Mercury

おかゆ

―1―


水星のスキナカス町に夜のとばりが降りてから、今晩で88日めになる。


摂氏マイナス200℃という極寒の地の果て、人々の記憶から忘れ去られ、閑散とした遺跡区。深い霧で包まれるなかに、水銀の大図書館はある。


そこに、銀河のあまねく知識が眠っていた。歴史、聖書、地図、宗教、古典文学。偉大な芸術家の日記や書簡さえも。世界のすべてが網羅してある。


1階から最上階(どこまで続いているかは誰も知らない)まで筒抜けの巨大な収蔵庫は、見わたすかぎり荘厳で、気が遠くなるほど静謐な時を刻んでいる。



ふっと声がきこえた。あどけなくて、甘くかすれたフルートの響き。


「あれっ、この辺にあったはずなのに・・・ねえちょっと、カロリスいるー?」


14階のガラス壁に収納された巨大な書架から、少女が身を乗り出して訊ねる。欠伸をするくらいの沈黙。そして、スノーブーツが大理石の床をのんびり歩く足音。「どうしたの、マリナ?」落ちついた低い声。真下の階のカフェスペースから、中性的な顔つきの少年が青銅カップを片手にあらわれた。


「またそんなところに登って・・・落ちたら怪我じゃ済まないよ」溜め息混じりに呟く。あいての顔がテントウムシくらいのサイズにみえる距離であるにもかかわらず、カロリスと呼ばれる青年の声はクリアに聞こえた。


「あのさ、切手のストックブック知ってる? ここの棚に並べておいた気がするんだけど」


「ああ、あれ」ばつが悪そうに頬を掻くカロリス。「ごめん。さっき燃やしちゃった。スビテンを淹れたくて、その燃料代わりに」


「えっ、うそでしょ? ここの棚は触んないでって言ったのに!」


「またこんど蘇生したとき、切手も元通りになっていることを祈ろう」「ちゃんと21世紀の火星で発行されたやつじゃないと許さないねっ」肩を竦めてスビテンをちびちび啜るかれに、マリナが抗議したとき。あしもとに散らばっていた本に躓きバランスを崩してしまった。そして、「きゃっ」喉の奥でくぐもる短い悲鳴を宙に残し、かのじょの華奢な体躯は虚空を落ちていった。


藁にも縋るおもいで溺れもがく、薄っぺらい空気を捕らえようと試みて。「あ、まずいーー」ふしぎな話だ。マリナは苦笑する。もうすぐ死ぬというのに。そして、またつぎの夜がーー88日間の昼をはさんでーー訪れたとき、このからだで蘇るというのに。死ぬのが恐いなんて。だれから習ったわけでもないのに、生まれたときから覚えている感情。神さまの気まぐれ? わからない、知る由もない・・・いずれにしろ、この感情は設計ミスだ。


あれは鳥?・・・脳裏をかすめる疑問、それと僅かなタイムラグで、錯覚を起こしていたのだと理解する。(あ!ーーあれは、さっきあたしが躓いた本ねっ?)蹴落とした単行本が、かのじょの眼のまえを優雅に羽ばたいている。


朱い地球儀の表紙。タイトルは『The Martian Chronicles』ーー銀河系の歴史に永遠と光りかがやく、第3惑星が誇る記念碑・・・



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