第56話 皇后のこわいもの

 感慨もなく侍女を目で追いながら、淳皇后は「わたしが恐れるのはね」と口にし、本来の話のつづきを語る。


今世こんせの悪行が来世に影響をおよぼすかどうかよ。あなたたちのような修行者を害したら、あまりに徳がない気がするでしょう?」


 思いがけない理由に、梅芳たちは呆然とした。

 しかし、本心からだったらしい。証拠に淳皇后の顔からは笑みが消えている。

 理由がわからない梅芳が困惑していると、柳毅が「なるほど」と言って、つぶやいた。


「宗教家を手にかけるのは、皇后であってもためらわれるか」


 助かりそうだとわかり、元気がでてきたらしい。葉香は「どういう意味です?」と兄弟子にたずねる。

 ほほ笑んで、柳毅が妹弟子に答えた。


「この世のすべてを手にいれても、生老病死は克服しがたいのだよ。皇后の気のながれを見てみなさい」


 うながされるままに梅芳たちは淳皇后を見、彼女の気のながれに意識を集中した。すると、すこし見ただけで淳皇后の気が弱々しいとわかる。途端、梅芳は柳毅の考えに気づき、国師の話をする際に彼女が手をあわせていたのを思いだす。同時に、自分の言った言葉も脳裏によみがえった。


『縁起だの、功徳をつんで来世に幸福をもたらすだの、馬鹿げていますよね』


 ――口では迷信と笑っていたけれど、ほんとうは死とその先の来世を恐れているんだ。


 思いいたった瞬間、梅芳は言うべき言葉に気づいた。すぐさま「皇后さま」と呼びかけると、彼はうやうやしく拝礼して告げる。


「わたしどもをお救いくださり、ありがとうございます。皇后さまの善行をきっと天も見ておいででしょう。わたしも自由の身にしていただくあかつきには、恩人である皇后さまの善行を天に知らせるため祈祷いたします!」


 思ってもいない言葉をあげつらい、梅芳は淳皇后をほめたたえた。


 ――どんなに祈祷しようと無駄だ。彼女の信じる仏教の教えにのっとるなら、彼女が生まれかわるのはまちがいなく地獄だろう。


 梅芳の言葉が決定打となった。淳皇后は満面の笑みでうなずくと、梅芳たちに沙汰をくだす。


「柳毅、あなたがこのまま孝王として生きるのなら、わたしはそれを阻止したりはしない。その体にながれる血は、まちがいなく皇族の血ですからね。それに、梅芳。あなたが孝王妃でいつづけるのもかまわない。もちろん地位を捨て、もとの方士の道にもどるなら、それも助けましょう」


 梅芳たちが想像していたのとは、まったくちがう判決だった。

 最後に、淳皇后は言う。


「話はこれでおしまい。あとは、あなたたちの好きになさいな」


 そう言うと、淳皇后はこほこほと咳をした。


 ◆


 その日の梅府は、まっ赤だった。

 天井には赤い布が飾られ、照明も赤い提灯。豪華な吊るし飾りも赤い『喜』の文字であふれている。

 たくさんの客が見守るなか。まっ赤な衣装に身をつつんだ花婿と花嫁が、屋敷中央の庭園を表座敷にむかって歩いていく。


「いい結婚式ですね」


 梅府のむかいの屋敷の屋根のうえから婚礼の儀を眺め見て、梅芳が言った。

 梅芳のかたわらで柳毅が「ああ」とおだやかにあいづちする。


 今日は梅芳の姪、ばいけいの結婚式だ。梅奚は結局、孝王には嫁がなかった。彼女は、想い人がいると父親に打ち明けたのだ。そして、想い人のほうでも、梅奚に好意があったようで結婚話はとんとん拍子で進み、今日の日にいたった。


 後宮での騒動からは、数か月がたっていた。

 葉香は自由の身になるとすぐ、師匠である左隠君のもとへ帰った。本来なら柳毅と梅芳も、妹弟子と帰るべきだっただろう。しかし、ふたりには孝王と孝王妃としての立場もある。そのため、身うごきがいまだにとれず、偽夫婦をつづけていた。

 梅芳と柳毅の関係は良好だ。ただ、ふたりは以前のように寝床をともにはしていない。淳皇后に許されて以来、柳毅は書斎で寝起きしていた。

 今は『孝王夫婦が参加できるほど豪華な式はできない』と弟の梅靖に婚儀への参加を断られ、しかたなく遠くから結婚式を見守っている。


 はなやかな婚礼を眺めながら、梅芳は「師兄」と柳毅に声をかけてたずねる。


「曲蘭は、どうしていますか?」


 柳毅も梅府に目をむけたまま「まだ自室に引きこもっているらしい」と答えた。

 驚くでもなく「あれからずいぶん経ちましたが、まだ立ちなおれないのですね」と、しんみりと梅芳がつぶやく。そして、すっと目をほそめた彼は言った。


「皇族になりたいとか、初恋だとか。あこがれだけで、彼女は孝王のそばにいるのだと思っていました。ですが、わたしの思いちがいだったようだ。彼女は、結婚の約束をかわした武俊煕を、ほんとうに愛しく思っていたのですね」


 柳毅は「そうだな」とうなずき、やさしい声で「しばらく、そっとしておこう」と口にする。

 目のまえの幸せいっぱいの婚儀と曲蘭の境遇とがあまりにもちがいすぎて、梅芳は複雑な気もちになった。自然と彼の口から言葉がこぼれでる。


「愛が本物でも、成就するとはかぎらない。おたがいに想いあって結ばれる人は、とても幸運なのかも……」


 最近のさわぎが頭をよぎり、梅芳は言葉をにごした。


 ――曲蘭もそうだが、玥淑妃のあの結末も愛ゆえだ。それに……


『皇帝陛下でしょうか?』


 葉香の答えに、淳皇后が楽しそうに笑ったすがたを梅芳は思いだした。


 ――淳皇后も幸福な愛を享受しているとも思えない。そして、彼女の死期はおそらくちかい。李薫児と李桑児にいたっては、すでに亡くなっている。


 ふっと疲れたため息をこぼすと、梅芳は言う。


「幸運にも、小奚シャオシーは愛する人と結婚する。彼女には花婿とともに白髪が生えるまで幸せに暮らしてほしいです」


 梅芳は心からのねがいを口にした。

 柳毅は「そうだな」とあいづちし、梅芳にたずねる。


「そういえば、梅奚はこの結婚を父君に直談判したんだって?」


 梅芳は「ええ」とうなずき、くすくすと笑うと「小靖も小奚の熱意に負けたみたいです」と応じた。

 梅芳につられ、柳毅も笑って言う。


「自分の意思をつらぬく勇気がある。わたしとは大ちがいだ」


 兄弟子の言葉を冗談にとらえた梅芳は「なにをおっしゃるんですか」と言い、笑いながら指摘した。


「自分の体を捨ててまで他人を守ろうとする人のほうが、よほど勇気がありますよ」


 梅芳は、にこやかに首をふる。そして、思った。


 ――つよくて、やさしいひと。そんな師兄を、わたしは愛している。


 われ知らず、梅芳は笑みをふかくする。

 ところが、ばつが悪いと感じているらしい。柳毅は「すなおに言ってしまえば」と苦笑いして言った。

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