13.呪いの矢
龍王は途方に暮れていた。
ヨシュアに殴られて寝台から落ちたのだが、ヨシュアが手加減をしてくれていたことくらいはすぐに分かった。鍛えられたヨシュアの腕ならばもっと威力を出せただろうに、怪我をさせない程度で収めてくれた。
取り縋って涙でも見せればヨシュアは絆されてくれるだろうか。
これだけ手厳しく拒絶されたのだからそれはないだろう。
愛さないと言ったことも、褥を共にしないと言ったことも後悔しかないのだが、一度言ったことは取り消せないと言われてしまうとどうしようもない。
「ヨシュア殿、あなたを愛しています。二人きりのときはあなたに敬意を示して敬語で喋らせていただきます」
「それはお好きになさったらいいですが、わたしはあなたの慰み者になるつもりはありませんので」
寝台に押し倒して口付けようとしたことはヨシュアを相当怒らせてしまったようだ。
普段は淡々としているくらい静かに喋るヨシュアが、声を荒げていた。
護衛の対象となる龍王の側頭部を殴るまでしたのだ。
側頭部に触れると、じんじんと痛みが残っている気がする。
椅子に座り直して長衣を着ようとすると、侍従がすぐに来て着せてくれる。
侍従は医師も呼んだようだ。
呼ばれた医師が素早く龍王を診る。
「どこか痛いところはありますか? 気分が悪かったりはしませんか?」
「頭が少し痛い」
素直に答えると側頭部を見られて、氷嚢で冷やされる。氷嚢の中の氷は龍王が自分で作ったものだった。
「わたしが悪かったのだ。ヨシュア殿には何の咎もない」
全てを察しているはずの侍従と敬語の兵士にははっきりと伝えておく。
愛に浮かれてヨシュアに無理強いをしようとした自分が悪いというのは、龍王もはっきりと分かっていた。
「午後の政務はお休みください。今日はお部屋でゆっくりと休まれることをお勧めします。気分が悪くなったり、吐いたりしたらすぐにわたくしをお呼びください」
医師に申し渡されたので午後の政務は休みになって、龍王は着替えて寝台に横になった。ヨシュアはずっと無言のまま椅子に座って長い脚を組んで、その膝で手を組んでいる。
ヨシュアと話がしたかったが、これ以上ヨシュアを怒らせたくなくて、龍王は目を閉じた。
部屋には心が穏やかになる香が焚かれ、芳しい匂いで満ちていた。
目を閉じていると昼餉の後の眠気が襲ってきて、龍王はうつらうつらと眠ってしまう。
目を覚ましたときには、ヨシュアは部屋にいなかった。
目を覚ましたきっかけが、警備の兵士が部屋に入ってきた気配だったので、ヨシュアはその直前に部屋を出たのだろう。
もう戻ってこないかもしれない。
なんとなくそんな気がして、愕然としていると、侍従が水で濡らして硬く絞った布で汗を拭いてくれる。
「わたしは、取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか」
呆然と呟くと、ラバン帝国からヨシュアが連れて来た侍従が微笑んだ。
「我が主はとても心優しい方です。また、とても辛抱強い方です。龍王陛下の配偶者となるためにこの国に来たのは確かですし、龍王陛下の水の加護のお力は本当に尊敬していらっしゃいます。龍王陛下をお守りすることは何があろうとやり通されますよ」
ラバン王国から連れてこられた侍従が言うのだからそうなのだろうと思いつつ、龍王はしみじみとその侍従を見た。栗色の髪に同色の目の四十代半ばくらいの男性だ。身長は龍王よりも少し高いくらいで、ラバン王国では中肉中背にあたるだろう。
「ヨシュア殿に連れて来られたそなたは、信頼されているのか?」
「わたくしは、我が主の乳兄弟です。わたくしの方が少し早く生まれましたが、主が生まれてからは遊び相手としておそばにいて、ラバン王国に嫁がれる際には、侍従としてご一緒できるようにお願いいたしました」
四十代半ばに見えるこの侍従はヨシュアと同じ年のようだった。
侍従よりもずっと若く三十歳前後に見えるヨシュアは確か四十六歳だと聞いていた。ラバン王国の魔術師でも血が濃いものの方が寿命が長く、血が薄いものは寿命が短いという話だ。
侍従はそれほど血が濃い魔術師ではなくて、ヨシュアは王族の従兄妹同士が結婚した特に血の濃い魔術師のようだから、これだけ外見に差があるのだろう。
「結婚はしているのか?」
「我が主はするようにと仰いましたが、主を差し置いて結婚などできませんでした。おかげで志龍王国に我が主が嫁ぐときにも、同行を許されましたので、結婚をしなくてよかったと思っております」
明るく述べているが、乳兄弟であるこの者が結婚をしない決断をしたときにヨシュアは心を痛めたのではないだろうか。
考えているとヨシュアが部屋に戻ってきた。
「龍王陛下、魔術騎士団を青陵殿の外に呼んでもよろしいでしょうか?」
「何がありましたか?」
「わたしの張った結界を破ろうと試みたものがいます。結界の一部が綻んでいたので、修復してきました」
聞けば青陵殿はヨシュアが厳重に結界を張り巡らせているという。
その結界の一部に攻撃されたような跡があったというのだ。
「本人が直接来たのではなく、呪いの矢を使って結界を破ろうとしたようです」
呪いの矢と聞いて、龍王の顔色が変わる。
「わたしに狙いが定められないとなったら、その矢は民衆に向くのではないですか!?」
「ですから、魔術騎士団を青陵殿の守りに立たせて、こちらを呪いの的にしようかと思っております」
「結界を緩めることはできますか?」
「ご自身を危険に晒すつもりですか?」
「王都で無差別に殺人が起こるよりは、わたし一人を狙わせた方が安全なのではないかと思います」
王都にほど近い集落で得た犠牲で呪術師がどれだけ代償を得たかは分からない。何本の呪いの矢が準備されているかも分からない。
民衆がその的になるくらいならば、囮になるのは構わないと龍王は決めていた。
「わたしは龍王。国民を守ってこそ、その威光が保たれる。わたしを囮に使ってください」
「自らを危険に晒す行為はお勧めできないのですが、呪いの矢が跳ね返って民衆に向くかもしれないし、無差別に民衆を狙い始めたら民衆には守る術がないのも確か。それが龍王陛下の命令ならば、結界を緩めましょう」
ただし、とヨシュアが続ける。
「魔術騎士団を挙げて、呪術師の捜索をさせます。呪いの矢を結界にぶつけてきているのだから、近くにいることは確かです。龍王陛下の御身はわたしが責任をもって守らせていただきます」
ヨシュアは龍王と話し合った後に、魔術騎士団に指示を出すために一時部屋を退出した。
先程ヨシュアが部屋を退出したのも、結界が攻撃されていることに気付いて、その緩みを修正しに行ったのだと分かって安心する。
龍王の近くには警護の兵士が立っているが、呪いの矢に関しては龍王を守る術を警護の兵士は持っていなかった。
そのとき、龍王の座っている椅子の後方から密やかな声が聞こえる。
「緊急事態なので、青陵殿に入らせていただきました。イザークです。許可が後になりましたが、青陵殿に入ることをお許しください」
「許そう。あの方がいない間はわたしの警護はイザークに任せるとあの方も言っていた」
「お許しいただきありがたく存じます。これより、青陵殿の結界が緩みます。呪いの矢が龍王陛下を狙って来るかもしれませんので、お覚悟ください」
「守ってくれるのだな?」
「命に代えましても」
イザークが言った瞬間、何かが砕ける音がした。
禍々しい黒い霧を固めたような矢が真っすぐに龍王の胸に向かってきていたが、その矢はイザークの作った小さな魔術の盾で弾かれ砕けた。
「結界を緩めた。イザーク、龍王陛下は?」
「第一陣を浴びましたが、魔術で止めました」
「よくやった。あの集落で亡くなったものは六人になるという。一本目の矢が結界を破ろうとしたなら、今のが二本目、残り四本来るぞ」
「龍王陛下、そのまま動かずにいてくださいませ。侍従たちも、警護の兵士も部屋から出るように命じてください」
部屋に駆け込んできたヨシュアとイザークの交わす言葉に、緊迫感が走る中、龍王は告げる。
「わたしとヨシュア殿とイザーク以外はこの部屋から出よ」
「ですが、龍王陛下、危険です」
「危険だから出よと言っているのだ。そなたらがいれば、ヨシュア殿とイザークの守る人数が増えて逆に負担になる」
絶対にヨシュアは侍従も警護の兵士も傷付かないように立ち回るだろう。
それならば、侍従も警護の兵士もこの部屋にいない方がいい。
「見晴らしがいい場所がいいかもしれませんね。庭に出ましょうか」
「存外、大胆なことをなさる」
庭に出るという龍王に、ヨシュアは苦笑したが付いてきてくれるようだった。
廊下を歩いているときも龍王もヨシュアも姿を隠しているイザークも速足で、誰ともすれ違わないようにしていた。
庭に出ると強い夏の昼間の日差しが降り注いでくる。
日差しの中でヨシュアの豪奢な金髪がきらきらと輝いている。
「龍王陛下、先程の一撃で結界に穴が空きました。次はもっと強い矢が来ますよ」
「守ってくれるのでしょう?」
その矢の的が民衆に向かわぬのならば自分は囮になっても構わない。
緩く両腕を広げて庭に立つ龍王の胸を狙って、漆黒の霧を固めたような鋭い矢が向かってくる。
龍王の前に腕を広げ、手の平を龍王の胸の前に広げたヨシュアの手の平に当たる寸前で、矢は砕けて霧散した。
「矢を放つ呪術師の居場所はまだ分からないのか?」
『呪術で隠れ蓑を作っているようです。矢の数が増えてくると、代償が足りなくなって退くか、隠れ蓑を剥がすことでしょう』
「それまで耐えろということか」
通信で立体映像と話しつつも、続いて放たれた矢を素手で掴んで受け止めたヨシュアに、龍王がその手を思わず触ってしまう。
手の平を開かせて傷がないことを確かめる龍王に、ヨシュアがその手を払った。
「わたしの心配をしている場合ではありません。守られることに集中してください!」
「ヨシュア殿の手が傷付いたら、わたしは……」
「甘いことを言っていないで、あなたは守られていればいい」
王なのだから。
龍王として民衆と自分の命を秤にかけるようなことをしてしまった時点で、ヨシュアとイザークが危険に晒されるのは分かっていた。それでも、囮になることを選択したのは龍王だ。
守られなければ生きていることができない龍王など、どんな価値があるのだろう。
愛するひとを危険に晒してまで守られる自分に嫌気がさした龍王は、自然とその姿が解けていくのを感じていた。
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