第4話 ひとめぼれ

「――ユリアさん、いい人そうだね。それにとびきりの美人だ。社交界に出たらきっと男たちが群がるだろうね」


 にこやかにクライスが言った。

 十二歳のくせに言っていることが、まるでオヤジだ。


「……知ってる」


 クライスは興味津々に目を輝かせ、顔を覗き込んでくる。


「や、やめろ、見るな……」


 顔を背ける。

 本来、未来の王にこんな口をきくのは許されないことだけど、クライスが二人きりの時はただの友だちでいるようにと言ってきたんだから仕方がない。


「へえ。さっきから俯きっぱなしだと思ったらどうりで。顔が真っ赤だ」


 クライスがくすくすと笑う。


「う、うるさいっ。勝手にこうなるんだからしょうがないだろっ」


 僕は声をあげるが、クライスの好奇心をくすぐるだけだ。


「でもおかしいな。彼女、ヨハネのことをすごく気にしてたみたいだけど……好きっていう感じじゃなかったな。怖がってるのとは違うし、あえて言うなら不安とか? 何かあったの?」

「……あいつとはまだろくに話してないんだ」

「彼女が来て、そろそろ二週間近いのに?」


 こくりと頷く。

 まともに口を聞いたのはつい先日の訓練場でのこと。おまけに、


『触るな!』


 そう言ってしまった。

 我ながら言葉足らずなのは自覚してる。

 あれは触れて欲しく無いということじゃなくて、土で彼女の手が汚れるのを心配して思わず出てしまったのだ。訂正したかったけど、そんな言葉さえ考えられなかった。

 ユリアがどう受け取ったのかは明らかだ。

 あのあと、あんな言い方をした自分自身が許せなくて、何度も本当のことをちゃんと伝えるべきだと思ったんだけど、あの時の傷ついた彼女の顔を見ると尻込みしてしまい、結局、言い出せずに今にいたる。

 初めてユリアが屋敷に来た時、少し緊張しながらも頑張って浮かべる笑顔に心臓が跳ねた。

 綺麗なミルクティー色の髪に、琥珀の円らな瞳。


 えくぼのできる愛らしい笑顔に、心臓が痛いくらい高鳴った。

 あんなことは生まれて初めての経験で、どうしていいか分からず、パニックになってしまい、思わず逃げ出してしまった。

 あの時だけじゃない。

 朝食の席でも、訓練場でも、彼女を意識すると普段の自分でいられなくなって、心が乱れてしまう。

 寝ても覚めてもユリアのことを考えてしまう。

 ついには夢にまで出て来た。

 一人ではどうしたらいいのか分からなくなってクライスに相談したら、「それは恋さ」と偉そうに言ってきた。

 冗談じゃない。

 まだろくに知りもせず、ただ見ただけで恋するなんてありえないだろ。

 クライスは昔から人をからかうのが好きだから、またからかっているんだろう。

 こっちは真剣に悩んで、相談しているのに。

 公爵家の嫡男として、まともに挨拶ができてないなんて情けない。

 でも彼女を前にすると頭が真っ白になって、何を話したらいいのか分からなくなるから、どうにもならない。


「頑張れ」

「何を頑張るんだよっ」

「親友の初恋を応援するのは当然だろ?」

「だ、だから恋なんかじゃないって言ってるだろっ。まともに会話もしてないのにその人を好きになるなんてありえない……っ」

「そうじゃない恋もあるものさ」


 クライスは悠然と笑った。僕と大して年齢が違わないのにこの余裕はなんだ。

 無性にいらつく。

 それからしばらくして次の予定があるとかでクライスは帰って行った。

 屋敷を出て行く馬車を見送りながら、ユリアのことを考える。

 何とかしたいと思ってる。

 父上にまで「どうしてユリアに無礼な態度が取れるんだ。ユリアの何が気に入らないんだ」と叱られた。

 気に入らないところなんて何もない。むしろ気に入りすぎて困っているくらいなのに。

 でもそんなことを言えるはずもなかった。

 自分の不甲斐なさと情けなさを抱え、落ち込むあまり肩を落として回廊を歩いていると、庭先で話しているメイドたちの声が聞こえてくる。


「お嬢様、だいぶ大変そうよ」

「文字の読み書きや簡単な計算くらいしか出来なかったのに、いきなりあんなハイレベルな勉強をしろだなんてねえ」

「アリシアから聞いたけど、家庭教師が帰ったあとも部屋に籠もって何時間も復習してるみたい」

「公爵家の養女になれるなんて羨ましいって思ったけど、それに相応しい教育と品格を身につけるのにあんな大変な目に遭うのならいやよね。私なら脱走してるかも」

「あの家庭教師もかなり嫌味な奴よ。ネチネチしてて、間違うたびムチで叩かれてるみたい」

「!」


 ムチで? いくらなんでも理不尽だろう。

 家庭教師にムチ打たれる姿を想像したら、体が熱くなって腹が立った。


「今の話は本当か?」


 声をかけると、メイドたちはびっくりしたように振り返る。


「お坊ちゃま。ご、ご機嫌麗しく……」

「そんなことはどうでもいい。本当かと聞いている」

「は、はい、そうです」

「……ユリアは今どこだ」

「図書室かと。ジャスミンたちがそちらに向かうのを見かけたので」


 俺はメイドたちの前では冷静さを繕って歩いていたが、人の目がなくなると走った。

 どうしてこんなにも気持ちが急くんだ?

 自分に問いかけるけど、答えはでない。

 図書室に入ると、アリシアとジャスミン、そしてユリアがいた。

 アリシアたちは頭を下げると、口元に指を当てて、声をひそめる。


「今、お休みになられているので」


 どうやら復習の最中、ウトウトしてそのまま眠ってしまったみたいだ。

 毎日の復習のために睡眠時間を削っているらしい。


「お前たちは下がれ」

「あ……はい」


 アリシアたちはそそくさと部屋を出ていく。

 二人きり。それを認識すると妙にそわそわしてしまう。

 紙とインクの臭いがする。

 僕は体を動かすのが好きだから、図書室の空気や匂いはあまり好きじゃない。

 ユリアはノートに突っ伏すように眠っている。

 そのかたわらには初級者用のテキストが積まれている。

 お世辞にもうまいとは言えない文字で計算式が書かれている。

 ムチで叩かれてまで勉強する必要なんてないだろ。

 どうして父上に言わないんだ。父上はちゃんと理解して、新しい家庭教師を選んでくれるはずなのに。

 ユリアの両方の手の甲に目を向ける。

 ムチで叩かれた痕がみみず腫れになって、痛々しい。

 左手の甲が特にひどい。右手は利き手だから、避けているのかも知れない。

 こんな目に遭ってまで勉強をがんばるなんて異常だ。許されるはずがない。

 家庭教師は何度か見たことがある。

 メイドたちが言っていた通り、傲慢そうな男だ。

 廊下で僕と鉢合わせると、媚びを売るように笑う顔がひどく不快だった。

 父上に言うべきだと思う一方、ユリアが言わないのに、余計なことをするなと思われるかもしれない。

 もしかしたらユリアは遠慮しているのかもしれない。

 わがままを言ったら、屋敷を追い出されるとか……。

 あの家庭教師は何をしてもユリアが父上に告げ口することはないと分かっているから、ムチで打ったりしているのかもしれない。

 何か彼女のためにしたくて、脱いだジャケットをそっと肩にかけようとして、目が合った。


「っ!」


 ぼんやりしていたユリアの目が、ゆっくり焦点を結ぶ。


「よ、ヨハネ君? どうして……」


 僕はジャケットを持ったまま、動けない。


「ね、寝るな! ちゃんと勉強しろっ!」


 僕はそんなことなんて言いたくないのに、乱暴な言葉を投げかけ、図書室を飛び出した。 走りながら、どうして余計なことを言ったんだ、十分すぎるくらい頑張ってるのにと後悔した。

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