第30話 由紀の居ない人生など考えられなかった

 由紀の居ない人生など考えられなかった。それがどういうものなのか想像もつかなかった。由紀と知り合ってからというもの、特に結婚してからは、二人の行く手には希望の光が溢れていた。菅原は独立して自分の店を持ち、やがて新人を雇って師となる。由紀はいずれ近い将来に子供の母となり、家庭を切り盛りして、一級印刻師の菅原を内助する。そんな夢と希望が確かにあったのだ。菅原は、由紀に万一のことが有ればそれこそ酷く残酷なことだ、と思った。胸が塞がれた。

 由紀はひと時、哀しみ苦しみ、打ち沈んだ。

あの人ともう一緒には暮らせないのではないか、あの人の為にもう何もしてあげられなくなるんじゃないか、一緒になって間も無いというのに・・・

然し、由紀はやがて、何がどうであれ、ひたすら治療に専念するしか無い、と開き直った。自分のこと以上に私のことを心配してくれているあの人への、それがせめてもの償いだわ、と思った。少し落ち着きを取り戻したようだった。

 由紀が入院している間、菅原は、午前中は工房で仕事をし、午後は病院へ出向いて由紀に付き添った。病院は完全看護だったので泊り込むことは許されなかった。見舞い客や付添い人の退出を促すアナウンスが流れる午後八時まで病床の由紀を励まし、そして、語らった。仕事は忙しくは無かったが、途切れることも無く、納める期限もあったので、毎日深夜まで印刻の作業を続けた。

 食事は簡単なものは自分で作ったり、出来合いのお惣菜を買って来たり、出前を取ったり外食で済ませたりした。が、それは結構大儀で大変だった。

由紀は菅原の食生活を殊の外心配した。

「あなた、肉類ばかりじゃなく、野菜やお魚も食べてね。栄養の偏りは身体に障るからね」

「大丈夫だよ、ちゃんと食っているよ。余計な心配はするな、な」

菅原は嶋木の店に出向いて酒を飲むことが多くなっていた。

 

 由紀が病院で吐いて、治療が最初からもう一度やり直しとなった夜、菅原は気がつくと嶋木の店の前にいた。

扉を押して中に入ると、嶋木がシェーカーを振って客に酒を出しているところだった。

近づいた菅原を見て、嶋木が不審げに問い掛けた。

「おい、どうした?何か有ったのか?」

「水割りを貰おうか」

「大丈夫か?」

菅原はひと息に酒を喉に流し込んだ。苦味だけで他には何の味もしなかった。菅原は噎せ込みながらもう一杯飲み干した。

嶋木がカウンター越しに身を乗り出して菅原の顔を覗き込んだ。

「そんな無茶な飲み方は止めろ。何が有ったんだ?」

「女房が今日また吐いたんだ。癌かも知れない」

「えっ!」

「また点滴からやり直しだ」

「この前のお前の話では、直ぐにでも退院出来そうな話だったじゃないか」

「俺は見ているだけで、どうしようも無い。あいつが居なくなったらと思うと、居ても立ってもいられない」

菅原は不意に悲しみに襲われて握った拳を震わせた。

傍らで様子を見ていた純子ママが言った。

「可哀そうに、こんなに落ち込んじゃって・・・」

菅原は暫し、グラスの酒に視線を落としたまま、じっと動かなかった。

純子ママが諭すように話しかけた。

「あなたの奥さんは今、病気と必死で闘っているのでしょう。あなたが支えてあげなきゃ誰が守ってあげるのよ。あなた男でしょ、しっかりしなきゃあ、ね」

菅原はもう何も言わなかった。

顔を俯けてじっと何かを堪えているようだった。が、やがて顔を上げて、お勘定を、と言った。

「良いよ、今日は俺の奢りだ」

「然し、お前・・・」

「良いんだよ。それより早く帰って仕事の事でも考えろ。明日は又、病院へ付き添いに行くんだろうが、な」

「有難う、済まなかった」

店を出た菅原は思った。

なんだかんだと言っても、由紀は未だ生きている、未だ希望が無い訳じゃない、俺がとことん守ってやらなきゃ!

菅原は唇を噛み締めた。

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