【SM百合小説】麗花と操の歪んだキャンバス ―絵筆と縄の狭間で―

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 裸婦像

 美術教師のたちばな麗花れいかは、自ら担任する生徒で天才画家の望月もちづきみさおにある疑いを抱いていた。


 それは望月が描いた裸婦像が、あまりにも麗花に酷似していたためだった。麗花は教室の片隅に立ち、じっと絵画を見つめていた。その裸婦像は、麗花の特徴的な曲線美や肌の質感を見事に捉えており、まるで鏡に映った自分を見ているかのような錯覚さえ覚えた。

 麗花は眉をひそめ、深い溜息をついた。彼女の頭の中で、様々な思いが渦巻いていた。怒り、戸惑い、そして奇妙なことに、一抹の興奮さえも。


「どうして……? どうしてこんなにも似ているの……?」


 麗花は囁くように呟いた。その声は、誰にも聞こえないほど小さかった。


 麗花と望月は、共に私立朝霧女子校の教師と生徒という立場にあった。28歳の麗花は、芸術家肌の自由奔放な女性だった。長い黒髪を風になびかせ、いつも鮮やかな色彩の服を着こなし、周囲の目を引きつけていた。彼女の授業は常に活気に満ち、生徒たちの創造性を刺激するものだった。


 一方の望月は、18歳の几帳面で秩序を好む性格の学生だった。しかし、その絵画の才能は卓越していた。短く刈り込まれた黒髪、真っ直ぐな瞳、そして常に整えられた制服。その外見からは、彼女の内に秘められた情熱的な芸術魂を想像することは難しかった。


 対照的な二人は、芸術への情熱という共通の絆で結ばれていた。二人ともその美しさは学校で頭ひとつ抜けていたが、その美しさの質は全く異なるものだった。麗花が官能的で成熟した美しさを持つのに対し、望月のそれは清楚で知的な輝きを放っていた。


 麗花は再び裸婦像に目を向けた。その絵は、単なる裸体の描写を超えていた。そこには魂が宿っているかのようだった。筆のタッチ一つ一つに、画家の情熱と執着が感じられた。麗花は、その才能の凄みに目を見張るばかりだった。


「これは……芸術? それとも冒涜?」


 麗花は自問自答した。彼女の中で、教師としての責任感と芸術家としての感性が激しく衝突していた。


 そのとき、教室のドアが開く音がした。麗花は素早く振り向いた。そこには望月操が立っていた。望月の表情は、いつもの冷静さとは違っていた。そこには、恐れと期待が入り混じっているようだった。


「先生……」


 望月の声は、かすかに震えていた。


「あんな下品な絵を描いたのは、あなたでしょう?」


 麗花は、怒りを抑えきれずに言葉を投げつけた。しかし、その声には怒りだけでなく、複雑な感情が混ざっていた。


 望月は一瞬たじろいだが、すぐに顔を上げて麗花の目をまっすぐ見つめた。


「すみません先生……私は、先生の持つ芸術性に魂を奪われただけです」


 望月は謝りながらも、麗花への愛執と狂気を絞り出した。その目は、異常なまでの輝きを放っていた。


 麗花は、望月の言葉に背筋が凍る思いがした。この生徒の中に潜む情熱と才能、そしてその危険な輝きに、麗花は言葉を失った。彼女は、望月の中に自分の若かりし頃の姿を見たような気がした。芸術に対する純粋で狂おしいまでの愛。そして、それが時として理性の枠を超えてしまう危うさ。


「操……あなたの才能は素晴らしい。でも、これは……」


 麗花は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。


「これは許されることじゃないわ。教師の裸体を、許可なく描くなんて……」


 望月は唇を噛みしめた。その表情には後悔の色が浮かんでいたが、同時に何かを決意したような強さも感じられた。


「先生、私は……先生のことを……」


 望月の言葉は、途中で途切れた。しかし、その目は雄弁に語っていた。そこには、ただの憧れを超えた何かがあった。麗花は、その視線の意味を理解して、思わず息を呑んだ。

 教室に重い沈黙が落ちた。二人の間に流れる空気は、張り詰めていた。麗花は、この状況をどう収拾すべきか、懸命に考えを巡らせた。単に叱責して終わらせるべきなのか、それとも……。


 麗花の心の中で、教師としての義務感と、芸術家として才能を伸ばしたいという欲求が激しくぶつかり合った。そして、彼女はある決断を下した。


「操、あなたの才能は素晴らしい。でも、これからはもっと慎重に……そして倫理的に考えて制作してほしいわ」


 麗花は、厳しくも温かい口調で語りかけた。


「はい、先生……」


 望月は小さく頷いた。しかし、その目には依然として強い光が宿っていた。


 麗花は、この出来事が今後どのような展開を見せるのか、予想もつかなかった。ただ、彼女の心の奥底では、この危険な関係に引き込まれていく自分を感じていた。そして、それを恐れながらも、どこか期待しているような、そんな複雑な感情が芽生えていた。


 二人は再び沈黙の中に立ち尽くした。教室の窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。その影は、まるで二人の関係の行く末を暗示しているかのようだった。


 麗花は、この恐ろしい執着がけして終わらないと気づき始めていた。そして、それが彼女自身の内なる情熱をも呼び覚ましつつあることを、恐ろしくも感じていたのだった。


 麗花は深呼吸をし、自分の感情を落ち着かせようとした。しかし、望月の描いた裸婦像が、彼女の心に深く刻まれていることは否定できなかった。その絵の完成度の高さ、そして望月の才能の輝きは、麗花の芸術家としての魂を強く揺さぶっていた。


「操、あなたの才能は認めるわ。でも、これからは必ず私の許可を得てから描くこと。いい?」


 麗花は、厳しさと優しさを混ぜた声で言った。望月の目が一瞬輝いた。

「はい、先生! 約束します」


 望月の返事には、熱意と期待が込められていた。麗花は、その反応に複雑な思いを抱いた。彼女は、この状況が危険な方向に進む可能性を感じながらも、望月の才能を伸ばしたいという気持ちを抑えきれなかった。


「それと、この絵は……」


 麗花は裸婦像を指さした。

「学校には置いておけないわ。持ち帰って」


 望月は黙って頷き、絵に近づいた。彼女が絵に手を伸ばした瞬間、麗花は思わず息を呑んだ。望月の指が絵に触れる様子は、まるで生身の麗花に触れているかのようだった。


「先生、この絵をもっと完成させたいんです。先生の……もっと深い部分を描きたいんです」


 望月の言葉に、麗花は戸惑いを覚えた。それは単なる芸術的な願望なのか、それとも……。


「それは……考えておくわ」


 麗花は曖昧な返事をした。彼女の中で、理性と感情が激しく衝突していた。

 望月は絵を抱えて教室を出ていった。その背中には、決意と期待が滲んでいた。麗花は、望月が去った後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。彼女の頭の中では、様々な思いが渦巻いていた。


 教師としての責任、芸術家としての共感、そして、望月の才能に対する好奇心。これらの感情が複雑に絡み合い、麗花の心を掻き乱していた。


「私、何をしているのかしら……」


 麗花は呟いた。窓の外では、夕陽が沈みかけていた。その赤い光が、麗花の不安と期待が入り混じった表情を照らしていた。


 その日以降、麗花と望月の関係は微妙に変化していった。授業中、麗花は望月の視線を強く感じるようになった。それは熱烈で、時に不安を感じさせるほどの視線だった。望月の絵は、日に日に麗花の本質に迫るものになっていった。


 麗花は、望月の才能の伸長を見守りながらも、彼女との距離感に悩まされた。時に、望月の情熱に引き込まれそうになり、自分を抑えるのに必死だった。


「先生、今度はこんな絵を描きました」


 ある日、望月は新しい絵を麗花に見せた。それは、麗花の内面の葛藤を表現したような、複雑で深遠な絵だった。麗花は、その絵に映し出された自分の姿に、言葉を失った。


「操、これは……」


 麗花は絵に見入りながら、言葉を詰まらせた。望月の才能は、もはや麗花の想像を超えていた。それは麗花の心の奥底にまで迫るものだった。


「先生、もっと深く先生を知りたいんです。もっと近くで……」


 望月の言葉に、麗花は戸惑いを隠せなかった。彼女は、望月の才能と情熱に魅了されながらも、教師としての立場を守らなければならないというジレンマに苦しんでいた。


「操、あなたの才能は素晴らしいわ。でも、私たちの関係は……」


 麗花は言葉を選びながら、慎重に話した。しかし、彼女の心の中では、既に何かが揺らぎ始めていた。


 教室の空気は、二人の間で張り詰めていた。窓から差し込む陽光が、二人の影を床に映し出していた。その影は、まるで二人の魂が混ざり合うかのように重なっていた。


 麗花は、この状況がどこに向かっているのか、予想もつかなかった。ただ、彼女の心の奥底では、この危険な関係に引き込まれていく自分を感じていた。そして、それを恐れながらも、どこか期待しているような、そんな複雑な感情が芽生えていた。


「先生、私の気持ち、分かってください」


 望月の声には、切実さと情熱が込められていた。麗花は、その声に心を揺さぶられた。


 この瞬間、麗花は自分がある決断の瀬戸際に立たされていることを悟った。彼女は、望月の才能と情熱を受け入れるべきか、それとも教師としての立場を守るべきか……。その選択が、これからの二人の運命を大きく左右することになるのだと。



 麗花は深く息を吐き、望月をじっと見つめた。その瞳には、複雑な感情が渦巻いていた。教師としての責任感、芸術家としての共感、そして、望月の才能に対する畏敬の念。これらの感情が、麗花の心の中で激しくぶつかり合っていた。


「操……あなたの気持ちは分かるわ。でも、私たちの関係には限界があるの。それを理解して」


 麗花の声は、優しくも毅然としていた。望月は、その言葉に一瞬たじろいだが、すぐに顔を上げた。


「先生、私の絵で表現できることは、まだまだあります。先生の本当の姿を、もっと深く、もっと鮮明に描きたいんです」


 望月の目は、異常なまでの輝きを放っていた。その情熱は、麗花の心を揺さぶらずにはいられなかった。


「あなたの才能は素晴らしいわ、操。でも、それを正しい方向に向けなければいけない。私たちの関係が、芸術の名の下に歪んでしまってはいけないの」


 麗花は、自分の言葉が望月にどのような影響を与えるか、注意深く観察していた。望月の表情が、一瞬暗くなったように見えた。


「でも先生、私の芸術は先生なしでは成り立たないんです。先生は私のミューズなんです」


 望月の言葉に、麗花は言葉を失った。彼女は、望月の中に燃え上がる情熱を感じ取った。それは、純粋で、しかし危険な炎だった。


「操、あなたの情熱は分かるわ。でも、芸術には様々な形があるの。私以外にも、素晴らしいモチーフはたくさんあるはず」


 麗花は、望月の才能を別の方向に向けようと試みた。しかし、望月の目に浮かぶ決意の色は、簡単には消えそうになかった。


「先生、私にとって、先生以外のモチーフなんて意味がないんです。先生だけが、私の絵に命を吹き込むことができるんです」


 望月の言葉は、麗花の心に深く刺さった。麗花は、望月の才能と情熱に心を奪われそうになりながらも、必死に理性を保とうとしていた。


「操、あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、私たちはもっと慎重にならなければいけない。あなたの才能を伸ばすのは私の役目だけど、それと同時に、あなたを正しい道に導くのも私の責任なの」


 麗花の声には、厳しさと優しさが混ざっていた。望月は、その言葉をじっと聞いていた。


「分かりました、先生。でも、私の気持ちは変わりません。いつか、先生に認めてもらえる日まで、私は描き続けます」


 望月の決意に満ちた言葉に、麗花は複雑な思いを抱いた。彼女は、望月の才能を潰したくないという気持ちと、この危険な関係を止めなければならないという責任感の間で揺れ動いていた。


「そうね、操。あなたの成長を見守ることは、私の喜びでもあるわ。でも、約束して。これからは、私の許可なしに私の姿を描かないこと」


 麗花は、妥協点を見出そうとした。望月は、少し考えた後、ゆっくりと頷いた。


「はい、先生。約束します」


 望月の言葉に、麗花はほっと胸をなでおろした。しかし、彼女の心の奥底では、この約束が本当に守られるのかという不安が渦巻いていた。

 教室の窓から差し込む夕陽が、二人の姿を赤く染めていた。その光景は、まるで二人の関係の危うさを象徴しているかのようだった。


 麗花は、この瞬間が、彼女と望月の関係の転換点になるかもしれないと感じていた。彼女は、望月の才能を育てながらも、適切な距離を保つという難しい課題に直面していた。そして、その過程で自分自身も変化していくかもしれないという予感が、麗花の心を占めていた。


「さあ、操。今日はここまでにしましょう。明日からは、新しい気持ちで授業に臨んでね」


 麗花は、優しく微笑みながら言った。望月も小さく頷いた。


 二人は教室を後にしたが、その背中には、まだ解決されていない多くの問題が重くのしかかっていた。麗花は、これからの日々が、彼女の教師としての資質を試すものになるだろうと感じていた。そして、その試練を乗り越えることで、自分自身も成長できるのではないかという、かすかな希望も抱いていたのだった。

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