第7話


 *



「ただいまー」


 俺は疲れていることを全面にアピールしながら、実家の玄関の扉を開ける。


 そうっと部屋に行こうとしていたのだが、帰宅に気付いた母親の声がキッチンから聞こえてきた。


「おかえり蒼環そうわ。今朝さぼったんだから鯉の世話してきなさい」

「…………了解」


 カバンをポイっと投げ入れてから、俺は庭に向かう。


 庭といっても、普通の家の庭のサイズじゃない。立派な日本庭園になっていて、広い池の中に鯉がたくさん泳いでいる。


 倉庫から餌を持ってくると、池のふちに座ってそれを水中にいれた。


 色とりどりの鱗をきらめかせながら、鯉たちがすぐにやってきて餌を食べる。決められた分量の餌をあげ終わると、鯉たちはスーッといなくなっていった。


 しばらく池の中をじっと見つめてから、小さくため息を漏らした。


 俺から見たら、なんの変哲もないただの錦鯉だ。それが、滝を登るなんて信じられない。


 どちらかと言えば、神秘さよりも若干不気味さを感じている。


 たしかに、川に放流するとみんな迷わず上流に向かっていくのだが。磁場とか、環境とかの影響なんじゃないのだろうか。


 それか、この地域で育てた鯉は、みんなそういう特別な習性を持っているとか。


 なんにしても、神聖性よりも別のことを考えてしまっている。


 科学の発達した現代社会で、説明できないことが起こるのは違和感を覚えるとしか言いようがない。


「本当に伝説なのかもしれないけど、俺が一番疑ってるよ」


 目をキラキラさせて話を聞いていた茅野の姿を思い出す。彼女は伝説だと信じたようだ。


 でも、願いが叶うとか伝説とか、ありえない。


 昔話に懐疑的なのは、心の底から奇跡を信じることができないからだ。


 叶えたい願いに集中するよりも、やることやしきたりが多すぎる。だから、伝説というよりも、夏の行事として冷静に見てしまっている自分がいる。


「茅野。話していなかったけど、願いを叶えた女性は、のちに領主の息子から感謝されて苗字を賜ったんだ」


 彼女はのちに『成神の巫女』と呼ばれるようになる。


 つまり、成神蒼環なるかみそうわ……俺が直系の末裔だ。


 伝説だとか伝統だっていえば都合がいいけど、実際にはただの形式ばった作法の数々と、堅苦しい文言を唱えるだけのもの。


 神聖さはあるが、その中に奇跡を感じろというほうが難しい。


 俺が髪を伸ばすのも、初代巫女が鯉神様に願いを叶えてもらった対価として、自身の長い髪を捧げた名残だ。


 俺にとってはあまりにも現実的すぎて、伝説というよりも日常の一部でしかない。神職の恰好も似合わなくて、着せられている感じがして嫌だった。


 伝統が、誰にとっても崇高であるとは限らない。


 日々をぼうっと過ごしてしまうのもそのせいだ。俺は、この村と伝説を継承する者としての未来が決まっている。


 夢や希望を持つ以前から、進路は決定事項になっている。それは確実に俺にとっての負担になっていた。


 厳しい作法の訓練に、後継ぎとしての期待。小さい頃からそれを背負って生きている。


 だからたぶん、伝説も昔話も、奇跡も信じられない。


「こんな行事、あってもなくても変わらないよきっと」


 村を冒涜するようにも聞こえる俺の呟きは、幸い誰にも聞かれずに済んだ。

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