16
出たい、と、俺は言った。適当にその場しのぎを口にしたつもりだったのに、その単語は妙なリアリティを持って胸の中に落ちてきた。
出たい、この家を。なにもかもを。これまで生きてきた20年ちょっとを。出て、なにも知らないところに行きたい。
俺は、ほとんど泣きそうだった。悲しいのではなくて、混乱しきって。自分でも、自分がこんなに混乱に弱いとは思っていなかった。だって、俺の人生は最初から今までずっとごちゃごちゃと混乱していたのだから、慣れていると言えば言えないこともなかったのだ。
「祐樹。」
姉が、ちゃぶ台越しに手を伸ばし、俺の肩を撫でた。それは、間違いなく家族としての思いやりに満ちた仕草だった。俺は、泣きながら越した幾つもの夜を思い出した。母親が死んで、働きに出るようになるまで、姉はいつもこんなふうに俺の肩を撫でて、長い夜を過ごしてくれた。そして、母が死んで、姉が働きに出るようになった後、俺はひとりで本物の孤独を知った。それは、姉を抱いた後に。
「なんで、俺と寝たの。」
声はぎすぎすに掠れた。ずっと、訊きたかったことだ。はじめの夜から、ずっと。もしかしたら、愛されているからかもしれないと思ったこともある。姉は特別に俺を愛しているからこういうことをするのだと。でも、そう思うたびに、姉の娼婦の目がその思考を裏切った。そして、数年がたち、姉は俺を捨てて嫁いで行った。
姉は、しばらく黙っていた。俺の肩の上で、姉のてのひらも沈黙していた。そして、俺が返答を促すような言葉を口にしようとした瞬間、姉はようやく口を開いた。
「どうだっていいじゃない、そんなこと。」
それは、吐き捨てるように。姉の手も、俺の肩からあっさり離れた。俺は、驚いて姉を見た。姉は、笑った。薄い色の口紅を塗った唇で、嫣然と。それは明らかに、はじめの夜に俺を抱いた、あの男に倦んだ娼婦の態度だった。
ちゃぶ台の上に頬杖をついた姉は、気だるい眼差しで俺を舐め上げた。
「今更それ聞いて、どうするつもり? 愛しているからよって言ったらここに残って、気まぐれだったわって言ったら、どっか遠くに行くの? それとも反対?」
黒い髪が、姉の頬にかかって重たげに光る。そのさまは、毎晩鏡台に向って化粧をしていた母の姿を俺に思い出させた。
圧倒された俺は、言葉をなくして、ただ首を振った。縦だか横だか、自分でもよく分からないような角度で。
この姉に会いたかった。結婚以来鳴りを潜めてしまった、この姉に。訊きたいことだって、いくらでもあった。それなのに、いざ対峙してみると、いつもの姉とはまるで別人みたいな姿に息を飲んでしまって、声さえ出ない。
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