第6章  飛び立つ奈都芽・開きかけた夢への扉①

「まあ、気楽になさって。手を握っておいてあげますから」


 そう言うと、陽ちゃんは奈都芽の手をしっかりと握りしめた。あと五分ほどで、飛行機は離陸しようとしていた。




「あら? おじょうさん、飛行機初めてでしたか?」


 そう陽ちゃんが奈都芽に声をかけたのは、席に座ってすぐのことだった。緊張した奈都芽の表情を見てのことだった。


 離陸までにはまだじゅうぶん時間があり、入り口の方からはどんどん乗客が乗り込んできていた。奈都芽は不安でしょうがなかった。高所恐怖症で、三階建てのビルに上ることすら避けてきたからだ。


 離陸の時間が迫り、あと五分というところで、陽ちゃんが手を握ってくれた。




「ほら、ほら。安心して。あたしがついてますから」


 陽ちゃんがそう言うと、斜めに十五度の角度をつけた飛行機が空に飛び立った。


「どうです? 甘いものでも? 気持ちが楽になりますよ」


 二人分の席に一人で座った陽ちゃんは、鞄の中身を奈都芽に見せた。

 地元の和菓子が一堂に勢ぞろいしたその鞄には、それ以外にもレトルトカレーやカップ麺、コーンビーフに巨大なおにぎりなどがぎっしりと詰め込まれていた。まるでスーパーか何かに食品を売ろうとする業者の鞄のようだった。




 奈都芽は外を見ないようにするため、目を閉じた。心の中で「神様」と念じていた。


 その効果もあってか、少しずつではあるが気持ちが落ち着いてきた。

 だが、しばらくそうしていると、昨夜の母のことが思い出され奈都芽の心は乱気流に巻き込まれていった。


「家元さま。明日、おじょうさんが引っ越しをされます」


 陽ちゃんは二人の通訳でもするように、母にそう言った。


 その報告を受けた母は


「……」


 なにも言わなかった。


 どうやら、陽ちゃんによると、母は奈都芽のことを愛しているらしい。


 だが、愛しているらしい母が数週間前にとった行動は奈都芽の心に深い傷を負わせた。


「——大学に合格し……」


 奈都芽が報告しようとした時にとった母の行動には目に余るものがあった。




 




 母は、手をさっと振ると、部屋を出ていった。


 それ以来、奈都芽は母と会話することを拒否した。


 必要な会話はすべて『通訳』である陽ちゃんがおこなった。


 入学手続きや引っ越しの準備にも母が姿を見せることはなかった。


 もちろん、今日出かける時も会話を交わすことさえなかった。







 陽ちゃんに聞かれるとすぐに怒られる言葉を奈都芽は心の中で噛みしめた。


 あの母の冷たい目を思い出すと、奈都芽はどんどん怒りが増幅していくのを感じた。


 だが、そのとき


「い、痛い!」


 思わず奈都芽は叫んでしまった。


 犯人は「手を握っておいてあげますから」と言っていた陽ちゃんだった。


「吐きそう……」


 陽ちゃんの顔は真っ青になっていた。


 離陸からずっと閉じていた目で奈都芽が見てみると、鞄の周りにはすでに食べてしまったお菓子の袋が山のように積み上げられていた。


 お菓子を食べすぎたのか、それとも単に、飛行機に酔ったのかはわからないが、結局、陽ちゃんは着陸するまでひと言もしゃべらなかった。すっかり弱ってしまった陽ちゃんを励ますように、奈都芽はその手を優しく握りしめた。





 電車を乗り継ぎ新居に向かったが、駅でも、電車の中でも、新居に向かう道でも陽ちゃんはじろじろと見られた。女性とは思えないぐらい大きな体だったからだ。初めての都会で緊張気味の奈都芽だったが、少しずつ不安は消えていった。堂々と歩く陽ちゃんの後ろについて歩きさえすればよかったからだ。


 マンションに着くとすぐに、手配していた引っ越しのトラックがやってきた。


「いや、僕らがやりますので」


 そう何度も断ろうとする引っ越し業者の誰よりも陽ちゃんが荷物を多く運んだ。同じ階の住人らしき人が廊下でその様子を見て、唖然としていた。


「変な人が寄りつきませんよ、これで」


 軽々と荷物を運び終えた陽ちゃんが、いたずらっ子のような顔をして言った。




「さて、ちょっと出かけますか?」


 驚異的な早さで片づけを終えた陽ちゃんはそう言うと、奈都芽を外に連れ出した。


 事前に何度も地図か何かで予習をしていたようで、陽ちゃんは初めてきたはずの街を迷うことなく歩いていった。目的の場所についたようで、


「ここ、ここ」


 と、言いながら店に入っていった。


はおいしいそうですよ。さあ、どうぞ。引っ越しそばです」


 早速注文をすませた陽ちゃんは蕎麦イチに対し、の割合でドンブリを平らげた。




 店を出て、部屋に戻っている途中で、


「そうだ! うっかり忘れるところでした!」


 陽ちゃんはおでこをぺちっ、と叩いた。

 冗談でもその『ぺちっ』は他の人にしてはダメよ。奈都芽がそう思うほど強い力だったが、陽ちゃんは笑顔のまま嬉しそうに歩き出した。


「入学祝いがまだでしたね」


「いいよ、そんなことしてくれなくっても」


「いえいえ、こういう節目節目の祝い事は大切ですから」


「じゃあ、陽ちゃん。できたら教えてあげてくれる、そのことを?」


「教える?」


「母に」


「おじょうさん。まだ、こないだのことを根に持っているんですか? さあ、気持ちを切り替えてお店に入りましょう」




 陽ちゃんが連れていってくれたのは、駅近くの時計屋だった。


「私、これでいい」


「なにを遠慮してるんですか。こっちにしといたらどうですか?」


「でも、陽ちゃん。それ高いよ」


「大切なおじょうさんの合格祝いですよ。けちけちしていられません。すみません、これください」


 陽ちゃんは店員を呼び、「プレゼントで」と伝え、支払いをすませた。


 部屋に戻り、早速箱を開けた奈都芽は思わず微笑んでしまった。


「さすがは陽ちゃんが選んだ時計。フフフ」




 黒の革バンドでケースの周りが金色で縁取られているそれは、一見どこにでもある普通の腕時計だった。

 だが、よく見るとそれはとてもユニークな時計だった。長い針のほうが途中で半円を描いてから、またまっすぐに伸びている。その針が差す数字のところには、小さな顔がそれぞれ十二個配置されている。長い髭のおじいさんやお姫様らしき女の人、王子様らしき王冠を被った人や、黒い頭巾のようなものを被ったおばあさんなどの顔が描かれていた。






 数日間、奈都芽の部屋で過ごした陽ちゃんが、いよいよ明日帰ることになった。


「ねえ、陽ちゃん。私、一人で生活していけるかな……」


 晩御飯を食べ、テレビを見ているうちに、奈都芽はだんだん心細くなってきた。


「大丈夫です。淋しくなんかありませんよ。淋しくなったら、いつでも電話できますし」


「まあ……そうだけど……」


「あっ。それと……まだ、おじょうさんに言ってませんでしたっけ?」


 奈都芽は首を傾げた。


「あたし、月に一度ぐらいはおじょうさんに会いにくるつもりなんです」


「そうなの?」


「実は、あたし、こっちに叔母が住んでいて、そこの従妹と仲がいいんですよ。これまであまり来ることはなかったんですけど、叔母ももう高齢だから。その叔母に会いに来るのもかねて、ね」


 それを聞いた奈都芽はこれまで住んだことのない大きな街での生活への不安が幾分和らいだ。




 次の日の朝、二人で駅に向かった。


 奈都芽はどこかでそう予感はしていた。それは、初め、昨晩おこるのではないかと思っていたのだが、予想に反しそうはならなかった。


「もしかして、このまま、静かに……」


 とも、思ったが、結局そうはならなかった。


 それは別れの挨拶をしようとした改札口の前でおこった。ちょうど朝のラッシュアワーで、そこには荒れ狂った川のようにどんどん人が押し寄せていた。まさにその場所で


「あーーーん」


 陽ちゃんが大声で泣き出した。予想はしていたものの、それは奈都芽の想像をはるかに超える大きな泣き声だった。我先にと足早に歩く人たちが思わず立ち止まったほどだった。


「えーーーん」


 慌てて、陽ちゃんのポケットからハンカチを取り出す。


 その赤と黒の金魚の入れ墨をしている力士のハンカチでどうにか涙を止めようとするが、いっこうに泣きやむ気配はない。

 あまりの見事な泣きっぷりにスーツ姿の男たちがみな魅入っている。駅の向こうに森に囲まれた大きな池があるそうだが、このままいくともうひとつ池ができるかもしれない。奈都芽がそう心配するほどの涙の量だった。




「さみしい。お、おじょうさん……」


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