第13話 若原、図書館で大人の女性と出逢う

 ある日、若原は昼食を摂りに入った近くのレストランの、四十四歳のウエイトレスとデートの約束をした。艶々した黒髪の笑顔の魅力的な女性だった。彼女は小柄で万事にさばけていたし、成熟した女の色気があった。

市立図書館の前で待っていて、と彼女は言った。

 若原はその夜はアスレティック・ジムを休んで、約束の五時に指定された場所に着いた。彼の身なりには一分の隙も無かった。細身のパンツはきちんとプレスされて折り目が立っていたし、歯は白く磨かれて輝き、髪はさりげなく額にかかっていた。

若原は何処から見ても十歳は若く見えた。

 が、いつまで経ってもウエイトレスの彼女は現れなかった。

「俺は一時間待ったよ。タバコを何本か吸い、そこら辺りをうろつき、遠くを見透かしたり手をズボンのポケットに出したり入れたりしながら、きっちり一時間待ったんだ。腹立たしくて何度も腕時計を見やったよ。それから俺は、何気無く、眼の前の図書館に入って行ったんだ。俺が図書館に足を踏み入れたのは、学生の頃、お前たちと同じように、論文を書く為に大学の図書館を利用した時以来だから、かれこれ三十年振りだったと思う」

若原は本が必要な時には近くの書店で買っていた。

真実の愛とは美しくも切ないものというような恋愛ものを好んで読んだ。同じような内容のテレビ番組が放映されたり、映画が封切られたりすると、それをきっかけにして、女性達との会話をスムーズに運ぶのにそれは大いに重宝であった。

 

 図書館は混んでいた。殆どが若者達で何冊もの本を抱えて忙しげに往き来していた。

若原は暫くエントランスホールから辺りを見回し、それから展示ケースの前などを少しぶらついてみたが、頭の中では自分をすっぽかしたウエイトレスのことばかりを考えていた。そして、エレベーターで二階のマルチメディア閲覧室に上がったり、中央の螺旋階段を下りて地下一階の閲覧室を覗いたりしているうちに、周囲の連中が脇目もふらずに読み耽っている本のことが妙に気になって来出した。

この連中はいったい何をそんなに熱心に読んでいるのだろうか? 

注意してよく見ると、ありとあらゆるジャンルに亘っていた。小説、歴史、エッセイ、詩集、美術書、絵画本、音楽本、写真集、心理学書、医学書、育児書、ビジネス読本、旅行本等々、その数、その神秘性、その魅力、その多様性には限りが無いようであった。

「書架にぎっしりずらっと並んでいる本を見ているうちに、俺は絶望的な気分になって来た。俺はこれまで女性のことしか眼中に無かったし、女性には無限の楽しみがあると思っていた。そこへこの膨大な書物と出遭ったんだ。今から読み始めても、たとえ一生かかっても全部は読み切れない。その時、ふと、女性もそうじゃないかと俺は思った。一生かかったって、この世の女性を全て征服出来る訳ではない。俺がそんな虚ろな気分で書架を見上げていると、直ぐ横で二冊の本を棚に返納している女性の姿が目についた。で、日本と世界の文学書の在り処を尋ねると、彼女は一番右隅の書架まで俺を案内してくれたんだ」

「ほう。それで?」

「俺が若い頃に耳にした三島由紀夫や大江健三郎や石原慎太郎、或いは、サルトルやスタンダールやモーパッサンなどの、何の脈絡も無い作家達の名前や書籍の名を適当に告げると、彼女は一緒になって捜してくれたよ。それから、一階のカウンターへ上がって貸出カードの発行手続きを係員に頼んでくれもしたんだ」

若原はジャケットのポケットにすっぽりと入る文庫本を二冊借りた。「モーパッサン短編集」と「現代短編名作選」であった。

「閉館の時間が近くなって館内がざわつき出して来たし、宵闇も迫っていたので、親切にして貰ったお礼に、ワインでも一杯如何ですか、って誘ってみたんだ。断られるかな、とちょっと心配したんだが、彼女は、そうですね、良いですね、とあっさり応えたんだよ」

「将にお前にとって運命的で洒落た出会いだった訳だ」

「それから俺たちは連れ立って図書館を出た。タクシーを拾って十分余りで行き着く都心の高級ホテルへ彼女を案内したんだ」

 

 ホテル七階のレストランで、選りすぐりの食材と旬の野菜をふんだんに使った「シェフおすすめディナー」の創作料理を食しながら、二人の話は弾んだ。

「彼女はそれほど若くはなかった、限り無く四十歳に近い独身だと言ったよ。しかし、未婚の所為か、見た目は実年齢よりも五歳は若かった。目鼻立ちのはっきりした、抜けるように色白の、凛とした容貌をしていたし、笑うと両頬に笑窪が出来てとても魅惑的だったよ」

「どんな仕事をしているのか、聞いたのか?」

「大手出版社の編集部で出版プロデューサーをしていると言うことだった。文芸、ノンフィクション、実用書、詩集、絵本、児童書、写真集、アート、文庫等々あらゆる分野で、世に問う価値のあるものを探し出して出版化するのが仕事だって言っていたよ」

「なるほど」

「芳醇な白ワインの香りに誘われて、互いの表情が次第に解れ、本の話から始まって、いつの間にか恋愛論にまで、話は弾んでいったんだ」

 スタンダールが言った恋愛の諸段階、即ち、賛美、喜び、希望、事ある毎に愛する者の中に新たな完璧性を見出す結晶作用、或いは疑心暗鬼の心理状態等々、若原は知っている限りの知識を駆使して誠意を込めて熱心に話した。

「俺の話をにこやかに受容的に聴く彼女の精神年齢は、容貌とは裏腹にかなりの大人であることを、俺は悟ったよ」

 彼女は若原にこう話したと言う。

「自分を客観的に眺める、つまり、自分を相対化する視線を与えてくれるのが読書でしょう。こんなことを考えている人が居たのか、こんな愛があったのか、とか思う。こんな辛い別れが有るのかと涙ぐんだりする。それは読む前には知らなかった世界を知るということでしょう、つまり、それを知らなかった自分を知るということですよね。一冊の書物を読めば、その分、自分を見る新しい視線が自分の中に生まれる。自分の相対化とはそういうことだと思うんです。勉強するのはその為ですね」

「読書にしても勉強にしても、それは知識を広げるということが主な目的なんじゃないのかな?」

「勿論、それもありますが、もっと大切なことは、自分を客観的に眺める為の新しい視線を獲得するという意味の方が大きいと思います。人間は自分を色々な角度から見る為の複数の視線を得る為に勉強をし、読書をする訳でしょう。それを欠くと独り善がりの自分を抜け出すことが出来ないし、他者との関係性を上手く築くことも出来はしません」

「勉強や読書は、自分では持ちえない時間を持つということなのかな?」

「そうですね。読書や勉強は過去の多くの時間に出会うということですね。過去の時間を所有する、それもまた自分だけでは持ち得なかった自分への視線を得ることになる訳でしょう。そんな風にして、それぞれの個人は世界と向き合う為の基盤を作って行くのだと思うんです」

 

 それから若原は、週に一、二度は彼女と会うようになった。

仕事の関係で休日が合わず、会うのはいつも夜であった。食事をし、映画を観、コンサートに出かけ、書店で本を買う。

 音楽は壮大で神々しく人間臭くて、それでいて恰好良いですね、と彼女は言った。

「メロディーが美しく、リズムが生き生きとして、夫々の楽器が響き合うのが音楽でしょう。メロディーは自身の姿、リズムは鼓動、響き合うハーモニーは人と人とが共存する為に最も大切なもの、音楽とはそういうものでしょうね」

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