scene 2. お調子者の幸運

 お久しぶりです、お元気そうでよかった、と両手をあげたまま笑顔で云うネッドに、サムは不審な目を向けつつ銃をおろした。

「どうやって入った? ヘアピン二本でって答えならぶっとばす」

「捜査じゃないんですからそんなことしませんて。入れてくれたんすよ、俺が来たとき、ここの住人だっていうヒッピー風の男が荷物だしたりしてたんで――」

「ヒッピー? ジェフがか?」

 ネッドの話を聞き、サムは意外そうに眉根を寄せた。「荷物って?」

「ええ、なんかでかいザックやら箱やらを運びだしてたんで、初めは俺、てっきり侵入盗犯バーグラーだと思って捕まえたんすよ。そしたらここの住人だって云われて。でも、それも今日までで出ていくんだって――」

 言い逃れかとも思ったが、写真や契約書やらを見せられて納得し、ネッドはご親切にも荷物運びを手伝ってブロンド美女の乗っていたカルマンギアに積みこみ、ジェフを見送ってやったそうだ。ブロンド美女はハリウッドで映画に出るの、と嬉しそうな顔でネッドに話し、ジェフはハリウッドのスケベ野郎共から彼女を守らないと、と云ってくっついて行ったらしい。

「話はわかったが、なんだって俺の外出中に勝手に行っちまうんだ! ハリウッドだなんてそんな話、俺はこれっぽっちも聞いてないぞ、まったく勝手な――」

「俺に云ったって知りませんよ。はい」

 はい、とネッドが差しだしたのは裏口の鍵だった。ジェフから預かったらしい。サムは溜息をつきながらそれを受け取った。

「ん? どうしたんすかその傷」

 ネッドの言葉に、サムは反射的に頬に手をやった。すっかり忘れていたが、そこには細い二本の線の感触がある。

「ああ、これは……ちょっとな」

「なんか猫に引っ掻かれたみたいな傷っすね」

 サムは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 オフィスを出て、長い廊下を奥に進む。突き当たりのダイニングルームを通り抜け、サムはさらに奥のキッチンへの扉を開けた。するとそこに、嬉しそうに待ち構えていたらしい薄茶色の大きな犬の姿があった。

「よしよし、いい子にしてたかジョン」

 ラブラドールレトリバーか、その血を濃く受け継いでいるらしいその犬はサムの顔を見上げてわん、と一声鳴いた。千切れんばかりに尻尾をぱたぱたと振り、いつもの戸棚へ向かうサムにぴったりとついてくる。

「待て待て。ジョン、おすわりだ」

 おすわりと聞いて、ジョンと呼ばれた犬は素直に従った。が。

「よ、ジョニー」

 その声に、ジョンは弾かれたようにドアのほうへと戻り、ネッドに飛びついた。興奮気味に後肢でぴょんぴょんと飛び跳ねながら、さっきよりもさらに激しく尻尾を振る。

「おー、憶えててくれたかー。よしよし、ははっ、こんなでかかったっけ。みつけたときはこーんなっこかったのになあ」

「ジョンだ。今はジョンと呼んでる」

 サムは銀色の器に缶詰のドッグフードを移してスプーンでほぐし、キッチンの隅に置いた。屈みこんだネッドの顔を熱心に舐めていたジョンがすぐにその位置に戻り、おすわりをしてサムを見る。

「よし、いい子だ。食っていいぞ」

 その様子に目を細めながら、ネッドがキッチンカウンターのスツールに腰掛ける。シンクでタオルを絞ってネッドに渡してやり、サムは冷蔵庫からアンカー・リバティエールを二本取りだした。

 ひとつ空けてスツールに坐り、ビールの小瓶を置くと、サムはさて、とネッドに向いた。

「で? いったいなにしに来た。人手なら間に合ってるぞ」

「そりゃよかった。頼むから手伝ってくれって云われても困ります。俺、FBIの若手きっての敏腕捜査官なんで」

「ほお、そりゃ知らなんだ。てっきりクビにでもなって泣きつきに来たのかと」

「うへぇ、ひどい」

 暫し冗談を云いあい、ふたりは掲げた瓶を呷った。


 ネッドは、サムが連邦捜査局特別捜査官Federal Bureau of Investigation Special agentとして働いてた頃の、最後の相棒である。

 一九七二年から一九七四年にかけて起こった、あの〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟による連続殺人事件で、サムはまだ新人だったネッドと初めて捜査を共にした。そしてその後もサムが定年退職するまでコンビを組み、様々な事件の解決に貢献した。

 そしてサムは無事に定年を迎え、予てから考えていた探偵事務所を構える準備をし始めた。ネッドとは退職してしばらくのあいだは事件の話を聞いたり、飲みに行った先で会ったりしていたが、サムがひとりで持て余していた家を売り払い、忽然と姿を消したようにサンフランシスコに移ってからは、まったく音信不通状態であった。


「で、此処のことは? 俺は、探偵事務所を始めるとは云ったが、サンフランシスコでとは一言も話したことがないんだが」

 云いながら、サムは返ってくる答えなど聞く前からわかっちゃいるがな、とビールを飲みながらネッドの顔を見た。

 ネッドの答えは、見事に予想通りだった。

「すみません、なんていうか、ビュロウじゃみんな知ってます」

「誰か暇な野郎が通話記録を見たな」

「たぶん」

「お家芸だな」

 ちょっと調べれば元職員の居処くらいすぐにわかる。サムも自ら進んで云わなかっただけで、別に隠していたわけでもない。問題は、なぜわざわざ正確な住所を調べてまで、ネッドが自分を訪ねてきたのかだが――

「でまあ、サンフランシスコにいるらしいってのはそんな感じで、もうずいぶん前から知ってたんです。でも、こんな言い方をするとあれですけど、別に休日に遊びに来るような、そんな仲でもないじゃないっすか」

 そりゃそうだ、とサムは頷いた。それなりに息は合っていたが、ネッドはあくまで同僚、仕事上のパートナーというだけだった。週末、家の庭で一緒にバーベキューを楽しんだことさえない。

「今日は、偶々事件を追ってこっちに来たんで、ついでに寄ったというか……ちょっと意見を聞いてみたいというか、そんな感じで」

 事件と聞き、サムはことりとビール瓶をカウンターに置いた。

「おまえが駆りだされてこっちに来るってことは、あれか」

「あれです」

「もう被害者は五人でてるんだったか」

「昨夜、六人めがでました。新聞に載るのは明日ですね。俺は四件めの事件以降から捜査チームに加わったんですけど、どういうわけかサンフランシスコでの犯行が続いてて」

「六人めも?」

「サンフランシスコなんです。……やっぱり、気になってました?」

 若い女性ばかりを狙った連続殺人事件。サムは新聞とTVやラジオのニュースでしか情報を得ていないが、ラスベガス、ベイカーズフィールド、アナハイム、サンフランシスコとアメリカ西部で続いている事件は、その概要からおよそ六年前、全米を騒がせた〝魅惑の殺人鬼〟の仕業ではないかと、既に話題になっていた。



 〝魅惑の殺人鬼〟ことジョナサン・ソガードは主にアメリカ中西部と北東部で、二年足らずのあいだに三十六人の女性を殺害した、連続殺人犯である。

 被害者は夜、ひとりで出歩いていた十代後半から三十代前半の若い女性。それ以外にこれといって狙われる特徴はなにもなく、現場に手掛かりなどは一切残されていなかった。捜査はなかなか進展せず、サムとネッドは事件が起こった場所や曜日など状況を分析して犯人像を絞り、ソガードに辿り着いた。

 だが一足遅く、ソガードは三十六人めを手にかけた現場から逃亡。その後FBIと警察に追い詰められ橋からオハイオ川に転落、死亡したものと見て、事件は解決と公表された。

 しかし、その後もソガードの遺体はみつからずじまいで、生きて逃げ遂せている可能性は拭い去れないままだった。



「191便の事故*¹と暴動*²で持ち切りになるまで、ニュースじゃやたらと〝魅惑の殺人鬼〟の帰還だの、再始動だのってやかましかったからな」

「明日にはまた戻っちまいますよ。で、どうです? 奴が生きててまたやってるんだと思います?」

 ネッドにずばり訊かれ、サムはうむ、と考えこむように顎を撫でた。

「記事を読んだ限りじゃなんとも云えんな。ネッド、おまえはどう見てるんだ」

 そう云うと、ネッドは素っ惚けた顔でひょいと肩を竦めた。

「予断は捜査の妨げになるんで、まだ判断してないっす」

「けっこうだな」

「ところで、サム。そっちの仕事はもう、今日は終わりなんすか?」

 いきなり話が変わり、サムは「ああ、もう済んだ」と正直に頷いた。

「なんの捜査だったんです?」

「捜査じゃない、捜索だ。……ちょっと、家出人をな」

 猫とは云わず、サムはそうぼかして答えた。ネッドはああ、と何度か首を振り、「家出ですか、子供ティーン?」と重い表情で尋ねてきた。

「いや……、家に帰らない悪ガキの捜索は受けないようにしてる。その――」

「わかります。若い子らって、たいしたことでもないような理由で家を飛びだしちまったり、帰らなかったりしますもんね。親は心配で捜索願いを出してきますけど、せっかくみつけても、問題の根っこが解決しないままだとまたすぐに出ていくし」

 サムはこのとき、猫捜しだったと本当のことを云えばよかったと後悔した。ビール瓶を掴んだ手をカウンターにあずけたまま、サムはなにも答えることなくネッドの話を聞いていた。

「それでもまあ、みつけてとりあえず家に連れ戻せればましっすよね。みつけたときたいてい薬漬けか、でなきゃ窃盗かなんかやらかしてますし。過剰摂取オーヴァードーズで遺体安置所から照会がくるなんて最悪なケースも――」

「なんの話だネッド。そんなことはおまえから聞かされなくても、うんざりするほど知ってる。なんでそんな話を始めた?」

 ネッドが驚いたように目を丸くした。つい声を荒げてしまったか、とサムは舌打ちし、ふいとネッドから目を逸らしてポケットから煙草を取りだした。

 一本振りだして火をつけ、気を落ち着けようと煙を吹かしているとネッドが云った。

「すみません、つい無駄話を。……えとですね、云いたかったのは、このあともう予定がないなら、ちょっと見てもらおうかと思って」

「なにをだ」

「捜査資料です」

 ネッドはそう云ってくいとビールを呷ると空にした瓶を置いた。「こっそりコピーしてきた資料と現場写真があるんです。見てもらえるなら、車から取ってきますけど」

 車はすぐ前に駐めてるんで、とネッドは続けた。サムはあの真っ赤な迷惑駐車を思いだし、顔を顰めた。

「あのド派手な車、おまえの?」

「見ました? 最高でしょう」

「最高かどうかは知らんが、デイヴ・スタスキー*³といい勝負なのは間違いないな。……しかしおまえ、まさかここまで車で来たのか?」

 ワシントンDCの本部からにせよ支局のあるシンシナティからにせよ、かなりの距離であることは間違いない。しかもあんなに目立つ自家用車で移動するなど、捜査官としては狂気の沙汰だ。

 そう思い、サムが呆れ気味にネッドの顔をみつめていると――「ええ、車で来たのはまあ、来たんですけど」と、ネッドが言い訳をするように説明を始めた。

「俺、ずっと他の事件の調査でデンバーにいたんです。で、本部からの指示でそっちは抜けてラスベガスに行って、こっちの捜査に加わって。局としてはソガードが生きててまた殺しまくってるんじゃ、面子が立たないんでしょうね。っていうか模倣犯だってのは明らかだったのに、先に新聞があれこれ書きたててくれたもんだから――」

「おい、話が逸れてないか」

「逸れました。で、俺は一件めのベガスから、ジャクソンって奴と一緒にいちから捜査をしてたんです。ソガードの事件の担当だった俺ご指名で、犯人ホシを挙げるのは他に任せておいて、模倣犯であることが確かな証拠をとにかく早くみつけろっていう、上からのお達しです。資料なんかは共有しなきゃいけないんで捜査チームの一員ではあるんですけど、俺のやることっていったら先にチームが捜査したところをもう一回、細かくチェックするわけですよ。それで俺、すっかり嫌われたらしくって……アナハイムの事件まで追いついて、ベガスの捜査本部に戻って報告して、次の日サンフランシスコに向かうはずだったんです。なのに、起きたらもう誰もいなくて。置いてけぼりなんて、大人気無おとなげないっすよね」

「そういう陰険なところもらしいといえばらしいがな。自分の捜査したところを見直されるのはまあ、いい気分はしないだろうな。ところで、まだ話が逸れてるようだが」

「俺だって好きでやってんじゃないっすよ。そして話は、今度は逸れてないです。――それで俺、なーんかむしゃくしゃしてすぐに追いかける気にもなれなくて、せっかくベガスにいるんだからと思ってカジノで遊んでたんです。そしたらなんか、スロットで当たっちゃって」

 サムは額に手を当て、項垂れた。

 いくら陰湿な嫌がらせにあい置き去りにされたとしても、FBI捜査官が任務中にカジノとは。しかも、ただちょっと遊んでいたという話ではないのは察しがついた。車で来たのかという質問に対しての答えがこれで、話が逸れていないというのなら、つまり――

「……スロットで当てた金で、車を買った?」

「さっすがサム。そのとおりです。現金持ち歩くのもなんだったし、移動するのに車が要るなあって見に行ったらあの442があって、一目惚れして」

「もういい、わかった。要するにここへはベガスから来たわけだな」

「いや、正確に云うとアナハイムっすね」

「なるほど」

 乗って帰るのが大変だろうから置いていけばいいぞ、と云ってやろうかとサムは思った。もちろん、うちのガレージに。

 そういえば、自分にとってネッドの車は頗る迷惑だったが、その後ろに駐めた自分の車は隣人に迷惑かもしれない。時間も時間だし、とサムはワゴンをガレージに入れてネッドの車で食事に行き、そこで話をしようと提案した。

「旨い店がたくさんあるぞ。どうだ? おまえの奢りで」

「うへぇ、相談料っすか? ハンバーガーかなにかで勘弁してください」

「なんでだ。カジノで儲けたんだろうが」

「ぜんぶ車の支払いでなくなっちまいましたよ。ほんとなら足りなかったのを、現金一括だからって値切ったんですから」

 ノースビーチの高級レストランでシーフードでも奢らせてやろうと思ったのに、とサムは口許を歪めた。

「しょうがないな、ドギーダイナー*⁴かジンバーガー*⁵あたりにしよう。どっちも夜中じゅうやってるからゆっくりできる」

 そう決まると、サムは既に餌を食べ終えていたジョンを裏口から庭に出してやり、ネッドと一緒にエントランスに向った。









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※1 アメリカン航空191便墜落事故・・・一九七九年五月二十五日に発生した航空事故。

 191便はシカゴ・オヘア空港を離陸した直後に墜落、搭乗していた乗員十三人と乗客二百五十八人の計二百七十一人全員が死亡するという悲劇となった。

≫ https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカン航空191便墜落事故



※2 ホワイトナイトの暴動(White Night riots)については、次話で詳しく触れる。

≫ https://ja.wikipedia.org/wiki/ハーヴェイ・ミルク#ホワイト・ナイトの暴動



※3 デイヴ・スタスキー・・・デイビッド・マイケル・スタスキーはアメリカのTVドラマ『刑事スタスキー&ハッチ』に登場するハッチことケネス・ハッチンソンの相棒。

 スタスキーの愛車である、真っ赤なボディに白い稲妻ラインが印象的な一九七六年型フォード、グラン・トリノは、このドラマで一躍人気となった。

 ドラマは一九七五年から一九七九年まで続き、二〇〇四年にはベン・スティラー主演で『スタスキー&ハッチ(Starsky and Hutch)』とリメイク映画化もされている。



※4 ドギーダイナー・・・Doggie Diner。一九四八年から一九八六年までサンフランシスコとオークランドでチェーン展開していたファストフードレストラン。

 シェフの帽子をかぶり蝶ネクタイをつけたダックスフンドの看板が特徴だった。



※5 ジンバーガー・・・Zim's Hamburger(Zim's Restaurant)は一九四七年から一九九五年にかけ、サンフランシスコとその近郊で多くの店舗を展開した、人気レストランチェーン。

 ジンバーガー(Zimburger)と呼ばれたハンバーガーとホットアップルパイ、ミルクシェイクが人気であった。

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