第40話 遼子、初めて一人で庭師の仕事をする

 遼子が造園の知識や技術をほぼ学習し終え、初歩の下仕事にも習熟して来た或る日、先輩の職人が遼子に頼み事をした。

「小泉君、リピーターのお客様からマンションのベランダでガーデニングされているバラの手入れを依頼されたんだが、君にこの仕事を頼めるかな」

「えっ、私が一人で行くのですか?」

「そうだ。大丈夫だよ、もう君一人で。よろしく頼むわ」

「あっ、ハイ」

「緩効性肥料が品切れしているので、途中で買って持って行ってくれよ」

 

 遼子は途中、大きなDIYの店に寄って肥料を買い、それからトイレに入った。屋外の仕事は現場に入る前に手洗いで用を足しておくのが鉄則である。が、慌てて、然も、意識なしに駆け込んだ遼子は男性用のトイレに間違って入ってしまった。入った時には誰も居なかったが、出て来ると男性が一人居た。

「えっ、なんで男の人が入っているの?」

遼子は思わず呟いた。

「なんで女の人が入っているんだ?」

小さく独り言ちた男性は、長身の思わぬイケメンだった。

間違いに気づいた遼子は照れ臭さと恥ずかしさから「ふっふっふ」と含み笑いをして、そそくさと洗面所を出た。此方も吃驚したが相手も相当驚いたことだろうと、遼子は冷や汗ものだった。

 

 指示されたお宅は直ぐに分かった。明るいレンガ色の瀟洒な高層マンションだった。

いすずエルフを駐車場に止め、剪定鋏、革手袋、厚手ゴム手袋、バケツ、土、ふるい、熊手等の道具類と買って来たばかりの緩効性肥料を担いだ遼子は、エレベーターで八階へ上がった。

通された部屋のベランダからの眺めは絶景だった。眼下に街全体が陽の光に包まれてきらきらと拡がり、遠く東京タワーかと錯覚するような塔や遥か向こうに在る寺の五重塔が見通せたし、眼を上げると青い空に白い雲がふんわりと浮かんでいた。

「うわあ~、綺麗!」

遼子は思わず叫んでいた。

鉢バラは美しく良く育っていた。鉢は大きさも形も材質も、深いタイプのもの、プラスティック製のもの等々まちまちであったが、バラに合わせて色やデザインが変えられているようであった。

六十歳前後と思しき夫人がバラへの深い愛情を込めて言った。

「このバラはね、一昨年私が入院した時、少しの間だけどお宅のお店で預かって戴いたことがあるの。細心の注意を払って丁寧に面倒を見て下ったお陰で、此方に植え替えて貰った後もそれ以前よりも元気に育つようになったの」

「そうだったんですか。私は未だ新米でその辺のことはよく知らないんです。すみません」

遼子は、自分は未だ見習い中であること、従って知識も浅いし経験も少なく、技術も未熟であること等を偽らずに包み隠さず話した。

「お気に召さないことがありましたら、どしどしご指摘下さい。誠心誠意、一生懸命にやらせて頂きますので、宜しくお願い致します」

深く頭を下げて仕事に取り掛かった。

 遼子は先ず剪定から始めた。

バラは先芽優先で一番上の芽が良く伸びるので、伸ばしたい芽の上で切るようにしたし、細枝、ふところ枝、病害虫に侵された枝、枯れ枝などは付け根から切り落とした。

「葉っぱは全部とって頂戴ね」

夫人が穏やかに促した。

 次に、バラを鉢から抜く作業を行ったが、根が一杯でなかなか抜けなかった。熊手を使って根幹をほぐし、鉢の底に衝撃を当てて根鉢と鉢の間に空間を作ってから抜くと、漸く上手く抜けた。

「出来るだけ土を落としてね」

「細白根はこそぎ取って良いですよ」

「長い根はカットしてね」

遼子は一つ一つ丁寧に対応した。

「根っ子にこんなこぶが出来ているものがありますよ。根頭癌腫病ではないでしょうか」

そう言って遼子は、こぶの有る根を婦人に見せた。

「このバラはFLのニコールなのだけど、もう大分前から発病しているみたいなの。段々弱って来るのだけれど、健気に綺麗な花を咲かせるし、折角のバラだから、その時が来るまでと思って付き合って来たのよ」

遼子は夫人に一つ一つ確認をし、了解を得てから、こぶは全て取り除いた。

 植え込みの時には「同じ号数の鉢でも、大きめでも小さめでも良いですが、バラの状態に合わせて鉢を用意して下さいね」と指示された。

鉢にゴロ土を入れた後、根を広げて位置を決め、予め肥料を混ぜておいたバラの用土を入れて、植え替えが終了した。接木の接合部は土より上に出した。

「一ヶ月ほど経った頃に、油粕の置き肥と牛糞堆肥でマルチングしてやると、綺麗な花を咲かせるでしょう」

最後にそう言って遼子は作業を終えた。

ああ、一人で出来たわ、と遼子は胸の中で安堵した。

 暇乞いをする前の雑談で、先刻のトイレでの失敗話をすると、夫人は手を口元に当ててコロコロと笑った。

「こんな経験ってありません?」

遼子が訊ねると

「ありませんよ」

「これって私だけですか?」

「そうよ、あなただけですよ」

二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。

「あなたって面白い方ね」

 そう言いながら夫人は、ポンと両手を打って「あっ、そうそう」と思い出した格好で、自分が檀家になっている真言宗の寺の植栽工事をやってみないかと訊ねて来た。

「お寺の入口の左右の花壇にナンテンの生垣を作るのと、参道に沿ってロウバイを植えるお仕事だけど、どうお、やって下さる?」

「ハイ、是非やらせて下さい」

「ナンテンは、難を転じるからナンテンって言うのよ」

「えっ、そうなんですか、ほんとうですか?」

「冗談よ、そんな訳ないでしょう。それと、生垣の足元にはコグマザサが一杯生えているのよ」

「パンダが竹を食べるみたいに、小熊が笹を食べるので、コグマザサ、じゃあないですよね」

「葉の周りに隈が出来るクマザサの小さい品種だからコグマザサなんですよ」

夫人は又、コロコロと笑った。遼子も腹の底から可笑しかった。

後で後藤から聞いて解かったことだが、この夫人は真言宗の寺の娘さんだったのである。

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