第33話 詠美との休日


――ハク、私の姪っ子ちゃんいつもみたいに頼んでいい? その日用事とかないでしょ。



「ねえ」


こういうことがたまにある。


 あるときは、買い物に行くからと。

 あるときは、食事に行くからと。

 あるときは、旅行に行くからと。


 母は自身の姉とどこかに出かけに行った。

どうやら二人は相当仲がいいらしい。こうして姉と二人で出かけるのも一度や二度ではない。


 その姉にはまだ四歳の娘がいて、誰も面倒を見る者がいないからとハクはこうして子どもの世話を頼まれることが時折ある。


もう今では当たり前のようになりつつあるが、


「ねーぇ」


その小さな少女は、ソファに腰かけている自分の振袖を引っ張ってきた。


「……どうしたの詠美ちゃん?」

「うえ、いきたい」

「あー……うん、わかった」


 ハクはソファから立ち上がると、詠美の手を握って階段に向かった。


 ハクはいったん繋いだ手を放し、自分だけが階段を二段上がる。そして、再び詠美の方に向き直った。

 詠美に向かって手を差し伸べだす。


「ほら、いいよ。上がってきて」ハクはやさしく声をかけた。

「うん……」


 詠美は忍びのような慎重さで、階段を一段だけ上がった。

 ハクはそのタイミングでまた一段、階段を後ろ向きで上がる。


「はい、いいよ」


 ハクがそう言葉をかけると詠美もまた一段、階段を上った。


 詠美にはハクの顔など見る余裕もない。左手は手すりに、右手は壁にぺたんとくっつけ、目線はずっと下を向いたままだ。


 このまま、二人はただ黙々とこの作業を続けた。

階段の段数が上がっていくに連れ、詠美はちらちらと後ろを確認しては、またすぐにひるんだ様子で顔を前に戻すという動作を、幾度と繰り返していた。詠美が階段を上がっていく速度も段々と遅くなる。


 ハクはそんな詠美の様子に何も口出しせずに、彼女のあどけない様子をただただ愛おしいと思いながら見守っていた。


「よし、次で最後」ハクは詠美に声をかけた。


 詠美もその声を聞いて、最後の勇気を振り絞るように階段を上がって見せた。


「やったー。ねえ、わたしあがれたよ!」

「うん、上がれたね。すごいよ、詠美ちゃん」


 ハクは腰を下ろし、彼女の頭を撫でた。

 撫でられる詠美と言えば、実に朗らかな笑顔を浮かべていて、ほっぺを口紅色に染めている。

 ここまで来るのに、実に五分とかかった。


「じゃあ、おれは戻るね。詠美ちゃんは終わったら――」


 その瞬間、詠美はハクの裾を掴んだ。


「いや。おにいちゃんもここにいて……」


 少し間を置いたハクであったが、そこに苦々しい表情はなかった。


「うん、わかった」

「ほんと?」

「うん、ほんと」

「ぜったいもどらないでよ」

「絶対戻らない」


 腰を下ろしたまま、再び彼女の頭を撫でる。

 安心したのか、詠美はふふふっと笑った後、向こう側の部屋に向かって走っていった。


 彼女の姿が見えなくなる。


「………」


 ため息こそ漏らさないよう努めてはいた。だが、内心少しだけ疲れている部分も正直あった。

 休日は一人でゆっくり過ごしたい。


 言ってしまえばそれが本音だ。でもさすがに子どもの世話くらいしないといけない。

何かあったら大変というのも、もちろんある。


 別に、彼女の面倒を見ることが嫌というわけではない。

子どもの元気で活発な姿を見るのは、なんだかほっこりするし癒される。一緒に遊ぶときだって楽しい。


最初のころは特にそれが顕著に出ていて、こころから癒されていた。暇な休日のいい時間潰しだと。

けれど時間が経つに連れ、段々とそれは義務感へと変わっていって……


 いつしか、自分の時間が欲しいと思ってしまうのは傲慢だろうかと、ハクは自分に問うようになっていた。


 今こうして二階の廊下に一人立たされる一方、一階に行ってコーヒーでも飲みながら、この前レンタル屋で借りた映画を観たいという思いも、正直なところある。


 がしかし、やはりこうした責任みたいなものからは、逃れるのに少なからず抵抗があるのも事実で……。


(なんだかなぁ)

 決して、不毛なわけではない。

 ただ、こんなことに対しても自分のことしか考えられない自分自身に少し、嫌気がさしてしまうのだ。


「ねえ!」部屋の方から詠美の声が届く。「こっちきておにいちゃん!」

「はーい」


 ハクは再び自分にもっと大人になるよう課して、部屋に向かっていった。

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