第五章 同級生 印刻師の菅原

第20話 菅原は高校卒業後、印刻師の道を志した

 菅原は高校を卒業後、(有)龍鳳印刻堂へ就職し、社長で一等印刻師の岡本龍鳳に師事して印章彫刻師の道を志した。一生他人に使われて心身を擦り減らすサラリーマンよりも、腕に仕事をつけて将来は独り立ちも可能な職人になろうと、大学進学は頭に無かった。

唯、二親からは、今の時代、大卒は人生のパスポートみたいなものだから絶対に出ておかなければ駄目だ、と強く言われて夜間大学に通うことにした。

菅原は最初から印章彫刻師になる心算ではなかった。手に職がつけられる仕事なら何でも良かったが、昼間働いて夜に大学へ通わせてくれる仕事先は殆ど無かった。幸いにして印章彫刻師の岡本龍鳳が菅原を雇ってくれた。従業員は十人しか居なかったが、昼間働いて夜は大学へ通いたいと言う菅原の健気な申し出を聞き入れてくれた。

 印章彫刻師は国家検定の一つで、更生労働大臣に公証された者の称号である。一級と二級とが有り、一級の受験資格は六年から七年以上の実務経験が必要で、検定試験には実技と学科の二つの試験がある。更に、より一層の技術と地位の向上を図る為に技能グランプリが開催されて、一級合格者達がその技を競い合ってもいる。一人前の彫刻師になるには十年以上の修業が必要であった。

 社長の岡本龍鳳が持つ一等印刻師の資格は日本印章協会により付与される最難関の印章彫刻資格であり、全国に数多く存在する一級彫刻師が一年間に亘って毎月課題作品を提出し続け、その高い基準点を毎回クリアーして、その上で、毎年十一月に開催される審査会において著名な師範による厳しい審査を受け、技術・人物共に優れていると評価されてはじめて取得出来るものであった。それだけに(有)龍鳳印刻堂における修業は極めて厳しいものがあった。

 

 菅原は最初、仕事をさせて貰えなかった。

先ず教えられたのは、仕事人の心構えだった。仕事以前の事柄を執拗に教え込まれた。

挨拶、時間厳守、整理・整頓・清掃、この三つがその柱だった。

龍鳳が言った。

「挨拶と言っても堅苦しく考える必要はないよ。人間は嫌いな相手には進んで挨拶をしようとはしない。挨拶をするということは相手を受入れる心の表われなんだな。挨拶は人間関係の基本であり、コミュニケーションの基ということだ」

お互いが挨拶も碌に交わさないようなコミュニケーションの良くない職場では良い仕事が出来る訳が無い、ということだった。おはようございます、有難うございます、失礼します、済みません、これが「挨拶のオ・ア・シ・ス」だと教わった。

「仕事は時間との戦いだ。時間をコントロール出来ない人間に仕事はマスター出来ない。この変化の激しい時代に、幾ら創造の世界だと言っても、どんなに手間隙を掛けても良い仕事など、現実にはない。時間厳守とスピードは仕事を進める上での絶対条件なんだよ」

時間を制する者が仕事に勝つ、一日二十四時間、皆平等、活かすも殺すも自分次第か、と菅原は理解した。

整理・整頓・清潔・清掃・躾のことを5Sと言った。

「整理、整頓、清潔、清掃を習慣化するまで、職場に定着するまで「し続ける」ことが大事なんだ。それが躾と言うものだ。5Sの目的はムダの発見とそれを取り除くことにある。即ち5S無くして仕事の向上は無いんだよ」

 それから菅原がやらされたのは、家の掃除、車の運転、材料の買出しなどの使い走りで、偶に、仕事の指示を貰うと、それは彫刻刀の研磨や印材の面擦りなど準備や段取りの仕事ばかりだった。伝統工芸のこの職場では、新人の菅原に宛がわれた仕事は、来る日も来る日も下働きの下仕事と何の変哲も無い画一的な機械彫りであった。最初の実習で一通りの作業は教わったものの、実際にやらされた仕事は、菅原の創意と工夫など何処にも入れ込む余地は無かった。菅原はそんな仕事を三年近く続けた。菅原は次第に辛抱の緒を切らし堪忍の袋を破って酒に逃げ、時として酒場の女と戯れもした。辛うじて菅原を支えたのは、これ如きのことで泣いてたまるか、負けてたまるか、始めたからには一人前の彫刻師になるんだ、という意地と矜持だった。

 

 三年経って漸く、少しは創作印を手伝う仕事になっていた。

暑い夏の日の昼下がりに龍鳳が菅原を事務室に呼び入れた。

「菅原君、君、創作印を一つ彫ってくれないか」

「えっ、本当ですか?僕が独りで彫るんですか?」

「ああ、一寸知り合いに頼まれてね。そんなに難しいものじゃなくて良いんだよ。君の勉強にもなるだろうから、是非、頼むよ」 

ピアニストを志す少女が指の骨を折って、一日も早く鍵盤が叩けるようになりたいと一生懸命にリハビリと訓練に頑張っている姿に心を動かされたレッスンの先生が龍鳳に依頼して来た、ということだった。

「高価で立派なものじゃなく、その子の指が自在にピアノが弾けるようになることを願っての、その祈りを籠めての創作印が欲しいそうだ。材料からデザインなど皆、君に任せるから是非、彫ってあげてくれ給え」

「解りました。頑張ります、先生」

少女は高校生で、名は足立佳純、ということだった。

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