第25話 独り立ちは想像以上に辛く苦しいものだった

 年が明けた一月半ばに、菅原と由紀は借りた家に引っ越して新しい暮らしを始めた。

 板の間に真新しい作業台を据え、その上に実演用の座卓や抽斗を置き、印章を飾る棚を並べると工房らしく見えて来た。菅原は新たに切り回しの台を自分で作り、台の背面には実家から譲り受けた戸板に手を加えて取り付けた。工房の入り口にはこれも由紀の家に在った時代箪笥を配置し用具類が剥き出しの道具箱を横に並べると雰囲気が一段と増した。最後に工房の玄関口に蒼い竹を二本植え、笹の鉢植えを二つ並べると愈々新しく改装した印章屋らしく整って来た。この竹が青々と大きくなって遠くからでも人目に付くようになる頃のことを思いやって菅原の胸は弾んだ。

 

 だが、菅原の独り立ちは当初思っていたよりも遙かに辛く苦しいものだった。

独立して一人で仕事を始めてみると、印章彫刻師という仕事が思うようには仕事も金も入って来ないものであることが解かった。ユーザーから注文を掻き集めて来てそれを印刻師に廻す版元と呼ばれる仲買商社はなかなか仕事をくれず、偶に注文を呉れても、並みの印刻師が敬遠するような細かい半端な仕事か納期の忙しい急ぎ仕事だった。(有)龍鳳印刻堂でしたような、たっぷり時間をかけて彫る大きな仕事は遠い夢の世界だった。

早まったかな、と悔やむ思いが芽生えたのは独立独歩でやる仕事の険しさ、難しさに気付いてからだった。兎に角、彫ってさえ居れば時間が過ぎ、決まった給料が支給された雇われのあの頃には、心に驕りがあったのではないかと思った。生計は苦しくなるばかりで由紀の共働きは当分止められそうも無かった。

 (有)龍鳳印刻堂の看板に対する世間の信用は堅かった。その信用がどういうものかを、菅原は身に沁みて感じた。そんなものに気圧されていたんじゃこれから先、一人でやって行くことなど覚束無いぞ、あっちこっちの版元に足繁く通ってばりばり仕事を取らなきゃ先は開けないぞ、と自分に発破をかけたが、然し、仕事はなかなか来なかった。

 

 今日も今日とて、昼過ぎに訪れた問屋で菅原は面罵された。思い出しても胸の疼く屈辱だった。(株)青山堂と言うその問屋は、(有)龍鳳印刻堂の古くからの取引先で菅原も何度か訪れたことがあり、社長の青田山陽とも顔見知りだった。ところが、(有)龍鳳印刻堂を辞めてから初めて顔を出した菅原を、山陽は最初は無視し、それから、けんもほろろに扱って、挙句に、最後には面の皮をひん剥くような言い方で、育てて貰った恩も忘れて自分の勝手だけで辞めてしまった、と詰ったのである。二度と来て貰いたくない、とまでも言われた。仕事を貰うどころではなかった。

菅原は心外だった。(有)龍鳳印刻堂は綺麗に後始末をして辞めた心算だった。負けるもんか!最初は皆こんなものかも知れん、折角独り立ちしたんだ、絶対にやり遂げてみせる!

 

 翌日の夕方、小さな急ぎ仕事を貰った文印堂(株)へ出来上がった印章を届に行くと、常務の浅田が丁度帰って来たばかりの態で、入口近くに居た。菅原を見て浅田は一寸頷いたが、菅原が持参した印章を取り出すと、忙しげに言った。

「あのな、それは其の儘、(有)虎印社へ届けてくれよ。向こうで待っているらしいから」

(有)虎印社は二次問屋で(有)龍鳳印刻堂にも時々顔を出して、菅原とも顔見知りだった。所在地も分かっていた。

「最近少し仕上がりが遅いな。今どき納期遅れなど論外だぞ、菅原君」

浅田はそう言ってさり気無く続けた。

「君の腕は、僕は買っている。だから注文を出している。だが、期限に遅れるのは困るよ、な」

「申し訳ありません。以後必ず遅れないようにしますから」

「うん、そうして貰わんと仕事が出せなくなるからね」

浅田は機嫌が悪かった。納期が遅れた訳ではなかった。今日の期限に今日の夕方、納めたのだから遅延した訳ではない。少し理不尽な言い方だと思ったが、菅原は胸に飲み込んで逆らわなかった。浅田の機嫌を損ねてはならなかった。独立してからコンスタントに継続的に注文を呉れるのは此処だけである。漢籍、寺社関係の書物、賞状など細かな仕事を呉れる。不満や贅沢は言えなかった。じっと我慢の子だ、と菅原は思った。

 

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