第18話「同行者の視線」

街灯の光が、濡れたアスファルトの上で不規則な模様を描いている。水晶を握る指に、夜の冷気が沁みる。駅の時計が9時を指す中、帰路に向かう足取りは重く、先ほどの暗号解読の記憶が生々しい。解かれた文字列と、まだ謎めいたままの後半部分。「FULL MOON DAY NOON」という言葉が、頭の中で反響していた。


「おい、ユキト」

マリカーが足を止める。「このまま、例のカレー屋に行かないか?俺も連れてってくれよ」


振り返ると、彼の表情には普段の軽薄さが消え、暗号解読に立ち会った直後だけに、どこかシリアスな面持ちが浮かんでいた。夜の街並みに、所々明かりの灯った窓が浮かび上がっている。


「今からか?」

俺は少し躊躇する。今夜に限って、一人では行きづらい雰囲気が漂っていた。


「ああ、このタイミングを逃したら、なかなか同行できねえし」マリカーは夜空を見上げながら言った。


「実は少々不安があってさ」俺は言葉を選びながら答える。「今日はやめておいた方が...」


「今更何言ってんだよ」マリカーが遮る。その声には、普段の軽さは完全に消えていた。「行くに決まってんだろ。お前が行かないなら、俺一人でも行くぜ」


白い吐息が、夜の空気に溶けていく。俺は深いため息をつく。「...そこまで思ってくれてるなら、このまま行くか」


最寄り駅までの道中、街灯が照らす木々の影が、二人の足元で揺れる。自転車の鈴の音、コンビニの自動ドアの開閉音、どこかの家から漏れるテレビの音。夜の街の喧噪が、二人の沈黙を包み込む。


地下鉄のプラットフォームは、深夜に向かう人々でまだ賑わっていた。サラリーマン、学生、カップル。それぞれの目的地へと急ぐ人々の間を、俺たちは黙って歩く。


電車が到着し、ドアが開く。蛍光灯に照らされた車内で、マリカーがポツリと言った。「なあ、お前が心理学に興味持ったの、いつ頃だっけ?」


「高校生の頃からかな」俺は車両の天井に目をやりながら答える。向かいのシートに座った会社員風の男性が、スマートフォンを覗き込んでいる。その画面の明かりが、彼の疲れた表情を浮かび上がらせていた。地下鉄特有の轟音が、車内に響いていた。


「そうだったな」マリカーの声が、車輪の音に重なる。「確か大学の時、心理学実習で面白いことがあったよな」


≪大学4年生の春、心理学研究室にて≫


実験用の小部屋で、俺とマリカーは「表情と嘘の関係性」という実験に参加していた。マリカーが被験者で、俺が観察者。机の上にはICレコーダーが回っている。


「では、これから私が質問することに、嘘で答えてください」助手が淡々と言う。「できるだけ自然に」


マリカーは頷く。質問が始まる。バイト先のこと、部活のこと、そして...。


「彼女さんはいますか?」


「いません」マリカーがきっぱりと答える。


俺は思わず吹き出しそうになった。昨日、マリカーが告白して振られたことを知っているからだ。この質問に限って、彼は嘘をつかずに本当のことを答えてしまったのだ。


「おい、全部嘘で答えるんじゃなかったのかよ」実験後、廊下で俺は突っ込む。


「あ...」マリカーが絶句する。「ついつい本音が...」


「お前な」俺は笑いをこらえる。「人の心理を読むどころか、自分の心理すら隠せてないじゃないか」


「うっせーな!」マリカーが頬を赤らめる。「それより、お前みたいに他人の心の中をジロジロ覗き込むヤツの方がよっぽど怖いっつーの」


その言葉に、俺は少し考え込んだ。確かに、人の心理を読むということは、ある意味で相手の内面を覗き見ることなのかもしれない。でも、それは単なる観察ではない。相手をより深く理解したいという思いがあってこそ意味がある。


「でもよ」マリカーが真面目な顔になる。「お前のその"観察眼"、金融系の営業には向いてねえんじゃねえか?もっと...なんつうか、人と向き合える仕事の方が」


「何言ってんだよ。内定ももらったんだし」俺は苦笑する。


「まあな」マリカーは肩をすくめた。「でも、お前が本当にやりたいことって、それなのか?人の心理を読むことに興味持ってきた割には、随分と普通の選択だよな」


その言葉は、その後の俺の人生を大きく変えることになる予感めいたものを含んでいた。


― ― ―​​​​​​​​​​​​​​​​


電車が新しい駅に滑り込む。ドアが開くたびに、プラットフォームの冷気が車内に流れ込んでくる。


「あの時から、お前の観察力には感心してたんだぜ」マリカーが静かに言う。電車の揺れに合わせて、吊革が小さく揺れている。


「ただし」俺は声を落とす。「これから先は、普通の友人としてカレーを食べに行くだけだ」


マリカーはわずかに頷く。それ以上の言葉は必要なかった。


電車を降り、賑わう飲み屋街を抜ける。カラオケボックスから漏れる歌声、居酒屋の赤提灯の明かり、タクシーの空車表示の黄色い光。それらが混ざり合って、独特の夜の景色を作り出している。


路地を曲がるごとに、賑わいは徐々に薄れていく。やがて、古びた建物の角に「スパイス・オラクル」の看板が姿を現した。ネオンは半分しか点いておらず、その不完全な明かりが、建物の老朽化した外観をより一層際立たせている。


「うわぁ...」マリカーが思わず声を上げる。「これマジで古そうな店だな。壁のひび割れやばくねぇ?ここが24時間もやってるなんて信じられねえよ」


「やっぱり一番の驚きはそこだよな」俺は苦笑する。看板の文字は所々剥げ落ち、窓枠の塗装も色褪せている。雨樋は錆びて、その下の壁には雨染みが幾筋も伸びていた。


「おい」マリカーが小声で言う。「入り口の両側に置いてある植木鉢、枯れてるのに毎日水やり跡があるみてえだぞ」


その観察眼の鋭さに、俺は少し驚く。確かに、既に枯れているはずの植物の周りの土は、妙に湿っている。


チリンと鈴の音を立てて、二人は店内に足を踏み入れた。深夜帯とは違い夜の10時過ぎということもあり、数組の客が席についていた。スパイスの香りが、一気に鼻腔を襲う。蛍光灯の光が店内を均一に照らし、壁に掛けられたインドの風景写真が、どこか古びた雰囲気を漂わせている。


奥のテーブルでは中年のサラリーマンが黙々とカレーを口に運び、窓際では若いカップルがナンを分け合っている。カウンター席には一人で新聞を読む初老の男性。彼らは皆、この店の不自然な営業形態に疑問も感じていないようだ。24時間営業なのに客は少なく、それなのにスタッフは多い。この矛盾に気づく者は、俺以外にいないのだろうか。


「イラッシャイ!アレ?ユキトサン...」

オヤジの声が、一瞬だけ躊躇を見せる。その微細な変化を、俺は見逃さなかった。「珍シイ 時間デスネ?」


「ああ、友人に店を紹介したくて」俺は表情を作って答える。


窓際の席に案内され、メニューを開く。蛍光灯の光が、テーブルの上で小さな影を作り出している。マリカーの指が、無意識にメニューの端を弄っている。マリカーの目が、さりげなく店内を巡っている。元々人の仕草を読むのが得意な彼なら、この店の異常さにも気づいているはずだ。しかし、彼は芝居がかった素人客を演じ続けている。


店内の接客はオヤジ一人が担当していた。他の3人のスタッフは、厨房の奥で何かの作業に没頭している。客の数を考えれば一人で十分なはずなのに、時折聞こえてくる物音からは、複数人が忙しく立ち働いている様子が窺える。その分担が、どこか不自然だった。見えない場所での作業音。カレーの調理だけとは思えない物音。それらが、この店の不可解さを際立たせている。​​​​​​​​​​​​​​​​


俺は何気なく視線を店内に巡らせ、壁際の棚に目を留めた。そこにはガネーシャ像が鎮座している。マヤの占いの館で見たものと、間違いなく同じ像だ。彫りの深さ、木目の質感、そして微かに欠けた右耳の特徴まで、完全に一致している。オヤジが言っていたはずだ。インド本国でしか手に入らない貴重な像だと。それなのになぜ、マヤの館にも同じものが...。この偶然は、どうしても腑に落ちない。むしろ、この像こそが全ての謎を繋ぐ重要な鍵なのではないか、という予感が頭から離れなかった。


厨房からは鍋を煮る音や包丁を使う音が聞こえてくる。その合間に、何か別の音が混ざっている。書類をめくるような音か、金属が擦れるような音か。普通のカレー屋では聞かないような音だ。スパイスの香りの中に、時折何か別の匂いが混じる。紙を焼くような、あるいは金属的な臭い。しかしその正体を確かめようとすると、すぐに消えてしまう。


「えーっと」マリカーが、やや大げさに声を上げる。「ユキト、お前いつも何頼んでんの?」


「バターチキンカレーだな」


「あ、じゃ、俺もそれで」マリカーの声には、微かな緊張が混じっている。


オーダーを済ませ、二人は他愛もない会話を交わす。しかし、その言葉の端々には、どこか不自然な響きが混ざっている。


「そういや」マリカーが声をひそめる。「今日のバイト、どうだった?」


その瞬間、オヤジがカウンター越しにこちらを見た気がした。見かけは何気ない仕草だったが、確実に俺たちの会話に注意を向けている。そうか、オヤジは俺の勤務形態を知っているはずだ。普段の深夜帯の来店時間から、バーで働いていることも把握しているに違いない。


「ああ、まあ」俺も同じように小さな声で答える。「普通だったよ」

すぐに話題を変えなければ。余計な違和感を与えるわけにはいかない。​​​​​​​​​​​​​​​​


会話の合間に、厨房からはナンを焼く音や、スパイスを炒める香ばしい匂いが漂ってくる。その香りの中に、時折何か化学的な臭いが混じるような気がした。


カレーが運ばれてくる。湯気が立ち上り、スパイスの香りが鼻をくすぐる。マリカーは一口すくって口に運ぶ。「うまい...これマジでヤバいな。ピザニキの奴、あんだけ味にうるさいくせに、こんな店知らねえなんて損してるぜ。今度連れてきたら喜ぶに決まってる」


その言葉には、わざとらしさを感じさせない自然な感嘆が混じっていた。本当に美味いからこそ、素直な反応が出たのかもしれない。


「だろ?」俺も頷く。その味の確かさは、この店の不可解さをより一層際立たせる。これほどの味を出せる実力が、他の謎めいた要素と相まって、より深い疑問を投げかけてくる。


オヤジが時折カウンターから様子を窺っている。その視線は、まるで監視カメラのように二人の一挙手一投足を追っているようだ。他のスタッフも、忙しなく立ち働きながら、時折不自然な間合いで店内を見回している。


カレーを口に運びながら、マリカーの手の動きが一瞬止まる。彼の視線の先を追うと、厨房の奥に設置された半透明の引き戸が目に入った。扉の向こうで、人影が動いているような気配。しかし、すぐにその影は消え失せた。


「あれ?」マリカーが唐突に声を上げる。「この絵、インドのタージマハルかな?」

壁に掛かった写真を指差しながら、必要以上に興味深そうな表情を作る。


「ソウデス!」オヤジが嬉しそうに近づいてくる。「インドノ 名所デス。ゴ存知デスカ?」


「ああ、ちょっとだけ」マリカーは照れたように頭を掻く。その仕草には、明らかな演技の跡が見える。「写真とか見たことあって」


厨房からは相変わらず、鍋や包丁の音が響いている。その合間に、何か紙をめくるような音や、金属的な響きが混じる。スパイスの香りも、時折別の匂いに変化するような気がした。


隣のテーブルでは、若いカップルが会計を済ませて席を立つ。「ごちそうさまでした」という声に、オヤジが深々と頭を下げる。その仕草は完璧すぎるほど丁寧で、どこか不自然さを感じさせた。


「あ、そうだ」マリカーが突然思い出したように言う。「このカレー、職場の人に教えてあげようと思うんだけど、ランチタイムってやってるの?」


オヤジの表情が、一瞬だけ強張る。「ハイ、モチロン。昼モ ヤッテマス」

その答え方には、どこか計算された響きがあった。


カレーを平らげ、ナンの最後の一片を手に取る頃には、店内の客も大分少なくなっていた。蛍光灯の光が、テーブルの上に置かれたスパイス入れを通して、小さな虹を作り出している。その光の屈折が、まるで暗号のように見える。


「ごちそうさまでした」二人が立ち上がると、オヤジが深々と頭を下げる。その後ろで、他のスタッフたちも同じように頭を下げる。その動きは、まるで機械仕掛けの人形のように同期していた。


店を出ると、夜風が頬を撫でる。二人は、しばらく無言で歩いた。街灯が、二人の影を不規則に揺らす。


「あれは...」マリカーが言いかける。「...なんていうか、普通のカレー屋には見えなかったな」


「そうだよな」俺は静かに頷く。街灯の明かりが、二人の足元でゆらめいている。


「けど、カレーは確かに美味かった」マリカーが、少し笑みを浮かべる。「あれだけの味を出せるってのは、本物の腕がないとできねえよ」


「ああ、それはそうだ」俺も同意する。しかし、その言葉の後には重い沈黙が続いた。


「なあ」マリカーが歩みを止める。「あの店さ、表面的な謎以上に、何か...重いものを感じたよ」


「ああ」俺も足を止めた。「分かる。まるで、俺たちの理解を超えた何かが、その奥に潜んでるような」


「ユキト」マリカーの声が、いつになく真剣な響きを帯びる。「お前の探してる答えは、きっと想像以上に深いところにあるんだと思う。俺も協力はするけど...」


「心強いよ」俺は頷く。「そうだな...ところでさ」


「ん?」


「さっきの『バイトどうだった』って、お前が言った時にマジで冷や汗かいたぜ」俺は少し自嘲気味に笑う。「オヤジ、俺がバーで深夜まで働いてるの知ってるはずなのに」


「あ...」マリカーが気付いたように目を見開く。「確かに。つい普通の会話しようと思って出た言葉だったけど、余計な疑いを招きかねなかったな」


「まあ、その場は何とか収まったけどな」俺は苦笑する。「お前が次に『今日のカレーはどうだった?』とか聞き出しそうで、冷や汗が止まらなかったけど」


「そこまでアホじゃねーよ」マリカーが肩を叩く。「...まあ、考えなくもなかったけど」


「やっぱかよ」

二人で小さく笑い合う。こんな緊張する状況でも、マリカーといると自然と肩の力が抜ける。


人通りの少なくなった通りを、二人はゆっくりと歩く。街灯の光が、アスファルトの上に長い影を落とす。


「それにしても」マリカーが言う。「あの店、何かが起きそうな予感がするぜ」


「ああ、見れば見るほど腑に落ちない部分が多すぎる。まるでカクテルの材料が揃ってるのに、レシピが見えない感じだ...。おっともうこんな場所か」商店街の角に差し掛かり、二人の帰路が分かれる場所に来ていた。「ありがとな、今日は付き合ってくれて」


「礼なんていいって。それより」マリカーが夜空を見上げる。「満月の日まで、まだ時間はあるよな」


「ああ」


「なら、それまでは無理するなよ。俺も、ピザニキの母さんの様子見ながら、あの暗号の続きを考えてみる」


俺は頷く。街角で二人の影が交差する。


「じゃあな」マリカーが肩を叩く。「また連絡するぜ」


その背中が、夜の闇に溶けていく。俺は月を見上げた。その姿は日に日に変化していくが、10月24日の満月に向けて、確実にカウントダウンは始まっている。スパイスの香りが、まだ鼻腔に残っていた。​​​​​​​​​​​​​​​​

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