深夜の乗客

 深夜、客を拾った。

 私はタクシー運転手、隣町に客を乗せて行き、帰って来る途中だった。

 人はおろか、車も通らない山道を一人で歩いていた。若い女性だ。

「お嬢さん、こんな時間に、こんなところを一人で歩いていると危ない。お乗りなさい」と言うと、素直にタクシーに乗って来た。

 バックミラー越しに女性の様子を窺う。長い黒髪で顔がよく見えない。街灯もない山道だ。車内が暗くて、どんな服を着ているのか分からなかった。

「どこまで行きますか?」と聞くと、「町まで」と答えたような気がした。蚊の鳴くような声だ。

「町までかい? 分かった」

 取り敢えず車を出す。

 女性は俯いて押し黙ったままだ。

 まさか・・・もしかしらら・・・という思いが頭を過る。

 暫く、黙って運転していたが、沈黙に耐えかねた。「この山道には、今晩みたいな月のない夜にお化けが出るっていう噂があるんですよ」と後部座席の女性客に言ってみた。

 反応がない。

「昔ね、ここで若い女性が亡くなったそうです。怪談話に興味ありませんか? 町まで暫くかかります。まあ、暇つぶしだと思って聞いてくださいな。こちらも眠気覚ましに丁度良い。嫌なら、そう言ってもらえれば、黙って運転しますから」と女性に聞いたが、相変わらず無反応だ。

 話を続けることにした。

「五月になると、隣町で花火大会があります。若いカップルが花火を見に行って、その帰り道だったみたいです。原因は何だったのでしょうかね。若い二人は、車内で喧嘩になってしまった。随分、薄情な男だったみたいで、『そんなに俺のことが嫌なら、ここから歩いて帰れ!』と、真夜中だったのに、この山道で彼女を車から叩き出してしまいました。月の出ていない真っ暗闇な山道ですよ。右も左も分からなかったと思います。女性は途方に暮れたでしょうね」

 話を聞いているのだろうか。バックミラーに映った女はぴくりともしない。

「女性はそのまま行方不明になってしまいました。最もね。その辺の事情がはっきりするのは、随分と後になってからです。男はね。家に帰ったら女性がいなかった。ある日突然、行方不明になったと周りの人間に言っていたのです。だから、誰も山道を探さなかった。

 女性が行方不明になってから、十年も経ってから、男が酔った勢いで、職場の人間にそのことを話し、男が女性を置き去りにしたことが分かりました。改めて山道が捜索されましたが、結局、女性は見つかりませんでした。

 それからですよ。月のない夜に、この山道に幽霊が出るという噂が広まったのは。真夜中に、女性が一人でとぼとぼ歩いている。通りかかったタクシーの運転手が乗せてあげると幽霊で、町に着いた時にはいなくなっていたと。女性が座っていた後は、ぐしょぐしょに汚れていたそうです。きっとね。女性の遺体はこの山の谷底を流れている川の何処かで、土砂に埋もれているのでしょうね」

 怪談話を終えたが、女性は無反応だった。


 思い切って聞いてみた。「あなた、幽霊なのですか?」

 だが、女性は答えない。当たり前だ。私は幽霊ですよ~という幽霊の話なんて、聞いたことがない。

「あなたが、あの時の女性なのですね? さて、ここからは私の話をしましょう。もう少しだけ、私の話につきあってください」

 無理矢理、私の話につきあってもらうことにした。

「あの当時、私は車の免許を取り立てで、運転が楽しくて仕方なかった。あの日、私も親父の車を借りて、隣町の花火大会を見に行ったのです。帰り道、運転技術が未熟な上、経験もないのに、スピードを出し過ぎていました。携帯電話が鳴った瞬間、目を逸らしてしまったのです。ガツン! と車に衝撃が走りました。何かを撥ねてしまった⁉ そう思いました。車を停めて車外に出て、辺りを探しました。でも、何も見つかりませんでした。この山道では狸や狐、猪なんかの動物が飛び出して来ることがよくあって、動物飛び出し注意の標識が出ています。野生動物を撥ねてしまったのだろうと思いました。

 親父には街路樹にぶつけたと言いました。こっぴどく叱られましたが、無事で良かったと言われました。私はね。ずっともやもやしていたのです。人を撥ねたかもしれないってね。ですが、男が黙っていたので・・・女性を山道に置き去りにしたことを黙っていたので・・・真夜中に山道を歩いている人間がいたなんて思わなかった。いや、思いたくなかっただけかもしれません」

 私は女性の様子を窺った。女性の周りに黒い靄がかかっているように見えた。黒い靄はじりじりと広がって行き、何処からともなく、ジージーと車内で虫が飛び回るような音が聞こえ始めていた。

「十年後、男が山道に女性に置き去りにしたことが分かって、女性の捜索が、いや、遺体の捜索が始まりました。ずっと女性から家族に連絡がありませんでしたから、事件か事故に巻き込まれた可能性が高かった。私、ボランティアとして、毎回、遺体の捜索に参加したのです。私だって、真実が知りたかった。でも、遺体は見つからなかった。男が殺して山に埋めた。そんな風に考えている人が多かった。

 そして、ボランティアで、女性の家族と知り合いました。妹さんがいて、親身に姉を探してくれる私を気に入ってくれたようでした。私も妹さんのことが好きになった。私は妹さんに告白しました。あなたのことが好きですと。妹さんも、私のことを憎からず思ってくれていました。そして、私たちは結婚しました」

 そこまで話すと、車内を覆い始めていた黒い靄が急に晴れた。

「私は幸せでした。子宝にも恵まれましたよ。二人、男の子と女の子です。もう孫も生まれました。結局、妹さん、私の家内になってくれましたけど、本当のことは、私が車でお姉さんを撥ねたかもしれないことは話せませんでした。ですが、私、どうしても、あなたのことが忘れられなくて、山道で幽霊が出ると聞いて、あなただったら、会ってみたいと思いました。そこで、定年になると、タクシーの運転手に転職しました。何時かこの山道で、あなたの幽霊に会って、聞いてみたいと思ったのです」

 後部座席の女性が陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。

「お願いです。教えてください。あの時、あなたを撥ねたのは、私だったのでしょうか?」

 女性は答えない。

「もしそうなら、あなたに謝りたい。あの世に連れて行きたいなら、そうしてもらって構わない。あれからもう、六十年以上経ちました。今年、家内が・・・私の愛する家内が亡くなりました。私を置いて行ってしまいました。お願いです。答えてください」

「あれから六十年・・・妹が待っている・・・」

 女性がそう言ったような気がした。だが、私の願望、心の声だったかもしれない。

 私はタクシーを止めると、振り返った。

 誰もいなかった。女性が座っていた後は、泥水でぐしゃぐしゃになっていた。

「何故だ・・・何故、何も答えてくれないのだ・・・私に、まだ苦しめと・・・この先も苦しみながら生きて行けと言うことか・・・」

 私はハンドルに突っ伏して泣いた。


                                    了

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