第8話

 それからの小春は見た目は変わっていないのに、どこか違う人のような印象になりました。

 学校でもきちんと(むしろ以前よりテキパキと)行動し、授業もまじめに(むしろ以前より積極的に)受けています。


 天涯孤独の身となった中学生を放っておくほど、まわりの大人たちも薄情ではありませんが、今の小春はしっかりしていて規則正しい生活をしています。

 しかし法律というものが中学生の一人暮らしを許してはくれません。


「小春ちゃん、中学生に一人暮らしは無理だよ。施設を紹介するからそちらに移りなさい」


「卒業まであと半年なんです。お母さんとの思い出の詰まったこの部屋を出たくない……大家さん、お金ならお母さんが残してくれたものがありますから、どうかこのままお願いします」


 大家さんは困ってしまい、町内会長や小春が通う中学の校長先生に相談しました。

 小春に好意的な大人が集まって相談した結果、部屋はそのまま貸す代わりに、卒業までは町内会長の家で暮らすことになったのです。

 あと半年ほどですが、顔しか知らない他人の家に住むことを小春は躊躇していました。

 七緒の『申し出を受けよ』という言葉が聞こえ、小春は礼を言いながら頷きます。


「よろしくお願いします」


 着替えや身の回りの物だけを持ち、町内会長の家にやってきた小春にあてがわれたのは、会長のお母さんが使っていた離れでした。

 亡くなって以降はずっとそのまま空いていたそうで、同じ敷地内ではありますが、離れということに小春はほっと胸を撫でおろしました。

 池のある庭に面した八畳間と、六畳のつづき間の横に、小さな流し台とトイレとお風呂がついています。


「おじいちゃんとおばあちゃんの家にいると思って、甘えてちょうだいね」


 会長さんの奥さんが優しくそう言ってくれました。


「お世話になります。どうぞよろしくお願いします」


 必ずこの恩は返すという七緒を無視して、小春は離れの掃除を始めました。

 まだ何もない伽藍とした部屋に、セミの鳴き声が響きます。

 夏休みまであと一週間、演劇部の稽古はますます熱を帯びていましたが、小春が参加することはありませんでした。


 食事は自分で作れるからと言った小春を心配してくれたのでしょう、奥さんが度々離れを覗きに来ます。

 その手には決まってなにかしらのお惣菜があり、小春は申し訳ない気持ちでいっぱいになるのでした。


『この地の民は親切であるな』


 七緒が小春に話しかけます。


『でも迷惑をかけてしまって心苦しいよ』


 口に出さずとも頭の中で会話ができる二人は、良く話をするようになっていました。


『なに、遠慮などせずともよかろう。人様の親切はありがたく受け取るが礼儀というもの。返せるようになれば、倍にして返すが人の道じゃ』


『何て言うか、達観してるって言うか……そういえば七緒は私と同じ年で結婚させられそうだったんでしょ?』


『吾の生きておった時代ではそれが当たり前じゃった。何といっても齢五十も数えれば長寿と言われておったのじゃからな。生き急ぐのも致し方あるまい』


『五十歳が平均寿命なの?』


『小春、お前は敦盛を知らぬのか? 吾は幼い頃より暗唱させられ、謡いながら舞っておったぞ?』


『なにそれ。あつもり? なんかテレビのニュース番組で聞いたことがあるかも……』


『幸若舞も知らぬとは……人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる~』


 小春は庭に面した八畳間で『敦盛』を謡ながら舞いました。

 とはいえ、実際に舞っているのは七緒で、小春は自分の意志ではどうしようもないまま動かされているだけです。


 姿勢を正し、頭の位置を変えないまま動くという所作は、慣れない小春にはかなりきつい動きです。

 そのうえで、腹から声を出しているのですから、息も上がって当然でしょう。

 舞い終わり、七緒の支配から解放された小春はドサッとその場に体を投げ出しました。


「き……きつい……すごい運動量だね」


『小春は呼吸法ができていないからのう。呼吸はとても大事なのじゃ。常日頃から意識せぬと身にはつかん。精進せよ』


 はぁはぁと肩で息をしていた時、庭先でパチパチという音がしました。

 ごろっと頭を動かすと、小鍋を持った会長さんの奥様が立っています。


「あ……おばあちゃん。ハァハァ……気が付かなくて」


「良いのよ。そんなことより、小春ちゃんって凄いわ。あれほど見事な敦盛を見たのは初めてよ……感動したわ。お師匠様や謡の仲間にも見せたいくらい」


 頭の中で七緒の声が響く。


『こやつ、なかなか見る目があるようじゃ』


 当の小春は褒められても困惑するばかりで、なんと言ってよいのか分からないまま困った顔で縮こまるしかありませんでした。

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