第8話『多分導かれたんだ』

息苦しい。


「申し訳ございません!」


「申し訳ございませんじゃねぇよ! この無能がよぉ! 適当な仕事しやがって! 舐めてんじゃねぇぞ!!」


深く下げた頭を掴まれ、耳元で怒鳴られる。


背中を強く叩かれ、毎日の様に鳴り響く暴言は頭の中で反響し、いつまでも消えない。


頭痛も、息苦しさも消えない。


今すぐここから消えてしまいたい。


吐き気がする。


「ったく。いつまで突っ立ってんだよ。さっさと失せろ」


「申し訳ございません。失礼します」


ボクは自席に戻り、また作業を始めようとして、即座に部長の声に立ち上がった。


「西村ァ! 角田商事への提案書はどうした!」


「え、その件は、部長が」


「俺がなんだ」


「いえ、部長が作成されると」


「俺が忙しいのは見て分かるだろうが!! 例え俺がやるって言っててもお前が作っておくのが常識だろうが!!! 馬鹿がよ!!」


「申し訳ございません」


「いつまで学生気分でやってんだお前は!! 使えねぇゴミだな!! お前みたいな奴はどこに行っても何も出来やしねぇんだよ! 分かったら少しは働け!!」


「……」


「おい。いつまで突っ立ってんだよ。さっさと仕事しろ!!」


「申し訳ございません。失礼します」


「給料泥棒がよ」


あぁ、苦しい。苦しいよ。


どうして世界はこんなにも息苦しいのだろう。




泥の中に居る様に重い体を引きずって、ボクは何とか電車に乗り込んだ。


駆け込んだ電車の中では酔っ払いや、騒いでいる人が沢山居て、ボクはその人たちから離れる様に静かな場所で椅子に座る。


終電間近の電車に乗り込んで、日付が変わった辺りに帰宅し、何とかお風呂に入ってご飯を食べる。


そして眠り、また次の日の朝から会社へ向かう。


こんな生活を三年も続けてきたけど、もう限界だった。


後何年こんな生活を続ければ良い?


それは何度も頭に浮かべてきた疑問だったが、答えはいつも出なかった。


永遠に続く地獄の様なトンネル。それが今のボクが生きる世界だった。


かつてあった幸せだった日々は遠く、何処かへ消えて、ボクは毎日この地獄が終わる事だけを望んでいる。


どうしてこんな事になってしまったのだろうか。


ボクは何とか辿り着いた自宅で、唯一綺麗に、大切に置いてある宝物を手に取った。


「ねぇ、浩人君。ボク、どうすれば良いのかな」


「助けてよ。ボクに、大丈夫だって言ってよ。俺に任せろって、言ってよ」


話しかけたってカードは所詮紙切れだ。何も答えてはくれない。


思い出の中で笑うボクの憧れだって、同じだ。所詮はただの記憶。何も答えてはくれない。


「お風呂に入ろう」


誰に聞かせるでもなく一人呟いたボクは、その言葉通り風呂に入り、コンビニで買ってきたご飯を温める。


無音のまま食べるのが嫌だから、パソコンを立ち上げて、動画サイトを見てみれば、そこにはボクが子供の頃にやっていたアニメを配信していた。


子供の頃に浩人君と見たアニメは何も変わらず、色褪せず、画面に映し出されていた。


当時も人気だったけれど、現代も特に変わらず人気らしく、再生数もかなり多かった為、懐かしくなってボクはそのアニメを毎日ご飯の度に見ていた。


アニメの中では辛く苦しい目に遭っている主人公が、それでも負けずに苦難に立ち向かっていた。


どうして彼女はこんなにも強いのだろうか。


そんな物は考えなくても分かる。


彼女には共にいてくれる人が居るからだ。


愛する人と共に居るのならば、どんな苦難も乗り越えられる。笑っていられる。


そういう事なのだろう。


そして、恐らくはそれがボクと画面の向こうに居る彼女の違いだ。


『姫様。奇跡というのは、例えどれほど祈っても、願っても、待っていたとしても姫様の手に舞い降りてくる事はありません。自ら掴まなくては』


あぁ、本当にそうなのだろうなと思う。


でも、駄目なのだ。


ボクにはもう手を伸ばす気力が無いのだ。


今この場に居て、生きているだけしか出来ない。


画面の向こうで立ち上がる少女を見て、ボクはため息を一つ吐いた。


言われなくたって分かっているんだ。そんな事は。


奇跡は待っていたってやってこない。


でも、じゃあボクにどうしろって言うんだ。


誰も彼もが強くて自分を持っている訳じゃない。どうしようもなく弱い人だっている。


逃げることも戦う事も出来ず、ただ現状に蹲る事しか出来ない人だって居るんだ。


ただ、それだけじゃないか。じゃあボクはどうすれば良かったんだ。


ボクは自分を慰めるための言い訳をいくつも並べて、画面から目を逸らし、コップの水を一気に飲みほした。


分かってる。これがただの逃げだって事は。


分かってるんだ。でも、怖い。


行動して何も変わらないかもしれない。それが怖い。


何も変わらなければ、ボクの人生はもう暗闇から変わらないと決められている様な物なのだから。


だから、行動しない事で得られる希望だけを抱えて生きてゆきたい。


いつか限界が来るのだとしても、それでも、終わる瞬間まで希望を見ていられるから……。


ボクはそんな昏い希望を抱えて立ち上がり、夕食の後片付けをしようとした。


しかし、何処かの誰かが無責任に叫んだ言葉が、ボクの中でソレを強く意識させる。


机の上に置かれた大切な思い出。ボクの最後の希望。それに向かえと。


何かが叫んでいる。


「明日は、休みか」


カレンダーを見て、ボクは呟いた。


この希望を失えば、もう生きてゆく事は出来ないだろう。


終わりへ向かうだけだ。全ての希望を無くし、暗闇の中へ消えるだけだ。


でも、それでも、ボクの中に居る希望が叫ぶんだ。前へ進めって。希望を掴めって。


本当に、困った人だ。


ボクは最後の希望を手に取りながら笑う。


ガラスに映ったボクの顔は何処か歪んでいる様にも見えた。




終わりを決意した翌日。


とは言ってもあの時間は既に日付が変わっていたから、翌朝という所だろうか。


ボクは大切なカードを胸ポケットに入れながら、街を散策していた。


そして、様々な場所を意味もなくさ迷い歩く。


この行為に意味はない。というよりも、何をすれば希望にありつけるのか分からなかったのだ。


カードには散々助けて欲しいという願いをかけたが何の反応も無かったし、どうせ今日祈った所で同じだろう。


所詮は紙切れ。浩人君とは違うのだ。


この紙切れに大した力は無いだろう。所詮は浩人君の代わりだ。


だから、ボクは外に出掛けて歩いてみる事にしたのだ。このカードに宿る奇跡が本物ならば、ボクを浩人君の所へ導いてくれるだろうと信じて。


そう信じていた。しかしどれほど時間が経っても世界にもボクにも変化は無かった。


明日も休みではあるが、いつまでも外で歩き回っている余裕はない。


最近は妙に疲れやすいのだ。


だから、いい加減にして帰ろうかとボクは考えていた。


所詮、奇跡なんて選ばれた人にしか与えられないもの。ボクにはその資格が……。


「ん? なに?」


人の少ない川沿いの桜並木で、視線の先にある今は花が咲いていない桜の枝に、異様なほど白い何かが居た。


でも、よくは見えない。眩しいのだ。


そしてそれがボクを真っすぐに見つめている。そんな気がする。


いや、そんな訳が無い。見えてもいないものがボクを見ているだなんて、そんな事はあり得ない。


だってどうやってそれを理解するというのだ。


だからきっとこれは勘違いなんだ。


そう考えその横を通り過ぎようとしたボクは、視界の端でその何かが翼を広げて飛び立つのを見た。


白よりもずっと白くて、直視できない翼を広げた何かが空へと舞い上がるのを。


そして、その何かはボクが呆然としていた隙に胸ポケットから、ボクの希望を奪い取っていった。


「なっ!? ま、待て!!」


ボクは優雅に飛び立った白い何かを追いかけ、走り始めた。


最悪だ。何が奇跡は自分で掴めだ。こんな事になってるじゃないか!!


ボクは昨日見たアニメの紅い瞳の少女を罵った。


しかし、そんな事をしたところでボクのカードを取り戻す事は出来ない。


今はただ走るだけだ。


そしてもうまともに立っている事も出来ず、フラフラになりながらも、繁華街の上空で優雅に飛んでいる何かに目を向けながら走り続けていた。


しかし上ばかり見ていたのが悪かったのだろう。


運悪く、向こう側から歩いてきた人にぶつかってしまったのだ。


「ってぇな! 前向いて歩け!」


「ご、ごめんなさい!」


「ごめんで済んだら警察は要らねぇんだよ!」


「……っ」


「慰謝料だ。治療費も出して貰おうか!?」


ボクはぶつかってしまった人に詰め寄られ、怒鳴られる。


それが怖くて、ボクは顔をせめて守ろうと腕で庇った。


しかし、そんなボクに向かって拳を握りしめ、振りかぶり、それが真っすぐに向かってくるのが見えた。


痛みが来ると歯を食いしばる。


でも、その痛みはいつまでもボクにやってこない。


「……っ、な、なんだテメェは!」


「通りすがりだけど」


その声を聞いてトクンと心臓が跳ねる。


ずっと、ずっと前に聞いていた声だ。


いや、前よりも低くなったけど、その声に含まれる優しさは変わっていない。


「わりぃんだけどさ。コイツ。俺の友達なんだ。悪気はなかったし、謝っているから許して欲しいんだけど」


「突然入ってきて訳の分からねぇ事言ってんじゃねぇよ!」


「訳が分からなかったか? いや、申し訳ない。俺も勉強は苦手でね。伝えるのは苦手なんだ。だからしょうがない。端的に言おうか。ここから失せろ」


青年は握りしめていた男の人の拳を、おそらくは強く握りしめた。


次の瞬間には悲鳴を上げながら男の人は腕を振り回す。


けれど、その手は一向に離れる事は無かった。


「さて。このまま右腕が使えなくなる未来がお望みならそうするが」


「て、テメェ! 俺にこんな事して、どうなるか分かってんだろうな!? 俺は天道組の」


「ほぅ。天道組か。俺も知り合いが居るぜ? なら一緒に行ってケジメ付けるか!?」


「ひっ!」


「だが、ここでお前が謝罪を受け入れてくれるなら、これ以上俺は何も言わんししない、良いか?」


「わ、分かった。受け入れる! だから!」


「あぁ。じゃあ、さようならだ」


青年は男から手を離すと、少し後ろに下がって男の行動を見据える。


男はよろめきながらも走り去っていき、それを見てから青年はゆっくりと息を吐いて、ボクの方へと向き直った。


「大丈夫だったか?」


「う、うん」


「しっかし天道組だってよ。こえーな。いやはや無事でよかったぜ」


安心したと大げさな手振りで示す青年にボクは思わず笑みをこぼしてしまった。


あぁ、本当に変わらない。ずっと。


「ん? そう言えば、何処かで会った事あります? 何か見覚えが」


「忘れちゃったの? 浩人君」


「ん? んんー!? お前、まさか奏か!?」


「そうだよ。久しぶりだね」


ボクはいつぶりか分からない笑みを浮かべながら浩人君の手を握った。


ずっと、探していた人を。


ボクの希望を。


「しかし偶然……いや、違うか。コイツか」


浩人君はそう言いながら手に持ったカードをボクに見せる。


「うん。多分導かれたんだ」


「って事は何か困ったことがあるんだな? よぉーし。他でもない奏の事だ。何でも言ってくれ。力になるぜ!」


あぁ、本当に君は変わらない。


何の根拠も無くても、ただそう笑ってボクの手を引っ張ってくれる。


ボクは、ようやくこの息苦しい世界で、ゆっくりと呼吸が出来た様な気がした。

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