第46話 遼子、九州へ赴く

 JR唐津駅に降り立った遼子は、降り注ぐ陽光を遮るように手を翳して街を眺めて見た、が、何の記憶も甦らなかった。取り敢えず唐津城まで行ってみようと、市内循環バスに乗り込んだ。途中、車窓から、古い家並みの向こうに白壁の天守閣が遠く聳えて見えた。遼子は身を乗り出すようにしてじっと見やったが、記憶にある情景とは少し違っているようだった。バスは十分ほどで唐津城入口に着いた。

 遼子は天守閣に登って、家の在った辺りの見当をつけようと、眼下に拡がる街を眺めた。城の東側には大きな川が流れ、南側から西側にかけては小さな川が見て取れた。

 城を出た遼子は南側の小さな川に沿って歩き始め、架かっている橋の欄干にもたれて天守閣を振り返って見た。遼子の頭の中で記憶の何かが少し弾けたようだったが、手前の家並みが違うように思えた。父親の自転車の前に乗せて貰って走った街並みは、もっと古くて静かだったような気がする。

遼子は又、川沿いの道を南に歩き、つと、左手の古い露地を曲がった。

 何かが匂って来た。

露地を抜けた遼子は周囲の建物を見やりながらゆっくりと歩いた。ふと一方を見ていきなり小走りに駆け出し、そして、一件の駄菓子屋の前で立ち竦んだまま凝視した。

遠い幼い日の記憶がフラッシュバックした。

四歳の遼子が小銭を握り締めて菓子を買っている。覚えがあった。この店でよくままごと玩具や煎餅を買ったのだ。黒砂糖のべったりついた煎餅はもの凄く美味しかった。

店の前に在るポストの形もそのままだった。

そうだ、次の四つ角を曲がるとタバコ屋が在る筈だ、その前でよく遊んだものだ。

角を曲がった遼子は眼を輝かせた。やっぱり在った!近所の子供たちと縄跳びをして遊ぶ四歳の遼子が居た。

遼子はもう一本南の露地を抜けて角を曲がってみた。そして、出て来た通りの奥に眼を移した遼子は、何かに打たれたように立ち止まった。両側の家々の向こうに先程訪れた唐津城の天守閣が聳えていた。

遼子はゆっくりと背を屈め、膝に手をついて中腰になった。そして、あたかも四歳の幼児の視線を確認するように地面に正座した。遼子の記憶の中の、彼女を何時も捉えて離さなかった、軒先越しに見える唐津城の風景が、寸分違わず其処に在った。人通りも車の行き来も無く、辺りは静寂そのものだった。

 それから遼子はやおら立ち上がると、前方に見える城の天守閣を仰ぎながらゆっくりと前へ歩いた。見覚えのある粋な黒塀越しに大きな松の木が伸びている家が見えて来た。

在った!生家だった。遼子は、勝手口から着物姿の母が今にも出て来そうな幻想を抱いた。

「小泉遼子、二十八歳、元気にやっているわよ、お母さん!」

遼子はその家にじいっと見入って、何時までも動かなかった。

 

 JR筑豊本線若松線の起点である若松駅に降り立った遼子は、鉄骨コンクリート造りの平屋建て駅舎に一瞬、気抜けした。此処若松は火野葦平の侠客小説「花と龍」の舞台となった処である。時代の名残を止める木造の古い駅舎を想像していたが、頭端式ホーム一面に二線が在るだけで、嘗て石炭を運んだであろう側線は南側に一本在るだけだったし、駅前は広場として綺麗に整備され、数多くのマンションや市営住宅が建っていた。

 遼子が乗ったタクシーの年配の運転手が、昔を懐かしむ口調で言った。

「以前は石炭の積出港として広大なヤードがありましたが、昭和五十八年から駅構内の整備が開始され、旧駅舎が取り壊されて建て直されるのと一緒に、側線もほぼ全て撤去されて今の旅客駅になりました」

「はあ、なるほど」

「此処は当初から石炭の積み出しを主な目的として開設されたんです。構内は広大で、多数の石炭車が常時出入りしていました。ガントリークレーンやホイスト等の積み降ろし設備も整備されて、ほぼ常時、日本で一番貨物取扱量の多い駅だったんですがね」

「石炭が石油に代わって、衰退して行ったということでしょうか?」

「そうですね。石炭の取扱いは急速に減少して、昭和四十五年にはホイストとガントリークレーンの使用が停止され、五十七年に貨物輸送が廃止されました。嘗て石炭輸送が盛んな頃は、炭鉱に通じる多くの貨物支線がありましたが、現在は全て廃止されてしまっています」

「そうすると、今はもう旅客列車だけになっているのですか?」

「そうです。直方や飯塚市などからの、北九州市や福岡市への通勤・通学路線となっている訳です」

「ふ~ん」

「あっ、お客さん、着きました。多分、此処だと思います」

見ると、レトロな建物の多い街並みの中に、ひときわ大きなしもた屋が在った。一階の屋根の上に「株式会社高田海運」と書いた横長の大きな看板が掲っていた。

 遼子は玄関土間へ入り、人気のしない奥を窺いつつ深呼吸をして訪いを乞うた。

「御免下さい、お邪魔します、失礼致します」

緊張して反応を待っていると、八十歳前後の老人がそろりと現れた。額や顔には深く皺が刻まれ、遼子をピタッと見据えた眼光は鋭かった。

「どんな御用向きかな?」

遼子が姓名を名乗って、訪れた用向きを簡略に説明すると

「わしは吾郎の父親じゃが、良かったらもう少し詳しく承りましょうか?」

そう言って、遼子を奥の座敷へと導き入れた。

遼子の話が終わると、それまで終始無言で耳を傾けていた老人がきっぱりと言った。

「お話は解かりました」

「そうですか、有難うございます」

「然し、わしの一存では何とも申し上げられませんので、三代目に会って貰えませんかな」

「えっ、三代目さん、ですか?」

遼子は少し不安に駆られた。

 遼子を後ろに従えた老人が、途中、水天宮の前で手を合わせたので、遼子もそれに習った。

顔を上げた前方に埠頭が見え、貨物船が停泊していた。作業員達にテキパキと指示を与えている印半纏を纏った五十年配の女性が遼子の眼に停まった。

手を上げた老人を見て、遼子に会釈を送り、もう一度指示を与えて、それから此方へやって来た。

「これが三代目のまき子です」

老人の紹介に、高田まき子は丁重に腰を深く折った。そこはかとない威厳が在った。

遼子が招き入れられたのは、若戸大橋の真下に在る古風な煉瓦造りの、小さなビルの事務所だった。

老人の話を鷹揚に頷きながら聴いていたまき子が最後に一言、言った。

「お話の趣は良く解かりました。ですが今のお話だけでは・・・」

遼子はバッグの中を弄って写真を取り出した。

まき子が軽くそれを制した。

「そういうものは拝見しなくて結構です」

遼子は少し不快感を覚えた。

「わたしは何も強請りたかりに来た訳じゃありません。わたしは只、自分の出自を自分の眼ではっきり確認して、これから先の人生を生きて行く為の背骨をしっかりと持ちたいと思うだけなんです」

「お客人、ま、そうむきにならないで・・・兎に角、家の方でお昼ご飯でもご一緒しながら、ゆっくり話しましょう」

そう言ってまき子は先に腰を上げた。

 

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