第26話 温泉の明かり

 箱根に行きつけの温泉宿がある。行きつけと言っても行くのは年に2度ほど、それも1泊するだけなのだが。

 楽しみはなんといっても温泉に入ることだから、1泊の間に4回は入ることにしている。とくに深夜の12時過ぎに入るのが一番好きだ。

 これは、昨年末に訪れた時の話だ。

 この時も12時を過ぎるのを待って、大浴場に向かった。

 この旅館の大浴場には、ジャグジー、大浴槽、露天風呂の3浴槽がある。

 深夜の入浴は、まずジャグジーで冷えた体を温め、それから露天風呂でのんびり夜空を眺め、そして大浴槽に入り直してから出る、という段取りに決めている。

 この時も同じようにジャグジーに10分ほど入り、それから露天風呂に向かった。

 露天風呂といっても6畳弱ほどの広さしかない。石で作られた浴槽の外は小さな庭で、その先は密生した雑木林になっている。だから、浴槽から見えるのは、もっぱら雑木林の木の幹ばかりだ。

 夜になると、それらもみな闇にすっぽり包まれて、頭上に円く星空が見えるのみとなる。――それが、いいのだ。

 ボーッと星空を見るともなく見ていると、こうしているのが現実なのか夢なのか曖昧になってくる。現実感というものが闇に溶けていって、宇宙空間のような、あるいは死後に魂が帰っていく原郷のような空間に浮かんでいる気分になるのだ。

 この時もボーッと星空を見上げていたのだが、しばらく経つと首が凝ってきたので、視線を下げた。すると、雑木林の木立の間に、小さな白い明かりが二つ見えることに気がついた。

 雑木林の奥で旅館の敷地は終わっているので、施設の明かりであるはずはない。敷地の向こうに道路があって、その街灯が見えているのかとも考えたが、そんなところに道があったとも思えない。

 なんとなく目が離せなくなり、そのまま明かりを見つめ続けていると、目が慣れたのか明かりが少しずつ大きく見えてきた。右の方がやや大きく、左は少しぼんやりしている。

 さらに見ていると、明かりの奥に建物があることに気づいた。目を凝らしてよく見ると、右側の明かりの中に見えるのは3階建てのマンションで、左側は一軒家らしい。

 どんな人が住んでいるのだろう、などと思っていると、マンションからひょろっとした男が出てきた。

 「おや?」と思っている間に、男は明かりの外へ走り去った。そして、二呼吸ほどおいて、左の明かりの中に現われた。

 男は明かりの中の民家の前に立つと、玄関を叩き始めた。程なく民家からも人が出てきて、男と口論になった。

 しばらく言い争った後、民家の者が家に戻ろうとした時のことだ。

 男がその背中を包丁のようなもので刺した。

「え?!」

 思わずそう叫んで、立ち上がった。

 見る角度が変わったためか、明かりはもう見えなくなっていた。もう一度腰を下ろしてみたが、明かりを見つけることはできなかった。

 しかし、殺人現場を目撃してしまったという思いは消えず、痛いほどの動悸も治まらなかった。

 逃げるようにして脱衣所に行き、体を拭くのもそこそこに服を着て部屋に戻った。

「警察に通報すべきだろうか?」

 部屋をウロウロ歩きながら、そんなことを考え続けた。しかし、考えれば考えるほど、あの光景は幻としか思えなくなっていった。

「そうだ。長湯でのぼせて幻覚を見たんだ」

 そう思って寝てしまうことにした。

 翌朝、目が覚めるとすぐに、大浴場に行ってみた。そして、露天風呂に出てみて愕然とした。

 雑木林の向こうには、3メートルほどもあるコンクリートの塀が立っていたのだ。家どころか街灯の光が漏れてくることもありえない。

「やっぱり幻だったか。警察に言わなくてよかった」と胸を撫で下ろすと、改めて露天風呂に身を浸した。

 その3時間後、チェックアウトのためにフロントに降りていくと、宿の玄関先にパトカーが数台停まっているのが目に入った。

「何かあったんですか?」

 ドキドキしながらフロントの職員に尋ねると、彼は顔をしかめてこう言った。

「裏の民家で殺人があったんですよ。犯人は近くのマンションの住人らしいんですが、現場で首を切って死んだそうです。――静かな町なのに、困ったことです」

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