【百合小説】コードとキス ―アヤとユキの真実へのアルゴリズム―

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:自己発見の始まり

 東京の高層ビル群が朝日に輝く中、佐藤アヤは慌ただしく出社準備をしていた。鏡の前に立ち、自身の姿を細かく確認する。今日の装いは、シルクのクリーム色のブラウスに、ハイウエストの濃紺のテーラードパンツ。足元には、ヌーディなベージュのポインテッドトゥパンプス。洗練された都会的なスタイルだ。


 アヤは化粧ポーチから、愛用のクッションファンデーションを取り出した。シャンパンベージュの色味が、彼女の陶器のような肌に自然な輝きを与える。次に、アイブロウペンシルで眉を整え、ブラウンのアイシャドウで奥行きのある目元を作る。最後に、コーラルピンクのリップを丁寧に塗り、全体の印象を引き締めた。


「完璧……」


 アヤは小さく呟いた。鏡に映る自分は、確かに完璧だった。しかし、その完璧さの裏側で、何かが欠けているような感覚が渦巻いていた。


 オフィスに到着すると、アヤは即座に仕事モードに切り替わった。彼女のデスクは、最新のデュアルモニターを備え、整然と並べられた書類やガジェット類が、彼女の几帳面な性格を物語っている。プログラマーとしての彼女の才能は周囲から高く評価され、昇進も早かった。


 オフィスの空調が、アヤの首筋を優しく撫でる。彼女は背筋をピンと伸ばし、キーボードを叩く指に力を込めた。モニターに映る複雑なコードの列が、彼女の瞳に反射している。


 「アヤさん、今日のコーディネートも素敵ですね!」


 突如、明るい声が彼女の集中を破った。隣の席に座る後輩の山下美咲だ。彼女は輝くような笑顔で、アヤを見上げている。


「あら、ありがとう」


 アヤは口元に微笑みを浮かべ、優雅に首を傾げた。しかし、その表情の裏で、彼女の心は複雑に揺れていた。


 美咲の視線が、アヤの身に纏うアイテムを一つ一つ舐めるように観察していく。アヤが今日身につけているのは、ソフトなアイボリーのシルクブラウスに、タイトなペンシルスカート。首元には、控えめながら上品なパールのネックレス。足元は、艶やかなベージュのパンプス。確かに、洗練された大人の女性を演出する完璧なコーディネートだ。


「特に、そのネックレスが素敵です。どこのブランドですか?」


 美咲の質問に、アヤは丁寧に答える。しかし、その言葉を発しながら、彼女の胸の奥で何かが軋むような感覚があった。


「ねえ、アヤさん。今度、お買い物に行く時、一緒に連れて行ってもらえませんか? アヤさんみたいにお洒落になりたいんです」


 美咲の目は、まるで子犬のように輝いている。

 その純粋な憧れの眼差しに、アヤは心の中で深いため息をついた。


 表面的な称賛は嬉しいはずなのに、どこか虚しさを感じてしまう。この完璧な外見が、本当の自分なのだろうか。毎朝、鏡の前で念入りに作り上げるこの姿は、誰のためのものなのか。


「ごめんなさい、美咲さん。今度の機会にでも」


 アヤは柔らかく断りの言葉を告げた。その瞬間、彼女の心に小さな決意が芽生えた。もう、こんな表面的な自分でいるのはやめよう。本当の自分を、少しずつでいいから、見せていこう。


 アヤは再びモニターに向き直った。画面に映る自分の姿が、かすかに揺れている。それは、何かが変わり始める予兆のようだった。キーボードを打つ音が、また静かにオフィスに響き始める。しかし、その音色は、さっきまでとは少し違っていた。それは、新しい何かへの第一歩を刻む音のようだった。


 その日の午後、会社でダイバーシティ推進イベントが開催された。アヤは義務感から参加したが、そこで彼女の人生を変える出会いが待っていた。


 山田ユキ。その名前を聞いた瞬間、アヤの心臓が大きく跳ねた。ユキは洗練されたグレーのパンツスーツに身を包み、颯爽と登壇した。そのスーツは、高級な生地で仕立てられており、ユキの凛とした佇まいを一層引き立てていた。


 会議室の空気が一瞬ぴりりと緊張した。

 ユキの言葉が、静寂を切り裂く。アヤは息を呑み、椅子の背にぴたりと身を寄せた。彼女の指先が、無意識のうちにスカートの端を掴んでいる。


 ユキは壇上に立ち、会場を見渡していた。彼女の姿勢は堂々としており、背筋はピンと伸びている。ダークグレーのパンツスーツは、彼女の凛とした佇まいを一層引き立てていた。そのスーツの襟元には、小さな虹色のピンバッジが光っている。


「私は、自分がレズビアンであることを誇りに思っています」


 ユキの声は、静かでありながら力強く、会場の隅々まで届いた。その言葉の重みが、アヤの胸に直接響いてくる。アヤは、自分の心臓の鼓動が急激に早くなるのを感じた。


 ユキは続ける。「それは私のアイデンティティの一部であり、私という人間を形作る大切な要素です。しかし、それは私の全てではありません」


 アヤの目は、ユキの表情を食い入るように見つめていた。ユキの瞳には、揺るぎない自信と、同時に優しさが宿っている。その眼差しが、時折会場を見渡す中で、一瞬アヤと目が合った。アヤは、まるで電流が走ったかのような衝撃を感じた。


「私たちは皆、多面的な存在です。私はプログラマーであり、娘であり、友人であり、そしてレズビアンです。これらの要素が複雑に絡み合って、今ここにいる私を作り上げています」


 ユキの言葉の一つ一つが、アヤの心の奥深くに眠っていた何かを揺さぶるようだった。それは長い間、意識の底に押し込められていた感情。自分自身への疑問、社会への不安、そして隠されていた欲望。それらが、ユキの言葉によって少しずつ目を覚ましていく。


 アヤの頬が熱くなるのを感じた。彼女の心の中で、何かが大きく動き始めている。それは恐ろしくもあり、同時に解放感をもたらすものでもあった。


「多様性を認め合うことは、私たち一人一人が本来の自分でいられることを意味します。それは、より創造的で、生産的で、幸福な職場環境につながるのです」


 ユキの言葉が続く中、アヤの中で小さな決意が芽生え始めていた。自分自身と向き合う勇気。本当の自分を受け入れる強さ。そして、それを誇りに思う気持ち。


 会場が静まり返る中、アヤはゆっくりと深呼吸をした。彼女の胸の内で、何かが大きく変わろうとしていた。それは、新しい人生の幕開けを告げる、小さくも確かな鼓動だった。

 ユキのプレゼンテーションが終わり、会場から拍手が沸き起こる。その音が、アヤの耳には遠くかすかに聞こえた。彼女の意識は、まだユキの言葉に釘付けになっていた。そして、自分の内なる声に、初めて真剣に耳を傾けていた。


 会議室から人々が徐々に退出していく中、アヤはまだ自席に座ったままだった。彼女の頭の中では、ユキのプレゼンテーションの言葉が反響し続けている。突然、背後から声がかかった。


「お疲れさま」


 振り返ると、そこにはユキが立っていた。アヤは思わず息を飲んだ。近距離で見るユキは、壇上で見たときよりもさらに魅力的だった。彼女の黒髪は柔らかな波を描き、肩に優雅にかかっている。瞳は深い琥珀色で、その中に知性と温かみが宿っていた。


「面白かった?」


 ユキの問いかけは柔らかく、しかし直接的だった。アヤは言葉を探すのに苦心した。彼女の心臓が、胸の中で激しく鼓動を打っている。


「はい……とても……興味深かったです」


 アヤの声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。彼女は慌てて付け加えた。


「ユキさんの話は、本当に印象的でした」


 ユキは微笑んだ。その笑顔に、アヤは一瞬くらくらとした。会議室の蛍光灯の下で、ユキの肌が真珠のように輝いて見える。


「ありがとう。あなたはアヤさんですよね? いつも熱心に仕事をしているのを見ていました」


 ユキが自分の名前を知っていることに、アヤは驚きと喜びを感じた。同時に、ユキが自分のことを観察していたという事実に、不思議な高揚感を覚えた。


 二人の間に、一瞬の沈黙が訪れた。しかし、それは居心地の悪いものではなく、むしろ期待に満ちた空気だった。アヤはその瞬間、ユキから漂う香りに気づいた。


 それは、シトラスとジャスミンが絶妙にブレンドされた香水の香りだった。爽やかで、少しだけ官能的。その香りは、アヤの鼻孔をくすぐり、彼女の感覚を研ぎ澄ませた。アヤは思わず深く息を吸い込んだ。


「あの、もし良ければ」


 ユキが再び口を開いた。


「今度、お茶でも一緒にどうですか? 仕事のこととか、色々お話ししたいことがあるんです」


 アヤの心臓が跳ねた。彼女は自分の耳を疑った。ユキが、自分を誘っている……?


 「は、はい。喜んで」


 アヤは答えた。自分の声が、普段よりも高く聞こえる。


 ユキは満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、また連絡するね」


 そう言って、ユキは優雅に立ち去った。アヤは、ユキの後ろ姿を見つめながら、自分の胸の内に芽生えた新しい感情を噛みしめていた。それは期待と不安が入り混じった、しかし間違いなく心地よい感覚だった。


 会議室に一人残されたアヤは、深く息を吐いた。彼女の頬はまだ熱く、心臓は早鐘を打っている。窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。アヤは、この瞬間が自分の人生の転換点になるかもしれないと感じていた。そして、その予感に胸を躍らせながら、彼女は静かに立ち上がり、新しい明日への一歩を踏み出した。



 その夜、アヤは眠れなかった。ユキの言葉が頭の中で繰り返し再生される。自分の感情の意味を理解しようともがきながら、アヤは初めて真剣に自分のセクシュアリティについて考え始めた。これまで何となく感じていた「違和感」の正体が、少しずつ明らかになっていくような感覚だった。


 翌朝、目覚めたアヤは生理が始まっていることに気づいた。いつもなら憂鬱になる日だが、今日は不思議と心が軽かった。新しい自分に気づき始めた高揚感が、身体の不調さえも忘れさせるようだった。


 鏡の前に立ち、昨日と同じように化粧を施す。しかし、今日の自分は昨日とは少し違う。アヤは自分の瞳に、これまで見たことのない輝きを見出した。


「私は……誰なんだろう?」


 その問いかけに、まだ答えは出ない。しかし、アヤは確かに、自己発見の旅の第一歩を踏み出していた。

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