第七章 バーテンダー、嶋木

第48話 嶋木、リハビリセンターで老婦人と出逢う

 その老婦人を見かけたのは七月下旬の、これから本格的な夏がやって来ようとする暑い日だった。

嶋木はいつもの通り総合病院の予約受付機で予約票を出力してリハビリセンターへ入って行った。彼は此処で腰の牽引と低周波の電気治療を四ヶ月前から週に二回のペースで受けている。治療時間は午前十一時半から三十分間で、午前中の最終組のトレーニングということもあってジムは比較的空いていた。

 嶋木はこの三月中頃、春が其処までやって来ているものの未だ冬の寒さが残る霙交じりの夕暮れに右足の脹脛に激痛を覚え、仕事に行く途中で歩けなくなってしまった。右足を引き摺り、引き摺り、やっとの想いで職場にたどり着いたものの時間の経過と共に痛みは酷くなる一方であった。開店前の準備を滞りなく整えた嶋木は、店の近くの鍼灸整骨院で診察と治療を受けたが、見立ては肉離れということであった。湿布薬を塗りマッサージと電気治療を施されたが、痛みは一向に軽減しなかった。嶋木は酔客に酒を提供し軽口や冗談を言い合って何とか痛みを紛らした。

一週間、その鍼灸整骨院で治療を受けたが症状は何ら改善しなかった。痺れを切らして総合病院の整形外科でX線撮影とMRI検査を受けた結果は、腰椎椎間板ヘルニアに起因する間欠性爬行と診断された。直ぐに腰椎に神経根ブロック注射をして痛みを和らげた後、週二回のリハビリが始まった。あれから四ヶ月、足の脹脛は痛まなくなったが腰の痛みは未だ残っている。

 トレーナーに指示されて腰の牽引台に仰向きに寝た嶋木は直ぐにうとうととまどろんだ。外は既に真夏の陽光が空の真上から照りつける燃えるような炎天であったが、センターの室内は空調が程良く効いて快適であったし、いつもは昼過ぎまで眠るのが習慣であったので、直ぐに眠気に襲われてしまった。十五分間の治療が終わり、トレーナーに軽く膝を叩かれて目覚めた嶋木は、電気治療を受けるベッドへ向かう為にゆっくりと起きて、立ち上がった。

 その時、老婦人を見たのである。

彼女は髪を振り乱し必死の形相で、歩行訓練用の手摺り器を掴んで歩く訓練をしていた。手を探るように前に突き出し、一呼吸擱いてからゆっくり右足を踏み出し、左足を踏み出した。そして又、手摺り器を探るように手を前に突き出す。

「あっ、危ない!」

嶋木は思わず叫んだ。老婦人の姿勢が不意に崩れて腰が砕けたように二本の手摺り棒の間に身体が沈んで、転んだのである。

付添いの介護トレーナーが屈んで手を差し伸べた。が、彼女はその手を取らなかった。

「駄目です!今、一人で歩く訓練をしているのですから」

その拒絶は、嶋木の胸には快く響いた。明るく澄んだ表情だった。

トレーナーが頷いて手を引っ込めると、老婦人は足をそろそろと引き、一旦横座りの格好になってから手摺り器の縦支柱を掴んで少しずつ腰を上げた。片膝をつき片方の足を立て細面の顔を真っ赤に力ませて全身の力で立とうとした。支柱を握っている手も身体もぶるぶると震えた。

「ほら、もう一息だ!」

嶋木は心の中で叫んだ。

遂に老婦人は一人で立ち上がった。そして、手摺り棒を掴んで立つと、笑顔を浮かべて袖で額の汗を拭った。

「よし、よし」

嶋木も又、心の中が嬉しくなった。

 担当のトレーナーに促されて、嶋木は我に返ったように電気治療台にうつ伏せに乗った。老婦人の歩行訓練はその後も暫く続いた。

強弱、長短、リズミカルな心地良い電磁波の刺激に心も身体もリラックスして来た嶋木が、今のような浮き草稼業ではなく、もっとまともな普通の堅気の仕事をして暮らすことも、やろうと思えば出来るのではないか、とふっと思ったりするのは、こういう心が和んだ時である。無論その考えは嶋木の胸をほんの暫くの間、清々しい気分にするだけのことでしかなかったが・・・。実際には嶋木はシェーカーを振って酒を作り、酔客にお愛想を言って飯を食っている男であり、酒場の臭いが身体に染み着いてしまっている人間であった。八年も経った今では仕事もすっかり板に着いている。だからと言って、嶋木は好きで酒場のバーテンの仕事をしている訳ではなかった。が、特段、その仕事が嫌いと言う訳でもなかった。言わば、無意識にただ惰性で流されている毎日だった。嶋木はもう、今頃から堅気の普通の仕事が出来る筈も無いことを承知していた。

だが、僅かな間にしろ、嶋木が、酒場のバーテンらしくないことを考えるのも事実だった。今日のように心が和み、胸の中を一陣の清々しい風が流れる時、一度普通の人間の普通の暮らしをしてみたいとも思うのだった。

 嶋木が電気治療を終わって身繕いをし、医師の巡回診察を受ける為に待合室に入って行くと、先刻の老婦人が車椅子に座って外の景色をじっと眺めていた。総ガラス張りの外は照りつける陽光に陽炎が立ち、その中を上り下りの私鉄電車が行き過ぎていた。

嶋木は老婦人の隣に空いている席を見つけて腰掛けた。

「随分と頑張っておられましたね、歩行訓練・・・」

嶋木は遠慮したように小声で聞いたが、此方に向いた老婦人の顔は明るく穏やかであった。

年の頃は七十四、五歳で栗色の髪は柔らかく綺麗にセットされ、優しげな眼元が上品で、彼女はとても若々しく綺麗だった。

「わたしはこの春に足の骨を折って、それ以来ずうっと寝ていましたの。でも、この儘では歩けなくなって、一生車椅子の生活になってしまうのではないかと心配で、先生にお願いしましたの、何とか歩けるようになりたいって。そしたら、じめじめした鬱陶しい梅雨が明け、空気が乾いた夏になって、漸くお許しが出ましたの」

「それで歩行訓練を始められたのですか」

「わたしにも未だ未だ、行きたい所も見たい物もやりたい事も食べたい物も、一杯有りますからね」

そう言って老婦人は口元に手を宛てコロコロと笑った。

「あなたはどうなさったの?腰のリハビリとお見受けしましたけど・・・。ひょっとして立ち仕事をなさっているのかしら」

「ええ、まあ、そんなものです」

嶋木は何と無くうろたえた。不意打ちを喰ったような思いがした。夜の仕事と酒焼けでくたびれた貌をしているのは自分でも解かっている。

「失礼だけど、サラリーマンではない、ですよね。職人さんかしら?」

嶋木は返答に窮した。嘘を答えることは容易かったが、老婦人の澄んだ目に見詰められると、その嘘が見抜かれそうで躊躇した。

 話している内に巡回診察の医師がやって来た。二十数人の患者一人ひとりに症状の具合を訊ね、質問に答え、適宜アドバイスを与えて助手と共に回診して行く、凡そ患者一人に三分から五分の診察である。

先に診察が終わった老婦人が「それではお先に」と嶋木に笑顔で一礼して、リハビリセンターを出て行った。車椅子はトレーナーが押して行った。

「またね」

嶋木も笑って手を振った。

嶋木が医師の診察を終えて次回の予約と料金の精算に受付へ行った時には、もう老婦人の姿は何処にも見えなかった。

 腰痛の治療で、当分の間は車に乗ることを控えるように、と医師から言われている嶋木は、焼け付く太陽に照り付けられながら真夏の街中を歩いて帰った。尤も、酒場の人間はオーナーにしろマスターにしろ、或いはホステスにしろバーテンダーにしろ、マイカーを通勤に使うことは滅多に無かった。万が一の事故の時に仮令素面であっても飲酒運転を疑われる危惧があった。タクシーを使うのが常だった。

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