第55話:偽りの楽園☑️

夕陽が黄金の平原サテライトの地平線に沈みゆく頃、リリア・ハーヴェイは慎重な足取りでオルドサーヴィスの門をくぐり抜けた。彼女の瞳には決意と不安が交錯し、その表情は複雑な陰影を帯びていた。


黄金の平原サテライトは、その名が示す通り、黄金色に輝く広大な草原が広がる美しい生態系だった。かつては高級農作物の生産と交易を主要産業としていたこの地は、今や富裕層向けの巨大カジノリゾートとして名を馳せていた。サテライトの中心部には「黄金の輝き」と呼ばれる風俗街が存在し、その黄金色のネオンサインは夜空を彩る新たなランドマークとなっていた。


しかし、今のリリアの目には、その美しさが虚構の仮面のように映った。表層では富裕層向けのビジネスで繁栄を謳歌しているものの、その繁栄を支える闇の存在は、彼女の心を深く傷つけていた。


リリアの脳裏に、これまで目にしてきた数々の光景が走馬灯のように駆け巡る。ミリスリア擬製生物による非情な秩序維持、富裕層の欲望を満たすための風俗サービス、そしてそこから生まれた子供たちを利用した後継者養成サービスと称するビジネス――風俗サービスでの行為により産まれた子供を一定年齢まで育て、それを「サンプル」として親である富裕層に売り込みをかける――という非人道的行為が行われていた。


当初、彼女が提案した社会貢献プログラム群も、他サテライトとの長く過酷な競争の中で次第に疎かにされてゆき、遂には風化した。プログラムが保護すべき弱者は否応なく放逐され、難民と化した。かつては弱者救済としての側面も一応は有していた孤児院「希望の家」は、今や完全なる後継者育成施設と化しており、育った子供たちのうち親の眼鏡に叶わなかったものは風俗産業や水面下で活動する犯罪組織の一員として働かされていた。


「希望の家」に対して並々ならぬ感情を持つリリアである。彼女にとって、この沙汰はかつての理念に対する決定的な裏切りとしか思えなかった。


リリアの足が、無意識のうちに速度を上げる。彼女の心臓は早鐘を打ち、背中には冷や汗が浮かんでいた。オルドサーヴィスの本部建物が落とす深い陰影の中、彼女の心は複雑な感情の渦に飲み込まれていた。生まれ育ったサテライトである。オルドサーヴィスにも恩がある。それでもなお、豪奢な邸宅で繰り広げられる華やかな宴の陰で行われる非道な行為、富裕層が享受する贅沢な生活の代償として払われる無数の犠牲と苦しみ。これらの記憶が、彼女の決意をさらに強固なものにしていった。


リリアの手は、小さな震えを伴いながら、胸元のポーチを握りしめていた。そのポーチの内部には、彼女の未来への小さな希望が詰まっていた。魔鉱石の残骸を用いて作られた特殊な空間の中に、細心の注意を払って入手した貴重な魔鉱石が収められている。この魔鉱石こそが、彼女の脱出計画における唯一の切り札だった。


魔鉱石は、ミリスリアと呼ばれる特殊な生命エネルギーを蓄え、放出する不思議な鉱物だ。高ミリスリア濃度環境下では周囲のミリスリアを吸収し、低濃度環境下では放出する性質を持つ。サテライト生態系の維持に不可欠なこの資源は、今やコモディティ市場で高値で取引される戦略物資となっていた。


サテライトの外に広がる荒野の過酷さを、リリアは十分に理解していた。砂漠のような不毛の地、危険な野生動物、そして何よりも、ミリスリア濃度の急激な低下による身体への影響。これらの試練を乗り越えなければならない。彼女の心には、強い決意と同時に、未知の世界への不安が交錯していた。


リリアは深く息を吐き、最後にサテライトの風景を振り返った。黄金色に輝く草原、整然と並ぶ高層ビル群、そして遠くに見える富裕層の豪邸。この景色は、彼女の目には美しくも虚ろに映った。


「さようなら」


彼女は小さく呟いた。その声には、決意と共に、僅かな哀愁が滲んでいた。


リリアは再び前を向き、足を進めた。サテライトの境界線に近づくにつれ、彼女の心臓の鼓動は激しさを増していった。境界を越えた瞬間、彼女の体は一瞬のめまいに襲われた。ミリスリア濃度の急激な低下による影響だった。しかし、リリアはそれを予期していた。彼女は深呼吸を繰り返し、身体を落ち着かせた。


荒野に足を踏み入れたリリアの姿は、夕陽に照らされて長く伸びる影となって、黄金の平原サテライトの地平線上に刻まれた。彼女の旅は、始まったばかりだった。未知の世界への一歩を踏み出したリリアの心には、不安と期待が入り混じりながらも、確かな希望の灯火が燃え続けていた。


その灯火は、かつてオルドサーヴィスの孤児院――「希望の家」で過ごした日々の思い出と、そこで培った正義感に支えられていた。リリアは、自分が見てきた非道な現実を変える力が、この荒野のどこかにあるはずだと信じていた。そして、その力を見つけ出し、いつの日か黄金の平原サテライトを真の楽園へと変える。その決意が、彼女の背中を押し続けていた。


夜の帳が降りる頃、リリアの姿は完全に闇に溶け込んでいった。しかし、彼女の心に灯る希望の光は、決して消えることはなかった。それは、彼女がこれから歩む長く険しい道のりを照らし続けるであろう、永遠の導き手となったのだった。

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