト、もう一度、融合してみないか。我々は補い合う存在だった。胡蝶の夢に陥ったりもしたが、今や新たな関係を築き合える」
「……」
マコトは、首元に手をやった。其処には、アパイ
「其れは……私の知らないものだな。異次元人の……超次元の技術なのか。マコト君にとって大切なものか」
マコトは、頷いた。続けて語り出すマコトの言葉は、理性的な儘、怒りが薄く含まれていた。
「提案だが、断らせてもらうよ。
君は自ら一人間・寺内情栄である事を捨て、融合を選んだ。俺には其の選択肢すらなかった。だが、気付く事が出来た。融合は補い合うように見えて、結局は一つに溶けてしまう。合一した存在は、自分の外に相手を持てない。俺はマコトの名を与えられて以来、其れを捨てなかった。俺にとっての選択はただ一つ——俺は俺のままでいる。だから君の道は歩まない」
「然うか……君は、最初から、寺内情栄である事を捨てていなかったのだな。而て、其の胸飾り……君は確かに融合を選べえせなんだかも知れんが、私の持っとらんものを既に得ているぢゃないか」融合体は、再びセイエイの姿に戻り始める。だが、今度は擬態だ。「寝台夜行列車が動き出した。私はセイエイ君の居るべき場所へ戻らねばならない」
「然うか、お休み」
「あゝ……」
自らセイエイである事を捨てた、其れでいてセイエイに擬態する此の融合体は、マコトに拒絶された動揺を隠そうと背を向けた。マコトは、其の異形の肩が、僅かに震えたのを見逃さなかった。
確かに、此の存在が融合を提案された後、寺内情栄と云う人間が持つ「人類の為に識る」など、実際はまやかしの目標だと思った。だから、機会を逃すまいと融合したのだ。併し、然うしてセイエイを唯の仮面にしたが故にマコトは彼れを拒絶したのだ。
先刻迄セイエイであった融合体と、マコトとが共有した精神世界は、亀裂を生じて崩れ始めた。マコトの体は透け薄まり、意識も——。
「俺は……目覚められるのか……」
…………
「アッ」
「マコト」は崩れ落ち、「セイエイ」は飛び起きた。見られなかった異世界を旅する夢を見たと思ったら、夢の中で現の並行世界を体感し、最後には「融合を選択した自分」と対話したのだ。
「僕は……セイエイ。寺内の……」
手を握り、開き、握り、開く。内面に「青年」は巣食っておらず、此の自分は寺内情栄其の物であると確認する。
二段寝台の上段では、ウエモンがすや〳〵と掛け布団を上下させ眠っている。睡眠は深そうで、瞼の開く気配はない。窓を見れば、此の寝台夜行列車が下流となった河川と進行方向を同じくして進んでいるのが分かる。素早く流れていく景色の中でも、河川は次々に合流している。其の刹那だけ、セイエイの視界に、夢で見た景色が割り込んで来た。
僕が選択肢として認識していないものでも、並行世界へと分裂していく世界。運転士の指差喚呼、信号切り替えの瞬間、其の差も並行世界を生み出している。僕は、融合を選び僕である事を捨てた僕を拒んだ。夢の中の僕の選択だった。だが、夢現の差はある筈だ。何処迄同じで、何処から違うのか。思案を深めようにも、其れは答えを出す事に繋がるだろう。
考えるのが怖くなって、セイエイは此の部屋から出たくなくて、布団に
実際、セイエイは出なくて命拾いをしていた。其の部屋の脇の廊下では、冷徹なあの「青年」が今か今かとセイエイを待っていたのだ。
「……来ないならば、分割併合の時に寝てしまえばよかった。睡眠は必要ないにせよ、降車の準備を始めなければ……」青年は自分の部屋へと歩み始めた。其の身体から青紫の光が漏れていたが、
危険が去った事をセイエイに告げるかの如く、旭日が川面を照らし始めた。だが、按堵と共にセイエイの目は再び閉じていく……。
…………
「マコト、お早う」
目を覚ましたのは、次元龜󠄁裂󠄀に整備した拠点の中に用意していた布団の中だった。ひよいも布団の中に寐ており、互いの体はまるで人間と添い寝のぬいぐるみとの如くだった。
「何で近くに寝てたんだ」
「
「非生物……然うだひよい、夢、覚えているか」
「三つ思い浮かんだかな」
「えっと……一番新しいのだ。トリの、不思議体験だよ」
「あゝ、あれね」ひよいは布団から出、服を着始めた。途中、
「サア」
マコトも服を着始めるが、首に何かが引っ掛かる。
「現實だったのか……」
「現実ぢゃないの」
「同じだろう」
「ンゥ……文字は、厄介ね」ひよいは然う、誰かに囁いた。「トリの不思議体験だけど、何故か、私達に取材班と云う役割があったね——否、今迄の旅の役割が旅人だったと云う事なのかな……」
「誰かが、知って欲しかったのかも知れない」
マコトは足元の、次元龜󠄁裂󠄀を
「死んだ、超世界生物の、魂かは分からんが」
「……」
「考察だ。正解は出んよ」
マコトの
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