第53話 一人娘の美幸、溺死する

 浜辺は暑かった。夏たけなわであった。烈しい太陽光線には殆ど憤怒があるようだった。海には想像以上に大勢の人が居た。大学生のサークル仲間達、高校生のグループ、愛し合う二人のカップル等々若者たちで賑っていた。彼らは開けっ広げの開放の夏を存分に愉むかのようであった。彼方此方で嬌声と破顔が絶えなかった。海月に刺されることや波がやや高いことなどを心配する者は誰一人居ないようだった。

 奈美と安子は、波打ち際から少し離れた場所に赤白の大きなパラソルが空いているのを見つけると、素早く其処に陣取った。子供たち三人は直ぐに波打ち際へ出て砂の山を築き始めた。子供は四歳の美幸と同じ歳の紗智子、それに今年小学校へ入った六歳の清一の三人である。

 奈美と安子はパラソルの下でお喋りを始めた。

日焼けをしていない奈美の白い肌は殆ど眩しいほどであったし、安子も均整の取れた伸びやかな肢体を持っていた。二人は先ずお互いの肉体を褒め合った。

次に、子供のこと、夫のこと、自身のことなど自分たちの日常生活のことを煌びやかに虚飾して誇らしげに語り合った。

それから、ご近所の噂話に花を咲かせ持っている情報を交換し合った。二人の住んでいるマンションは大きなディベロッパーの開発によるものだったので入居家族の数は五十軒を超えていたし、年齢的にも同じような家族構成の居住者が多かったので、その分、噂話の種は尽きなかった。これら噂話にはある種の悪意を伴った心地良さが有ったので、二人は笑いを消すこと無く話は尽きなかった。

 話が一段落すると、二人は手を後ろに支え、足を伸び伸びと伸ばして沖を眺めた。積乱雲が夥しく湧き上がっていた。

 子供達は砂の山を築くのに飽きたのか、水際の波を蹴散らして走り出した。二人の母親は慌てて立ち上がって子供たちを追いかけた。

が、子供達は危険を犯さなかった。波が押し寄せ、崩れ、また引き返す浅い緩慢な渦巻きの中に美幸と紗智子は手を繋いで立った。水の高さは二人の胸の辺りであった。ただ、二人は爪先立っていたが母親達にはそれは見えなかった。

奈美は二人の側まで行って

「それ以上深い所へ行っては駄目よ」

と少しきつい眼差しで注意した。

安子も水際で一人残っている清一に

「二人を放って置かないで、早く引上げて一緒に遊びなさい」

と命じた。

 奈美も安子も日光を恐れていた。二人は又、パラソルに引き返した。奈美は自分の肩を見、水着の上に現れている胸を見て、その白さに安堵した。二人は再びお喋りという自分たちだけの安逸な世界に没頭して行った。

 突然、清一が

「ママっ~!」

と叫んで母親を呼んだ。

清一は沖の方を指差して、今にも泣きそうな異様な表情をしていた。

奈美は美幸の姿を眼で捜した。が、美幸だけでなく紗智子の姿も無かった。

奈美はふいに烈しい動悸に襲われた。慌てて立ち上がって水際まで一目散に駆けた。

押し寄せては引き返す波の、三メートルほど先の泡立ちの中に、灰白色の小さな身体が二つ、押し転がされて行くのが見えた。美幸の赤い花柄の水着が瞥見された。

奈美の動悸は一層烈しくなった。無言で、必死の形相で水の中へ駆け込んだ。

清一が泣き出したと同時に、近くに居た若者が数人、波打ち際の水を蹴散らして海の中へ駆け入っていた。

 やがて、小さな身体を抱えた二人の若者が水際に戻って来た。仰向いてぐったりと後ろに仰け反った美幸の顔から、濡れた髪が垂れ下がり、髪の先から水が滴った。奈美は手を伸ばして美幸を抱き取ろうとしたが、不意に頭から血が一度に退いて、そのまま倒れた。

 結局、安子の娘紗智子は人工呼吸で息を吹き返したが、美幸の呼吸は戻らず、病院へ搬送される救急車の中で死亡が確認された。

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