第50話 奈美は水商売としては素直で、擦れてもいなかった

 奈美が出かける支度を始めた。軽く髪の乱れを直し、薄く化粧をして、ルージュだけは少し濃い目に引いた。タンクトップのミニのワンピースを着るとクラブ勤めのホステスの姿になった。奈美は胸も腰もヒップも均整の取れたしなやかな肉体をしていた。ミニの裾から白い脚がすらりと伸びている。

 奈美は大学二年の二十歳の夏に、父親が事故に遭って半身不随になり働けなくなってしまった。母は父の介護に明け暮れ、六歳下の弟は未だ中学に入ったばかりだったので、奈美が大学を辞めて働きに出る他はなかった。一家四人の家計を助け、父の治療代を賄い、弟の学費の面倒を見る為には、大都会へ出て手っ取り早く稼げる夜の水商売に入って行くしかなかった。OLや店員の仕事では親子四人の生活費は賄えなかった。

 奈美は今、この街の歓楽街で一番の高級クラブに勤めている。二十二歳の時にスカウトされて、二十五歳の今では既に古参である。嶋木と暮らすようになってからも奈美がそのクラブを辞めなかったのは、其処に長年居続けて居心地が良かったし、馴染みの常連客も大勢付いて店にも大事にされているからであった。

 奈美は、身持ちは硬かった。浮気をして来る様子は無かった。家を空けたことも無い。嶋木が帰って来た時には、いつも奈美は眠っている。確たる証は無いが、何と無く、奈美が浮気はしていないだろうことは嶋木には判る。

 だが、最近、奈美は、これまで小まめに熟して来た家事をあまりやらなくなった。時折、疲れて大儀そうな表情で、クラブへ出かける時刻までベッドで横たわっていたりする。

マンションには乾燥機能付きの洗濯機があったが、コインランドリーやクリーニング取次店を利用するようになったし、肌着類はしょっちゅう新しいものを買い換えた。

食事は店屋物の出前や通販のお取り寄せ或いは外食で済ませ、手料理を作ることは殆どしなくなった。

ただ、掃除と整理整頓だけは今も小まめに行っている。マンションの間取りが狭かったこともあるが、嶋木が偶に何かを出し放しにしておくと決まって「自分の使ったものぐらいは自分でちゃんと片付けてよ」と小言を言われた。食後の汚れた食器類が流しに放置されていることも無かった。せっせと洗って食器乾燥機に入れた。奈美は極めて綺麗好きだった。

 嶋木は、奈美の気怠そうで疲れた様子を見ると気懸かりで、何度か尋ねてみたたこともある。

「何処か身体の具合でも悪いんじゃないのか?医者に診て貰ったらどうだ?」

「大丈夫よ、何とも無いったら」

何時も奈美はそう答えるだけだった。

要らぬ干渉とお節介は嫌がられる、と嶋木は、それ以上は踏み込まなかった。

嶋木には男と女のことを何処か投げ遣りに思っているふしが有る。女って者は何時どう気が変わるか判らない、男と女は一つ拗れればどう変わるか解からない、という気がしている。そういう考え方は、嶋木が酒場の人間になって久しく、その間、幾人かの女を知ってから彼に棲み付いたものだった。

奈美のことも惚れているのかどうか、よく解っていなかった。多分、奈美が傍に居るから、奈美が嫌いな訳でもないから、一緒に暮らしているだけのことであったろう。奈美は水商売の女としては素直なところがあり、そう擦れてもいなかった。身体は男心をそそる魅力を備えていたが、商売以外ではそれを売りにすることは無かった。だが、肉体を重ねると一遍に女の本性を現す乱れ方をした。嶋木は普段の生真面目な奈美には愛おしさを感じることもあったが、奔放に乱れる奈美には時として疎ましさも感じた。奈美もそういう嶋木の気持ちを見抜いていた。その為にクラブの仕事を止めなかったのかも知れなかった。

「どう?このコーディネイトで良いかしら」

奈美は着合わせて行く服装について嶋木に尋ねた。

「ああ、ちゃんと合っているよ」

「じゃ、行ってくるわね」

奈美が出て行って暫くすると、陽が落ちて部屋の中が薄暗くなって来た。そろそろ仕事に出かける時刻だった。

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