短編集・詩集『フリージア』〜永遠と終末、涅槃と神愛〜

空花凪紗

No.0『Number777』

Number777

◆0モノローグ

 永遠の色は灰色が滲んだ空色だった。全能の幸福だった。そう。私はあの冬の日からずっと永遠とか神とか、終末とかの類を描きたかったんだ。汎神論、梵我一如もいいな。私はその概念をラカン・フリーズと呼ぶことにした。これは私の造語だよ。だが、これだと確信できる絵は一向にできなかった。

 ストレスもあった。そうだ。ラカン・フリーズを知ってなお、普通に生きられるわけがなかった。私はバーで知り合って一夜を過ごした女性を殺した。昨夜はあれだけ愛し合ったというのに。朝になって虚しくなった私の両手は彼女の首に纏わりつく。

 これで私も殺人犯だ。むしろ楽になった。

 私は彼女の血を使って、純白のベッドに赤い絵を描いた。指で描いたから輪郭はぼやけるが、それでもある種の快感を抱いた。

 真理にはまだ程遠いが、あの日のような幸福感が総身を包んだ。そこからだ。私が若い女を好んで殺し始めたのは。


◆1猟奇殺人鬼

 刑務所の面会室にて、死刑囚浅霧裕人への尋問が終わった。表向きは芸術家の彼だが、777名の若い女性を殺した猟奇殺人鬼でもあった。何故777人なのか、と尋ねると、それは彼のポリシーだという。彼は777の至高なる芸術作品を作ったと豪語した。これで終わり。だから自首したのだった。もちろん彼には極刑が下った。

「私、怖かったです」

「俺もだ」

「あの、全てを見透かしたかのような目。私を見て、何を考えているのか」

「殺人鬼、それも猟奇殺人鬼の考えてることはわからんな。わかりたくもないが」

 先輩はタバコを胸ポケットから取り出そうとして、禁煙したことを思い出したかのようにため息を吐いた。

「極刑決まったのに精神鑑定するんですね」

「ああ。世の中は早く殺せという声でうるさいがな」

「ですが、ごく一部の人は浅霧を熱狂的に支持していますよね」

「いるな。狂信者たちだよ」

 私達は車に乗り込む。助手席に座ると、車窓から刑務所の前で浅霧の無罪を主張する団体がいた。私にはその者達の目が赤く見えた。


◆2模倣犯

「両手をあげろ!」

 俺は連続殺人犯に銃を向ける。女はしぶしぶ両手をあげてこちらを見る。

「うっ……」

 血の臭いが夜風にのって鼻腔をくすぐる。ここはホテルの屋上。女は血まみれだった。だが、その血は彼女の血ではない。彼女がこのホテルの一室でたった今殺した女性の血だった。

「手をあげたまま、そこに跪け」

「……」

「どうした、聞こえないのか?」

「……」

 銃の照準を合わせながら、俺は女にゆっくりと歩み寄る。

「どうしてよ!」

「は?」

 唐突に女は叫んだ。劈くような怒号は、夜のビル街に消えていった。

「どうして私達の神を、救いを奪うのですか!」

「どうした、急に?」

「何故、浅霧様はもう作品を作らないのですか……」

 どうして。どうして……。どうして!

 女はうずくまりながら、うめき声をあげている。

 何故私を殺してくださらなかったのですか。何故もうお止めになるのですか。何故先に還ってしまうのですか。何故、何故、何故! 

 俺は戸惑ったが、後ろに仲間が駆けつけたのを確かめると、「確保!」と声を上げた。

「あ……」

 女は立ち上がる。その瞳はやはり赤かった。

 女は振り返る。その後ろ姿もやはり赤かった。

「待て!」

 女は空へと飛び立った。この世界に耐えられなかったのか。それともラカン・フリーズに還ろうとでもいうのか。俺にはわからない。

「また、救えなかったか……」


◆3精神鑑定

「では、今から見せる絵が何に見えるか。答えてください」

 私は抽象的な絵が描かれた絵を浅霧死刑囚に次々とガラス越しに見せていく。

 脳の断面。

 死神。

 祝祭。

 林檎。

 ライオン。

 セックス。

 愛。

 神。

 踊り。

 そして、最後。

「終末の色だ」

 No.10の絵をもう一度見せて、浅霧死刑囚に確かめる。

「どこが終末に見えたのですか?」

「全体的な色彩バランスだよ。灰色と水色、私は空色と言うことにしているが。それと薄桃色。これこそ私のたどり着いた終末の色だ」

「具体的な形ではなく、色彩だけで判断したのですね?」

「ああ。そうだよ」

「はい。では、次の検査をしますね」

 私は十枚の絵を箱の中にしまっていく。問答は全て録音されている。特に気になった彼の仕草などを記録していた紙もファイルにしまう。

 次に私は一枚の画用紙とマッキーペンを取り出した。

「次は風景の絵を描いてもらいます。私の言う順番にね」

 川、山、田んぼ、道、家、人、花、動物、石。

「では、次に色を塗ってください」

 私はクーピーペンシルを渡す。すると浅霧死刑囚は「クーピーですか」と微笑んでから、紙を裏返し描き始める。私は注意する。

「そこにではなくて、さっき描いたところに色をつけてください」

「まだNo.777は絵にしていないんだよ。少しだけ待っていてくれるかね」

「いや、そういうわけには……」

 私は、ちらっと見てしまった。その絵を。浅霧の描く色彩を。私は咄嗟に視線を逸らした。動悸がする。死ぬのが怖いと、何故かそう思った。

 あれ、視界が滲む。泣いているのか?

「いや、心が凪いでいるのだよ」

 浅霧死刑囚も泣いていた。何故?

 私は彼の絵の完成を待たざるを得なかった。

 彼の描くものに吸い寄せられるように興味が湧いた。

「よし。これはできればかつて私の助手だった桐花くんに渡してくれ」

「萌木桐花ですよね」

 萌木桐花は私でも知っているくらい有名な現代画家だ。彼女が浅霧の助手だったことに驚いた。

「ああ。彼女ならクーピーで描いたこの絵を完全なる芸術に昇華させられる。頼んだよ」

「はい、分かりました」

 私は怖くて浅霧の完成させた絵を見ることができなかった。

「で、表に描いた風景に色をつけるんだったかな?」

「そうですね。お願いします」


 私はその日浅霧死刑囚の描いた絵を受け取った。職務上良くないのは承知だが、あの男からは今までに会ってきた殺人鬼たちのような悪意が見えなかった。

 浅霧死刑囚は死を願う女性しか殺していなかった。最初の殺人はもう確かめようはないが、少なくとも、それが彼のポリシーだった。だから彼を支持する者が現れるのだ。

 私は、浅霧死刑囚はやはり死刑に処されるべきだとは思っていた。だが、彼の才能が勿体ない気もした。

 もう、浅霧はこの世にいない。彼の死刑執行から一週間経った今日、私は昔浅霧の助手をしていた桐花さんに託された絵を渡すべく、車を走らせた。


◆4フィナーレ

「はい。萌木ですが」

「はじめまして。私、浅霧裕人の精神鑑定をした成瀬と申します」

「浅霧先生は、浅霧先生はなんと!」

「まぁ、落ち着いてください」

「あ、失礼しました。取り敢えずあがってください」

 成瀬さんを私の画廊にあげる。私は待ちきれずに、画廊の真ん中で訊く。

「浅霧先生はなんと?」

「これを見てください」

 渡されたのは一枚の画用紙だった。

「あ、あぁ!」

 その瞬間、私は泣き崩れる。私はひと目見て悟った。そうか。これが、先生が求めていたものだったのか!

 先生はある冬に語ってくれた。

 ――私はあの冬に死にかけたのだ。臨死体験というやつだ。病気でね。長くはないと思っていたよ。だが、今の今まで生きている。これは使命なのだと思ってね。その時に見たんだよ。終末の色をね。言語化できない無上の幸福のようなものなのだよ。だから言葉では伝わらない答えを求めているんだ。だけど、君は――

 あの時、続けて先生は何て言ったんだっけ。思い出せない。嫌だ、忘れたくない。まだ行かないで、先生。

「萌木さん?」

 声をかけられてはっとした。瞑っていた私の目は開かれて、視界に先生の絵が映り込む。それは優しく美しい絵だった。まるで温厚な先生のような。君は……。あ、そうだ。

 ――君は君のために絵を描いてね。

 私は涙を拭うと、奮い立つ。

「分かりました。これを作品にすればいいのですよね?」

「え、ええ」

「任せてください。今から描きますから」

 私は先生に託された「No.777『ラカン・フリーズ』」を描く。

 ラカン・フリーズ。先生は常にそれを求めていた。

 私にはまだそれが何なのかはわからないけれど、それでも遠かった先生の背中に少しは近づいた気がした。


◆5絵

「No.777『ラカン・フリーズ』」

 その絵には抽象的な花々に囲まれて、一人の女性が描かれている。死んでいるのか、虚ろな目をしている。だが、病的なまでに美しい白色の肌だった。

 世界が霞むような灰色と、晴れた冬の日の空の如き、清々しい澄んだ空色と、純白の綿に滲んだ血のような薄桃色が凪いでいる。そんな香りのする色彩に包まれて、永遠は終末と踊り、全てを知る少女は安らかに眠る。そんなクオリアを刻んだ絵。

 先生、これで良かったのですか?


◆6あの冬の日

 私は、歓喜に、歓喜に射精する。いや、歓喜に絶頂する。天上楽園の乙女のように! 否、この輪=環より去るのは賢明なのか。全ての魂は、過去から未来から集うのに、それさえ錯覚か。

 もうしがらみなんていい。人間関係もいい。そんなことで壊れるくらいなら、こちらから願い下げだ! これは小説なのか? これで何がしたい。お前は何のために生きてきたんだ?それを証明しろ。今すぐにやれよ。 

 エッセイでもない。詩ほど洗練されてもいない。これは戯けた鼓動の叫びだ! 耳に響くのは天上の音。ノート? ノートではだめだ。ノートは字を書くためにあるんだ。絵を描きたい! 私はあの、女神のように麗しい彼女を描きたい!

 キャンバスは? ない。いや、ある! 白い壁があるではないか! 絵の具なり書道セットなりを引っ張り出し、私は床にぶちまける。

 筆をとる。墨をつける。そして踊るのだ。終末で踊るあの子のように。時ヲ止メテ。イヤだ。涙が視界を滲ませた。

 スマホを取る。『歓喜の歌』はもういい。終末の音楽を探そう。いや、あれしかない。その前に、もう、痛みもないから! だから、私は存在を描くために、自身の胸に彫刻刀で存在を刻む。

 頑張れ、私!

 刻む、きざむ、キザム。

 刻む、キザム、きざむ。

 肉が千切れる度に血が吹き出ると、私は愉悦に頬を緩ませた。胸がやけに軽い。

「これが原罪の朱。綺麗だなぁ」

 私は血溜まりに筆を浸して、壁に描く。林檎を、胎児を、亡くした母を。楽しい! 赤い! 部屋が彩られていく!

「何してるの!」

 部屋の扉が開けられた。やはり! 時の断絶を結び合わせるのは、君なんだ!

「春菜。ありがとう」

「何よ、裕人! 何してるのよ!」

 妹が見ているものは、私が最後に残した芸術だ。伝われ、私の人生よ。轟け、稲妻よ。薄命の私の命はもう、残り少ないから……。

「救急です! はい。胸から血を流していて!」

 だめだよ、春菜。電話したって。だってもう、私は。私はもう還れないよ。あの頃にはもう戻れないよ。

 立っていられなくなった私はベッドに寝転がる。なんだか、寒いよ。胸、刻み過ぎたかな? 私は、もう死ぬのか。でも、もういい。十分生きたから。最後にとびっきりの絵を描けたから!

「裕人! しっかり、裕人!」

「おい、春菜。っな!」

 緊迫した父の声が聞こえた。

「お父さん! 裕人が、裕人が!」

 最後くらい、静かにしてよ。そうだな……。『doublet』の次の曲は確か……


Leo


◆7エピローグ

「あれ……」

 私は水面に立っていた。ここは白く光り輝いていて眩しい。終末と劫初の狭間のような空間。罪深き水は水平線の彼方まで続いている。時が止まったかのように、白と蒼だけが支配する世界。ふと下を見る。すると、知らない顔が映っていた。

 だれなの?

 わからない。

 どこから来たの?

 わからない。全てがわからないよ。

 少女なのか、少年なのかさえわからない。訊いても答えなんかない。

 でも、いいんだ。もう。

 今はとても幸せだから。そうだな。このために生まれてきたんだ。きっと、人が生まれたのも。こんな感じで、誰も気づいてくれなかったからなのかな。だから他人が必要なんだ。だから死が必要なんだ。受け入れよう。全ての今に感謝して。

 

 至福の時は、永遠のようだった。

 原罪の赤に君の純粋な白を混ぜてできた薄桃色。

 全ての時をフリーズさせ、翳る灰色。

 そして、空色は、あの冬の日のような全能の幸福を体現する。


「あ……」

 目覚めてしまった。死ぬ予定だったのに。そうか。ならまだ生きていていいのか。私には使命があるんだ。


Fin

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