第2話 異世界転生トラック②
【四】
――翌朝。玄関のチャイムが鳴った。
覗き穴を見るまでもなかった。ドアを開けると、スーツ姿のいかつい男と、制服の警官が立っていた。
「日野雄二さんですね。署までご同行願います」
任意同行——名ばかりだ。
事実上の連行だった。パトカーの後部座席は狭く、俺を含めたむさ苦しい男たちの匂いが充満していた。
取調室での時間は、永遠のように長く感じられた。
俺はどこまで話していいか分からず、質問にだけ答えた。
仕事で福井に行ったこと、人影のようなものが飛び出してブレーキを踏んだこと。そして、昨日のこと。
警察は優秀だった。福井の現場写真まで持っていた。あれは、俺のトラックのブレーキ痕だ。もう照合されているかもしれない。
だが、彼らもまた困惑していた。
一通り質問に答え終わると、ドラマのようにすぐ逮捕されるのかと思った。しかし、実際はそういうものではないらしい。
結局、昼前には解放された。
証拠不十分——そういうことらしい。
だが、警官たちの目は明らかに俺を「クロ」だと見ていた。泳がされているだけだ。
署を出て、ふらふらと歩いた。空はどんよりと曇っていた。
何が起きているのか、理解できなかった。しかし、実際に起こったことは、動かしようのない事実だった。
このままでは、俺は福井県で子供を誘拐し、トラックで運び去って遺棄した凶悪犯と思われるのだろう。そして昨日の事故のこともある。
ドライブレコーダーや監視カメラの映像は、肝心な部分がノイズのように欠落している。
それでも、状況証拠という名の包囲網は、確実に俺の首元まで迫っている。俺が逮捕されるのは、時間の問題だと肌で感じた。
幽霊のように家に向かって歩く。
どうすればいい。頭の中で言葉だけが空回りし、答えは出ない。
10分ほど歩いたところで、スーパーマーケットの自動ドアが開く音と、明るい店内放送が耳に入った。
ふと気づいた。こんな状態だが、腹が減っていた。朝から何も食べていない。
極限の不安の中にいても、胃袋は収縮し、養分を求めて鳴く。人間の体とは、なんと浅ましく、そしてしぶといものか。
惣菜コーナーで、適当な弁当を手に取った。腹が減っているので、菓子パンとお茶もカゴに入れる。家まで帰るのも億劫で、レジを済ませるとスーパーの片隅にある休憩所の椅子に座り込んだ。
プラスチックの蓋を開け、冷えた米と揚げ物をガツガツと口に運ぶ。味などしない。ただ、固形物を胃に詰め込む作業だ。
けれど不思議なもので、腹が満ちてくると、麻痺していた思考の歯車がギチリと回り出した。
なんとか俺の無実を証明しないといけない。いや、証明したところで無実ではないかもしれない。それでも、何かできることを探したい。
警察が動かないなら、俺がやるしかない。
そう考えてからは、体が勝手に動き出していた。
【五】
一度アパートまで戻り、駐輪場の奥で埃を被っていた自転車を引っ張り出す。長らく放置していたせいで、チェーンは赤錆に覆われている。跨ってみる。ギシ、とサドルが悲鳴を上げたが、なんとか動くようだ。それに乗り、再びさっきのスーパーへと向かった。
今度は惣菜コーナーではない。生活用品売り場と、生鮮食品のコーナーで一通り買い物を済ませる。
今の俺には痛い出費だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。そして、自転車に乗ったまま、俺は昨日の公園へとやってきた。今日も、広い敷地の割に人はまばらだった。遠くに散歩をする老人の姿が二、三人見える程度だ。
俺は自転車を押しながら、できるだけひとけがなく、目につきにくいエリアを探して移動した。
公園の隅、植え込みに囲まれた公園整備用の物置の前が、ちょうど良かった。
遠くのベンチに、男が一人座っていた。
大学生だろうか、小柄な体格で珍しい木製フレームの眼鏡をかけている。本を読んでいるようで、こちらを見ている様子はない。
少し気になったが、この距離と角度なら、俺が何をしているかまでは見えないはずだ。
自転車を止め、スーパーの袋から中身を取り出す。
最初は、スーパーに併設されていた百円ショップで買ったクッションだ。一つ三百円もする。二つで六百円。今の俺には痛い出費だ。
それを二つとも取り出すと、自分が着てきたダウンジャケットを脱ぎ、その中に無理やり詰め込んだ。
袖や胴回りがパンパンに膨れ上がり、かなり不格好だが、遠目に見ればうずくまっている人間サイズの「何か」には見えるはずだ。地面にそれを置く。
そして、自転車を押して、十メートルほど距離を取った。自転車に跨り、ペダルに足をかける。
上着を脱いだせいで、寒風がシャツ越しに肌を刺す。あたりに人はいないとはいえ、いい年をした大人が、寒空の下で上着の塊に向かって自転車を全力で漕ごうとしているのだ。
完全な不審者、あるいは変人に見えるだろう。
それでも、今は構わなかった。俺はペダルを踏み込んだ。
キコキコと錆びたチェーンが鳴く。力任せに加速する。目の前には、俺の抜け殻のような上着の塊。
行け。消えろ。異世界でもどこでも行ってくれ。
自転車の前輪が、上着を捉える。ボフッ、という間の抜けた音がした。
衝撃で上着のファスナーが弾け、中のクッションが白い綿を吐き出して転がった。
しかし、何も起きなかった。
ただ、自転車が物にぶつかって俺が倒れそうになっただけだ。地面に足をつき、乱れた息を整える。
そうだろう。想定内だ。これはただの綿と布だ。
まだ、次を用意してある。次に取り出したのは、精肉コーナーで買ってきた、大きな豚のブロック肉だった。
ずっしりと重い塊を、ラップを引き裂いて取り出し、そのまま無造作に地面の土の上に置く。
赤身と脂身の層が、午後の頼りない日差しを浴びて生々しく光る。かなり勿体ないことをしているという自覚はある。
だが、無実の罪で捕まる恐怖に比べれば、安いものだ。
豚と人間は、遺伝子的にはかなり近いと、昔読んだ漫画に書いてあった。もしも、俺の乗り物が「人間」という生体を認識して飛ばす能力があるのなら、この肉塊でも何らかの作用が起きるかもしれない。
自転車を後ろまで引き、ペダルに足を乗せる。深呼吸を一つ。今度は、無機物ではない。「肉」だ。
ペダルを漕ぐ。アスファルトではなく、土の上をタイヤが噛む感触。加速する。全力で、豚のブロック肉に乗り上げた。
グニリ。ゴムのような弾力と、それでいて重さに負けない反発力が、ハンドルを通して手に伝わってきた。
タイヤが肉に食い込み、乗り越える瞬間の、なんとも言えない不快な感触。
本当に人を轢いたなら、こんな感触なのだろうか。背筋がゾクリとする。慌てて自転車を止め、振り返る。
だが、結果は同じだった。何も起こらない。豚肉は、タイヤの跡をつけられ、泥にまみれてそこに転がっていた。
こうなる可能性も考えていた。肉だけではだめなのかもしれない。
俺は最後の袋を取り出した。中から出てきたのは、魚だ。
鮮魚コーナーの氷の上に並んでいた秋刀魚(さんま)。
店員が「こちらで捌きましょうか?」と声をかけてきたのを遮り、そのまま買ってきた。
その魚は、虚ろな目でこちらを見ている。わずかにエラが動いていた。
そうだ、この魚はまだ「生きている」。少なくとも、俺の目にはそう映った。
陸にあげられてなお、その身に生の名残を留めている。
スーパーの店員からすれば、俺は塊肉と鮮魚を買った、さながら今夜のパーティー料理を作る料理好きに見えただろうか。
しかし現実はどうだ。その食材たちを公園の地面に並べ、自転車でそれを轢くという、狂気のような実験を繰り返している。
魚を地面に置く。細長い銀色の体が、黒い土の上で異様に目立つ。自転車を後ろまで下げた。ペダルを踏む足が、少し震えた。
最初は人間サイズの服の塊だった。次は、死んだ肉の塊。そして、この魚は、今までと違って生き物の形を完全に留めている。
もし、「生きているもの、あるいはその形をしたもの」を異なる世界に飛ばすのであれば、これで何か起こるはずだ。自転車を加速させる。
すまない。心の中で謝罪する。食べ物を粗末にするのは苦手だった。それが、命あるものなら、なおさらだ。
そしてこれは、食べるためでもなければ、遊びですらない。
自分の無罪へ少しでも近づくための、意味があるのかさえわからない、必死の検証だ。
加速した自転車のタイヤが、秋刀魚の体に乗り上げた。
グチャッ。
湿った、液体のような、それでいて芯のあるものを押し潰す、嫌な音が響いた。ハンドルを取られそうになりながら、俺は急停止して振り返る。
当然というべきか。やはりというべきか。
哀れな秋刀魚もまた、異世界に旅立つことはなかった。
虚ろな目は、なおも濁ったままこの世界を映し、腹が破れて内臓と赤い血が滲み出していた。
銀色の皮膚が、無惨に剥がれ落ちている。
俺は、しばらくそれを眺めていたが、急に猛烈な吐き気がこみ上げてきた。
俺は何をやっているんだ。
【六】
クッションを自転車の荷台に乗せ、泥だらけの豚肉を乱暴にスーパーの袋に放り込んだ。
秋刀魚は、そのままにした。というより、触ることができなかった。
飛び出した内臓と、あの虚ろな目が、自動車に轢かれた被害者の姿と重なって見え、たまらずその場を逃げ出したのだ。
家に帰ってきた。朝、家を出た時のまま、布団が敷きっぱなしだ。
閉め切った部屋は、カビ臭く、淀んだ生活の臭いがした。
カップ麺の調理しかしない狭い台所のシンクに、持ち帰った豚肉を投げ出す。蛇口をひねり、水をかける。
魚は無理だったが、これだけでも食べて処理したかった。せめてもの償い——いや、証拠隠滅か。
タイヤ痕がつき、泥で汚れた部分を包丁で削ぎ落としていく。
本来であればご馳走になるはずの肉だ。だが、今の心境では、まるで死体処理をしているようだった。
豚肉から滴る赤い水が排水口に吸い込まれていくのを見つめながら、俺の心は冷え切っていた。一口大に切り分けて、冷蔵庫に押し込む。明日にでも焼いて食べよう。味付けを濃くすれば、泥の匂いも味も誤魔化せるだろうか。とにかく今日はもう疲れた。
冷蔵庫にあった缶チューハイを取り出し、プルトップを開ける。炭酸の抜けるパシュッという軽い音がした。部屋の明かりもつけず、薄暗い中で一人、また考える。
なにか、ないだろうか。解決の糸口は。
いや、それともこれまでの全てが、俺が見た幻なのではないか? 俺は悪い夢を見ていて、それが延々と続いているだけなのでは?
考えても、何も変わらない。
せめてできることを試すとは言っても、誰かに「俺が運転する車に轢かれてくれよ」なんて頼めるわけもない。
想像してみて、乾いた笑いが漏れた。そうだ、こんなこと、誰にも頼めるわけがないのだ。
俺は一人で、この不条理な状況に立ち向かうしかない。缶チューハイの最後の一口をあおる。安っぽい人工甘味料の味が舌に残る。まずい。だが、とにかく酔えればいい。脳を麻痺させたかった。そう思い、冷蔵庫にあったチューハイの缶を開けていく。
酔いが回るにつれ、思考の輪郭がぼやけ、逆に記憶の断片が鮮明に浮かび上がってくる。
何か、解決の糸口はないか。思い出せ。事件の時、何か、何か共通点はないか。
トラックで人を轢いたのは、福井の時が初めてだった。それまでも荷物や壁にぶつけたことは何度かあったが、その時は何も起きていない。
……そういえば、福井の事件の後、高速道路でついた羽虫の死体が多かったのを嫌がって、念入りに洗車をした。
その時、バンパーには被害者の血痕や傷はなかった。ただの虫の死骸だけだ。つまり、羽虫のような小さな命では、何も起こらない。それは今日の実験でも明らかになった。
そこまで考えて、息を呑んだ。記憶の彼方から、事故の映像が再生される。
そうだ。猫だ。女子高生の事故の時、彼女よりも先に、黒い小さな影が飛び出していた。
あの猫は、どこに行った? 確かに見た。事故の後、あたりを見渡したが、その時は女子高生の消失に気を取られていて、深く考えていなかった。だが、あの場に猫の死体も、逃げていく姿もなかったように思う。
背筋にぞくりと電気のようなものが走った。
もし、俺が轢いた生き物が、大きさや——うまく言えないが「魂」の質量みたいなもので選別されているとしたら?
魚や羽虫では、その条件を満たさない——反応しないのだとしたら? 哺乳類か、知能があるか、その辺の分類があるのかは分からない。
とにかく、あの時の猫は、ただ逃げたのではなく、女子高生と一緒に「消えた」のではないのか!?
俺は空になった缶を握りしめた。まだ確信は持てない。未だ闇の中にいるのは間違いない。
しかし、地獄に堕ちた我が身を救う蜘蛛の糸よりも細く、頼りないそのきっかけに、俺は全てを託してみたいと考えた。
魚でも、肉でもない。「猫」だ。あの猫こそが、この不可解な現象を解く鍵なのかもしれない。
【七】
翌日、俺は馴染みの車屋に連絡を入れ、事故をしたトラックを受け取った。
ガードレールに接触した際に、左側のバンパーと装飾の一部が壊れたが、走行の支障となる部品は外してあると親父は言った。
念のため頼んでおいたアクセルとブレーキのペダル周りの点検も、異常はなかったという。機械の故障ではない——それが分かって、少し安心したような、それでいてさらに不安になったような、複雑な気分だった。
「用事だけ済ませたら、また車を預けに来ます」
そう告げて、キーを受け取る。手のひらに残る金属の冷たさが、これから犯す罪の重さのように感じられた。
しばらく郊外の町まで車を走らせた。三十分ほど走ったあたりで、山間の小さな住宅地の中でトラックを停める。表札は、大村。間違いない。
昨日の夜、アルコールに浸った脳でインターネットを検索し、「子猫差し上げます」という掲示板の書き込みを見つけていた。
投稿自体は一ヶ月ほど前だったが、取り下げもされていなかったので、まだ大丈夫だろうと昨夜のうちにメールをしておいたのだ。
玄関前に立ち、チャイムを鳴らす。
出てきたのは五十代の女性だった。恰幅のいい、いかにも家庭的な「お母さん」という雰囲気である。
エプロン姿が似合う人だ。女性は「はいはい、お願いしますね」と言い、まるで家の畑で採れたミカンか、柿でも渡すように軽い感じで、バスタオルに包まれた子猫を差し出した。
当然のように、俺がメールをした本人かどうかの確認もない。
差し出された子猫を、バスタオルごと受け取った。
温かい。掌を通して伝わってくる小さな鼓動と体温に、心臓が一瞬、早鐘を打つ。
「バスタオルは寝床に使っていたものだから、よかったらそのままどうぞ、あ、汚いタオルでごめんねぇ」
と、女性は屈託なく笑っている。
「ありがとうございます。助かります」
我ながら、意味の通らない返事をしてしまったと思う。
だが、女性は気にしていないようだ。
バスタオルの隙間から、クリクリとした目が覗き、じっと俺を見つめている。
生後一ヶ月半だと聞いたが、思ったよりもずいぶんと大きい。生まれてすぐでも、こんな大きいのかと少し圧倒される。
家の奥の方から、年老いた男性の声が聞こえてくる。「誰か来ているのかい?」と老人が尋ねた。
「あらあら、ごめんなさいねぇ」と声をかけ、お母さんは家の中に入ろうとする。
俺は急いで、来る途中で買ってきたギフト用のクッキーの詰め合わせを手渡した。
猫のことは「無料で」と書いてあったが、せめてこれくらいは渡しておきたかった。それは礼儀というよりも、これからやる行いへの、身勝手な免罪符だったのかもしれない。
お礼を言う女性から逃れるように、いそいそとその場を離れる。
バスタオルの中の猫を大事に抱えたまま、誰にも見られないように、トラックに乗り込んだ。
まるで、本当に誘拐をしているような気分だった。いや、誘拐犯のほうがまだマシかもしれない。俺がやろうとしているのは、実験という名の殺処分なのだから。
車に乗ったら、子猫をバスタオルごと、助手席に用意しておいた段ボール箱に入れた。
「そうだ、これでいい」
自分に言い聞かせる声が、車内で空虚に響く。もっと暴れるかと思ったが、猫はお気に入りのタオルと段ボールのベッドが心地よいのか、暴れることもない。ただ、少し緊張しているのか、小さく「ミャア」と鳴いただけだ。
そのまま蓋をして、段ボールの口をガムテープで止める。これで、簡単には出てこられない。
トラックを走らせる。十分経っただろうか、十五分だろうか。とにかく、猫をくれた女性の家からも、俺が住んでいる街からも離れる。目指すは、できれば山の中の、長い直線道路だ。行きがけに目星はつけてきていた。
不法投棄監視の看板が錆びついて倒れているような、寂れた林道。
「ここだ」
山の中でトラックを停める。ここなら、長い直線だし、おそらく監視カメラの類もないだろう。
トラックを降りて、前後を確認する。鳥の鳴き声と、風が木々を揺らす音しかしない。他に車も来ない。二、三分で済めば、きっと大丈夫だ。
段ボールの中には、さっきの子猫がいる。とてもではないが、中を確認する気にはならない。確かに中に入れたし、中でゴソゴソと音がする。
子猫は間違いなく、この中にいる。車のドアを開け、段ボールを持ち上げる。緊張でひどく喉が渇く。口の中が粘つく。
そうだ。これは、俺の無実を証明するためなんだ。仕方ないことなんだ。
俺一人が助かるためじゃない、これ以上被害者を出さないための、尊い犠牲なんだ。
心の中で必死に言い訳を並べ立てながら、少し離れた位置に、段ボールを置いた。
もし、失敗した時、そのまま生身でグチャッとなるよりは、段ボールのままの方が処理が楽そうだ。
そんな考えが頭をよぎり、いまさらの自己嫌悪に押しつぶされそうになる。
道路の真ん中にぽつんと置かれた茶色い箱。あの中に、温かい命がある。
トラックまで戻る足取りが重い。地面に靴底が張り付いているようだ。
もし、もし警察にバレたとしても、これなら山中に捨てられた猫を、たまたまトラックで轢いた、それだけのことだ。
そうするために、メールは一度きりの捨てアドレスにしたし、女性に教えた名前も偽名だ。もう二度と会うことはないだろう。
ハンドルを握り、エンジンをかける。ブルルン、と車体が震える。その振動が、なぜかトラックが「待ってました」と笑っているように感じられた。これまでのことが、走馬灯のように目の端でチラチラと再生される。最初の少年、この間の女子高生、取調室の冷たい空気、自転車で繰り返した狂気の実験……どれも、もうウンザリだ。
俺は。今から。この猫を轢く。
もしも、これで猫がいなくなれば、それは俺に轢いた生き物を異世界に飛ばす能力があったということ。
もし、轢いて死んでしまえば、また次の実験に進むだけ。
最悪のシュレディンガーの猫だ。箱の中の猫は、生きているのか、死んでいるのか、それとも消えているのか。観測するまで確定しない。だが、観測するには、轢かなければならない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息が荒い。過呼吸になりそうだ。やるなら早いほうがいいと考えているが、決心がつかない。
歯の根がガチガチと鳴る。急げ。他の車が来るかもしれない。もしかしたら、猫が箱から逃げるかもしれない。
そうしたら、終わりだ……。焦る気持ちに背中を蹴り飛ばされるように、俺はクラッチを繋いだ。
猫までは三十メートルもない。一気に加速すれば数秒で到達できるだろう。
アクセルペダルを踏み込む。
ブゥオォォォォン!!と、エンジンが、今まで聞いたこともないような甲高い唸りを上げた。
加速する。背中がシートに押し付けられる。これで、終わりだ! これで、俺は救われるんだ。
ハンドルが小刻みに震える。その振動が、掌を通して俺の心臓を勢いづけてくるようだ。
加速する車の中で、一秒が何倍にも引き伸ばされる。
――本当に、終わりか?
――こんなやり方で、本当に救われるのか?
疑問がいくつも噴き上がる。だが、もう減速することもできない。
目の前に迫る段ボール箱が、ガタガタと動いた。
中に猫はいる。そうだ、俺が置いた。
中にいる猫は、生きて、そこに居る!!
その事実が、脳天を貫いた。
「うおああああ!!!!」
それは、本当に叫んだのか、それとも魂の叫びだったのか自分自身でもわからない。
間に合わない。轢く。殺す。いやだ。殺したくない! 俺は、反射的にブレーキを踏もうとした。だが、ブレーキだけでは間に合わない。俺は咄嗟にハンドルを切り、力任せにねじ伏せた。
キキキキキッ! タイヤが悲鳴を上げ、車体が大きく左に傾く。遠心力で体が持っていかれそうになるのを必死で堪える。
段ボール箱が、フロントガラスの右端を掠めていくのが見えた。ドスン、とタイヤが路肩の砂利に落ち、トラックは激しく揺れて停止した。エンストしたエンジンが、カスン、と情けない音を立てて止まる。
静寂が戻ってきた。俺はハンドルに突っ伏し、荒い息を繰り返した。
殺せなかった。いや、殺さなかった。またこの光景だ。この一月の間に、こんなことを三度もやっている。だが、今回は違う。
俺は自分の意志で、避けたのだ。
ドアから飛び出す。段ボールは、そこにある。もちろん、異世界に飛ばされてもなければ、潰れてもいない。二つのタイヤの間をすり抜けたのだ。
息を切らして、段ボール箱まで駆け寄る。上面のテープを乱暴に破って箱を開く。猫は何が起こったのかわからないという顔でこっちを見ている。
ただ、なにか不快なことが起きたというくらいの感覚はあるようで、さっきまでと表情が違い、耳を伏せて威嚇していた。
自分で殺そうとしておいてなんだが、生きていたことが嬉しくて、咄嗟に手を出した。
「ギャッ!」
猫は「お前がやったのか?」とでも言いたげに、差し出した俺の手をガリっと引っ掻いて傷をつけた。
鋭い痛みが走り、手の甲から、血がだらりと垂れる。
赤い血。生きた血だ。
「ははは……」と乾いた笑いが出た。
生きている。
この猫は、生きている。
それだけで、何か救われたような気がした。
都市怪奇譚【異世界転生トラック】 縣邦春 @agatakuniharu
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