果ての羨望、六畳半にて
古柳幽
執着、あるいは逃避
最低限の家具と本の詰まった六畳半は、西向きの大窓から入る斜陽で鮮やかな橙に染められている。
DVDプレーヤーが弱々しく唸り、テレビ画面にはおどろおどろしい画が映し出された。いつものように床に積み上げられた本を退かしてベッドを背に自分のスペースを確保すると、座卓の上にも積まれた本の隙間に埋もれていたリモコンを手に取る。酒を片手にキッチンから戻ってきた
「お前ね、突然来るのは五十歩くらい譲って許すけどさ、酒くらい買って来いよ」
当然のことを言われると黙るしかない。親しき中にもなんとやら、いきなり上がり込んで自分が見たくて借りたDVD以外なんの土産も持たずその上酒までねだるとなると、どう足掻いても非があるのは百こちらだ。打開策を考えた末、じゃあ明日奢るからと提案すれば、夜船は満足したように長い前髪の間からほくろのある目を細めて見せた。
「ワンコイン定食じゃダメだからな」
「ええ……うん、まあ……はい」
「酒何本か買うより安いんだからあからさまにいじけた顔するな」
脳天に容赦ない手刀を浴びせられ、思わず呻いて頭を抱える。夜船が棒切れのような細い腕だからと言って、痛みを伴うことには変わりがない。そこまでやんなくても良いだろと俺が文句を言うのをよそに再びキッチンへ立った彼は、冷蔵庫を開けたかと思うと酒の缶を持って戻ってくる。投げて寄越されたそれを手に喜びを表し軽薄な感謝の言葉を並べ立てれば、呆れた顔で返された。
「何枚借りたんだ、結構入ってたろ」
「六枚。オールする」
レンタルショップの袋から出したDVDを並べて見せれば、大きな溜息を吐かれる。
「煙草追加」
「なんでだ」
「当たり前だろ、付き合ってやるんだから」
しかも明日講義あるだろと言う彼に、俺は財布の中身を思い起こす。明日の食費に困るような残高ではない。だが給料日前ではそこまで余裕があるわけではなかった。それでも、ここで帰るのもわざわざ借りたDVDを見ないで返すのも延滞料金を払ってまで日を分けて通うのも、煙草代を天秤に乗せればどれを選択するのが最も妥当かは明白だった。一箱六百円。それで済むなら大人しく出すべきだろう。
「わかったよ、明日な」
よしと八重歯を見せながら笑う夜船に苦い顔をして見せると、勝ち誇ったような表情になった。
突然押しかけてはDVD鑑賞に付き合わせるのは、もう両の手では数えきれないほどだった。反対に、夜船が俺の部屋に動画配信サービスで配信されている映画が見たいとアポなしで来ることもある。対価はその時々、気まぐれだった。昼飯もしくは夕飯、煙草に酒。およそ大金ではないが足しにはなるものが常だった。
再生されたB級ホラーは、いつまで経っても画面が薄暗いままで、西日の強い明かりの中ではほとんど見えないに等しい。もやもやと動く画面と控えめな音量で登場人物が喚いているのを聞いて何が起きているのかをうっすらと把握する。
「カーテン閉めるか」
お気に入りらしい謎の魚のようなぬいぐるみを膝ごと抱えていた夜船が立ち上がろうとするのを、袖を引いて制する。
「いいよ、もう暮れるだろ。風入らなくなるし」
薄手のカーテンを揺らす風は、辛うじて涼しい。閉め切れば暑いけれども、まだ冷房をつけるほどではなかった。藍の混ざり始めた橙はまだ強いが、もうしばらくすれば大人しくなるだろう。
座りなおした彼を見届けてから視線をテレビ画面に戻した。殆ど真っ暗な画面に、幽霊役の白いワンピースがちらちらと舞っている。血にまみれた手で床を這いずっていたくせに新品のように真っ白なそれは、画面の黒さに反してやけに鮮やかだった。
部屋に執着した女が、死んでもなおその部屋に住まおうとする人間を死に至らしめる。よく言えば王道だが、悪く言えばありきたりな設定だ。幽霊に怯える人間の演技もやけに騒がしく、耳障り。タイトルを聞いたことがないわけだと納得した。段々と飽きてきて、空になった酒の缶を弄るしかなくなった。一応終わりまで見届けたいからスマホを弄るのは躊躇われ、かといって集中できるほど面白くもない。
いっそのことあまりにも馬鹿げた演技と演出ならば一周回って面白くなるのかも知れないが、そこまでは行かない程度の中途半端さで完成されている。一先ずの恐怖は煽ってくる。だがそれも過ぎれば飽き飽きする。夜船も同じようで、ぬいぐるみのヒレらしき部分をぱたぱたと泳がせていた。
中盤で事態が一転するだとか、終盤にどんでん返しがあるかという僅かな期待もむなしく、
「まあ、良いんじゃないの」
つまり面白くなかったというのをオブラートに包んだ挙句服薬ゼリーに沈めたくらいの感想を述べながら夜船が立ち上がる。キッチンへ向かって換気扇を付けた彼を追って、俺も腰を上げた。
二筋の煙がごうごうと音を立てる換気扇へ吸い込まれていく。語り合う感想もない。人様が作り上げたものを口に出して貶すのも憚られるから、次の映画が期待するものであることを祈る。それでも、ホラー映画コーナーにあったどれも聞いたことのないタイトルを、あらすじも確認せずに借りたから裏切られる可能性の方が高い。いつものことだった。その中で、有名ではないけれども自分たちが楽しめるものを掘り出したときが楽しかった。それもそうあることではなかったが。どう足掻いたって平均的な感性なのだ。特別なところもない己が楽しいと思えるものは、たいてい多くの人が既に見つけている。
「あれ、お前リモコンどうした」
いつものペースでのんびりと煙を飲んでいた夜船が不意に言った。
「うん?机の上のままだけど。何も弄ってない」
「そうか」
腑に落ちないという声色の彼の視線を辿ると、真っ暗になったテレビ画面がある。ただ画面が暗すぎるというわけではなく、なにも映っていない。だが弱る橙の中で画面がうっすらと光を発しているのは分かった。
「なんもないじゃん」
最後まで再生して止まっているのだから、画面になにも映らないのは仕様だろう。特に異常と思えることはない。再生が終われば選択画面に戻るようなものもあるが、これは特になかったはずだ。暗い画面を見て、夜船は気のせいかと呟きながら短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「なんか映ってた気がしたんだよ」
「なんかって?」
「いや、ちゃんと見えたわけじゃないから。気のせいかも。光の加減とか」
あの幽霊はそれなりに頑張ってたからなと二本目の煙を吐き出しながら八重歯を見せた。幽霊役の顔面に塗りたくられていた血のりはリアルだったなと、つられて口角が上がる。主人公のサラリーマンもテレビに反射する影に怯えていたなと思い出して、顔を見合わせて笑った。なんだかんだとケチをつけても、怖がらせようとしたものに見事に引っかかったのだと諦める。
シンクの端に寄りかかりながら、ぼうっと壁を眺めた。テレビ画面から漏れる仄かな明かりが強くなっていくように感じるのは、部屋が闇に呑まれつつあるからだろう。
視界の隅に入る、風で靡くカーテンの裾。呼吸をするように床に影を落としているその奥に、それよりも厚みのある白い布――から伸びる足。
ここには俺と夜船の二人しかいないはずだ。当然夜船は先ほどから隣で煙草を吸っている。ならあれはなんだ。テレビに隠れるように、カーテンがテレビと壁の隙間を埋めるようにはためくたびに、その下から生白い足が覗く。あるべきはずの場所に上半身はない。足先だけがそこにある。つま先は、テレビの方を向いていた。位置からしてこちらを向いているわけではなさそうだが、狭い部屋だ。目があれば視界には入るだろう。
夜船も気づいたようで、二の腕を控えめに突かれた。俺は黙って頷く。それから目を見合わせて、足に視線を戻す。気づいたからと言ってどうするべきかなど思いつくはずもなかった。
しばらく見つめていた。暗くなっていく部屋で、やけに白い足が映えていた。
不意に夜船が動く。二本目を吸い終えたのか灰皿へ吸殻を投げ捨て、本の山を縫ってテレビへ向かった。通りがかりに机上にあったDVDを手に取り、プレーヤーの前に蹲る。足はその間にも、なにをするでもなく突っ立っている。
ボタンを押し、入っていたDVDを取り出す。新たなDVDを入れ、再生ボタンを押した。ぱっと画面が明るくなり、警告画面が映し出される。それを確認してからのんびりと立ち上がった夜船で一瞬隠された青白い足は、次の瞬間には跡形もなく消えていた。
「なにしてんの?」
「いや……なんとなくDVD見たかったのかと思って」
俺も次の見たいしねと、またしても白いワンピースに長い黒髪の幽霊が映っているジャケットを翳して昏い目を三日月に細める。
「逆ギレとかされたらどうすんの、さっきのみたいに」
「そんときはそんとき」
存在から分かんないもんはなんにも図れないよと控えめに声を立てて笑った。
「消えたしね」
ベッドに放り投げていたぬいぐるみを抱えて定位置へ戻った夜船の隣に収まると、僅かに煙草の甘い匂いがした。
変わらず低予算らしいもので構成された画面を見つめる。隣の空間が気になりこそすれ、なにもないから視線を戻すのを繰り返した。
「
前を見たままの夜船が口を開く。大学生になってからハマったアーティストに影響されて整えているらしい髭のある顎をぬいぐるみに埋めるように小さくなっている彼に、なんだと答えれば視線だけをこちらに向けた。
「幽霊ってなんかに執着してるもんだよね」
「そうかも。場所とか、ものとか」
「あれはなんだろうな」
先ほどの足について言っているのだろう、俺は考えた末、部屋じゃないかと映画に影響されたと言われても反論のできない答えを出した。表情が見えるなら恨みでも哀しみでも図ることができるかも知れないが、足だけではなんのヒントもない。
「こんなとこに執着したって面白くもないのにね」
だって金がない奴が住むようなとこだよと息を漏らしながら言う。派手な生活が見られる場所でもない。せいぜい酔って駄目になっている人間だとか痴情の縺れだとかを見られる程度だろう。
「ただ離れたくないだけじゃないのか」
「ん……そうだね、よそに行くのって不安だからな」
充満した沈黙に、女の叫び声が紛れ込む。わざとらしいそれは、さらに作り物じみたうめき声にかき消された。
地元から出て三年目、東京に出たいからという理由を主として大学を選び、上京した。あと二年弱で出なければならないのだろうか。今の、ほどほどに楽しく気楽で孤独な六畳半での大学生活の終わりを考えて、俺はため息とも吐かない空気を吐き出した。
「つまんないこと考えてるだろ」
空洞じみた黒目がちな目がじっとりと見つめてくる。睫毛が長いなとどうでも良いことを考える。いつも酷い隈は、薄暗い部屋では判別がつかない。思わず視線を逸らすと、息を吸い込む音が聞こえた。何を口に出しても良い雰囲気にはならないだろうなと吐き出したままの息の補填すら躊躇っていると、夜船が突然立ち上がり、俺を跨いでキッチンへ向かう。目で追うのも億劫で、俺は床に散らばった本のタイトルをなぞった。冷蔵庫を開ける音がして、がさがさと殆ど空の中身を漁る音がする。
ぺたぺたと裸足の足音がして、戻ってきたかと思えば視界に入る、先程までテレビの脇に立っていたものよりも比較的血の巡った色をした骨ばった足と、頭を冷たいもので小突かれる感覚。
「映画に集中しろよ、せっかく場所とプレーヤー貸して酒もやってんだから」
酒を受け取り、本の隙を開けて控えめに置かれた残り物らしいつまみを見る。
「だって面白くねえもん」
それもそうだと薄く笑った夜船は、蜘蛛のような細長い指でナッツを探り、好みでないものを丁寧に俺の方へ避ける。
ベッドに寄りかかり、視線だけは画面に預けて、決死の追いかけっこを目に入れる。窓の隙間から冷えた空気が入り込み、足元を優しく撫でた。
考えてもどうにもならない。
あたりにはもう橙の欠片もない。僅かに月明かりが差し込むだけで、静かな部屋には追い詰められた男の噎び泣きだけが響いた。
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