第15話 若原、彼女の誕生日の夜にプロポーズする

 若原は彼女と知り合った十か月後の四月下旬、彼女の誕生日の夜に、二人が始めて食事を共にしたあの想い出の高級ホテルのフレンチディナーへ彼女を誘った。

 彼女は伸びやかなベア天竺ジャージーにプリント生地をドッキングしたトリックワンピースを着ていた。上見頃は大人の女性に似つかわしいカシュクールデザインで、立ち上がりをつけた後ろ襟からタックを寄せた左脇へ流れるドレープがエレガントだった。胸元の打ち合わせの深さに若原の胸はどきりとときめいた。スカート部分には黒とベージュの都会的なモノトーンの幾何学柄がセレクトされ、落ち感の良さとウエストに入ったゴムシャーリングで、しなやかに揺れるフレアシルエットだった。

頸にはグレー系シルバーのガラスパールネックレスが光っていた。それはスペイン製ならではの色と輝きがリッチだった。

足元はミドルヒールのプレーンパンプスでブラックの艶やかな本革エナメル仕上げ、すらりと伸びた立ち姿は美わしく魅惑的だった。

右手首に巻かれた水牛ブラックバングルはボリューミーで存在感たっぷり、艶やかでシックだったし、左手に下げられたバッグはブラックの小さめのラウンドボストンバッグで膨らみのあるソフトな丸型だった。それは有りそうでなかなか無いエレガントにもカジュアルにも似合うシンプルなフォルムだった。

彼女はさらりと纏うだけで美しい、一工夫された心弾む春に相応しい大人の装いだった。

その女らしさと爽やかさに若原は視線を釘付けにした。

「来てくれて有難う」

わざとらしく悪戯っぽくにこやかに言って若原は、腕を取らんばかりにして彼女を予約のテーブル席へ導いた。

「お待たせしちゃって、ご免なさい」

歯切れ良く言って、彼女は丸テーブルの夜景がよく見渡せる席に腰を下ろした。

 

 ウエイトレスが飲み物の注文を取りに来た。料理の方は既にフレンチの懐石コースを予約してある。

最初に運ばれて来た食前酒で二人は先ずグラスを合わせた。

「誕生日、おめでとう!」

「ありがとう!」

「乾杯!」

「ああ、美味しい!」

彼女の表情が緩んで窓の外の夜景に眼を上げた。

肌の色は透き通るように白くて、目元には憂いが漂っている。大きな良く動く黒い瞳で周囲をぐるりと見回すしぐさは可憐だった。

 酒と料理が運ばれて来て二人のディナーが始まった。

芳醇なワインを味わい、オマール海老のローストや和牛フィレのグリエ、野生青首鴨等のコース料理を賞味し、新鮮な魚介類と瑞々しい野菜のハーモニーを楽しんで、若原の胸は心地良く弾んだ。

 それから若原は小さな包みを取り出して彼女に渡した。誕生日プレゼントだった。

「高価なものではないけれど、僕の気持だよ。どうか受取って欲しい」

彼女は輝く笑顔で「ありがとう」と言い、まるで少女のように歓んだ。若原はその表情を見て、彼女も自分を愛してくれているのではないかと半ば期待し、半ば念じた。

 

 そして、食事の楽しい語らいの後、二人して地下のクラブへ降りて行った。

扉を押して入ったクラブにはピアノソナタが流れていた。彼女は聞き惚れるように暫く耳を傾けた。

やがて照明が少し落とされてムーディーなサックスの奏でるブルースの曲が流れ出した。

「踊ってくれないか?」

若原が彼女を誘った。

「駄目よ、わたしは踊れないから・・・」

「大丈夫だよ、僕がリードするよ」

渋る彼女を若原がホール中央へ連れ出した。

彼女の手を取り、肩を抱いて、音楽に合わせて身体を揺する若原とリードに委ねてナチュラルに動く彼女の組み合わせは、なかなか似合いのカップルだった。

 そして、一曲踊った後、席に戻った二人はシャンパンカクテルを飲み、エンターテイナーの奏でるバラードを聞きながら、仄暗いロマンティックな雰囲気の中で、若原が彼女にプロポーズした。

「彼女はとても優しかったよ。俺の手を握って、とても嬉しい、ありがとう、と言った。だが、彼女は肝心の返事はしなかった。応諾は留保したんだ」

 

 その晩、帰宅の途中で若原は、とんでもないヘマをやらかしたことを覚った。

もっと冷静になるべきだった、あんなことは口にすべきじゃなかったんだ・・・

後悔が若原の胸を覆った。

「彼女が電話に出なくなったのは、その翌日からだよ」

 若原は又、疑心暗鬼の念に囚われた。

彼女は怖くなったのだろうか? 誕生祝のプレゼントは迷惑だったのではないか? プロポーズなどとんでもない話だったのだろうか? 俺のことはやはり軽薄な浮気男ぐらいにしか思っていないのだろうか? 俺はもっと現実を直視する必要があったのだろうか? 繊細な思いやりと機転に満ちた態度が足りなかったのではないか?

疑心は際限無く広がっていった。

「忘れることだな、若原。お前とは一周りも歳の差があるんだろう?現実を直視しなきゃあな。彼女はきっと怖くなったんだろうよ」

「そうか。やっぱりそうかも、な・・・」


 

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